正義という名の凶器



朝、校門をくぐった生徒たちの足が止まる。

中庭の真っ白だった壁には、殴り書きのような黒い巨大な影が、未完成のまま居座っていた。


「うわ、何これ。最悪」


「犯人、美術部だってよ。SNSに上がってる」


登校する生徒たちの手にはスマートフォン。画面の中では「#北高テロ」「#自称芸術家」というタグと共に、昨夜の二人のシルエットが拡散されていた。


職員室に呼び出されたトオルと佐々木を待っていたのは、怒号ではなく、氷のような静寂だった。


学年主任が、タブレット端末を二人に突きつける。


「これが君たちのやりたかったことか? 匿名掲示板では、我が校の管理体制まで叩かれている。これは立派な器物損壊だ」


佐々木は黙って頭を下げた。しかし、トオルは視線を外さなかった。


「消されるのは分かってました。でも、あそこに何かがあるってことだけは、みんなの目に焼き付いたはずです」


「焼き付いたのは『不快感』だよ、朝比奈君」


背後から、生徒会長の一ノ瀬が現れた。彼はいつものように冷静だが、その手には一枚のプリントが握られていた。


「生徒会として、全校生徒にアンケートを取った。9割以上が『壁画の即時撤去』と『関係者の処罰』に賛成している。これが君たちの愛する『大衆』の出す答えだ。君たちは正義の味方にでもなったつもりだろうが、周りから見ればただの『迷惑な化物』なんだよ」


「正義」という言葉が、トオルの胸に深く突き刺さる。


自分たちは間違っていない。そう信じていた。しかし、画面越しに投げつけられる「常識」や「マナー」という正論の礫(つぶて)が、二人の心を少しずつ削っていく。


放課後、美術室の机には、誰が書いたか分からない落書きが残されていた。


『現実を見ろ、ゴミ絵師』


「……もう、終わりかな」


佐々木が力なく笑った。彼のスマートフォンには、父親からの着信が数十件も入っている。


「一ノ瀬の言う通りだ。僕らがどれだけ叫んでも、それはノイズにしかならない。正義という名の多数決には、勝てないんだよ」


トオルは何も言い返せなかった。

筆を持つ手が、かつてないほど重い。

自分を信じることが、これほどまでに苦しく、孤独なことだとは知らなかった。

二人の間に、重苦しい敗北感が漂う。

その時、美術室の入り口で、一人の女子生徒が立ち止まった。


大人しくて目立たない、クラスメートの女子だ。彼女は震える手で、自分のスケッチブックをトオルに見せた。


そこには、昨夜二人が描いた、あの不恰好な黒い影が、丁寧に、けれど力強いタッチで模写されていた。


「……私、あの壁を見て、初めて学校に来るのが怖くないって思えたんです。あんなふうに、ぐちゃぐちゃでもいいんだって。……消さないでください」


彼女の小さな声は、SNSの何万という罵倒よりも重く、美術室に響いた。


一ノ瀬率いる「清掃ボランティア」が、中庭に集結する。


手には白いペンキとローラー。


「さあ、元通りの『綺麗な学校』に戻そう」


一ノ瀬が壁に最初の一塗りをしようとしたその時。


「待てよ」


壁の前に立ちふさがったのは、トオルだった。

その後ろには、まだ震えながらも、筆を握りしめた佐々木の姿があった。


「一人が、見てくれたんだ。……たった一人の心に届いたなら、この絵はゴミなんかじゃない」

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