不協和音の夜



深夜の校庭。月明かりに照らされたコンクリートの壁は、巨大な墓標のようにそびえ立っていた。


トオルと佐々木は、校門の柵を乗り越え、息を切らしてその前に立つ。


「……本当にやるんだな」


佐々木の震える声は、恐怖からか、それとも高揚からか。


トオルは答えず、真っ黒なペンキの缶をこじ開けた。


闇に紛れて、二人の「ゲリラ制作」が始まった。

刷毛がコンクリートを削る音が、静まり返った夜の校舎に響く。


「綺麗に描こうとするな、部長! 怒りを乗せるんだ!」


トオルの言葉に呼応するように、佐々木もなりふり構わずペンキを叩きつける。エリートの皮を脱ぎ捨てた彼の動きは、野性的でさえあった。


しかし、その影を、フェンスの向こうから見つめる視線があった。


トオルの幼馴染であり、サッカー部のエース・リョウだ。


「……何やってんだよ、お前ら」


リョウの声に、二人の手が止まる。

リョウはトオルにとって、唯一「現実」を共有できる親友だった。共にプロを目指そうと誓い、そして怪我でその夢を諦めたリョウは、今はただ「無難な日常」を生きることで自分を守っている。


「リョウ……。これは、僕らの戦いなんだ」


トオルが説明しようとするが、リョウは吐き捨てるように言った。


「戦い? 笑わせんなよ。ただの落書きだろ。こんなことして何が変わるんだ? 明日になれば消されて、お前らは問題児扱いされて終わりだ」


リョウの言葉は、鋭い棘となってトオルの胸に刺さる。


「変わらなくてもいい! 黙って飲み込まれるよりはマシだ!」


「飲み込まれてるんじゃねえ、適応してんだよ! それが『大人になる』ってことだろ!」


親友同士の激しい罵り合い。それは、「夢を追い続ける者」と「夢を諦めた者」の絶望的な対立だった。


リョウはスマホを取り出した。


「やめろ、トオル。今これを先生に言えば、まだ『悪ふざけ』で済む。俺がお前を止めてやるよ」


「待て、リョウ!」


トオルが駆け寄ろうとしたその時、背後で激しい音がした。


佐々木が、ペンキまみれの刷毛を地面に叩きつけたのだ。


「適応……? 笑わせるな。お前、鏡を見たことあるか? 死んだ魚みたいな目をして、何が適応だ。お前はただ、戦うのが怖いだけだ。自分の中の化物を直視するのが怖いだけだろ!」


佐々木の咆哮(ほうこう)に、リョウが言葉を失う。


沈黙が流れる中、遠くで夜間警備員の懐中電灯の光が揺れた。


「……逃げるぞ!」


トオルはリョウの腕を掴もうとしたが、リョウはその手を振り払った。


「……勝手にしろよ。俺は知らないからな」


リョウは闇の中に消えていった。通報はしなかったが、そこには決定的な決別があった。



警備員の目を盗み、なんとか美術室へ逃げ帰った二人。


窓の外を見れば、塗りかけの黒い壁が、まるで巨大な穴のように世界を切り取っている。


「……一人、失いましたね」


トオルが呟くと、佐々木は自分の汚れた手を見つめて答えた。


「ああ。でも、これが『現実という名の化物』が最初に仕掛けてくる攻撃だ。大切なものを奪って、僕らの心を折ろうとする」


二人の友情に亀裂が入り、孤立無援の戦いが加速していく。

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