化物の住む教室



朝の教室。スマートフォンの通知音が鳴り響く。


「昨日の模試の結果、見た?」


「あー、終わったわ。現実見なきゃな」


「現実」という言葉が、まるで流行りの挨拶のように飛び交う。トオルはイヤホンの音量を一つ上げた。



トオルは、三者面談で突き返された進路希望調査票を、机の中でぐしゃぐしゃに丸めていた。


将来の夢:「画家」


担任の言葉が耳にこびりついている。


「朝比奈、お前は成績も悪くない。なのになぜ、あえて『茨の道』を選ぼうとする? 趣味は大人になってからでもできる。まずは現実的な進路を考えろ」


放課後、トオルは逃げるように旧校舎の美術室へ向かった。そこは、学校の中で唯一、あの「正論という名の化物」の手が届かない場所だと思っていた。

しかし、美術室の扉を開けた先にいたのは、学年1位の秀才であり、美術部部長の佐々木だった。


佐々木は、真っ白なキャンバスを前に、一筆も動かさずに立ち尽くしている。


「……部長も、『現実』ってやつに捕まったんですか?」


トオルの問いに、佐々木は振り向かずに答えた。


「捕まってなんていない。最初から、逃げ場なんてどこにもないんだよ。僕の描く絵は、親の望む医学部に合格するための『点数を取るための技術』でしかない。君の絵とは違う」


「僕の絵だって、ゴミ扱いですよ」


トオルは机に丸めた調査票を投げ出した。


「でも、何もしないで、誰かが決めた『正解』のレールを歩くなんて、死んでるのと一緒だ」


その時、放送室のミスか、校内放送から激しいアコースティックギターの音が流れ出した。

高橋優の、あの歌だ。


「格好いいことばかりじゃない。泥にまみれて、それでも笑うんだ」


その歌声に弾かれたように、トオルはバケツの水をキャンバスにぶちまけた。


「何をする!」と驚く佐々木。


「部長、技術なんて捨てましょう。綺麗な絵なんて、AIだって描ける。僕らが描かなきゃいけないのは、今、この胸に詰まってる、言葉にならない『叫び』だ」


トオルは太い筆を真っ赤な絵具に浸し、佐々木の白すぎるキャンバスの中央に、巨大な「×」を描いた。


それは、彼らを取り巻く「退屈な日常」への、最初の宣戦布告だった。


「……バカだな、君は」


佐々木が、初めて小さく笑った。そして、自分の高価な筆を捨て、素手で青い絵具を掬い上げた。


「でも、そのバカに、僕も乗せてくれ」


夕闇が迫る美術室で、二人の少年が、巨大な化物の影と戦い始めた。

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