青い衝動

南賀 赤井

プロローグ:透明な化物の街


 「現実を見ろよ」


 その言葉は、この街では「おはよう」や「さよなら」と同じくらいありふれた挨拶だ。


 放課後の教室。西日が差し込むリノリウムの床には、消しゴムのカスと、誰かがこぼした無機質な正論が転がっている。


 高校2年生の朝比奈トオルは、窓際の一番後ろの席で、スケッチブックに黒いペンを走らせていた。

 描いているのは、クラスメイトの顔でも、窓から見える校庭の景色でもない。

 

 ――それは、うごめく影。

 

 スーツを着て、スマホを片手に、無表情で整列する巨大な怪物。


 「将来のため」「安定のため」「波風を立てないため」。そんな綺麗なラベルを貼られた言葉たちが、牙を剥いてトオルの喉元に迫っている。


 「朝比奈、またそれか」


 担任の教師が、無造作にトオルの机を叩いた。その下には、三者面談で突き返された「白紙の進路希望調査票」が眠っている。


 「お前の描く絵に、いくらの価値がある? 飯が食えるのか? 趣味と現実は違うんだ。……分かるな?」


 トオルは答えなかった。ただ、ペンを握る指先が白くなるほど力を込める。


 教室を見渡せば、皆が同じ顔をしてスマホを眺めている。SNSの「いいね」の数で自分の価値を測り、誰かに嫌われないための正解を探し、はみ出す勇気を笑い飛ばす。

 

 ここは、安全な檻だ。

 そして、その檻の鍵を内側からかけているのは、他でもない自分たち自身だった。


 『格好いいことばかりじゃない。泥にまみれて、それでも笑うんだ』


 イヤホンから漏れる、ざらついた歌声。

 その瞬間、トオルの耳元で、世界が軋む音がした。


 「……見えてるよ」


 トオルは、自分を囲む「透明な化物」を睨みつけた。

 

 「お前らが言う『現実』ってやつを、今から全部、塗りつぶしてやる」


 これは、武器も持たない僕らが、たった一本の筆と、ちっぽけなプライドだけで、巨大な世界に宣戦布告するまでの物語。

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