黄泉津大神2

 下り終わると大きな空洞に出た。正しくは空洞ではなく黄泉の国という世界にたどり着いたという。

 高天原の惨状を思い出せば、一体どれほどおどろおどろしいのかと考えていたのだが。ゴツゴツした岩場が続いているだけ。天井が見えないのは暗いのが原因か高すぎるのが原因か。

「さて、どうしようか」

 天之御中主神も歓迎されるでもなく、拒絶されるわけでもない、主の無視という態度に困惑している。

「来れるもんなら来てみろってことでいいのかな」

 空気は瘴気で汚れていて、ろくに前が見えない。道もない、導もないのでは迷子も同じ。

 春香はキョロキョロと周りを見回す。ふと、視線を感じた。春香は視線の方に振り向く。

 生首がこちらを見ていた。乾いた眼で。髪はほとんど抜け落ち、苦悶の表情で春香を睨む。春香の体は凍り付き、目を逸らせない。

「……」

 いきなり下からニュッと現れたものに視界を奪われた。春香は驚き飛び跳ねる。天之御中主神がなにかを握って春香に見せつけていた。

「ねえ、聞いてる?」

「びっくりした…」

「なに見てたの?」

「いや、あれ」

 春香は指さすが、そこには石が転がっているだけだった。お互いに疑問符が浮かぶ。

 無言が続いた後、天之御中主神がまあいいやともう一度手に持っているやつを見せてくる。

「これを使って探そう」

 天之御中主神が手に持つのは円形の盤に針が一本浮いているものだった。

「伊邪那岐から借りてきた。これはね伊邪那岐命の神器。方位磁石の神様バージョンだって考えてくれればいい」

 針は左右に振れながら世界の奥を指している。

「『伊邪那岐命』も伊邪那美命と役割は同じ、自然発生した神の発見と保護だから。これはね、神がいる方向を示してくれる。黄泉の国では使えるかわからなかったけど、大丈夫そうだね」

 天之御中主神が示された方に歩き出す。

「他人の神器でも使えるんだ」

「無理だよ。今も僕の力で動いているわけじゃない。本当は伊邪那岐が一緒に来てくれたら、針もこう振れないで早かったんだけど」

 他の神と同様に怯えているだけということだろう。

「祥子さんのでもよかったんだけど、狂っちゃってて。ずっとグルグル回転してた。だから伊邪那岐に自分が来るか、神器を貸すか問い詰めて。貸すことも嫌がってたけど」

「でもここにある」

「そう。神器は神力そのもの。神にとっては分身と言ってもいい。だから伊邪那岐の気持ちもわかるけど」

「脅したんだ」

「そんなことは。人聞きが悪いなあ。ただ僕は、僕の神器から君を消去するよって言っただけ」

「『天之御中主神』の役割って神様の管理…」

「現世だって同じでしょ。もし君の戸籍が消えたとしても君は存在する。少し、生きることが不便になるだけで」

 話の途中でいきなり、春香の視界に砂嵐がかかった。骨がそこら中に転がっている。理科準備室で見た骨格標本と同じ。春香は目をこする。

 誰かの記憶が重なる。肉がついていたころの、新鮮な死体だったころの。手足がありえない角度に曲がり、内臓が飛び散っている。それに顔をうずめて食らう青白い人型たち。一斉にこちらを向く。

「ちょっと、大丈夫?」

 天之御中主神が春香の体を揺さぶる。春香はハッとして我に返る。そこにはなにもない。それなのに自分が震えている。呼吸が荒い。

「君はもう帰った方がいい」

「ううん」

 首を横に振る。春香の神器が煌めきを増し、心が凪になっていく。

「菊理媛神って、私の前にもいたんだよね」

「君は三代目になるかな」

「そっか」

「どうしたの?」

「なんでもない。早く行こう」

 ぶれる道標を頼りに進んでいく。その間にも春香の記憶は過去と何度も繋がった。天之御中主神は訝しげに見てきたが、春香の意志は強い。

 どこまで行っても風景は変わらない。整備されたことのない世界は無骨で粗いが見上げなければならない凹凸は無い。

「ちょっと、まだだよ!」

 天之御中主神が伊邪那岐命の神器に声を上げる。春香も円盤をのぞき込む。針の揺れが大きくなり始め、指し示す方向が百八十度も回転した。春香たちが来た方向、高天原を指した。

「いや、もしかして目標を失ったってこと?」

 天之御中主神のその言葉を聞いて春香は走り出した。祥子も天照大御神も。そんな最悪のことはあってはいけない。

 前方で上から青白い人型が落ちてきた。ドサッと音を立てたそれはもぞもぞと動いている。今はそんな先代の記憶にビビっている暇はない。

 待って、と後ろから声がする。春香は無視したが腕を掴まれた。

「あれが見えないの⁉」

 天之御中主神はそういうが春香にはさっきから見えている。大丈夫だと春香は答えるが天之御中主神は掴んだままでいる。

 落ちてきた人型はゆっくり立ち上がり二人のほうへ振り向いた。裸で体毛はほぼ生えておらず、血管のような赤黒い筋が浮き出ているが見た通り、血の気はない。目玉がギョロギョロしている。

 化け物はじっと二人を見て、少しするとさっきまで伊邪那岐命の神器が指し示していた方へ歩き出した。ゾンビのようによろよろと歩いている。

 天之御中主神にも見えているということは実体だということになる。

 近づいたらなにをされるのかわからないということで春香たちは距離を置きながらついていく。

 どれくらいだろうか。あとをついていったところで化け物が立ち止まった。そして瘴気の中、前方上部を指さした。そこに大きな盛り上がりがあるらしい。そして電源が切れたようにバタンと倒れこんだ。倒れたと思ったらむくりと立ち上がり、二本足ではなく、獣のように四つ足で我武者羅に登っていった。

 春香たちは化け物が倒れこんだところまで進む。進むと階段が見えるようになった。天之御中主神が無言で登っていく。春香はその後についていく。

 登りきると平らな場所が広がっていて、そこには道案内してくれた化け物が溢れかえっていた。高天原から調達したばかりのご馳走に貪りついている。

 化け物たちが春香たちに気づいた。口から涎が滴り落ちている。目を血走らせて春香たちを品定めしているよう。そして全員がにじり寄ってくる。

 飛びかかられる。その瞬間、声が響いた。

「私の客人だ。食うことは許さない」

 化け物たちは声がした方を見て怯んだ。声の主がこっちに近づいてくる。化け物たちが主の邪魔にならないよう、道を開ける。その中で一匹、食べるのに夢中で主に気づかない個体がいる。その人物は躊躇することなく、その個体を踏み潰した。

 潰された個体はギャッと汚い声を上げ、痛みにもがいている。片足が血だらけになった人物がそこを通り過ぎると、他の化け物たちが一斉にそれに群がった。潰された個体は生きながら仲間に食われている。

 黄泉の国の主は春香たちの前に来ると挨拶をした。特に天之御中主神に。

「こんにちは、で合っているでしょうか。すみません、ここでは朝も昼も夜もわからないものですから。それにしても。久しぶりですね、天之御中主神。変わりないようで」

 黄泉津大神の顔は爛れ、腐っている。ボロボロの着物から見える肌も同じように爛れ、腐っている。血の気がない。

 黄泉津大神が微笑む。春香にはそれがとてつもなく不気味に見える。

「天照と祥子さんはどこですか」

 春香は恐怖を抑えて黄泉津大神に立ち向かう。

「あら、菊理媛神ではありませんか。お久しぶりです。…いや、あなたは。そう、そうでしたね。以前ここに来た菊理媛神は私がいただいたのでしたね。嗚呼、現人神にされてしまったなんて。可哀そうに。新しい菊理媛神」

 菊理媛神の記憶がよみがえる。八つ裂きにされた。黄泉津大神の狡猾な笑み。春香は震えが止まらなくなる。そんな春香の手を天之御中主神が握ってくれる。

「菊理媛神。どうしたのですか?」

 黄泉津大神が悲しそうな顔になる。本気で心配しているのだろうか。そして柔和な笑顔を作って春香を諭す。

「大丈夫よ。怖いことなんてないわ。もちろん辛いことも、苦しいこともない。こちらにいらっしゃい」

 天女のような声で黄泉津大神が春香の頬に手を伸ばす。その手を天之御中主神が払った。

 その行動に黄泉津大神が般若のような表情になる。

「お前は、お前たちはそうやっていつも私のやることなすこと全てを否定して!」

 口調も声色も荒く、ヒステリックになる。五百年の憎悪が込められている。

「考える時間は与えた。それなのにお前たちはっ!」

「君はもう」

 天之御中主神が発する。

「伊邪那美命じゃない」

 一瞬、黄泉津大神の瞳が揺れた気がした。

「君はもう、救いたいと願う人間に触れることさえ許されない」

 天之御中主神の手が爛れ始めている。

「それに、よく見てみなよ。ここにいる菊理媛神は君の助けを必要としているかな」

「これは、神力という肉襦袢を着ているからだ。神力がそうさせている。この子は周りから迫害されて苦しんでいた」

「私は!」

 春香は黄泉津大神の目を見て話す。

「私はあなたに助けてもらおうなんて思わない」

 反抗されてもなお春香には慈愛の目で見つめ返す。強がらなくていいのよと。

「天照と祥子さんはどこですか」

「そいつに言わされているのでしょう。あなたは気にする必要はないわ」

「どこですか。私は二人を助けに来ました」

 黄泉津大神は不思議そうな顔をする。人間が助ける、ましてや神を。それでも人間の言うことには聞く耳を持つ。

 黄泉津大神は横にどいて、どうぞとジェスチャーをする。

 そこには祥子が丁寧に寝かされていた。その横で天照大御神はぞんざいに捨てられていた。天照大御神にはいくつかの化け物が噛みついている。

 そのうちの一匹が天照大御神の右肘を捥ぎ取って、しゃぶりつく。血は出ていない。代わりに神力が溢れ出す。

 春香は天照大御神に駆け寄る。駆け寄って化け物を引き剥がす。

「天照! 聞こえる⁉」

 天照大御神は小さく唸る。春香の声に反応はしている。それにすでに餌食になった神たちとは違って天照大御神は食われたというよりかじられただけで済んでいる。歯形が残っているだけで噛み切れなかったということになる。これは神力の大小の差だろうか。

 助けなくちゃ。春香の腕輪が熱を発し始める。

(つなぎとめてあげて)

 そうアドバイスされた気がする。春香は天照大御神にそっと触れる。

 天之御中主神は祥子の容態を確認している。

「菊理媛神。なにをしているのですか」

「助けるの」

「どうして」

「友だちだから」

「友だち?」

 黄泉津大神はなにを言っているのか理解できないという表情をする。

「わからないだろうね。「救う」という君の考え方は、昔は正しかったかもしれない。けどね、時代は変わったんだよ。黄泉の国から現世を覗いていた君は知ってるんじゃないの」

 春香の神力が天照大御神に流れていく。血色が良くなっていく。

「特に天照なんかはこれでもかというほど勉強した。たくさんの本を読みこんで、たくさんの意見を聞いて。それだけでは飽き足らずに、高天原も黄泉の国も及ばない地域にまで足を運んだ。文化も言葉も考え方もが零から違う世界に。あの大御神が、だよ。自分がどうあるべきか悩んだ」

 天照大御神が目を覚ます。春香を認識する。春香の名前を呼ぶ。手を伸ばす。春香はそれにこたえて抱きしめる。天照大御神は涙を流す。

「天照は人間と対等になることを選んだ。君とは真逆だよ。君は結局、神「様」という立場を捨てられないんだ。だから現世の人間を本人たちの意見を聞かずに黄泉の国に連れ去ってきた」

「連れ去るなど…。私は苦しんでいる者たちに手を差し伸べただけだ」

「へー。じゃあその人たちは今どこにいるの? まさかそこらにいる奴らがそうだって言うつもりじゃないよね」

 化け物はまだかまだかと春香たちを凝視している。

「君にはどう見えているのか知らないけど、獣のように神を貪る今の姿が君の夢見た幸せな世界なのかい」

「私は、私は…」

「君はやっぱり、すでに伊邪那美命じゃないんだよ」

 黄泉津大神の顔が歪む。

「祥子は受け入れてくれた。祥子は幸せになる」

「本当に祥子さんのことを思っているなら、旦那さんと娘さんがいるとこに逝かせてあげなきゃ」

 春香が発言する。

「あなたはわかってるんでしょ。だから泣いてるんでしょ」

 涙が一筋、流れた。黄泉津大神は自分の頬に触れる。

「あなたの考えは崇高なものだったかもしれない。でも黄泉の国の力を利用しようっていうのは間違ってる」

 黄泉津大神は動揺しているのか。口をパクパクして、なにかを発言しようとした瞬間、瘴気がまとわりつき始める。

「黄泉の国の最初の被害者はあなた」

 黄泉津大神の瞳に憎悪が燃え上がる。

「私は正しい」

「いいえ。あなたは正しかった」

 黄泉津大神は頭を掻きむしり、歯軋りをする。

「もういい。お前たち! 喰え!」

 元人間たちが襲い来る。奇声を上げて。待ってましたと。

「伊邪那美」

 天之御中主神が穏やかに黄泉津大神に問いかける。

「今日はこの子の誕生日なんだよ。それを命日に塗り替えるわけにはいかないと思わない?」

 黄泉津大神は混乱する様子を見せた。

 その時、閃光が走った。暖かい。光源は天照大御神だった。

 化け物たちが光で目や体を押さえて悶絶する。天照大御神に噛みついていた個体は高純度の神力の影響で焼き切れてしまっている。

(今度はあなたの番)

 誰かが再び春香に声を掛ける。

(あの子を助けてあげて)

 春香が黄泉津大神に向かって歩き出す。天之御中主神と天照大御神が止めようとする。

 その時、春香の神器が神々しく輝きだした。それを見た二柱は驚嘆する。

 春香は黄泉津大神の両手を取り、優しく握る。春香の両手には、焼かれるような激しい痛みが伝わって、爛れ始める。それに必死に耐える。

 黄泉津大神の中の、かつて喰われた菊理媛神が春香と呼応する。

(思い出して)

 黄泉津大神と菊理媛神と春香が繋がる。

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