黄泉津大神

黄泉津大神1

 大鳥居から見下ろした高天原の町は無残な姿だった。建物は全壊しているものもあれば半壊で済んでいるものもあった。

 長い階段を降りて市井に出ると黄泉の国の力をより知ることができた。木造建築の建物はおろか、石垣などが部分部分で腐っていた。空中には黒い埃のようなものが漂っていて空気が汚れている。

「瘴気がキツイね」

 天之御中主神が袖を使って口と鼻を覆う。それでも間に合っていないようでゲホゲホと咳をする。対して春香はなにも感じなかった。

「黄泉の国の領域に入ったらまず先に祥子さんを探そう」

「…わかった」

 天照からじゃないのかと春香は自分でも気にできないほどの心の隅で思ってしまったことに気づいた。罪悪の匂いを感じながらも己の汚さを認めたくなくて、わざと自分から祥子の話題を持ち出す。

「この前、おばあちゃんが死んだの」

 天之御中主神はそれがどうかしたのかと言う。

「…あ、えっと」

 想定外な淡白な返答に戸惑うが、春香は取り繕う。

「私のおばあちゃんと祥子さんが親友だったんだって」

「へぇ、その話は興味深いね」

 今度は食いつく。

「私も最近知ったから詳しくはわからないけど、学生のころから仲が良くて、大人になっても連絡取り合ってて、お互いに子どもが生まれてからは家族ぐるみで出かけてたって」

「なるほど。それから?」

「それしか知らない。いつの間にか全く会わなくなったって」

「うん。それは祥子さん一家が殺されたからだね」

「殺された?」

「祥子さんはもう死んじゃってるって話したでしょ」

「そうだけど、もっと、こう。病気とか、そういうのだと思ってたから」

「違うよ。祥子さんは夫と娘と自分とを刺されたんだ。病院に運ばれて、夫は死亡が確認された。同じように祥子さんも命尽きようとした。そのとき僕が祥子さんに言ったんだ。神様にならないかって。祥子さんは僕に言ったよ。娘を一人残しては死ねない。だから僕は祥子さんの魂を高天原につれていった。祥子さんは娘の状態を知りたがってたから、僕が様子を見に行って伝えてたんだ。祥子さんは現世に戻れないからね。娘さんはその後も病院で生死をさまよった。でも結局は死んじゃった。僕はそのことを伝えた。そしたら祥子さん泣いちゃって」

 春香は絶句する。まさに察するに余りある。祥子さんがその後どんな気持ちで神として生きていたのだろうか。

 そう、思い出してみれば祥子と初めて会った時、第一声が「神を辞めたい」だった気がする。

「でもそうか。そうやって祥子さんを利用したんだね」

 天之御中主神は一人で納得する。

「お祭りの時の祥子さん、夏樹のことに詳しかったでしょう。あれは僕もびっくりしたんだ。僕は祥子さんには夏樹のことを話したことがなかった。黄泉津大神が君の家族のことを情報として渡していた」

「は? なんで? どういうこと?」

「五百年前のあの日から、僕たちだってなにもしていなかったわけじゃない。純粋な神力で黄泉の国の入り口に蓋をして、簡単には破れないようにした。だから彼女は行動を起こせなかった。でも祥子さんを突破口として見出した。黄泉津大神の中に残っていた伊邪那美命の力を使って新しい伊邪那美命、祥子さんに神力を通して接触して、高天原に穴をつくろうとした」

「そこでどうして私の家族が出てくるの」

「君が言ったんじゃないか。親友だったって。祥子さんにとって、家族は失いながらもずっと執着していたもの。それなのに親友が子育てをし終わって、自分の娘と同じだった親友の娘が子どもを産んで、その子どもが目の前にいる。その現実を見せつけて、祥子さんは黄泉津大神に蝕まれ続けていった」

 祥子が抱いていた感情は嫉妬だろうか。怨恨だろうか。祥子は春香を憎んでいたのだろうか。どんな目で春香を見ていたのだろう。春香にはわからない。

「それなら、そもそも、祥子さんを伊邪那美命にしなければ…」

 そこまで言って春香は止めた。

 確かに祥子をそのまま成仏させていればこの事態に陥らなかったということになる。でもそれを言えば天之御中主神の家で怯えて震えている神たちと同じになってしまう。

「伊邪那美命の席はあの日以降穢れたままだった。だから新しい伊邪那美命は絶対にうまれないし、つくれない。そう感じていた。でも祥子さんを見つけた時思った。この人なら大丈夫だって。祥子さんなら先代の穢れをも浄化することができるかもしれない。最初は良かった。祥子さんは強かった。でもダメだった。最終的には今日、祥子さんは黄泉津大神と協力して入り口を塞でいた蓋を壊して自ら黄泉の国に行ってしまった」

 強い? どうだろう。春香はそうは思わない。

 この子どもは神様だから、理解できないのかもしれない。

 その天之御中主神はずっと袖で口と鼻を押さえたまま。歩き進むにつれて損壊も腐食も激しくなっていく。

 時には瓦礫を登り、場合によっては迂回した。生き物の気配は全くなくて、知らない世界に来てしまったように感じる。

 いきなり前方の木々が大きく揺れ始めた。その突風はどんどん迫ってきて春香たちに直撃する。

 春香は反射的に両手で口と鼻をおさえる。天之御中主神はこれに悩まされているのかと理解した。

 生ゴミが腐った臭いと下水の臭いが混ざり合って相乗したようなその耐え難い悪臭が襲う。悪臭は指の隙間から侵入し春香の身体の中に入り込む。

 春香は後ろを向いた。押さえる手の力も強くなる。と、キラリと春香の新たな神器が光った。なぜか臭いを感じなくなった。

 春香は手でおさえるのを止め左手首につけた輪を見る。チラチラと発光している。

 春香は手首の神器を見つめる。菊理媛神。なっておきながら知らない神様。神たちは言っていた。黄泉の国に行くには菊理媛神が必要だと。

 隣を見ると天之御中主神がうずくまってしまっている。菊理媛神は黄泉の国の力に対抗できるということだろうか。

 春香は壁になる形で天之御中主神を包み抱く。その小さな体はこわばっている。

 腕輪がキラキラ光り出す。

 こっちに来るなと言いたげな強風が吹き終わり、春香の神器も光を失う。

「さすが菊理媛神。ありがとう、助かったよ」

 天之御中主神はよろけながら立ち上がる。明らかに顔色が悪い。

「私一人で行く」

 春香は恐ろしいとわかっていながら提案する。無理に決まっている。右も左もわからないのにどうやって一人で解決しようとするのか。しかしそう言わなければならないほど天之御中主神は弱っている。

「いや、僕も行く。それだと彼女の思う壺だしね。なにより今日は君の誕生日なんだから」

「誕生日って」

「そう、誕生日。大事なことでしょ?」

 木々から枯れ葉が落ちる。季節のせいか突風の影響なのかは春香にはわからない。

 家によっては生垣も塀もないために直接中が見える。その一つでは縁側に将棋盤と駒が散らばっていた。遊んでいた神たちは助かったのだろうかと春香は思いを馳せる。ただ、事後の様子から察するに恐怖と困惑で逃げ回ったに違いないということだけはわかる。

「着いたね」

 黄泉の国の入り口は巨大な洞窟だった。一度だけ天照大御神とともに丘の上の遠目から見た。異様なにおいと本能的な拒絶を感じる空気が流れてくる。

 春香の神器が再び煌めき始める。先程と同じように臭いを感じなくなり、同時に恐れが消えていく。そして蛮勇が溢れる。全く勉強していないのにも関わらず、テストに対して謎の自信が湧くあの無謀と似ている。

 天之御中主神がちょっと借りるねと言って春香の左手を両手で握った。

 小さい手だと春香は思う。身長が一メートルとちょっとの子どもなのだからと今更ながら思う。少しして天之御中主神はありがとうと放した。

 二人して洞窟をのぞき込む。入り口から急に下り坂になっていて危ない。光はない。腐臭が漂う混沌の世界。

 自ら進んで地獄に突き進む奴がいるだろうか。

 私がいる。

 春香が一歩踏み出す。岩の坂に粗い砂利が広げられている。使い古した白い運動靴では滑る。坂の終わりは見えない。滑落しないように踏ん張る。

 後ろから天之御中主神がついてくる。高天原の日の光は徐々に遠くなっていく。空気は冷えていくように感じる。

「なんか」

「なにもないね」

 坂をいくら下ってもちょっかいは出されない。春香たちが領分を侵せば、黄泉の国の主はなにかしらのアクションをとってくるだろうと身構えていただけに拍子抜けする。

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