伊邪那美命3
水と空に囲まれた一本道。直線上に大鳥居が見える。とても静か。曇っていて、肌寒い風がそよそよ吹くが水面は波立っていない。
これから黄泉の国に向かう。月読命も同行する予定だったが急遽高天原に居残ることになった。他と同じように黄泉の国を恐れたというわけではなく、天之御中主神がそう指示したという。春香は走って黄泉の国に向かおうとしたがそれを天之御中主神が止めた。
「高天原に黄泉の国を知る者は誰もいない。つまり僕も。なにがあってもいいように君は体力を温存しておいた方がいい」
他にもああしろこうしろと注文をつけてきた。いつまで続くのかとうんざりした春香に天之御中主神がじゃあこれで最後と言った。
「もし彼女に、
「その黄泉津大神っていう神様が悪い神様ってことなんだね」
春香のその発言に天之御中主神は困ったような悲しいような顔をした。
「…いや、彼女は。決して悪いことをしようとか考えているわけじゃないはずなんだ」
少しの間沈黙した後、天之御中主神が話始めた。
「黄泉津大神は黄泉津大神になる前は伊邪那美命だったんだ。彼女は誰よりも優しくて思いやりがあって慈悲深かった。
当時、高天原にはたくさんの人間がいた。前にも言ったと思うけど高天原は人間にとって夢にまで見る場所だった。極楽浄土、って言うとまた話が変わっちゃうけど、まあそんな感じで。甘い言葉を囁けばいくらでもついてきてくれた。誘拐じゃないかって言われればそういう節もあるけど。生きるのには辛すぎる現世から救われるために高天原にやってきた。
病気にならない、災害がない、争いがない、税がない。皆進んで働いてくれた。家に困らない、食うに困らない。さすがは高天原。神の世界。
皆喜んでたよ。たくさんの人間が高天原で働いていた。
そんなある日、伊邪那美命の下で働いていた人間が彼女に言ったんだ。自分のいた村人たち、それが不可能なら家族だけでも高天原に迎え入れてほしい。
その人間は村八分にされて、その上自分の家族からも疎まれてしまって、伊邪那美命が憐れんで高天原に連れてきた人間だった。
伊邪那美命は感銘を受けた。あなたがそう言うのであれば。彼女は応えた。
でも願いっていうのは他人とかぶることもある。
けど高天原だって資源は有限。無尽蔵に増えていく人間に神たちはうんざりした。そもそも神は人間を見下していたしね。中には少数人ならばバレないだろうと黄泉の国に投げ込む輩もいたよ。
っていっても、以前から神の意にそぐわないことをした人間は現世に追い出されていたし、気まぐれによっては黄泉の国に投げ捨てた。容赦ない扱いをしていた。
そんな中、伊邪那美命の起こした行動によって罪のない人間たちの犠牲が増えていった。
伊邪那美命は大数の意見に負けて折れるしかなかった。彼女にはなにもできなかった。
『伊邪那美命』の役割は自然発生した神の発見と保護だから。
一度希望を見せられた人間は彼女を責めて、高天原を汚されたと考えた神は彼女を責めた。
彼女は絶望した。救おうとしてきた存在からも否定され、うまれてから一緒に過ごしてきた友人たちにも否定された。
毎日、罵詈雑言に耐えた。
とうとう疲れた伊邪那美命は神を辞めたいと言い始めた。つまり消えたい。人間でいう「死にたい」だね。
だけど許されなかった。天之御中主神は相談に乗るどころか聞く耳すら持たなかった。
『僕』の役割は高天原にいる神の管理。自然消滅することは仕方ないけど、自ら辞めるだなんてとんでもない。
ほら、前にも言ったでしょ。伝統だの仕来たりだの。僕は前例がないって言って門前払いをした。
笑っちゃうよね。僕のお頭が考えることを止めていただけなのに。それなのに「前例」なんて言葉を持ち出すなんて。論外も甚だしいよ。
彼女は進むことも逃げることも許されないまま過ごした。そして徐々に様子がおかしくなっていった。
それと同時に、彼女は黄泉の国を観察して、もっと、もっとって研究し始めた。黄泉送りにされた人間たちを助けようとしたのかもしれないし、それとも、現実から逃げ出すため、藁にも縋る思いだったのかもしれない。
僕たちは黄泉の国についてなにも知らないのに本能的と言ってもいいほど、反射的に恐れている場所。
高天原ができた当初から隣にあったっていうのに。
今ではね、僕は高天原と黄泉の国は上水道と下水道の関係かもしれないって考察してる。…まあその話はいいか。
それで五百年前。伊邪那美命は神たちを小高い丘に集めた。多くは集まらなかったけど、僕は行ったよ。心変わりしてくれたのかと思って。
そこからは黄泉の国の入り口が良く見えた。彼女はそこで話し始めた。
今日はとってもいい天気ですねって。
穏やかな顔をしていた。彼女は続けた。
けれど晴れの日が続けば大地はひび割れ、草木は枯れ、私たちは枯渇死してしまいます。だからといって雨が降り続けば大地は冠水し、草木は腐り、私たちは餓死してしまいます。
わかりますか。気まぐれな天気でさえ、晴れと雨の均衡を保ち、私たちに恵みをもたらしてくれているということです。
それなのにどうでしょう。私たちは現世から搾取するばかりではないですか。
都合が悪くなれば現世に追放し、気に食わなければ黄泉の国に送る。高天原にも人間の営みがあるというのに彼らを追悼し、弔い埋葬する場所が一か所もないのはなぜなのでしょう。
神は変わるべきなのです。けれどあなたたちにはできないでしょう。
ならば私が導いて差し上げます。
伊邪那美命がそう告げると黄泉の国の入り口から伸びてきた一本の青白い腕が彼女を背中からお腹へ貫いた。
そこからその腕が無数に枝分かれをして逃げ回る神たちを握りつぶして吸収していった。
あの時の彼女の不気味で狂気的な笑みは今も脳裏に焼き付いてる。
でも僕とか神力が強い神を取り込めないのが悔しそうだった。
僕はこれのどこが導きなんだって聞いた。すると彼女は言った。
これが導きだって。わからず屋のあなたたちにはなにを言っても仕方がないから一体となる。
私の夢は高天原と現世を繋げること。彼女は語った。
高天原の幸せを現世に分けて、現世の不幸せを高天原で共に背負う。素晴らしいでしょう。
しかし伊邪那美命だけでは成しえることができません。だから黄泉の国の無限の力を借りるのです。
けれどその力は簡単には扱えない。そのためにあなたたちの力をいただくのです。共に変えましょう。
そう話す伊邪那美命の体は腐って爛れていって、最後には彼女自身も吸収されて黄泉の国から出てきた腕は戻っていった。
高天原は滅茶苦茶になったよ。僕は『伊邪那美命』という力を守るために『黄泉津大神』という神を作ってそれを彼女とした。管理が役割の僕にはそれしかできなかった」
「黄泉津大神がやりたいことはいいことなの? 悪いことなの?」
「どうだろうね。僕も未だにわからないよ。ただ、きっと、彼女の慈愛に満ちた思いは変わっていない」
大鳥居がだいぶ近くなった。
「七福神祭の時、祥子さん。覚えてる?」
「様子がおかしかった」
「そう。最後には発狂した。彼女も同じだよ。あの事件が起こる前、祥子さんと同じ症状が出てた。おそらく自分でもわからなくなってるんだよ。黄泉津大神、…伊邪那美命は今もまだ、誰よりも一番苦しんでいる」
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