伊邪那美命
伊邪那美命1
おばあちゃんが死んだ。今はおばあちゃんの家で遺品整理中。三十坪ほどの土地にギュウギュウに建てられた二階建ての安普請。
おじいちゃんはずっと前に死んでいるから、この家に住む人はもういない。おばあちゃんに叱られた、褒められた。そんな思い出が詰まった一軒家は売りに出されるという。
共働きだった両親の代わりに春香たちの面倒を見てくれたおばあちゃんは、物語に出てくる優しいおばあちゃん像とはかけ離れていて、厳しいから嫌いだった。だけど、もうこの世にいないと実感すると寂しい気持ちになる。
おばあちゃんが死んで、そしていつかはお父さんとお母さんが死んで、次は私の番。当たり前に回ってくる悲しみ、恐怖。
永遠の命を持つ神様が羨ましい。初めて高天原を訪れた時、天之御中主神は言っていた。娯楽もない、進歩がない、なにもない、なにも変わらないこの世界は人間にとってつまらないものになった。
それはたしかにつまらないかもしれないけれど、なにも変わらないのはすごくいいことなのではないのか。すごく幸せなことなのではないのか。そう考えながらも天之御中主神のあの池での表情が忘れられない。
お母さんが春香たちに声をかける。
「おばあちゃんの若い頃の写真が出てきたわよ」
お母さんと子ども二人で顔を寄せ合って黄ばんだアルバムをめくる。画素数は低い。ページをめくる。子どもの頃のおばあちゃん。学生の頃のおばあちゃん。面影がある。結婚式の時のおばあちゃん。赤ちゃんだったお母さんを抱っこするおばあちゃん。同窓会に参加して楽しそうなおばあちゃん。春香の生まれる前の出来事を記録している。新鮮でおもしろい。
「ちょっと待って」
春香は次に進もうとするお母さんを止めた。同窓会の写真。よく見たら知っている顔がある。おばあちゃんではない別の人。おばあちゃんの隣で笑っているこの人。春香は知っている。この姿のまま。彼女はまだ生きている。死んでいるけど生きている。
祥子さん。
固まった春香に次のページに進んでいいかと聞いてきたお母さんが、声を上げて「この人覚えている」と指をさした。
「たしか…、そう、市村さんだわ。私が小学生くらいの時まで、市村さんの家族と一緒に何度も出かけたのよ」
お母さんは自身の山積みになった記憶の中から埋もれた一つを探し出す。そして一枚の写真を示す。それには幼い女の子二人一緒に遊んでいる。
「何ちゃんだっけ。そうだ、洋子ちゃんだ」
その後にも花見、バーベキュー。様々な催しの一コマが一枚一枚丁寧にアルバムのポケットに入れられていた。お母さんは途中のページを飛ばし飛ばししながら、あー、行った行ったと思い出しては見せてくる。
「おばあちゃんと市村さんが高校生の時に親友で、それで私と同い年の女の子がいたっていうのもあって、家族ぐるみで仲良くしていたのよ」
一冊目が終わって二冊目に突入しても二家の交流は続く。小さいお母さんと女の子が真ん中で手を繋いで、その両脇に若かったおばあちゃんとおじいちゃん、祥子さんとその旦那さんの笑顔の幸せな瞬間を写した一枚。だが、交流の写真がぱたりと無くなる。
「もう無いの?」
夏樹が聞く。その質問に無いとお母さんは言う。なんで、どうして、と好奇心を発揮する夏樹に覚えていないとお母さんは答える。
「小学校に入学してからもたまに出かけてたけど、どうしてか疎遠になっちゃったの。今はなにしてるのかしら」
向こうで手伝ってくれとお父さんが呼ぶ。もう疲れたと駄々をこねる夏樹の尻をお母さんが叩いて仕事をさせる。
捨てられるものはゴミ袋に詰めて、使えるものは売るか持って帰ることになった。その他諸々については不動産屋と話し合うらしい。
お父さんは春香と夏樹が落書きした居間のドアを見て、消せるかどうか雑巾で擦ってみる。その落書きは春香も強烈に記憶に残っている。
いたずら実行中の姉弟を発見した、まさに怒髪天を衝くおばあちゃんに二人の孫は反省をする余裕もなく、ただ泣くしかなかった。
春香はお母さんに自分が生まれ育った家を売って悲しくないのかと聞く。
「まあ、寂しいとは思うけど仕方ないかーって。生きてれば失うこともあるから」
お母さんはお母さんが小学校の時に描いた絵などをゴミとしてまとめながら答えた。
日が暮れて、家に帰るよと声を掛けられた春香は落書きまみれの居間のドアを思い出にとスマホで写真を撮った。
忌引きが明けてからも春香は相変わらず登校しなかった。不登校になってから二週間目が経とうとしている。部屋着のまま朝から晩までベッドの上でゴロゴロする日が続く。
家事は長期休みではないため任されていないからやらない。昨日体重計に乗ったら目を疑うほど体重が増えていた。が、それでも春香は今日も布団をかぶる。
うとうとする。うつらうつら。
もう昼にはなっただろうか。春香は生まれて初めて「暇」という贅沢の苦痛を味わっていた。やることが無いというのは幸せじゃないということをこの引きこもり期間で勉強させられた。だからといって登校するという選択肢はない。
ふと、気づく。体が動かない。息苦しい。
金縛りか。春香は冷静に状況を把握する。テレビで見たことがある。金縛りはそういう夢であると。そのことを理解し、やり過ごそうと夢の中でさらに眠ろうとする。
向こうで怒鳴り声が聞こえる。低い声。そしてそれを覆いかぶすようにザーザーと雑音が大きくなる。
じっと耐える。すると春香は四肢をいくつもの手で力強く掴まれて、体が引っ張られる感覚が生まれた。その手はどれも冷たい。そして泥の中に引きずり込まれるようにじわじわと沈んでいくのがわかる。
夢の中だとわかっていてもあまりにも不快。春香は寝返りをしたいと思った。動かないとわかっていながらも試みる。
春香は焦った。とてつもなく焦った。自分は起きている。目は開いていて、眼球は動くが眼前は黒い。掴まれている感覚がない箇所、指、首は実際に動く。それなのに腕を、足を動かそうとするとその手の握力が増して春香を引きずり込むスピードが速くなる。
恐怖で助けを呼ぼうとした。しかし呼吸すらできない。鼻からも口からも空気を吸えない。
沈んでいく。なにも見えない。本当になにも見えない。なにかが春香をどこかに引きずり込んでいる。苦しい。意識が遠くなる。
その中で誰かが春香の右手を掴んだ。温かい手。知っている気がする。安心する。春香は自然と握り返した。
その瞬間、強く引き上げられていく。
頭がぼんやりする。仰向けになって横になっているのはわかる。背中が痛い。どうやらベッドの上ではない。向こうでは大勢がバタバタと走っている。叫んでいる人もいれば、泣いている人もいる。騒がしい。
傍で春香の名前を呼ぶ声がする。どうしてか今自分がいる場所は家ではないらしい。
朦朧としていた意識が徐々にはっきりしてきた。誰か女の人が春香の頬を叩きながら何度も呼び掛けている。
春香の視界が開く。鹿屋野比売神が春香の顔を覗いていた。鹿屋野比売神は春香と目が合うと心配と嬉しさが混合した複雑な表情をした。わかりますかという問いかけに春香は頷く。
「痛いところとか、苦しいところはありませんか?」
その質問にも頷いて答える。春香は上体を起こした。しかし体が異常に重くて、更に激しい眩暈に襲われた。世界がグルグル回転する。その春香を鹿屋野比売神が支えてくれた。
「無理はなさらないでください」
隣から呻き声が聞こえる。見ると男の人が横になっていた。脂汗をかきながら悪夢にうなされているかのように顔を歪ませている。畳の上で布団も枕もなしに寝かされている。
「大丈夫ですか」
春香は声を掛けた。返事はなかった。見回してみると同じ症状の神たちが部屋中に並べ寝かされている。
「移動しましょうか」
鹿屋野比売神が春香をお姫様抱っこする形で部屋を移動した。移動先は比較的軽症者が収容されていた。春香は襖にもたれて座る。
「ここは」
「あーちゃんさんのおうちです」
理解できなかった。
「大鳥居の下で倒れていたんですよ」
春香は首をかしげる。
「私たちもあの状況の中でどうして春香さんがあそこにいたのか不思議でたまらないんです」
未だにはっきりしない頭に血を流そうとグッと目をつぶると吐き気がしてきた。
「お水をお持ちします」
袴姿の鹿屋野比売神は口調とは似合わない俊敏さで離れていった。
春香はぽつんと一人取り残された。そういえばと、春香がこのような状態なのに高天原の中で一番騒ぎそうな天照大御神の姿が見当たらない。さっきから部屋の中をあっちに行ったりこっちに行ったりとうろうろしている神に「あの」と声を掛けて天照はいないのかと聞いてみる。口に出してから後悔した。そんなものだよなと。
小学校に入学しても中学校に進学しても親友はおろか、通年の友情すら築けなかった。初めは自分の性格が悪いからだと思った。だから相手を思いやる言動を心掛けた。でもうまくいかなかった。
ある程度話すようになった人から最初は怖い人かと思ったと言われた。だから明るく振る舞って、いつも笑顔でいるようにした。それでもうまくいかなかった。
心の中で反省会をしてみるとつまらない奴だからだという結論に至った。だから相手を楽しませるおしゃべりができるように頑張った。結局うまくいかなかった。
そして今年も、友だちは去っていった。
私は友だちというものに期待しすぎているのかもしれない。それに今まで、春香は天照大御神に色々としてもらうだけでなにも返していない。
「天照大御神ならば行方不明と処理されています」
無表情でそれだけ伝えると去っていった。
随分人間嫌いな神様だ。春香とはおしゃべりをしたくないらしい。その態度があまりにもあからさまだからか、それとも体調が悪いからかはわからないが、そんな塩対応をされてもショックを受けなかったことに自分は成長したと春香は思った。
別に恨めしいわけではなかったがその神のことをボーっと目で追った。背は高いが体が細いせいでヒョロヒョロに見える。短いおかっぱ頭で綺麗な顔立ちをしていたが声は低かった。
まとめられた分厚い紙の束にしきりにメモを取っている。立ち止まってはメモを取り、声を掛けて顔を上げさせてはメモを取り、じっと考え込んではメモを取り、挙句の果てには歩きながらもメモを取っていた。そんなメモ魔なおかっぱ頭は座り込んでいる神に話しかけられた。
「なあ、神水を持ってきてくれ」
「……」
「おい」
「……」
「聞いてんのか!」
「見てわかりませんか? 私は看護を担当していません。それに、己の仕事を放棄してまであなたに水を用意するほど暇ではありません」
おかっぱ頭は書き込みながら、相手の目どころか顔さえも見ずに淡々と回答する。
「お前っ!」
頼みごとをした方は立ち上がろうとしたが力が入らずコケてしまった。そして頭痛がひどいのか頭を抱える。
それでもおかっぱ頭は意にも介さず仕事を続ける。
その様子を見ていた春香は、答えてもらえただけでもありがたいと思うことにした。体に鞭を打って立ち上がって、近くにうずくまっている神に話しかけた。
「天照がどこにいるか知りませんか」
声を掛けられた神は顔を上げて春香を見た。春香を視認すると異形の怪物を目の前にしたかのような表情になった。
「こっちに来るな!」
「えっと」
「黄泉の気が——!」
そのヒステリーが周りの神たちにも伝播した。部屋は阿鼻叫喚になる。明るい和室が地獄に変貌した。
看護担当たちが何事かと部屋に飛び入ってくる。怖くなった春香は、泥棒の様に息を殺して逃げるようにその部屋から離れた。
しかし廊下も多くの神たちが行き交い、春香は明らかに邪魔だった。だから邪魔にならない場所を探したが、どの部屋も怪我人、病人が押し込まれていた。
体がすごく怠い。頭が回らない。それなのに腰を下ろせる場所が見つからず、フラフラしていたら外に出た。
だけれど外も状況は同じで、屋内よりは容態は軽くみえるが敷地一面に神たちが座り込んでいた。春香は避けて歩く。
家に帰ろう。春香はポケットに手を突っ込んで漁ったが、門を開くためのいつもの神器を持っていないことを思い出した。
後方から「お待ちください」と呼び止める声が聞こえた。振り向くと鹿屋野比売神が水差し、コップ、草履を抱えて走って追いかけてきていた。鹿屋野比売神の袴に水差しからこぼれた水が染みている。
やっと見つけました。そう言う鹿屋野比売神は息切れをしている。
「探しました」
鹿屋野比売神は持っていた草履を地面に置いて春香に履いてくださいと促す。春香はそこで自分が靴下で出てきてしまったことに気づいた。
「あー」
考える前に一言発して履いた。履いて少ししてから思い出してお礼を言った。
鹿屋野比売神は、足は怪我していませんかと心配しながらコップに水を注いで渡してくれた。口に含んで喉に流すとスーッと体が楽になっていくのがわかった。
「戻りましょう」
「でも私のせいで騒ぎになっちゃって」
「春香さんのせいではありません。ですから気にしなくて大丈夫です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます