天之御中主神4
そこに立っているのは女の人だった。三十代くらいか。かなり興奮しているようで肩で呼吸をしている。女の人は鬼の形相で部屋の中をぐるりと見まわした。そして座布団に隠れるように小さくなっている春香を見つけると一変して笑顔になった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「天之御中主神はどこ?」
そう聞かれ、あっちと指を指そうとしたとき、ちょうど襖が開いた。その手には再びお盆とその上に湯呑とお茶菓子が乗っている。天之御中主神は同じように足で襖を閉め、女の人に座るよう促した。
春香もなにかしなくちゃと思い、自分が座っていた座布団を渡した。
「お疲れ様。疲れたでしょう。そういう時は甘いものが一番だよ」
女の人は座ったはいいものの、勧められたものには目もくれず話し始めた。
「神、辞めたいんだけど」
「祥子さんがどうしてもって言うのなら止めない。でも何度も話しているけど、僕は続けてほしいと思ってる」
状況がつかめずに春香はおろおろする。そんな春香を見て天之御中主神は紹介をしてくれた。
「この人は市村祥子さん。
紹介されて祥子は春香をじっと見る。真っすぐ見つめられ、春香は蛇に睨まれた蛙のようになる。それでも目をそらすと怒られてしまそうな気がして祥子の目線に応える。
「中学生?」
「はい」
「何年生?」
「二年生です」
「あら、じゃあ来年受験じゃない。受験勉強はね、早めに始めておくのがいいのよ。塾とかは行ってるの?」
突然祥子の声のトーンが上がった。
「あの、えっと、まだです」
さっきまでの憤怒は吹き飛んで、近所の世話焼きおばさんのように馴れ馴れしく春香の事情にズカズカ入り込んでくる。
「そうね。塾は三年生からでもいいわね。部活もあるでしょうから。でも日々の勉強はしっかりやったほうがいいわ。二年生だからまだ大丈夫なんて思ってちゃダメよ」
祥子のおしゃべりはマシンガンのように止まらない。
「疲れて帰っても最低一時間はその日の復習をしたほうがいいのよ。まだ中学生なんだから体力は問題ないでしょ。中間テストも期末テストもその時だけなんとかなればいいっていうのか一番自分のためにならないわ。一夜漬けは身にならないの。今は口うるさいって思うかもしれないけど将来のために素直に聞いておくのよ。そうだ。神になるなら忙しくないやつにしてもらったほうがいいわ。特に誰かと組まなくちゃいけない神なんて」
「それで今回も
天之御中主神はうまく会話の隙に入り込んで、話題を元に戻す。
「あんな男に付き合うのはもうこりごり。大体縄文時代だか石器時代だか知らないけど、そんな古い男と「組め」っていうのがおかしいのよ」
祥子の声色に再び怒気がこもり始める。そんな祥子に天之御中主神は耳を傾けて頷く。
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろって言ってやったの。そしたらなんて言ったと思う? 女のくせに生意気だだの、男に口答えするなだの。あんな風に殿様やってるから前任の伊邪那美にも逃げられるのよ」
「そうだよね。僕からも謝るよ、ごめんね。祥子さんに苦労を掛けさせて本当に申し訳ないと思ってる」
天之御中主神は同意と謝罪を繰り返す。
「僕としても考え方を現代風にアップデートしてもらえると助かるんだけど」
この話題に対して完全に部外者である春香はここを立ち去りたいが、タイミングが掴めない。そして祥子の息もつかせぬ愚痴は隣の部屋に移動したいだけの春香の心を折った。その場にいるからには話を聞いたほうがいいのではと思い、祥子の言い分を静かに聞いていたが、人の嫌な部分のみの会話は十四年目の女子を十分に疲弊させた。
「一旦整理しよう」
天之御中主神は祥子にそう提案する。その祥子は言いたいことを一通り言い終わったところでお茶菓子をつまみ、お茶をすする。
「祥子さんは本当に神を辞めたいの? 成仏するのは嫌だって言っていたじゃないか。人間である祥子さんが神を辞めるとなると高天原にはいられない。つまり向こうの世界に戻るしかない。そしたらそれは伊邪那美命の名の力で形をとどめているあなたの魂は消えるということだ」
天之御中主神の口調は穏やかで優しい。祥子に向き合って真剣に話している。
「そうよ。消えるのは嫌。だけどあの男と組まされ続ける方がもっと嫌。女を馬鹿にしている」
「祥子さんに伊邪那美になってもらったのはただ席が空いていたからじゃない。あなたならうまくやってくれると思ったからだ」
「私だって最初はうまくやろうとしたわよ。あいつの我が儘だって我慢した。でももう限界なの」
「祥子さんが一度穢れた席についてくれて僕は本当に感謝している。それは偏にあなたが人間であるにもかかわらず強い神力を持っていたからだ。このことは祥子さんじゃなきゃダメだった。そしてこれからも高天原には祥子さんが必要なんだ」
「でももう耐えられないわ」
「うん。ずっと我慢してくれたもんね。ありがとう。それでも僕はあなたに高天原に残ってほしいと心から思っている。あなたが高天原そのものを嫌いになったのでなければ別の神の席を用意する。どうかな」
天之御中主神の真剣な言葉は祥子の心に直接語り掛けているように感じた。プライドも体裁も一切取っ払った、祥子の魂に眼差しを向けている。
「ちょっと、考えてもいいかしら」
「うん。ありがとう」
春香と天之御中主神は玄関に出て祥子を見送る。
「ふう。一件落着だね」
祥子が帰り、再び静寂が戻ってきた。天之御中主神は大きな欠伸をした。
「一つ聞いていい?」
春香はさっきのやり取りで引っかかっていることがある。天之御中主神の口から発せられた一単語が頭から離れない。
「成仏って。どういうこと?」
「ああ、そのことね。成仏は成仏だよ。あっ、宗教が違うって話?」
「そうじゃなくて」
「祥子さんはもう亡くなっている。ただそれだけ。ここは高天原だから祥子さんは歩くことができて話すことができる。二人で話したとき神力があれば現世と高天原を行き来することができるって言ったけど例外がいる。彼女は神の力を持ってしても現世に帰ることができない」
直線故、いつまでも見える背中を見つめる。
「よかったら現世のことを祥子さんに教えてあげてほしい。祥子さん、高天原に来てから現世のことを口にしたの、さっきが初めてだったんだ。今までなにも言わなかったのに。でもそれは彼女の強さで感情を抑え込んでいただけだったんだね。きっと本当は恋しいかったのかもしれない。だから祥子さんとまたおしゃべりしてもらえないかな」
天之御中主神は春香を見上げる。
「わかった。でも大人の人が聞きたい話ってなんだろう」
「君の感じたこととか体験したことでいいと思う。今日みたいに学校の事とかね」
もくもくとした夏の雲は大胆ながらも繊細に形を成し、そこにあった。撫でるように風が吹く。風が木の葉を揺らし、儚く音を鳴らす。
「祥子さんはどれくらい高天原にいるのかな」
おばあちゃんに昔の出来事を聞いてみるのもいいかもしれない。不意に呟いた疑問が聞こえたらしく、教えてくれた。
「伊邪那美は先代が消えてから五百年で、五十年前に新しくなったね。祥子さんてば、伊邪那岐をボコボコにしたこともあるんだよ。流血沙汰は御免なんだけどね、面白かったよ」
天之御中主神がフフッと小さく笑った。
「思い出し笑いしちゃった」
祥子さんが高天原に来た頃ね、と話し出す。
「大空の下で伊邪那岐と揉めて、祥子さんが平手打ちしたんだよ。あの時の音はすごかったなぁ。伊邪那岐も地面に倒れこんじゃって。それで野次馬の一柱が「おめえ、武神のほうがよかったんじゃねえか?」って。大爆笑だったよ。いやー、面白かった」
「どこが?」
「高天原ジョークってやつだね。最高だったよ」
祥子さんはもう死んでいる。そして五十年も前から伊邪那美命としてこの世界で生きている。この五十年間、どんな気持ちで生きてきたのだろう。
「あなたは天之御中主神を辞めようと思ったことはないの?」
「ないよ。一回もない。僕にはその頭がない。僕は生まれた時から僕だから。僕は僕を辞めるわけにはいかない」
「天之御中主神も強いんだね」
「どうだろう。どっちかというと馬鹿なだけかもしれない」
「私なんかが神様になって大丈夫なのかな」
春香は何万年も何万回も行き来され続けて表面がツルツルになった石畳を見つめる。
「大丈夫だよ」
「でも自信ない、私」
「なにかを気にすることはない。僕が君を選んだんだ。僕は何千年、何万年もの長い間、神と人の両方を見てきた。僕だって神力を持っている人間に片っ端から声をかけているわけじゃない。君には素質がある。それにまだどの神になるか決まってないって言ったでしょ。席が決まった時にまた改めて考えてくれればいい。焦らずゆっくりと。なりたかったらなればいいし、なりたくなかったらならなくていい。最初から自信があるなんて人は、神にもいない。言ったじゃないか。神は人間よりも人間らしくしていればいいって。自分勝手で、我儘で。悩みたいだけ悩めばいい。自信がないなら自信がないままでいい。それが神だ。僕たちはいつの間にか崇め奉られる立場になってしまったけど本質はなにも変わっていない」
天之御中主神は子ども特有の高い声で話してくれる。
「よし。神器を作るからついてきて」
そう言って天之御中主神はマジックテープの靴を雑に脱いで家に上がった。
「じゃあ、始めよう」
お茶を飲んだ部屋の奥に通された。一部屋隣に移動しただけなのに雰囲気がガラリと変わった。緊張感があり、なんだか空気が張り詰めている感じがする。さっきの部屋とは違い、狭くて暗くてなんだか怖い。
木製の祭壇がある。そして円形のなにかが祀られている。それがほんのり青白く光っている。お化け屋敷に来た気分だ。
きっと次の瞬間そこの襖がいきなり開いて白い着物の、白い顔をした、髪の長い女の人が襲ってくるに違いない。そうでなければこの畳の下から黒い変なのがモゾモゾと這い出してくるんだ。想像して春香はブルブル震える。
天之御中主神を見るとなにやらテキパキと準備をしている。小さい体で部屋の壁に細い注連縄を張り巡らせている。
「手伝おうか?」
「ううん。リラックスしてて」
最後に相変わらずの座布団を敷いて「君はこっちね」と座布団をポンと叩いた。埃は立たない。
誘導されるがままに部屋の中心に置かれた座布団に正座する。それを見て天之御中主神が正座は大変でしょう、楽にしていいよと言った。春香はすぐに足を崩して待つ。なにが始まるのだろう。
「門を自分で自由に開け閉めできるように神器を作る。そのために君の神力を表に引き出す」
「引き出す?」
「そう。神力は君の奥深くに眠っている。それを引っ張り出すんだ」
「もしかして、痛い?」
恐る恐る聞く。
「痛くないよ。君はただ目を瞑っているだけでいい」
そう言うと天之御中主神は春香の正面に胡坐をかいて座って集中し始めた。どうやら祭壇に祭ってある丸いなにかは使わないらしい。
「それじゃあ、始めるよ」
天之御中主神がスゥーと大きく息を吸うと天之御中主神自身が光りだした。
「目を瞑って」
ただ静かな時間が過ぎる。静かだが光はだんだん強くなりバカみたいに眩しい。目を瞑らなきゃいけないのは失明するからだろうか。瞼に力を入れても眩しさは目を突き刺す。少しすると光が徐々に弱くなっていくのを感じた。大分目が楽になってきた。自分の心臓の音しか聞こえない。自然と手に力が入る。そしてフッと急に真っ暗になった。
怯えている春香に天之御中主神が声をかけてきた。
「もう目を開いていいよ」
目を開けると天之御中主神が御守りのようなものを差し出していた。この部屋のどこにもそんなものはなかったはずだ。
「どうぞ」
差し出されているのだから受け取らないわけにはいかず、そっと手に取る。ほんのり温かい。
「君の神力で作った君専用の神器」
「私の…」
手のひらサイズのそれは新品のはずなのに既に手によく馴染む。
「それは鍵みたいなものでね、神社の境内で握ったまま、こう突き出して力を籠めると門が開く」
天之御中主神は時代劇で悪者に身分証明を見せつける有名なあのシーンと同じポーズをとっている。
そのポーズを取らなければならないのか。思春期に入った春香にとって恥ずかしくてしょうがない。
「向こうから高天原に来る時は今日最初に着いた場所、大鳥居のところに出るようになってる。高天原から向こうに帰るときは必ず門を開いた場所に帰るようになってる」
説明はこれくらいで、と言って天之御中主神は立ちあがってお茶を飲んでいた部屋につながる襖を開ける。
「門を開ける練習をしよう」
天之御中主神は春香を外に連れ出して、さっそく実行するよう促した。
本当にあれをしなくちゃいけないのだろうか。嫌々ながら春香は言われたポーズをとる。そして神器をグッと握る。
なにも起きない。
「力を込めてやってね。ふんっ、って感じで。こう、体の奥の神力を手に集中させて」
天之御中主神はよく見てともう一度やってみせるが、そんなことを言われても自分にある神力を感じたことがない。確か魂の中にあるって言っていた。力を籠めるだけじゃだめなのか。
できる気がしない。そう思ったが、泣き言は言えない。帰るためにはやるしかない。
春香は自分の中にある精神を覗くようなイメージで集中する。
・・・・・・・・・・・・。
自分の奥底に入っていく。真っ暗だ。けれど、なにかに引っ張られている感覚がある。それに身を任せ、さらに深くに潜っていく。
あった。光が見える。暗闇の中に一つだけ光っているのが見える。それを捕まえて一気に手に持っていく。離さないように。そして手のひらに到達した瞬間。力を神器に入れ込むように握る。
風が吹いてくる。夏の蒸し暑い湿気が。
目を開けると目の前が真っ白だった。
「わっ!」
一歩下がるが視界はまだ白い。
「こんなに早く門を開けられる人間、中々いないよ。もうちょっと時間かかるかと思ったんだけど。すごいね。まあ、ちょっと大きすぎるけど」
見ると春香の身長の三倍ほどの高さまで白い光が伸びている。
「そこに関しては練習あるのみだね。もう疲れたでしょ? 今日のところはこのまま帰るといいよ」
「次はいつ来ればいいの?」
「いつでもいいよ。暇なときに来て。じゃあまた今度」
天之御中主神が春香の背中を押す。来た時と同じように白い光に包まれて、それが収まると例のベニヤ板神社が目の前にあった。
「帰ってこられた。ありがとう」
そう言おうとして振り返ったがそこには誰もいなかった。門もなかった。
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