Neverland : 異世界からの呼び声

ネヴァーランドヴァーセ

第一話 存在しないはずの世界へ

 夜の首都。

 人気のない石畳の道を、私は一人で歩いていた。

街灯は弱く灯り、古い建物の影のあいだに、淡い黄色の光を落としている。

聞こえるのは、冷えた空気に溶ける自分の足音だけだった。


——何のために、こんなことをしているのだろう。


頭上に広がる夜空は、静かで、

そんな問いに答える必要すらないとでも言うように黙っている。


すべてが最初から決められているのなら、

それでも、私は努力する意味があるのだろうか。


夜風がそっと頬に触れた。

冷たいが、刺すようなものではない。

ただ通り過ぎていくだけで、思考までも連れ去っていく。


この世界では、美しいものほど、

やがて壊れてしまう。


その考えは、ずっと私のそばにあった。

——あの日まで。

あるいは、その瞬間が本当に訪れるまで。


視界が、揺らいだ。


夜の冷気は消え、

代わりに、明るく無機質な学校の廊下の空気が広がる。

見慣れすぎた廊下。

靴音が床に反射し、単調なリズムを刻む。


今日も、明日も、

ここでは何も変わらない。


私は、ただの普通の人間だ。

少なくとも、自分ではそう思っている。


けれど、いつからか。

周囲の人間は、私に何か別のものを見ているらしい。

それは、私自身ですら感じたことのないものだった。


席に着くと、

いつもの日常が始まる。


前の席の男子が、きしむ音を立てて振り返った。

その笑顔は、ありふれた朝には少し明るすぎる。


「なあ、イズミ。知ってるか? 今日はいい知らせがあるんだ」


私はちらりと彼を見て、すぐに窓の外へ視線を戻した。

「……何」


「今日は先生たちが別の学校で会議なんだ。つまり——」


一拍置いて、彼は満面の笑みを浮かべる。


「授業なし!」


私は、何も言わなかった。


「せっかくだし、昼はグラウンドでサッカーやろうぜ。人数足りなくてさ。真剣じゃなくていいから」


「無理」


「いいじゃん、数合わせで。楽しもうぜ」


「無理」


彼は小さく笑った。

最初から分かっていた、というように。


「気が変わったら、グラウンドにいるから」


「他あたろう。イズミは誘っても無駄だし」

そんな声が、どこかで聞こえた。


「まあ、そのうちだな」


会話は消え、

代わりに教室のざわめきが戻ってくる。

他愛のない雑談、笑い声、小さな不満。

すべてが混ざり合った、聞き慣れた騒音。


教室の隅では、女子たちが小声で話していた。


「イズミって、かっこいいよね」


「うん。冷たい感じだけど、頭良さそう」


「この前、順位また上がったんでしょ?」


「どうやって話しかければいいんだろ……」


その声たちは、

私の知らない“イズミ”という人物像を形作っていく。

どこか遠くて、他人事のような存在。


——そして、

予告もなく、その影が再び現れた。


秋の夕暮れ。

橙色の葉が風に揺れ、

黒髪の少女が、微笑んで——


私は机の下で、拳を強く握りしめた。


……忘れろ。


教師がいないという理由で、今日は早く帰りたい気分だった。

まだ朝の光が残っているというのに、

なぜか足は、街の片隅にある古い書店へと向かっていた。


埃をかぶった本棚。

古紙の匂いが、静かに漂っている。


その中で、一冊だけが目に留まった。

吊り下げられたランプの淡い光を受け、

まるで最初からそこにあると知っていたかのように。


真っ白な表紙。

題名も、絵もない。


……妙だ。


近づき、手を伸ばす。

指が触れた瞬間、薄い埃が舞った。


表紙の中央に、かすかに刻まれた文字。


Neverland


本を開く。


最初のページは、空白だった。


次のページをめくる。


——そのとき。


紙の奥から、淡い光が滲み出す。

ページを進めるたび、その光は強くなっていく。


「……何だ、これ」


遅かった。


白い光が一気に溢れ、視界を満たす。

目を閉じても、まぶしさは瞼を越えてくる。

温かく、そして眩暈がするほどに。


体が軽い。

重力が、ゆっくりと私を手放していく。


音が、消えた。


残ったのは、白。


静かな白。

完全な白。


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