第29話

4回転ルッツ。


頭の中は、それしかなかった。


朝のリンク。

まだ氷が荒れていない時間帯。


僕は一人で、何本も助走を繰り返していた。


――跳ばなきゃ。

――跳べないと、意味がない。


踏み切る。

回る。

着氷。


……回り切らない。


転ぶ。


すぐに立ち上がる。

氷を払って、また助走に入る。


二本目。

三本目。

四本目。


足首が、じわりと熱を持ち始めているのが分かる。


でも、気にしない。


気にしちゃいけない。


世界で戦っている玲央たちは、

こんなところで休んだりしない。


――もっと跳ばないと。

――もっと、回らないと。


ジャンプ。


回転が足りない。


転倒。


今度は、膝を強く打った。


息が、少し乱れる。


リンクの端で見ていたコーチが、声をかけてきた。


「たける、一回休め」


「……大丈夫です」


返事だけして、僕はまた動き出す。


四回転。

四回転。

四回転。


頭の中で、同じ言葉がぐるぐる回る。


そのときだった。


踏み切りの瞬間、

いつもより、わずかにタイミングがズレた。


――まずい。


そう思ったときには、もう遅かった。


着氷。


足首に、鋭い痛みが走る。


「……っ!」


思わず声が漏れ、氷に膝をついた。


でも、立ち上がる。


まだ跳れる。

まだ、跳らなきゃ。


そう思った瞬間、

リンクの外から、静かな声が飛んできた。


「たけるくん、やめなって」


先輩だった。


リンクサイドに立って、

真っ直ぐ、僕を見ている。


「まだ、跳れるんです」


「違う」


先輩は、首を振った。


「跳べるとと、跳んでいいは違う」


その一言に、胸がざわつく。


「でも、四回転がないと……」


言いかけた僕の言葉を、先輩は遮らなかった。

ただ、続けて言った。


「たけるくん、今のジャンプ――

“勝ちたい”ためじゃなくて、

“置いていかれたくない”から跳んでる」


図星だった。


何も言えなくなる。


「焦ってるジャンプはね、

身体より先に、心が壊れるよ」


先輩はそう言って、少しだけ柔らかく笑った。


「私、それで失敗したから」


その言葉の重みが、

胸の奥に、静かに落ちてきた。


僕は、リンクに立ったまま、動けなくなった。


四回転を跳ばなきゃ、終わりだと思っていた。


でも――

このまま跳び続けたら、

本当に終わるかもしれない。


初めて、そう思った。


氷の冷たさが、

足元から、じわじわと伝わってくる。


僕は、ようやく、リンクを降りた。


壊れる一歩手前で。

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