第25話

控室の空気は、張りつめていた。


 全日本出場をかけた、西日本選手権。

 リンクの向こうからは、すでに演技中の音楽と拍手が聞こえてくる。


 まなみは、開けたバッグの中を、何度も見返していた。


 ——ない。


 おかしい。


 ちゃんと、昨日の夜に確認した。

 衣装バッグに入れたはずだった。


 控室の床。

 椅子の下。

 別のバッグ。


 ——ない。


 指先が、冷たくなる。


「……どうしよう」


 本番まで、あとわずか。


 息が浅くなり、視界が狭くなる。


「先輩?」


 振り向くと、たけるが立っていた。


「どうしました?」


「……衣装が、ないの」


 声が、震える。


「ちゃんと用意してたのに……どこにも、ない……」


 頭が真っ白になり、言葉が途切れる。


 ——終わった。


 そう思った瞬間。


 たけるが、そっと手を伸ばしてきた。


 ぎゅっと、手を握られる。


「先輩」


 低くて、落ち着いた声。


「大丈夫です」


 その一言だけで、涙が滲みそうになる。


「僕、行ってきます」


「え?」


 問い返す間もなく、たけるは踵を返した。


 控室に、ひとり残される。


 時計の針が、やけに大きな音を立てて進む。


 ——間に合わなかったらどうしよう。


 ——私のせいで、全部台無しになる。


 唇を噛みしめた、そのとき。


「先輩!」


 息を切らした声。


 振り向くと、たけるが戻ってきていた。


 腕に抱えているのは——

 見覚えのある色とライン。


「……それ」


「近くのショップで、似たデザインのを買ってきました」


 少し照れたように、でも誇らしげに言う。


「時間なかったんで、これしか選べませんでしたけど……」


 そこまで聞いて、まなみの視界が滲んだ。


「……ありがとう」


 声が、崩れる。


「ごめん……」

「私、いつも迷惑ばっかりかけて……」


 涙が、止まらない。


 たけるは、首を振った。


「何言ってるんですか」


 迷いのない声。


「僕たちは、チームでしょう?」


 そのまま、そっと抱きしめられる。


 背中に回された腕が、あたたかい。


 ——ひとりじゃない。


 そう、心から思えた。


 控室の隅。


 その様子を、影の中から見つめる視線がひとつ。


 何も言わず、ただ静かに。


 ——それは、偶然なのか。

 それとも。


 知らないまま、

 二人はリンクへ向かう準備を始めていた。

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