第19話

 次の練習日。


 リンクに立ちながら、まなみの胸の奥には、まだ小さな棘が残っていた。


 ——たけるくんが怯えていた理由は、分かった。

 ——でも。


 さゆりと、付き合っていたのか。

 今も、そうなのか。


 その一番知りたいことだけが、ぽっかり空白のままだった。


 氷を踏むたびに、思考がそこへ戻ってしまう。


「——あ」


 入口の方が、ざわついた。


「え!」

「さゆりちゃんじゃん!」


 視線が、一斉に向く。


 そこに立っていたのは、さゆりだった。

 少し痩せたように見えるけれど、表情は穏やかで、手には紙袋を提げている。


「こんにちは」

「差し入れです」


 その瞬間——


「さゆり!」


 たけるが、反射的に駆け寄った。


「大丈夫なのか?」


 心配そうな声。

 迷いのない距離感。


 彼は自然に、さゆりの肩に手を置いた。


 ——あ。


 まなみの胸が、きゅっと縮む。


 その仕草は、

 さっきまで一緒に練習していた自分に向けられるものとは、明らかに違った。


 愛おしそうで。

 壊れ物を扱うみたいで。


 そのことに気づいてしまった自分が、苦しい。


「今日は体調がよかったの」

「だから、大丈夫だよ」


 さゆりは、柔らかく笑う。


 ——やっぱり。


 やっぱり、付き合っているんだろうか。


 そう思った瞬間、たけるがこちらを振り返った。


「さゆり」

「新しいパートナーの、まなみさんだよ」


 一瞬、心臓が跳ねる。


「……はじめまして」


 まなみは、丁寧に頭を下げた。


「はじめまして」


 さゆりも微笑み、手を差し出してくる。


 握手。


 ——強い。


 細い指先とは裏腹に、ぐっと力がこもる。


 まなみは、違和感を覚えながらも、手を離した。


「まなみちゃん、ちょっと来て」


 コーチの声が響く。


「すみません」


 たけるが言って、リンクの反対側へ向かう。


 ——残されたのは、二人。


 氷の冷たさとは別の、張りつめた空気。


 まなみが言葉を探していると、さゆりが一歩近づいた。


 そして、耳元で——


「……まなみさん」


 小さな声。


「彼が優しいからって」

「勘違いしないでくださいね?」


 息が、止まる。


「彼は、パートナーとして」

「あなたに優しいだけですから」


 囁くような声なのに、はっきりと刺さる。


 ぞわり、と背中を冷たいものが走った。


 何も言えないまなみの横を、さゆりは静かに離れていく。


 リンクの中央で、たけるがこちらを見ていた。


 ——何も知らない顔で。


 まなみは、ゆっくりと息を吐いた。


 胸の奥で、

 不安と、嫉妬と、悔しさが、静かに絡まり合っていた。


 ——私は、

 このペアで、

 どこまで踏み込んでいいんだろう。


 氷の上で、その答えはまだ見えなかった。

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