第14話

一人で、楽屋へ戻る。


 リンクの熱気が嘘みたいに、廊下は静かだった。

 スケート靴の音だけが、やけに響く。


 ——ハンバーガー、何にしよっかな。


 さっきの約束を思い出して、無理に気持ちを明るくする。


 そのとき。


「ねえ、観客席に原田さゆり選手いたの、見た?」


 足が、止まった。


 少し先の曲がり角。

 関係者らしき数人が、立ち話をしている。


「え、いたんですか?」

「あ、あの……たけるくんとペア組んでた子ですよね」


「そうそう」

「ああ……かわいそうだよな」


 胸が、ざわつく。


「もう競技、続けられなくなったんだって」


「え?なんでですか?」


 声が、少し低くなる。


「俺も詳しくは知らねぇけど……あれだって」


「あれって?」


 一瞬の間。


「たけるくんと、当時付き合ってたんじゃないかって」

「それでさ、失恋してメンタル病んだって噂」


「……本当なんですか?」


「さあな。でも、そういう話は回ってる」


 それ以上、聞けなかった。


 まなみは、静かにその場を離れる。


 ——噂。

 ——付き合ってた。

 ——競技を続けられなくなった。


 言葉が、胸の中で絡まって、ほどけない。


 心が……

 ひどく、冷えていく。


 お手洗いの前まで来たときだった。


 人影が、見えた。


 ——あ。


 反射的に、柱の陰に身を寄せる。


 そこにいたのは、さゆりと、たける。


 さゆりが、たけるにしがみつくように抱きしめている。

 さっきとは違う、強いハグ。


「……ごめんなぁ……」


 たけるの声が、震えていた。


 泣いている。


 肩が、小さく上下しているのが分かる。


 ——え。


 足の先から、感覚が消えていく。


 守られた記憶。

 「選んでよかった」という言葉。

 さっきの、短いハグ。


 全部が、一気に遠ざかる。


 ——私は、何を見ていたんだろう。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 音を立てないように、まなみはその場を離れた。


 振り返らずに、歩く。


 涙は、まだ出なかった。


 ただ、

 リンクよりも冷たい現実が、そこにあった。

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