第13話

そして迎えた、初試合当日。


 リンク脇で名前を呼ばれるのを待ちながら、まなみは自分の手を見つめていた。


 ——震えてる。


 はっきり分かるほど、指先が小刻みに揺れている。


「大丈夫ですよ」


 隣で、たけるが静かに声をかけた。


「練習通りでいきましょう」


 そう言われても、心臓の音がうるさくて、うまく呼吸ができない。


 ——初めての試合。

 ——ペアとして、初めて人前で滑る。


 失敗したらどうしよう。

 足を引っ張ったらどうしよう。


 そんな思いが、頭の中をぐるぐる回る。


「深呼吸」


 たけるが、まなみの視界に入るように立つ。


「僕がいます」


 その一言で、ほんの少しだけ、力が抜けた。


 ——大丈夫。

 ——一人じゃない。


 音楽が流れ出す。


 滑り出しは、悪くなかった。

 ステップも、スピンも、練習通り。


 問題は、後半のスロージャンプだった。


「……っ」


 踏み切りの瞬間、わずかなズレ。


 ——まずい。


 身体が空中でバランスを崩す。


「まなみさん!」


 次の瞬間、強く引き寄せられた。


 本来なら投げ出すはずの距離を、たけるが無理に縮める。

 自分の体勢を犠牲にしてでも、まなみを氷に叩きつけないように。


ドン、という鈍い音。


 二人同時に転倒する。


 会場が、ざわついた。


 ——ごめん。


 頭が真っ白になる。


 立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれた。


「大丈夫ですか……?先輩……」


 声が、震えていた。


 顔を上げると、たけるの手が、はっきり分かるほど揺れている。


「すみません……」

「僕のせいで……本当に……」


 呼吸が浅く、目が焦点を失っている。


 ——あ。


 まなみは、すぐに理解した。


 これは、ただのミスじゃない。

 何かを思い出している。


「ちょ、ちょっと」


 まなみは、逆にたけるの腕を掴んだ。


「これぐらい、大丈夫だって!」


 できるだけ、いつもの明るい声で言う。


「全然平気!」

「それより、私の方こそ不慣れでごめんね!」


 たけるは、まだ動けない。


「……すみません」


「もー、謝りすぎ!」


 まなみは、わざと笑って言った。


「試合後、ハンバーガー奢りね!」

「それでチャラ!」


 一瞬、たけるがきょとんとする。


 そして、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。


「……はい」


 小さな、弱い笑顔。


 プログラムは、最後まで滑り切った。

 点数は決して高くない。


 それでも、拍手はあった。


 リンクを降りたあと、控室へ向かう途中。


 たけるが、立ち止まった。


 じっと、まなみを見つめている。


「……ど、どうしたの?」


 少し照れながら聞くと、たけるは意を決したように口を開いた。


「僕……」

「まなみさんを、パートナーに選んでよかったです」


 まっすぐな声だった。


 一瞬、言葉を失う。


「……な、なに急に」


 照れ隠しに視線を逸らす。


 たけるは、小さく笑った。


「本当に、そう思ってます」


 言葉の代わりに、そっと近づいてくる。


 軽く、短いハグ。

 恋愛的なものじゃない。


 ——ペアとしての、確認。


「これからも、頑張っていきましょう」


「……うん」


 まなみも、しっかり頷いた。


 そのとき。


「……たけるくん」


 背後から、聞き覚えのある声。


 振り返ると、そこに立っていたのは——


 若い女の子。


「……たけるくん」


 たけるの表情が、一瞬だけ固まる。


「さゆりちゃん……来てくれたんだ……」


 どこか、気まずそうな声。


 二人が言葉を交わす様子を、まなみは少し離れた場所から見つめていた。


 胸の奥が、ちくりと痛む。


 そのとき、横から声がした。


「見てた?」


 コーチだった。


「あの子ね、たけるくんの前のパートナー。さゆりちゃん」


「……そうだったんですね」


 自然を装った声とは裏腹に、心がざわつく。


 コーチは、少し複雑そうに客席を見た。


「さゆりちゃん、来てくれたんだ……」

「あんなことがあったのに……」


「あんなこと、って?」


 思わず聞き返す。


 しまった、という顔で、コーチが口をつぐむ。


「……それは」


 一拍、間を置いて。


「私からは言えないわ」

「たけるくんから、聞きなさい」


 その言葉が、重く落ちる。


 リンクの向こうで、たけるがさゆりと話している。

 その背中が、少し遠く感じた。


 ——私は、まだ何も知らない。


 パートナーとして。

 そして、それ以上の感情を抱き始めている自分として。


 初試合は、終わった。


 でも、

 本当の“始まり”は、これからだった。

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