第8話

リンクに足を踏み入れた瞬間、冷たい空気が肌に触れた。

 久しぶりの感覚に、まなみは無意識に背筋を伸ばす。


 ——始まってしまった。


 ペア経験者のたけると、初心者の自分。

 頭では分かっていた差が、滑り始めてすぐに現実として突きつけられた。


「もう一回いきましょう」


 たけるの声は穏やかだったが、まなみの足は思うように動かない。

 リフトに入るタイミングが合わず、バランスを崩す。


「ごめん……!」


 氷を踏み直すたびに、謝っている気がした。


 スロースケーティング、ホールド、基礎的な動き。

 どれも頭では理解しているのに、身体がついてこない。


 ——迷惑、かけてる。


 その思いが、練習を重ねるほど重くのしかかる。


「一回、休憩しましょう」


 たけるがリンクサイドに向かう。

 まなみは少し遅れて後を追った。


 ベンチに腰を下ろすと、急に足が鉛のように重く感じられた。


「……ねえ」


 しばらく沈黙のあと、まなみは口を開いた。


「やっぱり、私じゃない方が良かったんじゃない?」


 たけるが顔を上げる。


「今からでも遅くないよ。年齢的にも……私より、もっと若い子の方が」


 最後まで言い切れなかった。

 胸の奥で、何かがきしむ音がした。


「……まなみさん」


 たけるの声が、少し低くなる。


「どうしたんですか?」


 まなみは視線を落としたまま、答えない。


「なんで、そんなに自信がなくなっちゃったんですか?」


 まなみは、はっとする。


「僕の知ってるまなみさんは」


 たけるは、まっすぐこちらを見ていた。


「いつもポジティブで、自信に満ち溢れてて」

「失敗しても、『次いこ』って前向きで」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


 ——そうだった?


 ——本当に?


 思い返す。

 大学時代、失敗しても笑っていた自分。

 転んでも、氷の上で立ち上がっていた自分。


 いつからだろう。

 失敗が怖くなったのは。


「……先輩らしくありません」


 その一言が、静かに刺さった。


 たけるはそれ以上何も言わず、立ち上がる。


「少し、頭冷やしてきます」


 そう言って、その場を離れていった。


 リンクに残されたのは、まなみ一人。


 氷の上に映る、自分の影を見つめる。


 ——先輩らしくない。


 その言葉が、何度も頭の中で反響する。


 昔の自分を思い出す。

 怖さよりも、楽しさが勝っていた頃。

 うまくいかなくても、「それでもやりたい」と思えていた頃。


 まなみは、ゆっくりと立ち上がった。


 ——私、何を守ろうとしてたんだろう。


 リンクの中央へ、一歩踏み出す。

 まだ不安は消えない。


 それでも、

 氷の感触だけは、確かに懐かしかった。

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