たった一分の、七百円
Aki Dortu
たった一分の、七百円
その日、俺は七百円負けた。
たった一分遅れただけで。
昼休みの開始チャイムなんて、うちの部署には存在しない。
会議は「最後に一点だけ」で伸びて、その一点は増える。増えた分だけ、昼が削れる。
時計を見た瞬間、胃の奥が先に冷えた。
――やばい。
俺の昼には行き先がひとつしかない。
会社から徒歩十一分。カウンターだけの小さな定食屋。会社の連中も、ここまでは足を延ばさない。
限定十五食の「限定ランチ(600円)」。
あれは安さじゃなくて、息ができる場所だ。
弁当を作る器用さも、毎日コンビニの棚を見比べる気力も、もう残っていない。
昼くらいは、温かいものを座って食べたい。短い時間でも、頭を仕事から外したい。
コンビニだって安くない。
おにぎりを二つとサラダを足したら、600円なんてあっさり超える。
デザートまで買ったら、あれは昼飯じゃなくて“気分の出費”になる。
それに、あの店には小さな儀式がある。
小鉢が一品選べる。たったそれだけなのに、俺の昼が「ただ食べただけ」じゃなくなる。
自分都合で一つ選べる、っていうのが午前の疲れを少しだけほどいてくれる。
仕事じゃ、なかなか自分都合だけで選択できない。
だから、遅れたら終わりだ。限定は限定で、余裕がない。
いつも残り二、三食というところで滑り込めている。なのに今日は出足が遅れた。
廊下を早足で歩きながら、頭の中で言い訳が回る。
(俺のせいじゃない。会議のせいだ。あと一分で切れた。あと一分……)
のれんが見えた。席も空いている。今日はまだいけるかもしれない。
そう思った。
扉を開けた瞬間、カウンター席から声が聞こえた。
「じゃあ、これで」
店員の声が続く。
「はい、限定ランチですね。……これでちょうど終わりです」
ちょうど。
嫌な予感がして、足がほんの少しだけ速くなる。ほんの少しだけ。
「すみません、ひとりです」
若い店員が顔を上げる。ていねいな笑顔。
その目が一瞬だけ俺の顔に止まって、覚えられてる“かもしれない”と思う。
「いらっしゃいませ。……あ、限定ランチ、すみません。さっき頼んだお客さんで終わっちゃったんです」
さっき。
今の「じゃあ、これで」の、さっきだ。俺が扉を開ける数秒前。
胸の内側が、静かに沈む。
(あとちょっとだった。あと一歩、あと一分。
会議を切り上げられていたら。信号に引っかからなければ。
“あとちょっと”の積み重ねで、600円が消える)
口は、勝手に大人をやる。
「……うん、大丈夫です」
大丈夫なわけがない。
でも、ここで引き返すのも違う。入った。午後の予定が詰まっている。
どこかで折り合いをつけないといけない。
メニューを開く。600円はない。900円、1,100円、1,300円。
「刺身盛り合わせ定食 1,300円」
600円が消えて、700円が増える。たった一分で。
頭の中でやり取りが走る。
――明日は朝一で、仕様が毎回変わる客との打ち合わせ。今日中に“明日の正解”みたいな資料を作らないと朝が地獄。
このショックを抱えたまま午後を乗り切れるのか。乗り切るしかないのか。
いいもの食べて気分を――いや、上げたところで明日は来る。
その全部を、頭の中でわずか〇・六秒でやって、俺は黙ったままメニューの端を指で探した。
――本当は、そこにあるはずだった場所を。
指が止まって、少しだけ震えて、それから右へ滑る。
「……刺身盛り合わせ定食、お願いします」
言った瞬間に、取り返しがつかなくなる。
店員が厨房へ消える。もう戻せない気がする。
俺はカウンターの下で手を組む。指を絡めて、ほどけないように力を入れる。
それでも落ち着かなくて、膝が小さく揺れる。貧乏ゆすりが外に出ないように。
(なんでランチの選択に、こんなに神経を使ってるんだ。
一世一代の決断でもなんでもない。たった1,300円だろ)
スマホが震える。妻から。
「今日、帰り牛乳お願い。あと、子どもが明日いるって」
牛乳。子ども。
それを見た瞬間、頭の中で勝手にそろばんが鳴りはじめる。
ローン。子ども。そこに、1,300円。
700円が、急に現金の重さになる。
(ここでキャンセル……無理だ。
ここで“やっぱりやめます”って言えるなら、最初から入ってない)
厨房から皿の音がする。俺の迷いは調理時間に負けた。
「お待たせしました」
白い皿に、切り身が整然と並んでいる。
見た目が丁寧だと、余計に逃げ道がなくなる。
小鉢が二品ついていた。
いつもの儀式みたいに「選ぶ」ことはできない。勝手に足される。
ほんの少し救われた気がして、悔しかった。
一口食べた。
――うまい。
うまいのが、きつい。
「損した」って言い切れなくなる。
でも「得した」とも言えない。体は回復するのに、心が落ち着かない。
箸は止まらない。
皿はきれいになる。
食べ終わる頃には、胃は温かいのに、胸の奥だけが薄く痛い。
会計で1,300円を出す。
財布から千円札を一枚抜いた瞬間、今日の負けが手触りになった。
店を出て会社へ戻る。
午後の空気は乾いていて、頭は冴えている。刺身は確かに効く。
でも、胸の奥に小さな凹みが残っている。
700円分の凹み。
たった一分分の凹み。
席に着いてパソコンを開くと、画面の数字がやけに刺さる。
体が仕事の姿勢に戻っていく。戻るのは早い。生活は戻してくれないのに。
そのとき、後ろから声がした。
「先輩、すみません」
後輩が資料を抱えて立っている。緊急ではない顔。
だけど、こういう“軽い相談”が一番、断れない。
「ちょっとだけ……確認お願いしてもいいですか」
俺は反射で頷く。
「うん、大丈夫」
(人には言えるのに、自分には言えない。『うん、大丈夫』って、便利で残酷だ)
名札の端を指で直す。
ペンを出して、数字にピントを合わせる。
(700円の件は、いったん横に置く。今は、これだ)
俺の午後が始まった。
たった一分の、七百円 Aki Dortu @aki_1020_fjm
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