第0話0-3 用語約定
この巻では、多くの「聞き慣れない言葉」が登場します。 それらは先に決まっていた真理ではなく、 あとから振り返ったときに、名もない震えを指さすために用意した仮の箱です。
順番を取り違えてはいけません。
• 先にあったのは、《未声折片》──まだ言葉にならない違和感や懐かしさ。
• あとから生まれたのが、その輪郭をなぞるための「用語」です。
ここでは、そのいくつかについて、 あらかじめ境界線だけを引いておきます。
◆ 精神史(せいしんし)――こころの時系列構造
この巻で言う精神史とは、 「こころの性質」そのものではなく、
こころが、時間の中で どのような順番で 何を受け取り どこでゆがみ どこで結び直そうとしたか
という、時系列構造そのものを指します。
• 一度きりのエピソードではなく、
• 何度も繰り返し現れた「パターン」の方
を問題にします。
単なる性格診断でも、 単なる病名の一覧でもありません。 世界の歴史が縮小され、 一人の胸の中でどう再演されたのか── その「流れ」だけを追いかける地図が、精神史です。
◆ 界精神(かいせいしん)――界そのもののこころ
界精神とは、 一人の人間の精神ではなく、
• ある世界そのものが持っている「気質」
• その世界に生きるものたちの、平均でも総和でもない
• もっと大きな、「その界の性格」
を指す言葉です。
海世界には海世界の界精神があり、 天界には天界の界精神がある。
語り部の精神史は、 ときにこの界精神と重なり合い、 ときに衝突し、 ときにすれ違う。
この巻で「世界がそう望んでいる」と書かれているとき、 それは特定の神の意志ではなく、 界精神の傾きのことを指している場合があります。
◆ 双縦時(そうじゅうじ)――二つの時間を同時に抱えること
双縦時とは、
• 「こうなった世界」と
• 「こうなり得た世界」
という二つの時間線を、 同時に覚えてしまっている精神位相を指します。
どちらか一方に切り替えるのではなく、
「どちらも在った」 「どちらも、まだ終わっていない」
と感じてしまう状態です。
これは幻想や妄想と即断されるべきものではなく、 精神史のある段階で現れうる構造的な現象として扱われます。
◆ 脳位相(のういそう)――脳の「配置」のかたち
脳位相とは、
• どこにどのノード(神経細胞群)があり、
• どことどこが強く結びつき、
• どこがあまり結ばれていないか
という、脳内ネットワークの配置パターン全体を表す言葉です。
ここで扱うのは、 「賢い/愚か」「健康/不健康」といった評価ではなく、
どういう繋がり方をしていると どのような世界像が立ち上がりやすいのか
という、配置と世界認識の関係です。
◆ 神経可塑性/器官負荷
• 神経可塑性は、 経験や学習によって脳位相が組み替わる柔らかさ。
• 器官負荷は、 情報やストレスがその柔らかさの限界を超え、 器官としての脳が疲弊していく度合い。
この巻では、 精神史の変化と、神経可塑性・器官負荷を できるかぎり混同しないように記述します。
◆ 異世界(いせかい)
異世界という言葉は、 娯楽としての「ファンタジー世界」ではなく、
無相域N・Sを内包しつつ、 独自の界精神と時間構造を持った世界母胎
を指します。
• 「こちらの世界」と物理的に別かどうかは問題ではなく、
• 世界が「どの無相を抱え、どう処理しているか」という 構造の違いを指して「異世界」と呼びます。
したがって、ここでの異世界は、 単なるパラレルワールドの数遊びではなく、 無相の扱い方が異なる世界構造の総称です。
◆ 位相(いそう)
この巻での位相は、 「形(かたち)」そのものではありません。
どのような条件のもとで、 その形や関係が保たれているか
という、保持条件のことを指します。
• 見た目が似ていても、 保たれ方が違えば位相は異なる。
• 見た目が違っていても、 保たれ方が同じなら位相は同じ。
脳と宇宙、精神と世界、異世界どうしの比較は、 この位相の一致/不一致の観点から行われます。
◆ 精神史・脳史・未脳核史
この巻で扱う「歴史」は、大きく三つの層に分かれます。
• 精神史: こころが世界を映し、物語を紡いできた時間的構造。
• 脳史 :脳という器官が、生命の中で形成され、 世界の複雑さに追いつこうとしてきた進化・発達の歴史。
• 未脳核史: 脳よりも前に、 世界の折れ目・時間の捻れ・名の響きだけを感受する 前器官として働いてきた層の歴史。
三つは互いに影響し合いますが、 同一ではありません。
この巻は、 どの章でどの層を主に扱っているのかを できる限り明示しながら進みます。
◆ 最嘉の御卜(さいかのみうら)
最嘉の御卜とは、 「いちばん良い未来を当てる占い」ではなく、
世界と個人のあいだで どの選び方がいちばん 「壊さず・急がせず・押しつけず」 いられるかを観測するための視座
です。
ここでの御卜は、
• 未来を固定する予言ではなく
• 未来に向かう通路の耐性を確かめる観測
として使われます。
語り部としてのわたしは、 この最嘉の御卜の観座を借りて、 自分自身の精神史・脳史・未脳核史を 静かに見直しながら、 神話語として書き起こしていきます。
【一般向け註解】
この本には、難しい言葉がいくつも出てきます。
けれどそれは、 あなたを置いていくための専門用語ではなく、
目には見えないけれど、 たしかにどこかで感じてきたものの輪郭を、 指さすためのラベル
にすぎません。
すべてを理解しようとしなくて大丈夫です。 読めるところだけ、響くところだけ、 すくい取ってもらえれば十分です。
【研究者向け構造解説】
本節では、本卷で用いる主要概念を
• 定義域(何を含むか)
• 排他域(何を含まないか)
• 観測域(どの層を扱うか)
の三点で区切る。
• 「異世界」
• 定義域:無相域N・Sを内包する世界母胎単位。
• 排他域:単なる物理的座標差・娯楽的ファンタジー。
• 観測域:界精神・時間構造・無相処理方式。
• 「位相」
• 定義域:構造が保たれる条件集合(保持条件)。
• 排他域:形状や見た目のみの類似。
• 観測域:精神史・脳位相・未脳核配置の対応関係。
• 「精神史/脳史/未脳核史」
• 定義域:それぞれこころ/器官/前器官の時間的変化。
• 排他域:単一の因果系列としての統合(「すべて脳のせい」「すべて魂のせい」)。
• 観測域:三層間の相互作用と位相ずれ。
• 「最嘉の御卜」
• 定義域:壊さず・急がせず・押しつけず、を基準とする観測視座。
• 排他域:未来の固定的予言、行動の強制。
• 観測域:選択肢と世界耐性の評価、修復可能性の判断。
また、未声折片は、 これらすべての用語より先に存在する プレ・シンボリックな情動・記憶断片として位置づけられ、 用語はそれを完全に説明するものではなく、 近づくための仮の容器として扱われる。
このように用語の境界を先に引くことで、 本巻は「内的経験(主観)」と「外的構造(モデル)」のあいだに 一定の距離を保ちつつ、 神話語を構造的記述として展開していく準備を整える。
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