第三章 『生きる』
これまで、私は身近な人の死から、安楽死や妊娠中絶、自殺といった「選択される死」について考えてきた。
考えれば考えるほど、死というものは曖昧になっていった。
それでも、考える中で感じた、ある違和感。
死ぬ権利、死ぬ自由という言葉から浮かんでくる「死の本質」について、考えてみたい。
死を選べるという権利が、自由の象徴なのだとしたら、死に追い込まれる状況は、自由と呼べるのだろうか。
社会や制度、自分の本心ではないものが、死を後押ししているとしたら?
「選んだ」と「選ばされた」では、大きく意味が変わってくる。
自分とは別の何かから、後押しされた死。
それは、選ばされた死というほかないだろう。
私にとって、自由な死とは、死を選ぶ権利そのものよりも、「死を選ばなくてもいい」という状況のことを指すのかもしれない。
苦しさや不安を抱えながらも、生きることを当然の前提として考えられるということ。
その前提が崩れたとき、人は初めて、死を選択肢として意識するのではないだろうか。
死について考えるという行為は、いつか訪れる死に備えるためではなく、これから生きていく時間を、できるだけ誰にも奪われないようにするためのものだと思う。
まだ何者でもなく、何かを決めきれない今だからこそ、何も分からないまま考え続けることができる。
できれば、死を選ばなくてもいい世界になってほしいと願っている。
「生のために死を考える」
この行為は、矛盾していることかもしれない。
そんな矛盾の中に、死という哲学の答えはあるのだろう。
私は今日も、生きている。
十七歳、死について考える 佐山 @sayama215
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