第5話 逃げることを覚える

逃げることは、恥だと思っていた。


いや、正確には――

逃げる自分を、許せなかった。


剣を抜かず、前に出ず、背を向ける。

それは「負け」だと、ずっと思っていた。


だが今は違う。


逃げることは、選択だ。


そう言い切れるようになるまで、時間はかからなかった。


―――――


訓練場の端。

俺は、誰とも組まずに走っていた。


ただ走る。

方向を変え、障害物を越え、足音を殺す。

派手な訓練ではない。


「何やってんだ?」


通りすがりの冒険者が笑う。


「戦えないなら、走っても無駄だろ」


無視して走る。

息が切れ、足が痛くなっても、止まらない。


老人――回復術師の言葉を思い出す。


「逃げるなら、勝てる逃げ方を覚えろ」


勝てる逃げ方。

妙な言い回しだが、意味は分かる。


無様に逃げれば、追われる。

考えて逃げれば、生き残る。


―――――


次の依頼は、渓谷の調査。

同行者は二人。

どちらも腕は中堅だが、油断が目立つ。


「戦えそうなら倒す」


そう言う彼らに、俺は最初に告げた。


「俺は、退路を見ます。

 戦うなら、戻れる場所を三つ作ってからにしてください」


不満そうだったが、拒否はされなかった。


渓谷に入ってすぐ、嫌な気配があった。


音が反響しすぎる。

風が止まっている。


「上です」


言った直後、岩陰から魔物が落ちてきた。


戦闘が始まる。

二人は善戦したが、想定より数が多い。


俺は数えた。

敵の数。

味方の呼吸。

足場の安定。


――勝てない。


「右へ! 三十歩で崩れる!」


叫ぶ。


遅れた一人が、足を取られた。

魔物が迫る。


俺は迷わなかった。


煙玉を投げる。

視界が白く染まる。


「下がれ!」


叫びながら、倒れた仲間を引きずる。

ただ逃げるのではない。

追わせないように逃げる。


岩を落とし、音を散らし、

魔物の注意を分断する。


息が切れる。

腕が震える。


それでも、止まらない。


―――――


渓谷を抜けたとき、

三人とも立っていた。


傷はある。

疲労もひどい。


だが、全員、生きている。


「……助かった」


中堅冒険者の一人が、短く言った。


「逃げる判断、早かったな」


もう一人も頷く。


それだけで、十分だった。


―――――


ギルドでの報告。

調査は不完全。

報酬は減額。


「また逃げたのか」


そんな声が背後で聞こえる。


だが、今日は違った。


「でも、死人はいない」


誰かが、そう言った。


俺は気づく。


逃げることは、

戦わないことじゃない。


生きるために、戦場から離れる技術だ。


強さとは、前に進むことだけじゃない。

引くべき時に、引けること。


それを、ようやく体が覚え始めていた。


『“生存率だけは英雄級”』。

その二つ名は、まだ嘲笑混じりだ。


それでも俺は、

今日も逃げ方を磨く。


逃げることを、

恥だと思わなくなった自分が、

少しだけ誇らしかった。

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