第3話 二つ名の由来

「……少し、時間いい?」


依頼報告を終えて立ち去ろうとしたところで、受付嬢に呼び止められた。

いつもより声が低い。業務用ではない、個人的な呼び方だった。


「何か、不備でも?」


「不備はないわ。ただ……これを見てほしくて」


差し出されたのは、一枚の古い記録紙だった。

端が擦り切れ、インクも薄い。

最近の依頼書ではない。


「三年前の記録よ」


目を落とした瞬間、胸の奥がざわついた。


――山岳地帯・合同討伐依頼

――参加冒険者:十二名

――生還者:四名


その「四名」の欄に、見覚えのある名前があった。


……俺だ。


「覚えてる?」


「……少しだけ」


正直に言った。

全部は覚えていない。

覚えていたら、きっと眠れなくなる。


あの日は、英雄級の冒険者が指揮を執る、大型魔物討伐だった。

俺は人数合わせで入れられた、最底辺の一人。


戦闘は、最初からおかしかった。


想定より強い。

想定より多い。

想定より、逃げ場がない。


「前へ!」


誰かが叫び、

誰かが倒れ、

誰かが動かなくなった。


俺は戦っていなかった。

戦えなかった。


ただ、見ていた。

地形を。

仲間の動きを。

崩れ始めた陣形を。


「撤退だ!」


叫んだのは、俺だった。


誰も聞かなかった。


英雄は前に出続け、

後ろは潰れ、

逃げ道は塞がれた。


その時、俺は――走った。


勝つためじゃない。

生きるためでもない。

生きて帰すために。


岩場を崩し、即席の煙を焚き、

怒鳴り、引きずり、叩いてでも動かした。


「いいから来い! 死にたいのか!」


声が枯れるまで叫んだ。


結果、生き残ったのは四人。

その全員が、俺の後ろを走っていた。


―――――


「その後、あなたは三日間眠り続けた」


受付嬢は淡々と続ける。


「英雄は重傷。パーティは解散。

 誰も“指揮を無視した最底辺冒険者”を評価しなかった」


当然だ。

勝っていない。

魔物も倒していない。


「でもね」


受付嬢は、別の紙を重ねた。


「その後、あなたが関わった依頼。

 小規模、失敗、撤退……全部含めて、死亡者数を集計したの」


数字を見て、息が止まった。


――死亡者数:ゼロ。


「普通じゃないわ。

 上位冒険者より、よっぽど」


そこで、ようやく理解した。


「……それで?」


「ええ」


受付嬢は、ほんの少しだけ笑った。


「誰かが言ったの。

 “あいつは英雄じゃないけど、生存率だけは英雄級だ”って」


皮肉だった。

嘲笑だった。

評価とは程遠い。


けれどその言葉は、面白おかしく広まり、

いつの間にか、俺の名前の代わりになった。


「だから二つ名は――」


「“生存率だけは英雄級”」


自分の口で言うと、やはり重かった。


英雄になれなかった証。

勝てなかった記録。

それでも、生き残った事実。


「……納得しました」


そう言って立ち上がる。


「強くなりたかった。でも、なれなかった。

 代わりに、死なせない癖だけが残った」


受付嬢は何も言わなかった。

否定もしなかった。


ギルドを出ると、空は夕暮れだった。

赤く染まる雲を見上げながら、思う。


俺は英雄じゃない。

これからも、たぶん強くはならない。


それでも。


――あの日、生きて帰った四人の背中を、俺は覚えている。


二つ名は、偶然じゃなかった。

過去が勝手につけた名前だった。


『“生存率だけは英雄級”』。

それは、俺が選ばなかった強さの、残骸だった。

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