第13話
この部屋のシャンデリアも、ずっと点けておこうか、と一度考えたけれど、利玖は結局、つまみを回して、めいっぱい明るさを絞った。無段というほどではないけれど、四つか五つくらいのモードがあって、つまみの回し方でそれを切り替えられる。完全に消灯する一つ手前のモードでも、実家の常夜灯よりもだいぶ明るかった。
部屋全体がぼんやりと赤味を帯びたトーンで滲み、兎を追いかけた先で転がり落ちた穴の底で見る景色のように現実感がなかった。
ベッドの上に仰向けになり、一号室にいる白津透の事を思った。
佐倉川家の次期当主である兄が贔屓にしているのが、ほとんど年の変わらない若い女性職員というのが、言われてみれば意外だった。だが、それも、透にそういった来歴があるのなら納得がいく。
兄の婚約者・淺井瑠璃も、銀箭と思しき存在に襲われた。
決定的な違いは、瑠璃はまだ戻ってきていない、という事。肉体は、こちらの世界にあり、生命活動も維持されているが、意識が戻らない。
いつか、元どおりになるのだろうか?
透が、その答えを持っているのだろうか。
しかし、そんな事は、とっくに兄が訊いていそうなものだ。たとえ透が、喋りたくない、と言っても、あらゆる手段を用いて情報を引き出しただろう。それでも、瑠璃の容態について、兄から希望的な見解を聞けないのは、彼女の事例をそのまま瑠璃に適用出来ない理由が、何かあるのだろう。
災害のようなもの、という利玖の言葉に同意した。
しかし、その後に、自業自得だと言い切った。
それらのニュアンスの違いを突き詰めて考えれば、もう少し、踏み込んだ仮説が立てられそうだったが、強烈な眠気が妨害電波のように思考を阻害した。いつもなら、とっくに眠っている時間なのだ。
結局、近いうちに機会を設けて話す、という透の約束を信じるしかない。
それよりも、今は、体力の回復に努めるべきだ。透やグレンが目を光らせているとはいえ、このまま朝まで何事も起きないという保証はない。
利玖は、シャンデリアを消す方向へつまみを回す。つかの間、シーツの冷たさが気になったが、それもあっという間に体温に馴染み、引きずり込まれるような眠りに落ちていった。
異質なもの音で目が覚めた。
大きな音ではない。むしろ、気づかれないように何かをしようとしているような、抑圧された気配がある。
利玖は、なるべく音を立てないように起き上がり、シーツを除けてベッドの上で膝をついた。うずくまるような姿勢のまま、じっと音の発生源を探る。
入り口の方だ。
誰かが、ドアを引っかいている。硬いもので擦るような音が、断続的に聞こえる。
顔の向きを固定し、走査するようにゆっくりと視線だけを動かして、音のする位置を絞り込んだ。ドアノブよりも低い位置のようだ。それがわかった時、正直、ほっとした。音がしていたのが、身長よりもずっと高い位置だったら、ドアの向こうにある眺めを想像する事さえ躊躇われる。
まずは、透に知らせるべきか、と端末に手を伸ばしかけた時、
「サクラガワ殿」と聞き覚えのある声がした。低く、威圧的なトーン。グレンのものだ。「夜分遅くに申し訳ない。このドアを開けてもらえないだろうか」
利玖は靴を履き、ドアに近づく。猫の瞳には眩し過ぎるかもしれないと思い、シャンデリアは点けなかった。
ロックを解除し、ドアを内側へ引いて開けると、目の前の廊下にぽつんとグレンが座っていた。
「状況に変化があった。至急、貴殿を我らの隠れ家へ連れて行き、朝までそこにいてもらう。──ついて来い」
一方的にそう言って、グレンは歩き始めた。廊下の右側、つまり、透のいる一号室とは逆方向だ。利玖は、そちらに何があるのか、知らなかったし、透から離れるというのも、何か嫌な予感がした。
「あの、グレンさん……」
声をかけた時、グレンが振り返り、気体が噴出するような鋭い音とともに牙を剥き出しにした。明らかな威嚇の動作だった。
「足を止めるな」グレンは、責めるような強い口調で言う。「つべこべ言わずについて来い。説明している時間はない」
「いえ……」利玖は、そう呟くと、一気に廊下を駆け抜けてグレンの前に出た。そこで膝を折り、左右の腕を伸ばしてグレンの行く手を遮る。猫にとっては障害にもならない程度の高さのはずだが、グレンは不快そうに顔をしかめてあとずさった。
「グレンさん。わたしを、この先へ連れて行きたいのですよね。それなら、この腕を飛び越えてください。一度だけで構いません」
「
「お断りします」利玖は首をふった。「アールさんは、このチョーカーを咥えても、何ともありませんでした。魔除けの加工が施された、特別な石なのです。もしも本当に、あの時、わたしを騙して連れ去ろうとしていたのなら、ただで済むはずがなかった」
「そんなもの、本当に効くという証拠がない」グレンは足を突っ張ったような低い姿勢で、爪を出している。「それに、アールが我慢をしていた可能性だってあるだろう」
「仰るとおりです」利玖は頷く。「だからこそ、グレンさん。あなたに今、ここで飛び越えて頂きたい。あなたがチョーカーに触れているところを、わたしは一度も見ていません」
グレンはしばらく、挑みかかるような姿勢のまま利玖を睨んでいたが、やがて、ふっと体の力を抜いた。悠然とその場に座り直し、舌なめずりをして──かっ、と硬い声で鳴いた。
利玖が構える間もなく、何かが足首に絡みつき、乱暴に後ろへ引っ張った。
つんのめり、バランスを保っていられなくなる。
透に気づいてもらわなければ、と思い、咄嗟に片手をふり上げ、倒れる勢いに任せて床に叩きつけようとしたが、その下にグレンが体を滑り込ませてきた。
利玖はすんでの所で、その腕を後ろへ回し、肩から床に倒れ込む。息がつまるような痛みに、一瞬、目をつぶったが、すぐに顔を上げた。
声は出せる。ここからでも、叫べば一号室の透に届く。
息を吸い込んだ瞬間、目の前に、光の群れが飛び込んできた。
『ごめんなさいね』
ヤマブドウの精が、切なげに眉を曇らせて利玖を間近で見つめていた。三号室では見なかった顔だ、と思うのと、無理やり口の隙間から、スポンジのようなものを押し込まれるのとが、ほとんど同時だった。
くらくらするような芳醇な香りがあっという間に鼻腔の奥まで広がって、抵抗する事も出来なかった。
少しずつ、体で感じる重力の向きが傾いていく。
強い眠気に襲われているのだ。
このまま、完全に突っ伏してしまうのだけは避けようと、手足に力を込めたが、どちらもすでにロープのようなもので縛られていて動かせなかった。
次第に、首を持ち上げている事すら難しくなる。
それでも、壁に側頭部をつけて、何とか支えようとする。しかし、後ろから何かに頭を押され、利玖は崩れ落ちた。
こちらに向かって歩いてくるグレンの爪先さえ、もう、はっきりとは見えない。
視点が変だ、と気づいた。
際限なく、どんどん下がっていく。もう、床を通り抜けてしまったのではないか。
そうか……。
アールが消えた時の事を思い出す。
ケット・シー。
闇から闇へと移動する、猫の妖精。
「確かに、今の我らではその石に触れる事は出来ぬ」グレンの声が、頭よりもずっと上から聞こえた。「だが、直に触れずとも、人間の娘を一人生け捕りにする事くらい、我らにとっては造作もない」
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