第2話 裏江戸乱舞・祭乱・甚平編(1622年)

江戸の春。

湿った川風に、太鼓と笛の音が混じる。

表の江戸では、法と帳簿が秩序を作っていた。

米は量られ、税は定められ、身分は書き付けられる。

だが裏江戸では、

数えられないものが溜まっていく。

選ばれなかった言葉。

飲み込まれた怒り。

声に出せなかった恐怖。

それらは、祭りの夜にだけ息をする。


平甚平 ― 助来世

平甚平(たいら じんぺい)。

通り名、助来世(すけきよ) 。

彼は刀を持たない。

代わりに、太鼓を持つ。

甚平は人の顔を見ない。

見るのは、呼吸の速さ。

肩の強張り。

視線の泳ぎ。

怒りが溜まる前。

恐怖が固まる前。

音で、

間で、

場をずらす。

太鼓は合図ではない。

命令でもない。

ただ、

人が次に何を選びそうかを、

ほんの半歩だけ変える。

祭りは、甚平にとって戦場だった。


欄平(らんべい)

欄平は、甚平の舞に応える者だった。

派手ではない。

だが、群衆の視線が自然と彼を避け、

また追う。

足運び。

身体の傾き。

間合い。

彼の動きは、

人の意識をわずかにずらす。

初めて出会ったのは、

裏江戸の細い路地。

子供たちの喧嘩。

大人の苛立ち。

放っておけば、

刃物が出る空気。

欄平は何も言わず、ただ立った。

視線を置き、身体を半歩動かす。

それだけで、

緊張は抜けた。

甚平は、その瞬間を見逃さなかった。

「……お前、流れが見えるな」

欄平は笑った。

「見えてるわけじゃない。

ただ、邪魔しないだけです」

それで、十分だった。


町奴頭領 ― 播随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)

裏江戸に、

別の重さが生まれ始めていた。

怒りが、

集まり始めている。

播随院長兵衛 。

町奴頭領。

彼は太鼓を叩かない。

踊らない。

だが、刃を抜かせぬ男だった。

争いが起きれば、

長兵衛は先に立つ。

「ここは通さねぇ」

その一言で、

血は引き、刃は戻る。

彼の背後には、

同じ目をした男たちが並ぶ。

怒りは、

個ではなくなっていた。

甚平は遠くから、それを見ていた。

秩序ではない。

だが、流れでもない。

――抱え込んでいる。


二つの夜

同じ夜、

同じ町で、

二つの衝突が起きる。

一つは、

長兵衛の町。

徒党が道を塞ぎ、

武家崩れを睨む。

声は荒いが、

刃は抜かれない。

怒りは、

形を持って留められている。

もう一つは、

甚平の祭り。

太鼓が鳴り、

笛が抜ける。

怒りは、

笑いに変わり、

踊りに溶ける。

結果は同じ。

血は流れない。

だが、

夜が明けたあとに残る重さは違った。


幕府の影

江戸城。

徳川秀忠の前で、

側近たちが言葉を交わす。

本多正信は静かに言う。

「危険です。

暴徒ではない。

代表を名乗り始めています」

酒井忠世は吐き捨てる。

「町人風情が、

力を持ったつもりか」

秀忠は短く言った。

「封じよ」

名は残さぬ。

理由は書かぬ。

ただ、

消せ。


夜の終わり

夜。

長兵衛は一人、

路地に立っていた。

誰もいない。

刃は一度だけ閃く。

声はない。

抵抗もない。

町は、

静かになった。

だが、

流れは戻らなかった。


乱舞

同じ夜。

裏江戸の別の場所で、

太鼓が鳴っている。

甚平は速度を上げる。

だが、激しくはしない。

怒りが熱になる前の速さ。

欄平は視線をずらす。

半歩前へ。

半歩横へ。

兵は、

誰を斬ればいいのかわからない。

提灯が揺れ、

子供が走り、

商人が笑う。

町全体が、

一つの舞踏になる。

正信は屋根の影で悟る。

「……これは、

物理では止められぬ」

兵は下がる。

勝敗はない。

戦もなかったことになる。


宴のあと

祭りが静まり、

人々が帰る。

甚平は屋台の上に立ち、

夜空を見上げる。

「今日も、

自由意志の宴は無事だ」

欄平が言う。

「載らない勝ちですね」

甚平は笑う。

「載らない方がいい。

数えられたら、終わりだ」

誰も知らない。

だが確かに、

選択の痕跡は残っている。

剣ではなく、

法でもなく、

祭りによって守られた夜。

裏江戸では今日も、

戦が起きずに、終わった。


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