「天帳刻-刀心祭」

@rhythm5575

第1話 戦記葬送・乱世・蘭丸編(1565–1602)

第一部:偏りを感じる少年(1565–1582)


尾張の野に春風が渡る。

森成利――後に蘭丸と呼ばれる少年は、1565年、尾張の小さな城下に生まれた。


父・森可成は武将であったが、剣より先に野を教えた。

獣の気配、風向き、土の湿り。

生き延びるために必要なのは力ではなく、先に気づくことだと。


母・林通安は感情を表に出さぬ人だった。

怒りも喜びも胸に沈め、常に静かであれと教えた。


成利は、父の動と母の静から、言葉にされぬ知恵を覚えていく。


十七歳の春、織田信長に仕え、初めて戦場に立つ。

曇天の下、土埃が舞い、兵の呼吸が乱れる。


恐怖と昂揚が渦を巻く中で、成利は動かなかった。

理由はない。ただ、今ではないと感じた。


その一瞬の静止が、味方の隊列を保ち、敵の突進を空振りに終わらせた。

戦の後、成利は理解する。


――自分には、流れが見えている。


夜、陣の外れで月を仰ぐ。

戦場の空気の奥に、二つの視線があった。


冷たく、計測するもの。

柔らかく、ただ見ているもの。


意味は分からない。

ただ、見られている感覚だけが残った。


天界では、アダムが戦場を俯瞰していた。

数字は整っている。

ただ一箇所、説明不能な空白がある。


イヴは、その瞬間を記録しなかった。


第二部:信長という装置(1582以前)


成利は「蘭丸」と呼ばれるようになる。

名は役割を生み、役割は位置を定めた。


信長の周囲では、感情が異様な密度で渦を巻く。

恐怖と歓喜が同時に生まれ、戦場も城も、一人の人間を中心に回転していた。


信長は、人でありながら感情を生成する装置だった。


蘭丸は理解する。

秩序にとって有益であり、同時に危険な存在だと。


ある日、信長は問う。

「お前、戦をどう見ている?」


蘭丸は答える。

「勝ち負けではありません。感情の偏りが、流れを歪めます」


信長は笑う。

「ならば、その目で俺を見ろ。数ではなく、人としてだ」


蘭丸は、従わず、背かず、最適な瞬間にのみ動くことを覚える。

その選択が、戦の結果をわずかに変え続けた。


天界では帳簿に誤差が積み重なる。

アダムは黙り、イヴは頁をめくらなくなった。


第三部:本能寺の決断(1582)


天正十年、本能寺。

夜は静かで、火の気配だけが近づいていた。


蘭丸は悟る。

このままでは、人の意思がすべて数へと回収される。


必要なのは調整ではない。

切断だ。


月光の廊下を進み、信長の背を見る。

迷いはない。


刀が閃き、刃は正確に沈む。

信長は叫ばず、血だけが静かに流れた。


天界で、帳簿の数字が破綻する。

アダムは言葉を失い、イヴは頁を閉じた。


蘭丸の手は震えなかった。

歴史は、決定的に逸れた。


第四部:戦乱の余波と尾張(1582–1585)


信長の死後、尾張は沈黙に包まれる。

民は怯え、家臣は疑い合う。


蘭丸は町を歩く。

言葉はなく、行動だけがある。


恐怖が溜まる場所に立ち、

不安が渦巻く家に視線を送る。


それだけで、流れは戻っていく。


天界では誤差が減る。

アダムは帳簿を閉じ、イヴは遠くを見る。


第五部:豊臣政権下(1585–1598)


秀吉の天下。

蘭丸は影のように会議に立ち会う。


表情と沈黙が戦を決める時代。

慢心には不安を、恐怖には安心を、わずかに混ぜる。


市場の声、祭りのざわめき。

民衆の感情もまた、戦場だった。


蘭丸は剣を振るわず、流れを動かすことに満足を覚える。


第六部:関ヶ原前夜(1598–1600)


秀吉の死。

天下は再び揺れる。


蘭丸は家康の陣に潜む。

兵の恐怖、将の野心、その歪みを読む。


一瞬の逸れ。

それだけで、流れは決まる。


天界で、数字は成立する。

イヴは、その成立に筆を置いた。


第七部:江戸(1600–1602)


新しい秩序が形を持つ。

蘭丸は大広間の隅に立つ。


戦の終わりではない。

管理の始まりだ。


帳簿には整った記録。

その余白に、名のない意思が残る。


第八部:終焉(1602)


慶長七年、安土。

夜明けとともに城は炎に包まれる。


見つかった遺体は一つ。

森蘭丸、三十七歳。


天界で、空白が生まれる。

アダムは職を退き、イヴは何も書かない。


世界は、秩序でも混沌でもない場所へ進む。

残されたのは、課税不能の自由意志だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る