第6話 隠し文庫の鍵

 雪は、音を奪う。

 奪うくせに、足跡だけは残す。

 白い地面に黒い線が走るたび、誰かの存在が書きつけられていく。紙ではない。雪だ。だが雪は燃えない。燃えない代わりに溶ける。

 溶ければ、最初からなかったことになる。


 夜明け前の斜面は青い。

 星の光が雪に返り、冷たい色だけが残る。木立の影は薄く伸びる。枝先が凍っている。触れれば指に貼りつきそうな冷えだ。

 三人は黙って歩いていた。


 ユキトは肩の包帯の下の熱を感じながら、後ろを気にしていた。

 追手の足音は聞こえない。聞こえないのが不気味だった。影は、聞こえない時ほど近いことがある。


 ツバキは外套の襟を引き上げ、口元を隠している。

 口元を隠すのは寒さのためだけではない。言葉が漏れるのを怖がっている。自分の口から、うっかり名が出てしまうのを怖がっている。

 名は武器だと言われた。武器なら、握る者を選ぶ。握り間違えれば、持ち主が傷つく。


 ハルは戸籍板の束を抱えたまま歩いていた。

 重い。腕が震えている。だが降ろさない。降ろせば母の名が土に落ちる気がするのだろう。

 子どもの意地は、時々大人より硬い。


 風が吹いた。

 雪が舞い上がる。白い粉が頬を叩く。目に入ると痛い。涙が出る。涙は暖かいはずなのに、すぐ冷える。

 ユキトは目を細め、歩幅を少しだけ大きくした。

 足跡を無駄に増やしたくない。だが急げば足跡が深くなる。深い足跡は目印になる。


 斜面の先に、岩が露出した場所があった。

 岩の陰は風が弱い。雪が薄い。休める。

 ユキトはそこで立ち止まった。


「ここで」

 短く言う。

 ツバキは頷き、ハルを座らせた。

 ハルが戸籍板を抱えたまましゃがみ、息を吐く。吐いた息が白く伸び、すぐ消える。

 消える息を見て、ハルの目が揺れた。存在の揺れだ。


 ツバキは外套の内側に手を入れた。

 そこで、きらりと小さく光るものが出てくる。

 雪の文様の小刀だった。


 刃は短い。

 柄は白っぽい木で、雪輪のような細い彫りがある。意匠が上品だ。旅人の道具ではない。人の目に触れないように作られた品だ。

 寒さの中でも、金属の冷たさが目に見えるようだった。


 ユキトの視線が止まった。

 王都の夜、ツバキの袖口からこぼれた小刀。

 その文様が、戸籍板の束の中にあった金具の紋と同じだった。


 ツバキは小刀を両手で包むように持った。

 指先が白くなる。握りしめるほど力が入っている。

 それでも声は落ち着いていた。


「これ、母が」

 ツバキは言いかけ、喉を押さえた。

 言葉が詰まる。詰まりは恐怖ではなく、癖だ。名を奪われた者の癖。言葉を出す前に、喉が閉じる。

 ツバキは一度息を吐き、言い直した。


「母が、渡した」

 短い文章に分けることで、喉の詰まりを避けている。


 ユキトは聞いた。

「いつ」

 問いも短い。


「火の前」

 ツバキが答える。

 火。戸籍焼却の夜の火だろう。

「困ったら、これを使えって」

 困ったら、という言い方が怖い。困ることが前提になっている。母は最初から、娘が困る未来を知っていた。


 ユキトは小刀の文様を指で追った。

 触れると冷たい。冷たさが指の腹に貼りつく。刃物の冷たさは、血の温度を思い出させる。

 ユキトは指を離した。


 ハルが言った。

「それ、何の鍵」

 鍵、という言葉を選ぶのが子どもらしい。小刀を見て、武器ではなく鍵だと感じたのだろう。

 ツバキはハルを見る。

 ハルの目は真っ直ぐだ。名を探す目だ。


 ユキトが答えた。

「文庫」

 文庫。王家の隠し文庫。

 表の記録庫ではない。裏の記録。燃やせない記録。燃やすと困る記録。だから隠される記録。


 ツバキの眉がわずかに動いた。

「王家の」

 言葉が震えないように抑えている。


 ユキトは頷く。

「紋が同じだ」

 言いながら、戸籍板の束の隅から金具の欠片を取り出した。

 焦げた木に埋まっていた金具。雪輪の刻み。小刀の文様と一致する。

 一致は偶然ではない。偶然なら、ここまで追われない。


 ツバキは小刀を見つめ、まるでそこに母の手が重なるように目を細めた。

 その瞬間だけ、ツバキの顔が柔らかくなる。

 すぐに硬く戻る。

 柔らかい顔は狙われる。柔らかい顔は名を呼ばれる。


 ユキトは考えをまとめた。

 逃げ続けるだけでは、三人とも消える。

 追手はしつこい。影はしつこい。しつこいのは職務だからだ。職務は終わるまで続く。

 終わらせるには、職務の理由を壊すしかない。


 理由を壊す。

 そのためには、証拠が要る。

 名を戻しても人が死なない形。名を戻しても国が崩れない形。あるいは、崩れるべきものを崩す形。

 どちらにせよ、真実が必要だ。


 ユキトは言った。

「取りに行く」

 短い宣言。


 ツバキが聞く。

「どこへ」

 言葉が少しだけ早い。焦りが混ざる。


「王都には戻らない」

 ユキトは先に否定した。

 王都へ戻れば関所がある。監視がある。影が増える。名が問われる。

「郊外だ」

 郊外。古い城跡。旧王家の記録庫の入口があると言われる場所。


 ツバキは目を伏せた。

 郊外の古城跡。そんな話を知っている顔だ。

 王家の子なら、裏の物語を聞かされることがある。聞かされても、口にしてはいけない。


 ハルが言った。

「行けば、母ちゃんの名もある」

 期待が声に出てしまう。

 出た声を、ハル自身が怖がった。口を押さえる。遅い。言葉はもう出た。

 だが洞穴の中ではない。今は岩陰だ。風が音を散らす。まだ大丈夫だと、ハルは自分に言い聞かせるように肩をすくめた。


 ユキトはハルを見た。

「名は」

 言いかけて止めた。

 名の話をすると、喉が痛む。

 代わりに言った。

「証拠はあるかもしれない」

 かもしれない。断言できない。断言すれば嘘になる。

 嘘は秩序の武器だ。秩序の武器を使いたくない。


 ツバキが小刀を握り直し、言った。

「逃げ続けても」

 そこで言葉が切れる。

 喉が閉じる。ツバキは一度唇を噛む。血は出ない。だが色が薄くなる。

「消される」

 最後は出せた。

 消される、という言葉は、名を奪われた者の現実だ。


 ユキトは頷いた。

「だから攻める」

 攻める。戦場の言葉だ。だが今の攻めは斬る攻めではない。

 取りに行く攻めだ。声にする攻めだ。


 ユキトは雪を見た。

 白が続く。白の下に道がある。道の下に人がいる。人の下に名がある。

 名は紙の上にあると言った。だが紙が燃えても、名は残る。残るのは記憶だ。記憶は証言になる。

 証言は声になる。


 声にするには、記録が要る。

 記録は、隠し文庫にある。


 ユキトは立ち上がった。

「手順を決める」

 短く言う。

 短く言っても、頭の中では手順が走っている。走っている手順は、過去の経験の手順だ。

 影の手順。回収の手順。潜入の手順。

 自分が嫌いな手順。

 だが今は、その手順で守るしかない。


 目的地は、古城跡だった。

 王都から半日ほど離れた丘にある。昔の王が戦の時に使った防衛線の一部。今は廃墟になっている。雪の中では石壁が半分埋もれ、獣の巣になっていると聞く。

 そこに地下への入口がある。入口は一つではない。表の入口は埋められている。裏の入口が残っている。

 裏の入口は、王家の紋を持つ鍵でしか開かない。

 ツバキの小刀は、その鍵だ。


 だが鍵だけでは足りない。

 ユキトの頭の中で、金具の刻みが意味を持つ。

 雪輪の刻み。二重。中心に点。これはただの飾りではない。合図だ。仕掛けだ。

 扉は鍵で開き、言葉で動く。

 そういう話を、ユキトは聞いたことがある。


 王家の隠し文庫は、裏切りに備えている。

 鍵を奪われても開かないように。名を奪われても守れるように。

 矛盾のようで、矛盾ではない。王家の守りは、いつも矛盾を抱える。


 ユキトは三人に説明した。

 説明は長くしない。断片で積む。


「昼は動かない」

「夜に動く」

「雪が強い時間を使う」

「音が消える」


 ツバキが頷く。

 ハルは耳を澄ます。真剣だ。


 ユキトは続ける。

「関所を避ける」

「炭焼き道を使う」

「川を渡る」

「橋は使わない」

 橋は監視される。橋は秩序の道だ。秩序の道は名を問う。


 ハルが聞く。

「川、寒い」

 それだけ言う。子どもらしい現実。

 ユキトは頷いた。

「寒い」

 否定しない。

「だが足跡が消える」

 雪の上の足跡は残る。水の中の足跡は消える。冷たさと引き換えに、存在が薄くなる。


 ツバキが言った。

「番兵は」

 番兵。古城跡にも番兵がいるのか。いる。いるから隠されているのだ。


 ユキトは言う。

「常駐ではない」

「巡回だ」

「交代がある」

「鐘が鳴る」

 古城跡の近くの村に、古い鐘楼がある。巡回の合図に使われる。鐘は雪の中でも響く。音が遠くまで届く。

 鐘が鳴る時は、人が動く時だ。人が動く時は、視線が外れる時でもある。


 ツバキは小刀を見つめたまま言った。

「雪で、音が消える時間帯」

 その言葉が、確信を含んでいる。王家の者は、雪を味方につける話を聞かされるのかもしれない。

 ユキトは頷いた。


「風が強い夜」

「雪が舞う夜」

「その時に入る」


 計画はまとまった。

 まとまるほど、怖い。計画があると、失敗が具体になる。具体になると、死が近くなる。


 だが計画がないと、もっと死ぬ。


 移動が始まった。

 昼は岩陰や林で身を潜め、夜に歩いた。雪は降ったり止んだりした。止むと空が澄み、星が増える。星が増えると視界が良くなる。視界が良いと、見られやすくなる。

 ユキトは星の夜を嫌った。


 二日目の夜、遠くに石壁の影が見えた。

 古城跡だ。

 雪の中に、折れた歯のような石壁が並ぶ。壁の上部は崩れ、ところどころ穴が開いている。穴から黒い空が覗く。空の黒さが、壁の白さを際立たせる。

 壁の内側は暗い。暗いのに、時々小さな光が揺れる。巡回の火だ。


 ユキトは三人を止めた。

「ここからは静かに」

 静かに、と言うのが滑稽だ。雪の中では言葉も音になる。

 ユキトは手で合図した。


 ハルに役割を与える必要がある。

 子どもは足が速い。小さい。雪に沈みにくい。見張りに向いている。

 それでも危険だ。危険なのに、役割がないとハルは勝手に動く。勝手に動けば見つかる。

 ならば役割を与え、動きを枠に入れる。枠は秩序だ。だが今は、生きるための秩序だ。


 ユキトはハルに近づき、耳元で言った。

「見張り」

 短い言葉。

「火が動いたら合図」

「合図は三回」

 石を二つ打つ。金属は使わない。音が響きすぎる。石は雪に吸われる。

「逃げない」

 最後に言う。

 逃げるな、と言うのではない。逃げない、という宣言にする。宣言は自分の中に残る。


 ハルは頷いた。

 頷きが硬い。硬い頷きは誓いになる。

 ハルの目に、少しだけ光が戻った。役割を持つと、人は存在できる。存在ができると、名がなくても立てる。

 その立ち方を、ハルは覚え始めている。


 ツバキとユキトは壁の影へ進んだ。

 足跡が残る。残るが、壁の影に隠れる。壁の影は雪に黒く落ちる。黒は目立つようで、夜には溶ける。

 ユキトは溶ける黒の中を歩く。


 壁の内側に、石段が半分埋もれている場所があった。

 石段の脇に、古い扉の枠が見える。扉はない。枠だけだ。枠の内側は土で埋まっている。表の入口だ。

 ユキトはそこを素通りした。表は囮だ。表は監視がつく。裏が本命だ。


 壁の外側を回り、崩れた塔の影に入る。

 塔の足元に、地面が不自然に凹んでいる。凹みの縁に、石が規則的に並んでいる。雪が積もっても、その規則は消えない。

 規則は人が作る。人が作った規則は、目的がある。


 ユキトは膝をつき、雪を払った。

 石の表面が出る。冷たい。指が痛む。痛みで判断が鈍らないよう、ユキトは息を整える。

 石の中央に、小さな切れ込みがある。鍵穴だ。鍵穴が小さい。小刀の柄がぴたりと合いそうな形だ。


 ツバキが小刀を差し出した。

 差し出す手が震える。震えは寒さではない。恐怖と記憶だ。

 母が渡した鍵。母が渡したということは、母も知っていた。娘がここへ来る未来を。

 来る未来は、良い未来ではない。


 ユキトは小刀を受け取ろうとして、止めた。

 自分が受け取ると、何かが壊れる気がした。ツバキが持つべき鍵だ。鍵は名を持つ者のものだ。名を奪われた者でも、元は名を持つ者だ。

 ツバキの手が鍵を握ることで、ツバキの存在が立つ。

 立つのは危険だ。だが立たなければ、何も始まらない。


 ユキトは言った。

「お前が」

 短い言葉。

 ツバキは頷き、小刀を鍵穴へ差し込んだ。


 金属が石に触れる音がした。

 小さな音。雪が吸う。だがユキトの耳には大きい。

 ツバキの手首が回る。回るのに、重い。扉が錆びているのか。あるいは仕掛けが抵抗しているのか。


 ツバキが歯を噛み、力を入れた。

 その瞬間、小刀の柄の文様が月光を受けて光った。

 雪輪の刻みが浮かび上がる。


 かちり、と音がした。

 石が少し沈む。沈んだ部分の縁が開き、黒い隙間が現れる。

 冷気が吹き上がった。地下の冷えだ。雪の冷えより、さらに古い冷え。時間の冷え。


 ツバキが息を吐いた。

 吐いた息が白く、すぐ消える。消えるのが怖いのに、今は消えるのがありがたい。

 ありがたい、と思ってしまう自分が怖い。


 石の板がゆっくりずれていく。

 下に階段が現れた。石段。湿っている。雪が上から落ち、すぐ溶けずに残る。地下の温度が低い証拠だ。


 ユキトは階段の下を見た。

 暗い。だが真っ暗ではない。壁に埋め込まれた古い油皿がある。油はない。だが煤の跡が残っている。

 人が使っていた跡だ。最近ではない。だが消えていない。

 消えていない跡があると、希望が生まれる。希望は危険だ。だが今は必要だ。


 ツバキが一歩踏み出そうとして止まった。

 喉が動く。何かを言おうとしている。

 ユキトはその瞬間、嫌な予感を覚えた。


 扉は鍵だけでは開かない。

 ここから先は、名が要る。


 ツバキの唇が開いた。

 開いたのに、音が出ない。

 喉が塞がる。塞がった喉は、息さえ拒む。ツバキの胸が小さく上下する。息が浅い。浅い息は恐怖のサインだ。

 ツバキは自分の喉を押さえた。

 押さえた指が白い。白い指が、喉の現実を示している。


 ユキトは言った。

「仕掛けだ」

 短く。

「名を」

 そこで言葉を切る。名という言葉が喉を刺す。


 ツバキは目を閉じ、唇を動かした。

 動かしているのに音が出ない。声にならない。

 名を奪われた者の喉が、名を拒む。身体がテーマを演じている。

 テーマは物語の外ではなく、身体の中にある。


 ツバキの肩が震え、目尻が赤くなる。

 泣かない。泣かない代わりに、息が詰まる。詰まった息が咳になりかける。咳は音になる。音は見つかる。

 ツバキは咳を飲み込んだ。

 飲み込んだ咳が、胸の奥で痛みに変わる。


 ユキトはツバキの横顔を見て、胸の奥が硬くなった。

 正義ではない。怒りでもない。

 見過ごせない痛みだ。


 ユキトは階段の縁に手を置き、目を閉じた。

 ツバキの名を知らない。完全な名は知らない。知ってはいけない気がする。

 だが、欠片ならある。


 戸籍板の束。

 焦げた板。

 欠けた文字。

 ツバキが寺で見つけた、残った一部。

 それと、ツバキの母の言い方。困ったらこれを。母が渡すものには、呼び名がある。呼び名は名の欠片になる。


 ユキトはツバキの手元を見る。

 小刀の柄の雪輪。

 雪輪の中心に点。点は音の印か。あるいは一文字目の印か。

 王家の仕掛けは、完全な名だけを要求しない。完全な名だけを要求すれば、王家の者が名を奪われた時に開けなくなる。

 ならば、欠けた名でも動く仕掛けがある。

 欠けた名でも未来へ進める。そういう仕掛けだ。


 ユキトは口を開いた。

 喉が痛む。針が刺さる。刺さった針を無理に動かすと血が出そうになる。

 それでも言う。


「つ」

 音が出た。

 ツバキが目を開き、ユキトを見る。


 ユキトは続ける。

「ば」

 次の音。

 ツバキの指が小刀を握り直す。手の震えが少し減る。音が出ると、身体が動く。


 ユキトは最後を言わない。

 ツバキ、という呼び名は今の仮の名だ。だが仮の名でも、呼ばれ続ければ名になる。

 名になれば、扉は動くかもしれない。

 それでも、仮の名を言うことが怖い。言えば固定される。固定されれば狙われる。


 ユキトは別の欠片を繋ぐ。

 寺の床下にあった板に残った字。

 完全ではないが、音は拾える。


「き」

 小さな音。

 ツバキの目が揺れた。

 その音に、記憶が反応したのだろう。母の声が蘇ったのかもしれない。


 ユキトは最後に、息を吐き、もう一つ言った。

「……ひ」

 ひ、という音は確信ではない。推測だ。だが推測でも、扉が反応する可能性がある。

 欠けた名でも動くなら、音の列が鍵になる。


 扉が、わずかに鳴った。

 石の奥で、古い歯車が動く音がした。金属が擦れる音。錆びた音。だが確かに動く音。

 音が動いた瞬間、ツバキの喉が一度開いた。息が深く入る。深い息は涙を連れてくる。だがツバキは泣かない。

 泣かずに、ただ小さく頷いた。


 石段の下で、風が流れた。

 地下の空気が動く。動いた空気が、古い紙の匂いを運んできた。

 紙と墨。湿った木。古い布。火の煤。人が触れた匂い。

 隠し文庫の匂いだ。


 ユキトは言った。

「開いた」

 短い言葉。

 短い言葉の中に、重い現実がある。


 ハルの合図が遠くで三回鳴った。

 石と石の音。乾いた音。一定の間隔。見張りの役割を守っている音。

 火が動いた。巡回が近づく。あるいは影が来た。

 時間がない。


 ユキトはツバキの背を押し、先に降ろした。

 ツバキは躊躇せず降りた。躊躇があると足が滑る。滑れば音が出る。音が出れば見つかる。

 ツバキは生きるための動きを覚え始めている。


 次にハルが降りる。

 戸籍板はユキトが受け取り、先に下へ降ろした。板が石に当たる音を出さないよう、腕で抱えて滑らせる。

 重い。腕が痛む。痛みは現実だ。現実は嘘をつかない。


 三人が降りた瞬間、上の石板がゆっくり戻り始めた。

 戻る音が小さい。小さいのに恐ろしい。閉じる音は、墓の音に似ている。

 墓は名の終わりだ。名が終わる場所だ。

 だがここは、名を取り戻すための入口だ。


 暗闇の中で、ユキトは手探りで油皿を見つけた。

 火をつけるか迷う。火は目になる。だが暗闇は足を奪う。足を奪えば音が出る。音が出れば上に響く。

 ユキトは小さな火を選んだ。

 火を出す時は一瞬。すぐ隠す。

 火を使う手順も、影の手順だ。


 火がついた。

 薄い光が壁を照らす。壁の石は湿っている。水が染み出している。指を当てると冷たく、ぬるりとする。

 床は石だが、ところどころ木の板が敷かれている。板は黒ずんでいる。足音を吸うためだろう。

 吸う板。音を奪う板。王家の仕掛けは、音にも敏感だ。


 廊下が続く。

 左右に小さな нишがあり、そこに壺や箱が置かれている。箱には紐がかかり、朱印が押されているものもある。

 朱印は、権力の爪痕だ。触れれば痛い。


 ツバキは箱を見て、息を飲んだ。

 音は出さない。だが胸の動きで分かる。

 ここは自分の家の裏側だ。家の裏側は、表より怖い。


 ハルが小声で言った。

「ここ、母ちゃんの名」

 言いかけて止めた。

 名という言葉を言うと、また喉が固くなる。ハルもその怖さを覚え始めている。


 ユキトは言った。

「探すな」

 短い禁止。

「今は進む」

 目的がぶれると死ぬ。文庫は広い。迷えば終わる。


 廊下の先に扉があった。

 木の扉。古い。だが鍵穴は新しい金具で補強されている。補強は最近だ。最近まで使われている証拠。

 ユキトの胃が冷えた。

 最近まで使われているなら、最近まで誰かがここへ来ている。誰かは、影かもしれない。宰相かもしれない。王家かもしれない。

 誰が来ていても怖い。


 ツバキが小刀を持ち、鍵穴へ差し込む。

 今度は喉が塞がらない。塞がらないのは、さっき動いたからだ。身体は一度動くと、次は少しだけ動きやすい。

 動きやすくなるのが、恐ろしい。慣れは、秩序への従順に似ている。


 扉が開く。

 ぎい、と音がした。

 音が大きい。ユキトは舌打ちしそうになり、飲み込んだ。飲み込むと喉が痛い。痛いのに飲み込む。

 感情を出すと音になる。音は危険だ。


 扉の向こうは広い部屋だった。

 棚が並ぶ。棚は木。木は湿気で膨らみ、色が濃い。棚の上に巻物。束ねた紙。板に挟まれた文書。

 紙の匂いが濃い。墨の匂いが濃い。古い布の匂いが混じる。

 記録の匂いだ。


 ユキトは目を細めた。

 目の奥が痛む。火の光で細かい文字が揺れる。文字は人の声の代わりだ。声の代わりが、こんなに積まれている。

 声が積まれた場所は、怖い。声は噂になる。噂は名になる。名は血を呼ぶ。


 それでも来た。

 来たからには見るしかない。


 ユキトは棚の端から探すのではなく、中央の机へ向かった。

 机の上に、朱印が押された封がある。封が新しい。紙が新しい。最近扱われた封だ。

 封の朱は暗い。宰相府の朱とは違う。王家の朱に近い。いや、それよりも影の朱だ。

 影の朱印は、色が違う。血に似ている。血を見せないための朱なのに、血に似ている。


 ツバキが息を詰めた。

 その朱印に見覚えがあるのだろう。王家の裏の朱印。


 ハルが棚を見回し、つい一歩踏み出した。

 ユキトは手で止めた。

 ハルの胸が上下する。止められると、泣きたい顔になる。だが泣かない。泣くと音が出る。

 ハルも生きる作法を覚え始めている。


 ユキトは机の封を指で押さえ、布越しに確かめた。

 封の上に、薄い粉が残っている。灰だ。紙を燃やした灰。戸籍を燃やした灰と同じ匂いがする。

 匂いは記憶を連れてくる。戦場の火。命令書の火。燃える紙の匂い。


 ユキトの喉が詰まった。

 詰まった喉の奥に、針が刺さり直す。


 ツバキが小声で言った。

「それ、何」

 問いが短い。短い問いは耐えられる。


 ユキトは封を開けた。

 破る音が小さい。紙は良い紙だ。良い紙ほど破る音が小さい。良い紙ほど残酷だ。


 中から出てきたのは、命令書の写しだった。

 写し。つまり原本は別にある。だが写しでも十分だ。朱印が押されている。署名がある。日付がある。

 日付が古い。戦の年だ。


 ユキトは紙を広げた。

 墨の線が濃い。筆の癖が硬い。軍の筆だ。装飾がない。言葉が短い。命令だけが書いてある。

 命令書の言葉は短いほど怖い。短い言葉は、人を殺す。


 朱印が、そこにあった。

 王の影。

 影の朱印。雪輪の刻みと同じ中心点がある。点は、王の印だ。王の影の印だ。


 ユキトの指が紙の端を強く掴んだ。

 紙がしわになる。しわは証拠になる。証拠は必要だ。だが今は、しわがただの感情の漏れだ。

 漏れた感情は、喉の痛みになる。


 ツバキが朱印を見て、顔色を変えた。

 変えたのに声は出ない。声が出ないのは恐怖のせいではない。喉が学習している。出せば狙われると学んでいる。


 ハルが言った。

「それ、誰が」

 誰が、という問いは子どもでも分かる。命令書には、命令する者がいる。命令される者がいる。命令で人が死ぬ。


 ユキトは答えられなかった。

 答えられない理由は、紙に書いてあるからだ。

 命令を運んだ者の符号。受領の印。運搬者の印。

 影の中では、名ではなく符号で呼ばれる。符号は安全だ。符号は燃やせる。

 だがその符号が、ユキトの過去と一致している。


 同じ符号。

 同じ朱印。

 同じ筆跡。


 ユキトの膝が勝手に折れた。

 石の床に膝が当たり、冷たさが骨まで来る。痛い。痛いのに、痛みは遠い。

 遠い痛みより、胸の重さの方が近い。


 ユキトは紙を見つめたまま、息を吐いた。

 吐いた息が震える。震えは寒さではない。罪の震えだ。


「……俺が」

 声が出た。

 出た声が、自分の耳に痛い。声は名になる。名になれば回収される。

 それでも声が出た。出るしかなかった。


「俺が、これを運んだ」

 短い告白。

 短いのに、世界が歪む。


 ツバキの手から小刀が落ちそうになった。

 落ちない。ツバキは踏ん張る。踏ん張ると指が白くなる。

 ツバキの喉が動く。言葉が出かける。出ると壊れる。壊れると、二人の関係が決まる。

 決まるのが怖い。


 ハルがユキトを見る。

 子どもの目が揺れる。揺れの中に、裏切りの形が見える。裏切りと断罪は近い。近いから怖い。

 だがハルは叫ばない。叫ぶと泣くことになる。泣けば音が出る。音は危険だ。

 ハルは口を噛み、息を殺した。


 ツバキが、やっと言葉を出した。

「あなたが」

 短い問い。

 問いにすることで、断罪を避けている。


 ユキトは頷いた。

 頷く動きが重い。

「命令で」

 言い訳の形になるのが嫌で、言葉を切った。

 命令で、という言葉は免罪符に聞こえる。免罪符ではない。命令でも人は選べる。選んだのは自分だ。


 ツバキは小刀を握りしめ、言った。

「じゃあ」

 そこで言葉が止まる。

 じゃあ、何だ。じゃああなたは敵か。じゃあ私はあなたを信じるのか。じゃあ母はあなたに消されたのか。

 答えが怖い。


 ユキトは目を閉じた。

 閉じると、雪の戦場が見える。命令書。朱印。血。消えた名。

 目を開けても、同じ朱印が目の前にある。

 逃げても消えない。


 ユキトは言った。

「俺は」

 そこで言葉が詰まる。

 俺は、という言葉の後に来る名が怖い。名を言えない誓約。名を言えば粛清される。

 誓約の痛みが喉に刺さる。


 ツバキはユキトの言葉を待たない。

 待たない代わりに、質問を引く。

 問いを引く勇気。

 ユキトが第5話で見た強さだ。


 ツバキは言った。

「今は」

 短い言葉。

「ここにあるものを、持って出る」

 それは命令ではない。合意だ。生きるための現実だ。


 ユキトは頷いた。

 頷くと、喉の針が少しだけ浅くなる気がした。許されたわけではない。だが今は断罪されない。

 断罪されない時間は、次の行動のための時間になる。


 ハルが小声で言った。

「母ちゃんの名、ここにある」

 断言ではない。願いだ。

 願いは危険だ。だが今はエンジンになる。


 ユキトは机の上の文書をまとめ、布で包んだ。

 封ごと持つ。朱印を残す。日付も残す。文字も残す。残すことが、声になる。

 声は武器だ。だが今は、奪われた者の武器だ。


 その時、上の方で、石が擦れる音がした。

 入口の石板が動く音。

 誰かが鍵を使ったのか。あるいは力ずくで開けたのか。どちらでも、時間がない。


 ハルが青ざめ、口を押さえる。

 ツバキの手がハルの肩に触れる。触れるだけ。言葉はない。言葉は音だ。

 触れる手は現実だ。現実は音を立てない。


 ユキトは火を消した。

 暗闇が戻る。暗闇は怖い。だが見られにくい。

 足音を殺し、廊下へ出る。戻る道は同じ。迷えば死ぬ。だから迷わない。

 影の訓練が、今は生きる。


 廊下の途中で、遠くから声がした。

 低い声。礼儀のある声。

 シグレの声ではない。別の影の声だ。指示を出している。

 影は複数で来ている。包囲の手順だ。


 ユキトはツバキとハルを壁の нишへ押し込み、自分が前へ出た。

 剣戟を長くしない。長くすれば囲まれる。囲まれれば確保される。

 確保されたら、今手に入れた紙が奪われる。


 紙だけは奪われたくない。

 紙は声だ。声は生きる。


 暗闇の向こうから、火が揺れた。

 松明だ。地下に松明を持ち込むのは愚かに見える。だが影は愚かではない。松明の光で壁の印を読むのだろう。

 印は人を導く。導きは秩序だ。


 ユキトは刀の欠けを感じながら、刃を構えた。

 刃は折れかけている。折れるのは時間の問題だ。

 折れたら終わりではない。折れたら次が始まる。

 そう言い聞かせようとして、喉が痛む。


 足音が近づく。

 ユキトは一歩踏み込み、影の膝を狙った。

 短く。正確に。止めるだけ。

 影が倒れる音が、石に当たって鈍く響いた。

 鈍い音は嫌いだ。鈍い音は終わりに似ている。


 だが終わりではない。

 今は始まりだ。


 ユキトはツバキに手で合図した。

 走れ。今だ。

 ツバキはハルの手を掴み、暗闇を抜ける。足音を立てないよう、板の上だけを選んで踏む。ツバキは学んでいる。

 学ぶ速度が怖い。だが誇らしい。誇りは危険だ。けれど今は必要だ。


 入口の石段が見えた。

 上から冷気が落ちてくる。雪の匂いがする。外の匂いは自由の匂いではない。逃走の匂いだ。

 それでも外へ出るしかない。


 石段の途中で、ユキトの刀が鳴いた。

 刃が何かに当たった。敵の刃か。石か。暗闇では分からない。

 分からないまま、欠けが広がる感覚が手のひらに走る。

 もう少しで折れる。

 折れるなら、折れる前に紙を外へ出す。


 ユキトは最後の力で影を止め、石段を駆け上がった。

 上の石板は半分開いている。そこから雪の光が差し込む。白い光が目に刺さる。

 白は怖い。白は何もない顔をする。何もない顔をしながら、足跡を残す。


 三人は外へ出た。

 外気が頬を切る。冷たい。だが肺が広がる。地下の湿気が抜ける。

 抜けた瞬間、息が白くなる。白い息は目印だ。だが今は風が強い。息が散る。


 ハルが合図を三回鳴らした場所に、影が見えた。

 巡回の火が近い。影の火かもしれない。どちらでも危険だ。

 ユキトは石板を戻し始める。重い。だが戻す。戻せば時間が稼げる。


 ツバキが手伝った。

 二人の手が石に当たる。冷たい。冷たいのに、同じ石を押すことで、関係ができる。

 関係は名に似ている。名は危険だ。だが関係がないと、人は倒れる。


 石板が閉じた。

 閉じた瞬間、地下の匂いが切れた。

 切れた匂いの向こうに、紙の束が布包みの中で重く存在している。

 存在の重さが、今は頼もしい。


 ユキトは言った。

「戻った」

 短い言葉。

 戻ったのは地下から地上へ、ではない。

 逃避行から攻勢へ、だ。


 ツバキは小刀を握り、布包みを見る。

 その目の中に、恐怖と決意が混じっている。

 決意はまだ名になっていない。名になっていない決意は、誰にも奪えない。


 ハルが布包みに触れた。

 触れる指が震える。震えは寒さではない。希望と怖さが混ざった震えだ。

「母ちゃんの名」

 ハルが言いかけ、言葉を飲み込んだ。

 飲み込んだまま、頷いた。

 頷きは、声の代わりになる。


 遠くで、鐘が鳴った。

 巡回の交代だ。鐘の音は雪の中を滑り、古城跡の石に反響する。

 鐘は秩序の音だ。だが今は、抜け道の合図になる。


 ユキトは布包みを背負った。

 肩の傷が痛む。痛みで顔が歪む。歪みを見せないように唇を噛む。噛むと血の味がする。血の味は生きている味だ。


 ツバキがユキトを見て、短く言った。

「行こう」

 名を言わない。責めもしない。

 今は行く。

 行くことが、声になる。


 ユキトは頷いた。

 胸の奥で、何かが折れそうだった。

 折れるのは刀だけでいい。心まで折れたら、影に戻る。

 影に戻らないために、前へ進む。


 三人は古城跡を離れた。

 雪がまた降り始める。降る雪は足跡を薄くする。足跡を消すのは溶ける雪だけではない。新しい雪も消す。

 白は消す色だ。だが白は、書き直す色でもある。


 ユキトは背中の布包みの重さを確かめながら思った。

 これで、逃げるだけではなくなった。

 真実を取りに行った。

 真実は刃ではない。紙だ。朱印だ。文字だ。

 そして、いつか声になる。


 背後の闇の中に、影がいる気配がした。

 追ってくる。追うのが仕事だからだ。

 だが今の追手は、ただの追手ではない。

 証拠を奪う者だ。声を封じる者だ。


 ユキトは喉の痛みを感じた。

 名を呼ぶな、と言った自分の声が、まだ喉に残っている。

 残っている声は、誓約の鎖でもあり、今は踏みとどまるための杭でもある。


 雪が降り続ける。

 白が世界を塗りつぶす。

 その白の下で、紙の文字だけが、消えずに残るような気がした。


 ユキトは一度だけ、胸の奥で言った。

 声にはしない。

 声にすると名になるからだ。


 終わらせない。

 ここから、取り返す。

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名を捨てた剣士と、名を奪われた姫 林凍 @okitashizuka_

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