第5話 名を呼ぶな
雪の上に、血が落ちた。
赤は小さく、すぐに白に滲んで薄くなる。雪は何もなかった顔をする。けれど足元だけは嘘をつかない。踏めば滑る。匂いは残る。冷えた鉄の匂いが、息の奥に刺さる。
ユキトは刀を下げたまま動けずにいた。
肩の傷が熱い。熱いのに周囲は冷たい。熱と冷えがぶつかり、身体の芯が揺れる。自分の名を呼ばれた瞬間の揺れが、まだ足首に残っている。
雪の上で、敵の声が反響する。
名を捨てたか、ユキト。
言葉は短い。短いのに、骨まで届く。
後退しながら姿勢を立て直す敵の男は、刃を下げない。下げないのに、斬り込んでこない。距離を保つ。囲い直す。逃げ道を削る。
殺すためではない。
回収のためだ。
ユキトは息を吐こうとして、喉が詰まった。
吐けば白い息が出る。白い息は目印になる。目印になるのは今に始まったことではない。だが今日だけは、息の白さが自分の存在そのものを告げるようで、嫌だった。
少し離れたところで、ツバキが立ち尽くしていた。
外套の影の中で、唇がわずかに開いている。声にしない。声にすると壊れる。そういう顔だ。
その横に、ハルの小さな影がある。ハルは拳を握っている。握った拳が震えている。寒さではない。怖さだ。怖いのに、逃げ切れていない。
ユキトは目線だけで二人に行けと伝えた。
行け、と口にすると追手が気づく。追手は気づかないふりをして気づく。気づいたふりをして気づかない。影はそういう連中だ。
ツバキが一歩だけ動いた。
雪が鳴る。小さな音。
その小さな音に、ユキトの背筋が反射する。音が増えるのが怖い。音が増えれば、名が増える。
ツバキがユキトを見て、小さく言った。
「今の……あなたの名?」
ユキトの指が強く縮んだ。
刀の柄を握る指が白くなる。関節が痛むほど力が入る。自分の意志ではない。身体が先に拒絶している。
「違う」
ユキトは短く言った。
短く言うと、刺さる。刺さるほど、戻れない。
ツバキは言葉を続けようとした。
その瞬間、ユキトの喉の奥で何かが跳ねた。
怒鳴りそうになる。怒鳴れば楽になる。怒鳴れば胸の針が抜ける気がする。抜けた気がして、あとで倍刺さる。
ユキトは歯を噛み、声を飲み込んだ。
飲み込んだ声は、喉の奥で固まり、痛みに変わる。
「名を呼ぶな」
ユキトはそれだけ言った。
命令の形。拒絶の形。
だがその言葉の底に、恐怖がある。ツバキはそれを見た。見たから、ツバキはそれ以上を言わない。
問いを引く勇気が、そこで生まれた。
敵の男が、雪を踏みしめて前に出る。
礼儀正しい動きだ。視線が真っ直ぐだ。悪意がない。悪意がないから恐ろしい。
悪意がある者は、行動の理由が読みやすい。悪意のない者は、理念で動く。理念は止めにくい。
「戻れ」
男が言った。
戻れ、は降伏の言葉だ。優しく聞こえる。優しい言葉ほど残酷だ。
周囲の黒装束が輪を狭める。
雪の上に、足跡が増える。足跡が増えるたびに、ユキトの胃が冷える。足跡は記録だ。記録は戸籍だ。戸籍は燃える。燃えるなら、ここで終わる。
ユキトは刀を上げた。
刃の欠けが目に入る。小さな欠け。さっきより広がっている気がする。刃は嘘をつかない。使えば欠ける。欠ければ折れる。
敵の男が斬り込んでくる。
速い。だが致命の角度ではない。肩も首も狙わない。腕。足。動きを止める場所。
確保命令だ。
ユキトは受けずにずらした。
ずらすだけ。刃を合わせない。刃を合わせると欠けが広がる。欠けが広がると折れる。折れれば、終わる。
終わりたくない。終わりたくない理由が、正義ではないのが嫌だった。
黒装束の一人が横から入る。
ユキトは足を引き、膝を斬った。深く斬らない。腱だけ断つ。倒れる速度が増す。倒れた影は、雪に沈む。
動きを止めただけのはずなのに、血が出る。血はやっぱり残る。
敵の男が言った。
「殺すな」
味方に言う声だ。
殺すな、という命令が出る。回収のための命令。殺すのは簡単だ。簡単な仕事は、影の仕事ではない。
ユキトはその言葉に、胸の奥がひやりとした。
殺すな、と言える者がいる。秩序の名のもとに、人を生かして回収する者がいる。
その秩序が正しいのか。
正しいわけがない。
だが、正しさの形が一つではないことも知っている。
戦場で、ユキトはそれを学んだ。
刃が、またユキトの刀に触れた。
触れた瞬間、金属が鳴く。嫌な音。短い音。だが骨まで響く音。
欠けが広がる感覚が、手のひらに伝わった。
ユキトは歯を噛んだ。
戦いを長くしない。
長くすれば囲まれる。囲まれれば確保される。確保されれば、名が戻る。名が戻れば、人が死ぬ。
だから、逃げる。
ユキトは周囲の斜面を見た。
雪が厚い。風下側に溜まっている。層が重い。上の枝が雪を支えている。支えが折れれば、落ちる。
炭焼き道を知っている者なら分かる。雪は地形の上にもう一つの地形を作る。雪の地形は、触ると崩れる。
ユキトは一歩踏み込んだ。
わざと。深く。斜面の端に。
雪が沈む。沈んだ瞬間、層がずれる音がした。耳が拾う。小さな裂け目の音。紙が裂ける音に似ている。
敵の男が眉を動かした。
「やめろ」
止める声。理念の声。秩序を守る声。
雪崩は秩序を壊す。壊れるのは人だけではない。証拠も流れる。回収ができなくなる。
ユキトはもう一度踏んだ。
今度は斜面の根元を蹴る。雪が割れる。層が剥がれる。重い白が、音を立てずに動き始める。
次の瞬間、世界が白くなった。
雪が落ちる。
落ちる雪は、降る雪とは違う。降る雪は軽い。落ちる雪は重い。重い雪は音が少ない。音が少ないから怖い。
白い壁が滑り、影たちを飲み込んでいく。足が取られる。姿勢が崩れる。剣筋が乱れる。
乱れた瞬間、秩序が崩れる。
ユキトはツバキとハルの方へ走った。
「行け」
言葉は短い。今度は命令ではなく、選択肢のない現実だ。
ツバキはハルの背を押し、二人で雪の中を走る。
足が沈む。転びそうになる。ハルが小さく呻く。ツバキが腕を掴んで立て直す。言葉がない。手だけ。手は嘘をつかない。
背後で、雪崩が影を削り続ける。
だが、影は消えない。影はしぶとい。雪に飲まれても生き残る者がいる。生き残る者ほど、回収の執念が強い。
ユキトは山道を外れ、岩の影に入った。
そこに黒い裂け目がある。獣の穴のような洞穴。炭焼きの者が雨宿りに使う穴。入口は狭い。中は広い。奥へ入れば風が弱い。
三人は洞穴に転がり込んだ。
雪が外套から落ちる。床の石に当たり、ぱらぱらと小さな音を立てる。音が痛い。けれど洞穴の中では、外の足音が薄くなる。
薄くなるだけだ。消えない。
ユキトは入口を確認し、息を整えた。
整えようとして、肩の傷が痛む。痛みで息が浅くなる。浅い息は焦りを呼ぶ。焦りは判断を鈍らせる。
鈍らせたくない。
ツバキがユキトの肩を見た。
外套が裂け、血が滲んでいる。血は黒くなり始めている。寒さで固まる血の色だ。
ツバキは外套の内側から布を出した。
包帯。寺で拾ったものだろう。古い布。だが清潔に畳まれている。僧の手が整えた布の畳み方。
ツバキが近づく。
ユキトは反射的に手を上げた。拒む動き。触れられたくない動き。触れられると、名が近づく気がする。
「触るな」
ユキトの声が強くなる。
強くなると喉が痛む。針が刺さる。刺さった針が、また声を飲み込ませる。
ツバキは止まらなかった。
止まらない歩幅で、ユキトの前に膝をついた。雪の冷えが洞穴にも入り、ツバキの膝が震える。震えるのに、手は震えない。
震えない手で、ツバキは布を広げた。
「名がなくても」
ツバキが言った。
声は小さい。けれど硬い。
「痛いのは同じ」
その言葉は、優しさではない。
現実だ。
名は記号。身体は現実。現実は、秩序の理屈より先にある。
ユキトは息を止めた。
止めた息が喉に刺さる。刺さるのに、止めてしまう。身体が勝手に防御する。
ツバキはユキトの手を取った。
手袋越しだ。けれど温度が伝わる。冷えた指同士の温度。互いに冷えているから、温もりは薄い。薄いのに、確かに人の手だ。
ツバキは包帯を巻いた。
巻き方が丁寧だ。痛みを増やさない巻き方。過去に誰かを看たことがある手だ。家庭の手だ。
ユキトは、その丁寧さが怖い。丁寧さは名に似ている。名は丁寧に管理される。丁寧に奪われる。
ツバキは最後に布を結び、結び目を押さえた。
押さえた指先が少しだけ震える。
震えは寒さかもしれない。けれど寒さだけではない。触れている現実が、ツバキの中の何かを揺らしている。
ユキトは何も言えなかった。
感謝を言えば、関係が生まれる。関係が生まれれば名が近づく。名が近づけば、終わる。
終わりが怖いから、言えない。
言えない自分が嫌で、さらに言えなくなる。
洞穴の奥で、ハルが戸籍板の束を引き寄せていた。
外套の内側から取り出し、膝の上に置く。板は重い。重い板を抱えて、ハルの肩が落ちる。落ちるのに、手を止めない。
止めなければ母の名に届く気がするのだろう。
ハルは板を一枚ずつめくった。
めくるたびに、木が擦れる音がする。洞穴の中では、その音が大きく聞こえる。大きく聞こえるほど、現実が濃くなる。
紙ではない。木だ。燃え残った木。燃やされた名の木。
「ない」
ハルが言った。
声がかすれる。
「ない」
もう一度言う。
言うたびに、胸の奥が削れる。
ハルの指が、朱印の欠けた部分をなぞった。
欠けたままの朱印。欠けたままの文字。母の名があるはずの場所が、欠けている。
欠けは、ただの欠損ではない。意志だ。誰かが削った欠けだ。
ハルの目が濡れた。
泣きたいのに、泣き方が分からない顔だ。子どもは泣けるはずなのに、泣けない。泣くと壊れるから泣けない。
大人の世界に早く連れてこられた目。
「母ちゃんは」
ハルが言った。
「最初からいなかったのか」
問いではない。自分を刺す言葉だ。
ツバキはハルの横へ行き、板の欠片を拾った。
小さな欠片。焦げた縁。墨の一部が残る。そこに一文字だけ残っている。何の字か分からない。分からないけれど、確かに文字だ。
「欠けてても」
ツバキが言った。
声は静かだ。静かだから強い。
「繋げられる」
欠片を指先で撫でる。ざらつきが指に残る。ざらつきは痛い。痛いのに、指は離さない。
ハルがツバキを見る。
泣きそうな目。泣きそうなのに、涙が落ちない目。
「どうやって」
ハルが言った。
ツバキは答えを急がない。
急いで答えると、希望が軽くなる。軽い希望はすぐ潰れる。潰れた希望は、次の希望を信じられなくする。
だからツバキは、欠片を握りしめて言った。
「集める」
短い答え。
「残ってるものを」
残ってるもの。
それは戸籍板だけではない。証言。噂。記憶。匂い。手触り。火の色。鐘の音。
全部が証拠になる。全部を集めれば、声になる。
ユキトはその会話を聞きながら、洞穴の入口を見た。
外は雪だ。雪の音がする。雪は落ち着いた音だ。だが落ち着いた音の下に、別の音が混ざっている気がする。
足音。
一定の間隔。
名のない足音。
ユキトは立ち上がった。
立ち上がると肩の傷が引きつれる。痛みが走る。痛みで一瞬だけ視界が狭くなる。
狭くなる視界の中で、外の暗さがさらに濃く見える。
入口の向こうに、赤が見えた。
火だ。
洞穴の外で火を焚く者がいる。雪の中で火を焚くのは危険だ。目印になる。普通はしない。
する者は、目印を恐れない。目印を支配できる者だ。
影の頭だ。
シグレ。
洞穴の入口に、男が立っていたわけではない。
立っていないのに、存在が分かる。
火の置き方。薪の組み方。煙の流し方。火鉢ではない、野の火の扱いに慣れた手。
そして、空気の静けさ。火があるのに静かだ。火があるのに、人の気配が薄い。
影は気配を薄くする。
洞穴の外から声がした。
低い。礼儀がある。怒りがない。
怒りのない声が、最も怖い。
「出てこい」
シグレの声。
ただの命令ではない。提案の形をしている。
ユキトは刀を握り直した。
欠けが広がっている。刃の線が歪む。歪みは心の歪みと似ている。似ているから見たくない。
ツバキがユキトの横に来た。
近い。近いのに触れない距離。触れない距離が、二人の関係を表している。名がない関係。だが体温のある関係。
ハルが戸籍板を抱え、息を殺す。
息を殺すのは上手い。生きるのが上手い子どもだ。上手いのが悲しい。
外の声が続く。
「殺しはしない」
シグレは言った。
「確保だ」
確保という言葉が冷たい。物の言葉だ。人の言葉ではない。
ユキトは声を返さない。
返せば声が手がかりになる。声は名を連れてくる。声は戸籍になる。
シグレは少し間を置いた。
間を置くのは、相手に考える時間を与えるためではない。相手の恐怖を育てるためだ。
育った恐怖は、降伏に近づく。
「名を戻せば」
シグレが言う。
「人は死ぬ」
短い断言。
「だが、名を戻さなければ、国は生きる」
理念。
秩序の言葉。
正義を口にしない。正義は争いを生む。秩序は争いを抑える、と信じている声だ。
ツバキの指が白くなる。
名を戻せば人が死ぬ。自分の名は、誰かの死につながっている。だから消された。だから回収される。
そういう構図が、ツバキの胸に沈む。
ハルの喉が鳴った。
母の名を戻したい。戻せば人が死ぬと言われる。戻したい気持ちが罪になる世界。
ハルは子どもなのに、もう大人の矛盾を背負わされている。
ユキトは、シグレの言葉の端に揺れた。
揺れたのが自分でも分かった。胸の奥が一瞬だけ緩む。緩んだ瞬間に、過去が入り込む。
戦場の命令書。朱印。雪。血。消した名。
名を消したのは、国を生かすためだと言われた。
国が生きるなら、少数の名は燃えてもいいと言われた。
その言葉を、ユキトは信じたことがある。
信じたから消した。
消したから今ここにいる。
シグレが言う。
「お前が知っているはずだ」
お前、という呼び方は名ではない。だが距離を詰める呼び方だ。刃のように距離を詰める。
「名は武器だ」
シグレは淡々と言った。
「武器を戻せば、また血が流れる」
ユキトの喉が痛んだ。
痛みが怒りに変わる寸前で止まる。
怒れば、シグレの思う通りだ。怒りは単純だ。単純な者は扱いやすい。影は扱いやすい者を好む。
ユキトは洞穴の冷たい壁に掌を当てた。
石の冷たさ。ざらつき。現実の手触り。
手触りがあると、頭が少しだけ落ち着く。
ツバキが小さく言った。
「国が生きるって」
言葉が震えないように抑えている声。
「誰の国」
問いは短い。短い問いほど、相手の理念を剥く。
外の火がぱちりと鳴った。
シグレはすぐには答えない。
答えない間が、彼の自信だ。揺れない。揺れないことが秩序だ。
「名を持つ者の国だ」
シグレが言った。
「名を守れる者の国だ」
守れる者。守れない者はどうなる。答えは言わない。言わなくても分かるからだ。
守れない者は燃える。戸籍と一緒に。
ツバキの肩が小さく震えた。
怒りではない。寒さでもない。言葉が刺さった震えだ。
刺さったのに、ツバキは叫ばない。叫べば秩序に負ける。叫ばなくても負けるかもしれない。だが叫ぶ負け方だけはしたくない。
ユキトはその横顔を見て、胸が痛んだ。
痛みは、正義から来ていない。
痛みは、見過ごせない傷から来ている。
だからユキトは、動くしかない。
ユキトはツバキに目で合図を送った。
洞穴の奥に、狭い裂け目がある。人が一人やっと通れる程度。炭焼き道の穴は、獣だけの道ではない。人も通るために掘られている。
ユキトは来るときにそれを見ていた。影の目より早く気づけるのは、生活の道を知っているからだ。
ツバキは頷いた。
ハルの肩を抱き、戸籍板の束を小さくまとめる。重い。だが捨てない。捨てれば僧の死が軽くなる。軽くしたくない。
ユキトは刀を握り、入口へ進んだ。
入口に近づくほど冷気が強くなる。外の火の温度と、雪の冷えが混ざって、空気が刺さる。
刺さる空気は、戦場の空気に似ている。
ユキトは洞穴の入口に立ち、外の暗さを見た。
火がある。火の向こうに、座っている影がいる。立っていない。座っている。余裕の姿勢。
薪の組み方が綺麗だ。火が安定している。煙が少ない。手慣れている。
影の頭は、火の扱いも上手い。
シグレが火の向こうからユキトを見た。
目が冷たい。冷たいのに、狂っていない。狂っていない目が、一番厄介だ。
「まだ抵抗するか」
シグレが言った。
問いの形。だが答えは一つしか許していない声。
ユキトは答えない。
代わりに、刀を少し持ち上げた。刃の欠けが火に照らされる。欠けは隠せない。欠けは贖罪みたいに見える。
ユキトは欠けを見せるのが嫌だった。けれど見せるしかない。現実は見せ場になる。
シグレが小さく言った。
「その刀も、もう終わる」
終わる、という言い方が淡々としている。人の終わりも、物の終わりも同じ言葉で言える者の声。
秩序の声だ。
ユキトの指がわずかに震えた。
震えは怒りではない。揺れだ。理念の言葉に揺れる自分への嫌悪だ。
嫌悪がある限り、まだ人だと思えた。
シグレが続ける。
「名を封じたのは、王の影の命令だろう」
その言葉で、ユキトの視界が一瞬だけ狭くなった。
王の影。
誓約の正体に触れられた。触れられた瞬間、喉の針が刺さり直す。呼吸が詰まる。肩の痛みが遠くなる。痛みより怖い。
シグレは笑わない。
笑わずに言う。
「同じ影同士だ」
同じ、という言葉が汚い。汚いのに正しい。正しいから汚い。
ユキトは一歩踏み出し、雪を蹴った。
蹴った雪が火に当たり、じゅっと音を立てる。小さな音。小さな音が、世界の緊張を切る。
次の瞬間、ユキトは斬り込んだ。
長くはしない。短く。正確に。
シグレの前にいる影を一人、膝で止める。次を肩で止める。致命ではない。確保させないための止め。
止めの剣だ。戦場で習った剣。習った剣が、今は逃げるために使われる。
シグレは立ち上がらない。
立ち上がらず、部下の動きを指先で変える。
声を荒げない。手で指示する。指示が通る。影の頭の格がある。
「後ろだ」
シグレが言った。
その声に従い、別の影が回り込む。
回り込みは、洞穴の奥を狙っている。ツバキとハルの逃げ道を読む動き。
ユキトは胸が冷えた。
読まれるのが早い。
秩序は賢い。秩序は人の行動の型を知っている。型を知っている者ほど、人を管理できる。
ユキトは刀を振り、影の回り込みを止める。
止めるだけで、刃がまた鳴く。欠けが増える感覚がある。増える欠けは、時間の欠けだ。残りが削れる。
それでも振る。
振らなければ、ツバキとハルが回収される。
洞穴の奥で、ツバキがハルを引き、裂け目へ入る。
雪の匂いが消え、土の匂いが濃くなる。湿った匂い。古い獣の匂い。生活の匂い。
ハルが戸籍板の束を抱え、苦しそうに息を押し殺す。
ユキトはその気配を背中で感じ、わずかに安心した。
安心は油断になる。油断は死ぬ。だから安心は一瞬だけで切る。
シグレが言った。
「名を戻せ」
火の前で、声が揺れない。
「戻せば終わる」
終わる、という言葉は甘い。甘い終わりを提示するのは、尋問の基本だ。
ユキトはその甘さに、ほんの少しだけ心が揺れた。
終わるなら楽だ。逃げ続ける苦しさが終わる。痛みが終わる。針が抜ける。
だが終わりの形が、回収の終わりだと分かっている。回収の終わりは、生きて終わるのではない。存在が終わる。
ユキトは言葉を吐き捨てるように言った。
「終わらない」
短い否定。
否定の言葉は、未来を開く。開いた未来は怖い。だが閉じた未来は確実に死ぬ。
シグレが初めて、眉を動かした。
怒りではない。興味だ。興味は危険だ。興味を持たれた獲物は、遊ばれる。
「ならば」
シグレが言った。
「お前の迷いを、もう一度見せてやる」
その言葉で、ユキトの背中が冷えた。
迷いを見せる。見せられる。過去を。
過去を握られている。
ユキトは踏み込み、シグレへ距離を詰めようとした。
だがシグレは前に出ない。出ずに、部下の影を一枚挟む。挟むことで距離が延びる。延びた距離が時間を奪う。
時間を奪われると、洞穴の奥へ追いつかれる。
ユキトは斬り、斬った反動で後ろへ跳ねた。
自分も洞穴へ入る必要がある。ここで留まれば囲まれる。囲まれれば確保される。
確保されるなら、雪崩より確実に終わる。
ユキトは刀を捨てない。
捨てれば走れる。走れば逃げ切れる可能性が上がる。だが刀を捨てると、次の戦いで守れない。守れないなら、結局回収される。
守るために、欠けた刀を持つしかない。
ユキトは洞穴へ飛び込み、裂け目へ向かった。
背後でシグレの声がした。
「逃げろ」
まるで許すような声。
許す声ほど怖い。逃げる方向を知っている声だ。
ユキトは裂け目に身体をねじ込んだ。
石が肩に当たり、傷が擦れる。痛みが走る。痛みで息が詰まる。だが息を吐く。吐かないと気絶する。
吐いた息が暗闇に吸われる。
狭い通路の先で、ツバキが待っていた。
ハルが戸籍板を抱えたまま、壁にもたれている。顔が白い。寒さではない。怖さと疲れだ。
ツバキがユキトを見て言った。
「大丈夫」
問いではない。確認でもない。言い聞かせる言葉だ。
大丈夫と言うことで、今を繋ぐ。
ユキトは頷いた。
頷くだけで喉が痛い。名を呼ばれた痛みが、まだ喉にある。
それでも頷く。頷くことが、三人の合図になる。
通路の奥へ進む。
暗い。湿っている。水が滴る音がする。音が一定だと心が落ち着く。落ち着くと怖くなる。落ち着けば、過去が戻るからだ。
ユキトの中で、シグレの言葉が残っている。
名を戻せば人は死ぬ。名を戻さなければ国は生きる。
その理屈は、戦場で聞いた理屈と似ている。
似ているから揺れる。
揺れた自分が嫌で、ユキトは拳を握った。
拳を握ると痛みが走る。手のひらの古い傷が疼く。古い傷があるということは、過去がまだ終わっていないということだ。
ツバキが歩きながら、何も言わずにユキトの袖を掴んだ。
掴む力は弱い。だが離さない。離さないことで、ユキトが揺れたのを知っていると言っている。
知っているのに責めない。
責めないことで、ユキトが人でいられる。
ハルが小さく言った。
「国って」
声が震えている。
「俺の母ちゃん、国じゃないのか」
問いは短い。短いほど残酷だ。
ツバキが答えようとして、言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、優しさだ。優しい答えは嘘になる。嘘は秩序の武器だ。秩序の武器を使いたくない。
ユキトが代わりに言った。
「国は、紙の上にある」
短い言葉。
紙。戸籍。朱印。命令書。
「紙の上にない者は、消される」
消される、と言ったとき、ユキトの喉がまた痛んだ。
自分が消した側だったからだ。
ハルが黙った。
黙るとき、子どもの顔が少しだけ大人になる。大人になるのは、悲しいことだ。
通路の先に、微かな光が見えた。
出口だ。外の雪明かりだ。雪は夜でも明るい。白は光を返す。返す光は冷たい。
冷たい光の下で、また追われる。
出口の前で、ユキトは一瞬立ち止まった。
外へ出ればまた戦いになる。戦いになれば刀が折れる。折れれば終わる。
終わりが怖い。
だが終わりを恐れて立ち止まれば、確実に回収される。
ユキトは息を吐いた。
吐いた息が白いかどうか、暗闇の中では分からない。
分からないまま、ユキトは前へ出た。
出口の外は、雪の斜面だった。
夜の雪は青い。火の赤とは違う色。青い白は、冷静さを呼ぶ。冷静さは生きるために必要だ。
だが遠くの木立の間に、また赤が見えた。
火だ。
追ってきている。追い方が丁寧だ。影の頭がいる。
ユキトはその赤を見て、胸の奥が揺れた。
揺れは恐怖ではない。理念への揺れだ。秩序の言葉が、過去の自分の言葉と重なる揺れ。
ツバキがユキトの袖を強く掴んだ。
強く掴むことで、ユキトを現実へ引き戻す。
名がなくても、痛いのは同じ。
その現実が、理念を薄くする。
ユキトは頷いた。
自分の中の正義が割れる音がする。
割れるのは悪いことではない。割れない正義は、刃になる。割れた正義は、欠けた刀になる。欠けた刀は折れるかもしれない。
だが欠けた刀の方が、血を減らせるかもしれない。
三人は雪の斜面を下った。
足跡が残る。残るのに、止まらない。
止まらないことで、まだ消えていないと言う。
背後で、火の赤が揺れる。
シグレの声が、雪の向こうから届く気がした。
名を戻せば、人は死ぬ。
名を戻さなければ、国は生きる。
ユキトはその言葉を胸の奥で噛み砕いた。
噛み砕いて、飲み込まない。
飲み込めば、また自分が影になる。
雪は降り続ける。
白はすべてを隠す。
けれど白の下で、欠片が集まり始めている。
欠けた名の欠片が。
欠けた刀の欠片が。
そして、声になる前の小さな言葉の欠片が。
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