第4話 王都の影、旅の影

 雪は、王都の屋根を同じ厚さで塗りつぶす。

 高い屋根も、低い屋根も。立派な瓦も、軒先の板も。貧しさも、権力も。

 雪は公平に見える。

 けれど、雪の下には必ず段差がある。踏んだ者だけが転ぶ。


 王都の裏側に、表札のない建物がある。

 門もない。看板もない。出入り口は一つではない。塀の割れ目、庭の石灯籠、倉の床板。身を通す道が幾つも用意されている。

 名のない場所だ。


 その中に、シグレはいた。

 火鉢の炭は赤く、音を立てない。炭の匂いは乾いている。焦げた紙の匂いとは違う。炭は役目を終えるために燃える。紙は役目を奪われるために燃える。

 その違いを、シグレは鼻で分けられた。


 机の上に、薄い報告書が置かれている。

 紙は新しい。墨は濃い。朱印は小さい。宰相府の内側で使われる朱印だ。外へ出れば、ただの赤い汚れに見える。内側にいれば、命令に見える。


 シグレは報告書を読み、指で一行だけなぞった。

 寺、焼失。

 僧、確保。

 戸籍板、奪取失敗。

 回収対象、逃走。


 報告を書いた者は、感情を入れていない。

 それが良い。感情が入ると、仕事が乱れる。仕事が乱れると秩序が乱れる。秩序が乱れると、戦が起きる。

 戦を起こさないために、影がいる。


 シグレは火鉢の上に手をかざした。

 指先が温まる。温まると、感覚が鈍る。鈍るのは嫌だった。だが、冷えすぎると判断も鈍る。適温が必要だ。

 秩序も同じだと思う。

 冷えすぎれば人は死ぬ。熱すぎれば人は暴れる。暴れれば血が流れる。血が流れれば、また名が増える。名が増えれば、管理が難しくなる。


「寺は燃やす必要があったのですか」

 背後の部下が言った。

 声は低い。礼儀がある。聞き方が慎重だ。影の中で生き残る者の声だ。


 シグレは振り返らずに言った。

「必要だった」

 短い返事。

「証拠を残せば、噂が残る」

「噂は自然に消えます」

「消えない噂がある」

 シグレは言う。

「名前に結びついた噂だ」

 名がある噂は残る。名がない噂は流れる。流れて薄くなる。だから影は名を奪う。噂が名を持つ前に奪う。


 部下が間を置いて言った。

「回収対象は、女です」

「分かっている」

「男は」

 部下が言いかける。

 シグレは火鉢の炭を箸でつついた。炭が少し崩れ、赤が移動する。赤の移動は静かだ。火の音が小さいほど、炭は良い。

「男は同行する」

 シグレは言った。

「同行するなら、不要ではない」

 不要だと判断するのは簡単だ。殺して終わらせればいい。だが、殺して終わらない仕事がある。殺した瞬間に、残るものがある。血の匂い。死体。目撃者。噂。

 回収は、残さないために行う。


「宰相様に報告を」

 部下が言う。


 シグレは頷き、机の上の朱印を指で押した。

 報告の紙に、もう一つ朱印を足す。影の頭が確認した、という印だ。

 朱印は便利だ。人の声を省略できる。省略できるから誤解が減る。誤解が減るから争いが減る。

 そう信じている。


 宰相府の奥は暖かい。

 暖かさが嫌だった。暖かいと人は怠ける。怠けると油断する。油断すると血が流れる。

 けれど宰相は、暖かさの中で冷たい目をしていた。


 宰相は報告書を見て、目を上げた。

「女は逃げたか」

 声は静かだ。怒りを混ぜない。怒りは部下に伝染する。伝染した怒りは刃になる。刃は制御が難しい。


「逃走しました」

 シグレは言った。

「寺は焼きました。僧は確保」

「戸籍板は」

「奪取失敗」

 シグレは事実だけを出す。

 事実だけを出すのが、影の仕事だ。言い訳を出すのは表の仕事だ。


 宰相は指先で机を軽く叩いた。

 叩く音は小さい。だが部屋の空気が変わる。寒くなる。火鉢があっても寒くなる。

「名を戻せば」

 宰相は言った。

「戦の虚偽が割れる」

 虚偽。

 その言葉は紙より重い。紙を燃やすだけでは消えない重さ。


 シグレは頷いた。

「証人として抹消された者です」

 ツバキのことを、名で呼ばない。名を呼べば存在が立つ。立ててはいけない。回収するまで。


 宰相は目を細めた。

「王家の傷は、王家が塞ぐ」

 その言葉には理念がある。秩序の理念だ。秩序は、家の名で保たれる。家の名は国の名につながる。国の名が崩れれば、隣国が笑う。笑えば戦が起きる。戦が起きれば人が死ぬ。

 死なせないために、消す。

 その順番は、宰相の中では揺るがない。


「男は誰だ」

 宰相が言った。


 シグレは一拍だけ置いた。

 名を言うことには重さがある。だがここでは言わなければならない。

「剣士です」

 シグレは言った。

「影の匂いがします」

「影の匂い」

 宰相の声が少しだけ低くなる。

「名を封じた者か」

「可能性が高い」

「ならば、回収対象は二つだ」

 宰相は言った。

「女と、男の記憶」


 記憶。

 それは燃やせない。だから影が必要になる。


 シグレは頭を下げた。

「追います」

 宰相は頷き、窓の外を見た。

 雪が降っている。雪は美しい。美しいものは、人の目を鈍らせる。鈍った目は、虚偽を見抜けない。


「関所は閉じよ」

 宰相が言った。

「だが、閉じすぎるな」

「はい」

「閉じすぎれば、民が騒ぐ」

 宰相は言う。

「騒げば名が生まれる。名が生まれれば火がつく」

 火は、戦になる。


 シグレは宰相府を出た。

 雪が頬に当たり、冷たい。冷たいのが好きだ。冷たいと判断が冴える。秩序のために冷たい目が必要だ。

 シグレはそう信じている。


 同じ頃、ユキトは王都の縁にいた。

 城壁の外側は、空気が薄い。人の匂いが薄い。監視の匂いも薄い。だがそれは自由ではない。自由な場所ほど、守りは薄い。守りが薄い場所ほど、襲う者は好きに動ける。


 ユキトは道を選んだ。

 関所は通れない。名を問われる。紙を見せろと言われる。朱印を出せと言われる。出せなければ捕まる。捕まれば回収される。

 だから抜け道だ。


 抜け道は、古い炭焼き道だった。

 山へ続く細い道。炭を運ぶために作られた道。木を切り、炭を焼き、背負い、下ろす。その生活のための道。

 生活の道は、秩序の道ではない。だから監視が薄い。監視が薄い場所に、影は現れやすい。それも分かっていた。

 それでも他に選択肢はない。


 ツバキは外套を深くかぶり、顔を隠して歩いた。

 足取りは乱れない。痛みを抱えているはずなのに、歩き方が静かだ。育ちの良さが、足の置き方に出る。無意識の癖は隠せない。

 それが危険でもある。追手は癖を読む。


 ユキトは戸籍板の束を背負っている。

 重い。板は水を嫌う。雪も嫌う。だから外套で二重に包み、紐で固定した。体の内側に寄せる。体温で守る。

 名を守るために、体温を使う。

 皮肉だと思った。だが皮肉を言っている暇はない。


 山道は静かだった。

 雪が音を吸う。鳥も鳴かない。木の枝が風で擦れる音だけが時々する。乾いた音。骨の音みたいな音。

 その音がすると、ツバキの肩がわずかに揺れる。拷問の記憶が動くのかもしれない。ユキトは横目で見るだけで、声をかけない。

 声をかければ、ツバキの痛みが言葉になってしまう。言葉になった痛みは増える。


 炭焼き小屋の跡があった。

 黒い壁。煤の匂い。木が焼けた匂い。焼けた匂いは寺の匂いと似ている。だがここには悲鳴がない。炭は目的を持って焼かれる。戸籍は目的を奪われて焼かれる。

 ツバキは小屋の前で足を止め、鼻を押さえた。

 息が詰まる。喉がひゅっと鳴る。咳が出そうになるのを堪える。

 身体が覚えている。


 ユキトは短く言った。

「行く」

 ツバキは頷いた。頷くとき、指が白い。拳を握りしめている。痛みを握りしめている。


 道はさらに細くなる。

 雪が深い。足が沈む。足が沈むほど、足跡がはっきり残る。足跡は追手への手紙になる。ユキトは足跡が嫌いだ。だが消せない。消そうとすれば時間を失う。時間を失えば追いつかれる。


 そこで、前方に小さな影が見えた。

 人だ。子どもだ。

 背は低い。肩が薄い。背負い袋が大きく見える。袋の中身が重いのだろう。歩幅が小さい。だが歩いている。止まらない。

 止まらない者は、何かから逃げている。


 ユキトは足を止めた。

 ツバキも止まる。

 子どもが振り返った。


 顔は煤で汚れている。

 頬が赤い。寒さの赤だ。唇が乾いている。目だけが妙に澄んでいる。涙をこぼしていない目だ。泣く暇がない目だ。

 子どもは二人を見て、身構えた。逃げる構えではない。踏ん張る構えだ。


「誰だ」

 子どもが言った。

 声は幼いのに、硬い。生きるために硬くなった声。


 ユキトは答えない。

 答えないのは癖だ。名を言わない癖。問われることを避ける癖。

 癖は便利だ。だが癖は人を孤立させる。


 ツバキが一歩前に出た。

 ツバキは顔を隠したまま言った。

「旅の者です」

 旅の者。名を言わない言い方。けれど敵意も出さない言い方。


 子どもは目を細めた。

「王都から?」

 問いが鋭い。王都という言葉に棘がある。


 ツバキは頷いた。

 頷くときの動きが小さい。声を増やさない。ツバキも学んでいる。


「俺も行く」

 子どもが言った。

「王都に」


 ユキトの眉が動いた。

 苛立ちが胸に出る。苛立ちを叫ばない。動きが硬くなるだけだ。

「やめろ」

 ユキトは短く言った。

 短い言葉は刺さる。刺さるほど、子どもは反発する。


「やめない」

 子どもが言った。

「俺は、名を取りに行く」


 ツバキの肩がわずかに揺れた。

 名を取りに行く。そんな言い方をする子どもがいる。名が物みたいに扱われる世界だ。物みたいに扱われているから、取りに行くしかない。


 ユキトは子どもを見た。

 目が逸れない。逸らさない目だ。弱いのに、折れていない。

 ユキトはそれが嫌だった。嫌いではない。痛い。自分の過去が痛む。


「名がないと、死ぬ」

 ユキトは言った。

 言った瞬間、胸の針が動いた。名という言葉が喉を擦る。


 子どもは首を横に振る。

「死なない」

 言い切る。

「生きてる」

 その言い切りが、逆に悲しい。生きているのに死んだ扱いをされる者の声だ。


 ツバキが外套の内側から、小さな布包みを出した。

 中は干し餅だった。薄い餅。固い。噛むと顎が疲れる。だが腹にたまる。生きるための食べ物だ。


 ツバキは子どもに差し出した。

「少しだけ」

 子どもは一瞬躊躇した。

 受け取れば借りになる。借りは縁になる。縁は名になる。名は狙われる。子どももそれを知っている顔だ。

 それでも、子どもの腹が鳴った。腹の音は嘘をつかない。腹の音は理念より強い。


 子どもは餅を受け取り、噛んだ。

 歯が小さい。噛むのに時間がかかる。噛むたびに頬が動く。頬の動きが必死だ。

 必死の動きは、見ている者の心を動かす。動いた心は弱点になる。影はそこを狙う。


 ユキトは視線をそらした。

 そらしただけで、胸が重い。見ないふりをしても、存在は消えない。


「名前は」

 ツバキが聞きかけた。

 言いかけて、止めた。

 名を問うことが、相手を刺すこともあると分かっている。


 子どもは自分から言った。

「ハル」

 短い名。

「それしか残ってない」

 残ってない、という言い方が痛い。名が残り物になっている。


 ツバキは頷いた。

「私は……」

 言いかけて、喉が詰まった。

 名を言えない。言えば奪われる。言えないことで、存在が薄くなる。

 ツバキは唇を噛み、言い直した。

「私は、呼ばれる名がない」

 事実を言った。事実だけを言うのは強い。弱音ではない。現実だ。


 ハルはツバキを見た。

「じゃあ、死んでるのと同じ?」

 子どもの問いは残酷だ。残酷なのに、無邪気だ。無邪気だから残酷になる。


 ユキトは答えない。

 答えれば、自分が過去に消した名が戻ってくる。戻ってきた名が自分を刺す。

 答えないことは逃げだ。だが今は逃げるしかない。


 ツバキが言った。

「死んでない」

 声は小さい。だが硬い。

「死んでないって言うために、生きてる」

 言い切った。

 言い切った瞬間、ツバキの肩が少しだけ下がる。言葉にした分、身体が軽くなる。軽くなると怖い。軽くなると油断が生まれる。だが軽さがないと、人は歩けない。


 日が落ちた。

 山道の夜は早い。雪が光を吸い、暗さが増す。風が強くなる。枝が鳴る。水の音が遠い。

 三人は小さな窪地に入り、火を起こした。


 火は小さい。

 大きくすれば遠くから見える。火は目になる。目は名を連れてくる。だから火は小さく。炭焼き道の者なら、そうする。ユキトもそうする。


 火の匂いがする。

 ツバキが喉を押さえた。息が詰まる。咳が出そうになる。けれど出さない。咳は音になる。音は見つかる。


 ハルが火を見ながら言った。

「母ちゃんの名が、消えた」

 唐突だった。唐突な言葉は本音だ。


 ツバキが顔を向ける。

 ユキトは薪をいじる手を止めない。止めれば聞いているとばれる。聞いているとばれれば、情が生まれる。情は弱点になる。


「戸籍が燃えた夜」

 ハルは言った。

「母ちゃんは笑ってた。俺の頭を撫でて。明日になれば戻るって」

 ハルの声が少しだけ揺れた。泣かない。泣かない代わりに、喉が固くなる。息が浅くなる。

「戻らなかった」

 短い言葉。

 短い言葉ほど、胸に残る。


 ツバキの指が白くなる。

 自分の母の手を思い出したのだろう。震えた手。名を呼ぶなと言った手。

 似ている。似ているから痛い。


 ハルが言った。

「王都に行けば、母ちゃんの名があると思った」

 名がある場所。役所。戸籍庫。火が上がった場所。

「でも、みんなが言う」

 ハルの目が火の赤に映る。

「名がないなら、最初からいなかったって」

 言葉が硬い。子どもが言う言葉ではない。大人が繰り返した言葉だ。秩序の言葉だ。


 ツバキが息を吐いた。

 吐いた息が白く伸びて、すぐ消える。

「いなかったわけない」

 ツバキは言う。

「あなたは見てる」

 見てる、という言葉は、告発の最初の形だ。証人の言葉だ。


 ハルは頷いた。

「見てる」

 頷きが硬い。硬い頷きは誓いになる。


 ユキトは薪を折った。

 折る音が小さく響いた。静かな夜は音が立つ。ユキトは音を嫌う。けれど今は、自分の手の中の音が必要だった。過去の音を追い払うための音。


 ツバキがユキトを見た。

「あなたは」

 言いかけて止めた。

 名を問うと針が刺さる。ユキトの喉の針を、ツバキは見てしまったから。


 ユキトは火を見つめ、短く言った。

「寝ろ」

 優しさではない。命令でもない。生きるための結論だ。


 夜が深くなると、雪が強くなった。

 火の赤が雪に反射し、白が赤く染まる。赤い白は、不気味だ。血みたいに見える。血は見せ場になる。だが血が多い見せ場は軽い。ユキトはそれを避けたい。避けたいのに、避けられない。


 そのとき、ユキトの耳が拾った。

 雪を踏む音。

 一つではない。二つでもない。複数。

 一定の間隔。一定の歩幅。個人の癖がない。名がない足音。


 影だ。

 追いついた。


 ユキトは立ち上がった。

 動きが速い。火を消す。雪をかける。炭を埋める。赤を隠す。

 隠す動きが滑らかすぎて、自分が嫌になる。影の癖が抜けていない。


 ツバキも起きた。

 息が浅い。目が見開かれている。恐怖が身体に出る。けれど声は出さない。成長だ。成長という言葉が悲しい。恐怖への適応は成長ではないはずなのに。


 ハルが起き、周囲を見る。

「誰」

 声が出かけて、ユキトが手で止める。

 口元を押さえる。強い手。ハルの目が怒る。だが怒っている暇はない。


 ユキトはツバキに言った。

「先に行け」

 ツバキが首を振る。

「嫌」

 短い拒否。

 拒否は命に関わる。だが拒否があるから、人は人だ。


 ユキトは言い方を変えた。

「ハルを連れて行け」

 守る対象を増やすと、人は動く。ツバキの芯は、弱い者を見捨てないところにある。

 ツバキはハルを見る。ハルは唇を噛む。自分が足手まといだと分かっている顔。

 ツバキはハルの手を掴み、頷いた。

「行く」

 それだけ言い、雪の中へ踏み出した。


 ユキトはツバキの背を見送る。

 見送るだけで胸が痛い。見送るという行為が、切り離しだ。切り離しは、影の仕事の基本だ。切り離して、目的を守る。

 ユキトはその基本が嫌いなのに、今それをしている。


 足音が近い。

 雪の上に影が落ちる。

 黒装束が現れた。二人。三人。もっといる気配。屋根はない。木の枝がある。枝の上にも気配がある。上と下で挟む動き。王都と同じだ。


 先頭の男が一歩前へ出た。

 動きが静か。礼儀がある。剣を抜く手が綺麗だ。無駄がない。

 その剣筋を見た瞬間、ユキトの身体が凍った。


 見たことがある。

 戦場で。

 雪の上で。

 血の上で。


 同じ剣筋。

 同じ踏み込み。

 同じ、止めるための殺し。


 ユキトの喉が痛む。

 針が深く刺さる。過去が喉を通って出ようとする。出せば名が出る。名が出れば終わる。


 男は剣を構え、言った。

「回収だ」

 言い方が王都と同じだ。物として扱う言葉。

 だが声は、王都の者より低い。鋭い。知っている声だ。


 ユキトは刀を抜いた。

 抜く音が雪に吸われ、鈍くなる。鈍い音は嫌いだ。鈍い音は終わりの音に似ている。


 剣戟は短い。

 男が踏み込む。ユキトは受けずにずらす。刃の線を外す。足を切らない。殺さない。止める。

 男も止めるために斬る。だから刃がぶつからない。刃がぶつからない剣戟は、見ている者には地味だ。だが地味な剣戟ほど、命が削れる。


 男の刃がユキトの外套の端を裂いた。

 布が裂ける音。小さいのに、胸に刺さる。裂けると寒さが入り込む。寒さが入ると、体が固くなる。固い体は動きが遅れる。遅れた体は死ぬ。


 ユキトは踏み込み、男の手首を狙う。

 手首ではなく、指の根元。力が抜ける場所。

 男は刃を落とさない。落とさないように、手首の角度を変える。微妙な角度。訓練された角度。

 知っている。自分も習った角度だ。


 周囲の黒装束が距離を詰める。

 囲む。囲んで、逃げ道を奪う。奪って、回収する。

 秩序の仕事。


 ユキトは息を吐いた。

 吐いた息が白く流れ、すぐ千切れる。

 雪が降る。雪は公平だ。だが公平な雪の中で、名のない者は先に凍える。


 ユキトは動きを変えた。

 殺さない、の線をぎりぎりまで削る。止めるための斬りから、逃げるための斬りへ。

 膝を狙う。足首を狙う。致命傷は避ける。だが避けきれない瞬間がある。その瞬間に、自分が過去に戻りそうになる。


 男がユキトの懐へ入った。

 近い。近すぎる。近いと目が効かない。感覚だけになる。

 男の息が聞こえる。冷たい息。鉄の匂い。汗の匂い。雪に濡れた布の匂い。

 その匂いが、戦場の匂いと同じだ。


 ユキトの手が一瞬だけ遅れる。

 遅れた瞬間、刃が肩をかすめた。痛み。熱い痛み。冷たい空気の中で、熱い痛みだけが生きている。

 血が出る。血の匂いがする。鉄の匂いが濃くなる。


 ユキトは歯を噛んだ。

 叫ばない。叫べば負ける。叫べば過去が勝つ。


 男が小さく笑った。

 笑いではない。確認の声。

「やはり」

 短い言葉。


 ユキトは男の目を見た。

 男の目は冷たい。だが狂っていない。理屈がある目だ。秩序の目だ。

 その目が、ユキトの中の影を見抜いている。


 男は刃を止めたまま、唇だけ動かした。

 囁きだ。雪の音に紛れる囁き。けれど耳には刺さる。


「名を捨てたか、ユキト」


 その名が出た瞬間、ユキトの喉の針が一気に刺さり直した。

 痛みが強い。呼吸が詰まる。目の奥が熱くなる。熱いのに、涙は出ない。

 名は、自分で名乗るより、他人に呼ばれる方が重い。

 呼ばれた瞬間、存在が固定される。逃げ道が塞がれる。


 ユキトは動けなくなる寸前で、刃を振った。

 振るのではない。払う。男の刃の線を外すだけ。生きるための最短の動き。


 男は一歩退いた。

 囲んでいた影が距離を詰め直す。逃がさない距離。だが追い込みすぎない。追い込みすぎると獣は暴れる。暴れれば血が増える。血が増えれば噂が増える。噂が増えれば名が増える。

 影は名を増やしたくない。だから丁寧だ。


 ユキトは雪の中で、ツバキとハルの足跡を想像した。

 足跡は続いているはずだ。続いていてほしい。続いている限り、二人はまだ消えていない。


 ユキトは自分の肩の血を感じながら思った。

 名が出た。

 自分が名乗ったわけではない。名を捨てたままなのに、名が出た。

 それは、回収が始まったということだ。


 雪が降り続ける。

 白が世界を塗りつぶす。

 だが白の中で、一つだけ黒いものがはっきりしてくる。

 影の剣筋。

 影の理屈。

 そして、ユキトの名を知る者の存在。


 逃げるだけでは終わらない。

 名を取り戻す話は、名を暴く話に変わり始めている。

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