第3話 戸籍焼却の夜

 畳を上げると、冷気が指の間から入り込んだ。

 寺の床下は暗い。土の匂いと、湿った木の匂いが混ざっている。そこに、焦げた墨の酸っぱさが薄く残る。火が過ぎ去った場所の匂いだ。燃え尽きたあとの、言い訳のない匂い。


 ユキトは床板の縁に指をかけたまま、息を止めていた。

 止めた息が、喉の奥で固まる。胸が重い。針が刺さっている感覚がある。名に触れるときの痛みだ。紙でも板でも、文字の形を目が拾った瞬間、身体が反応する。


 ツバキは畳の端に膝をつき、床下を覗き込んだ。

 目の焦点が、戸籍板の束に吸い寄せられている。怯えがあるのに、逸らさない。逸らせば、また消される。そういう覚悟が、目に出る。


 僧は、束の上に手を置いた。

 手は冷えているのに、動きは落ち着いている。寺の人間の手だ。紙や木に触れてきた手。


「拾ったものだ」

 僧は短く言った。

「拾えるほど、流れてきた」


 床下の束は、戸籍板だけではなかった。

 割れた板、焦げた板、端が欠けた板。墨が滲んだ板。朱印の跡が半分だけ残る板。名前の一文字だけ残っている板。年号だけ残る板。

 人の人生の断片が、木の板の上で黒く固まっている。


 ツバキの指が、畳の縁を掴む。

 爪が白くなる。息が浅くなる。喉が鳴りそうになって、口を閉じる。音を出すと、名が漏れる気がするのだろう。


「……あの夜のもの」

 ツバキが囁いた。

 声はかすれている。喉が傷んでいる。


 僧が頷く。

「あの夜、火は三か所同時に上がった」

 言い方が静かだ。静かだから余計に刺さる。

「役所。戸籍庫。あと一つは、下町の集会所」

「火事じゃないのか」

 ユキトが聞く。

 僧は首を横に振った。

「火事なら、鐘が鳴る」

 僧は境内の鐘楼を見上げるように視線を動かした。

「あの夜、鐘は鳴らなかった。鳴らさせなかった」

「誰が」

 ツバキが言う。

 僧は答えを急がない。急がないことで、言葉の重さが増す。


「役人だ」

 僧は言った。

「消火を遅らせた。水桶を回さなかった。井戸を封じた」

 淡々と言う。怒りを混ぜない。怒りを混ぜると、相手が感情のせいにできる。淡々と言うと、事実になる。


 ツバキの肩が小さく震えた。

 寒さではない。記憶の震えだ。


「どうして」

 ツバキが言う。

 僧は戸籍板の束を指で叩いた。

「これを焼くためだ」

 短い答えだった。

「名を焼くためだ」


 名を焼く。

 その言葉のあと、部屋の中の匂いが濃く感じられた。線香の残り香が、急に遠くなる。代わりに、焦げた墨の酸っぱさが鼻の奥に刺さる。


 ユキトは目を伏せた。

 伏せた瞬間に、別の光景が頭の中で立ち上がる。雪。血。命令書の朱印。紙の手触り。指に残る墨。短い命令文。

 名前を消せ。

 そう書かれた紙。


 ユキトは歯を噛んだ。

 顎の筋肉が固くなる。怒りではない。吐き気に近い。過去が胃の中で反転する感覚。


 ツバキが戸籍板に触れようとして、手を止めた。

 止めた手が空中で震える。触れたら、現実になってしまう。現実になった瞬間、自分の中の最後の逃げ道が塞がれる。

 それでもツバキは、ゆっくり手を伸ばした。

 指先が板に触れる。木のざらつき。焦げた部分の硬さ。冷えた墨の盛り上がり。


 ツバキの喉が鳴った。

 呼吸が詰まる。咳が出そうになる。咳を飲み込み、唇を噛む。


「私には、名があった」

 ツバキが言った。

 声は小さいが、言葉は硬い。覚悟の硬さだ。

「呼ばれていた」

 僧が黙って聞く。

 ユキトも黙って聞く。口を挟むと、この女の言葉が軽くなる気がした。


「小さい頃」

 ツバキは言い、目を閉じた。

 閉じた目の裏で、何かを掘り起こしている。

「母が呼んでいた」

 言葉が途切れ、息が浅くなる。

「……庭で。冬の朝。水桶が凍って、桶の縁が白くなってた」

 情景が具体的だ。匂いがする。手触りがある。作り話ではない。体の奥に残った記憶だ。


 ツバキは続けた。

「母の手は、いつも温かかった。冷たい水に触れると、赤くなる。赤くなった指で、私の頬を触って、笑って」

 そこで、声が少しだけ揺れた。

 泣く前の揺れだ。

 だがツバキは泣かない。泣かない代わりに、喉が詰まる。息が吸えなくなる。


「名を呼ばれた」

 ツバキが言う。

「呼ばれるたびに、私はそこにいていいと思えた」

 言葉は短いのに、重い。

 名は承認だ。呼ばれることは、生きていいと言われることだ。


 ツバキは目を開けた。

 目の奥に、過去が映っている。

「でも、ある日から」

 言葉が止まる。

 喉が固くなる。舌が動かない。息が浅くなる。指が畳を掴み、爪が白い。

「母が言った。名を呼ぶな、って」

 ツバキは声を落とした。

「私の名前を、口にするなって」

「誰が言わせた」

 ユキトが聞く。


 ツバキは首を振る。

「分からない」

 分からないと言うときの顔が、嘘ではない。分からないのではなく、思い出せないのだ。思い出せば、何かが壊れるから。

「母の手が震えてた。湯飲みを持っても震える。私の髪を結ぶ手も震える」

 震えが伝染するみたいに、ツバキの肩も小さく揺れた。


「その日から」

 ツバキは言った。

「私の名は、家の中から消えた」

 僧が息を吐いた。

「呼ばれなくなったか」

「呼ばれなくなった。……ツバキとすら」

 ツバキの声が少しだけ強くなる。怒りだ。怒りを叫ばない怒り。


 ユキトは床下の戸籍板を見た。

 木の板は無言だ。無言なのに、声がする。呼ばれなかった声。呼べなかった声。焼かれた声。命令で消された声。


 僧が言った。

「名を呼ぶなと言われるのは、理由がある」

「王家か」

 ツバキが言う。

 言った瞬間、ツバキの喉が詰まった。自分で言って、自分で怖くなった顔だ。

 王家という言葉は、刃より怖い。王家の名は、守られる名だ。守られる名は、奪う側の名でもある。


 僧は否定しなかった。

「王家の名に近い者ほど、名を失ったときの反動は大きい」

 言葉が遠回りだ。断言しないことで、責任を残す。断言は刃になる。寺は刃を持つと折れる。


 ユキトの胸が冷えた。

 ツバキはただの証人ではない。重要物証だ。回収対象だ。黒装束が殺さず捕まえようとした理由が、少しだけ形になっていく。


 ユキトはツバキを見る。

 ツバキは外套の袖の中で、小刀を握っている。雪の文様の小刀。鍵と言われたもの。

 ツバキがそれを持っていること自体が、歪んでいる。歪んでいるから狙われる。


 ユキトは口の中で、古い命令文を噛み砕いた。

 名前を消せ。

 消す側にいた自分が、今は消される側を抱えて走っている。

 それは正義ではない。贖罪でもない。

 ただ、引き返せない過去が、今夜の足を前へ押している。


 僧が戸籍板の束を見つめたまま言った。

「火の夜、役所にいた者がいる」

 ユキトが視線を上げる。

「誰だ」

「寺の者ではない」

 僧は短く言った。

「しかし寺に逃げ込んできた。焦げた紙の匂いをまとっていた」

「証言できるか」

 ユキトが聞く。

 僧は首を横に振る。

「消えた」

「消されたか」

「多分な」

 多分、と言った。確信があっても確信と言わない。確信と言えば、寺も狙われる。


 ツバキが唇を噛んだ。

 歯が白く見える。怒りを飲み込んでいる。怒りは声になる。声は名になる。名は狙われる。ツバキはそれを学んでしまった。


 外で、雪が屋根を叩く音が強くなった。

 粒が大きい。風が変わった。冷気が隙間から入り、線香の香りが揺れる。


 ユキトは立ち上がった。

 床板を戻す。畳を戻す。動きが速い。音が小さい。習慣だ。痕跡を残さない動き。


 僧が言った。

「今夜はここに」

 言いかけたところで、音がした。

 遠い。けれど鋭い。矢が風を切る音だ。


 次の瞬間、寺の外壁に鈍い衝撃が走った。

 火の匂いが入り込む。油と布の匂い。燃える前の匂い。

 火矢だ。


 ツバキの肩が跳ねた。

 息が止まる。喉が詰まる。指が外套の袖を掴む。小刀を握る手が固くなる。


 僧は立ち上がった。

 顔が変わらない。変わらないのに、動きが速い。寺の人間は戦えない。だが逃げる動きだけは知っている。逃げなければ寺は残らない。


「裏へ」

 僧が言う。

 ユキトは頷き、ツバキの腕を掴む。


 もう一本、火矢が刺さった。

 今度は軒だ。乾いた木に火が移る。ぱちぱちと小さな音が増える。火の音は雪より生きている。生きているから怖い。


 ユキトの動きが、わずかに荒くなった。

 足が床を強く踏む。畳が沈む。音が出る。

 叫ばない。

 怒りは叫びではなく、動きの乱れになる。

 それがユキトの怒りだった。


「僧まで消す気か」

 ユキトが言う。

 声は低い。短い。だが声の中に鉄の冷たさがある。

 僧は答えない。答える暇がない。


 外で、黒装束の足音がした。

 屋根の上。雪が鳴る。気配が増える。数が増える。寺が包まれていく。逃げ道が削られていく。


 ユキトは襖を開け、裏廊下へ出た。

 冷たい風が入り、火の匂いが濃くなる。寺の裏庭は白い。雪が積もり、足跡がない。そこに足跡を残すのが怖い。だが残さなければ死ぬ。残る方を選ぶしかない。


 僧が先に立つ。

 僧は裏庭の端にある小さな物置の扉を開けた。中に階段がある。地下へ降りる階段だ。寺の古い避難路だろう。火事のときのための道。今日は火事ではない。火事を装った処理だ。


「下へ」

 僧が言う。

 ユキトとツバキが降りる。

 階段は冷たい。湿っている。土の匂いが強い。木の手すりが冷たく、指が痛い。


 地下は狭い通路だった。

 低い天井。壁は土。ところどころ木で補強されている。古い。寺が長く生き残るために掘った穴だ。


 僧は戸籍板の束を抱えた。

 さっきまで床下に隠していた束。今は腕に抱えている。重いはずなのに、僧の腕は震えない。震えないのが怖い。覚悟が入っている腕だ。


「持っていけ」

 僧がユキトに言った。

 ユキトは一瞬、言葉を失う。

「僧は」

「私が囮になる」

 僧は短く言った。

「寺は燃える。ここで死ぬか、外で捕まるかの違いだ」

 それも淡々と言う。寺の人間の諦めではない。計算だ。寺が生き残る確率を上げる計算。


 ツバキが息を呑んだ。

「嫌」

 声が漏れる。小さいのに、痛い声。


 僧はツバキを見た。

「お前は名を持っている」

 持っていないのに、持っていると言った。持っていた名がある。戻る名がある。声にする名がある。

「私は名を持たぬ。寺の僧は、入れ替えがきく」

 きく、という言葉が残酷だった。個人が消えている言葉だ。だが、それが秩序の言葉に対抗する方法でもある。名を捨てることで残るものがある。


 ユキトは僧の腕から束を受け取った。

 木の板の重さが腕に乗る。冷たい。重い。名の重さだ。人の人生の重さだ。

 ユキトの喉が痛む。針が動く。だが今は痛みに構っていられない。


 僧が通路の先を指した。

「この先で地上へ出る。小川に出る。そこから下町へ」

 ユキトは頷く。

 ツバキが僧に近づこうとする。

「一緒に」

 言いかけた瞬間、ユキトがツバキの腕を掴んだ。

 掴む力が強い。ツバキの骨が軋むほど強い。


「止まれ」

 ユキトが言う。

 声は低い。切るように短い。


 ツバキの目が見開かれる。

 怒りが湧く。助けたい。見捨てたくない。人として当たり前の感情だ。だが、その当たり前がこの王都では命取りになる。


「助ける」

 ツバキが言う。

「置いていけない」

 ツバキの喉が震える。声が大きくなりそうになる。大きくなれば、追手が笑う。善意を踏み台にする。


 ユキトはツバキの目を見て言った。

「今、助けたらお前が消える」

 短い言葉。

 だが刺さる。

 消える。名が消える。存在が消える。母が手を震わせて言った言葉と同じだ。


 ツバキの唇が震えた。

 言い返そうとして、喉が詰まる。息が吸えない。怒りが声にならない。声にならない怒りが、胸の内側を叩く。


 僧が言った。

「行け」

 それだけ。

 押し出すような声ではない。静かな声だ。静かな声ほど、人を動かす。


 ユキトはツバキを引き、通路を進んだ。

 足音が土に吸われる。息が狭い天井に反射し、耳に戻る。息が浅くなる。胸が詰まる。ツバキの体が小刻みに震えているのが、腕を通して伝わる。


 後ろで、僧が地上へ戻る気配がした。

 階段を上がる音。木が軋む音。火の音。遠くで怒号。黒装束の冷たい声。

 そして、何かが倒れる鈍い音。


 ツバキが振り返ろうとする。

 ユキトが振り返らせない。背中を押す。言葉ではなく手で押す。


 通路の先に、薄い光が見えた。

 出口だ。木の板が半分だけ外れている。冷たい空気が流れ込む。川の匂い。土の匂い。雪の匂い。

 外へ出れば足跡が残る。残ってもいい。今は残る方が生きる。


 二人は外へ出た。

 そこは小川の脇だった。水は細く流れ、石の間を抜ける音がする。雪が降っているのに、水は凍りきっていない。流れがあるからだ。流れは命令に従わない。流れるだけだ。


 ユキトは束を抱え直した。

 戸籍板は濡らせない。濡れれば墨が滲む。滲めば読めなくなる。読めなくなれば声にならない。

 ユキトは外套の内側に束を押し込み、雨除けの布で包む。動きが速い。慣れている。紙や板を守る動きに慣れていることが、ユキトには嫌だった。


 背後で、寺が燃える音が大きくなった。

 ぱちぱちという音が、じわじわと増える。木が裂ける音。火が空気を食う音。雪が降っているのに、火は消えない。火は意志を持っているみたいに燃える。

 火は名を食う。


 ツバキが立ち止まった。

 振り返る。寺の屋根の向こうに、火の光が揺れている。赤い光が雪に反射し、白が薄桃色に染まる。綺麗だと思ってしまうのが怖い。綺麗な火は、罪の色だ。


 ツバキは泣かない。

 泣かない代わりに、息が詰まる。喉がひゅっと鳴る。次の瞬間、咳が出た。

 咳は抑えられない。喉の傷が反応している。息が入らない。咳で息が出ていく。苦しい。胸が痛い。


 ユキトはツバキの背中に手を当てた。

 強く叩かない。リズムをつけて、息の通りを作る。言葉はない。言葉より手が早い。

 ツバキの肩甲骨が薄い。骨が手のひらに当たる。食べていない骨の硬さだ。


 ツバキは咳を続け、やっと息を吸った。

 吸った息が冷たくて、また咳が出そうになる。ツバキは口を押さえ、目を閉じた。涙が出そうなのに出ない。出すと、ここで止まってしまう気がする。


 ユキトは短く言った。

「走る」

 ツバキは頷いた。

 頷きは小さいが、確かだった。


 二人は小川に沿って走った。

 雪で滑る。石が見えない。足が取られそうになる。ユキトはツバキの腕を掴み、転ばせないように引く。引き方が雑になる。怒りが動きに出る。僧を奪われた怒りだ。助けられない怒りだ。助けない選択をした自分への怒りだ。


 背後で、足音が聞こえた。

 路地ではない。川沿いの土を踏む音。湿った音。追手が地上へ回ってきた。速い。寺を燃やすだけでは終わらない。回収は続く。回収は儀式だ。儀式は途中で止めない。


 ユキトは振り返らず、走りながら耳で数を読む。

 二人。三人。もっといる。気配が増えていく。屋根の上の気配もある。上と下から挟む。

 宰相の影は、仕事が丁寧だ。丁寧さが残酷だ。


 ツバキが言った。

「僧が」

 言いかけて、喉が詰まり、言葉が切れた。

 ユキトは答えない。答えればツバキが止まる。止まれば消える。僧が死んだのに止まれない。その矛盾が、物語に重さを置く。軽い英雄譚ではなくなる。


 小川の先に、石橋が見えた。

 橋の下に暗い空間がある。ユキトはそこへツバキを引き込んだ。橋の影は冷たい。水の音が近い。湿った匂いがする。息が白く、すぐ壁に当たって戻る。


 追手の足音が、橋の上を通った。

 雪を踏む音。規則的な足音。個人の癖がない。名がない足音。

 ユキトは息を止めた。ツバキも息を止める。止めた息が喉に刺さり、ツバキの肩が小さく震える。


 黒装束の声がした。

「火は十分だ」

 礼儀正しい声。報告の声。

「僧は確保」

 確保。回収と同じ言葉だ。人を物にする言葉。


 別の声が言う。

「女は逃走。男が同行」

「男は不要」

 また言った。不要。だから殺していい。不要だから、名もいらない。

 その言葉が、ユキトの胸を掻いた。不要と言われたときの冷えは、刃より深い。


 黒装束が続ける。

「鍵を持つ」

「鍵は回収する」

 短い会話。無駄がない。理念がある。彼らの理念は秩序だ。秩序は、名を管理することで保たれる。名を管理できない者は消す。それが正しいと信じている。

 礼儀があるのが厄介だ。礼儀がある者は、自分を悪だと思っていない。


 足音が遠ざかった。

 ユキトは息を吐いた。吐いた息が白く流れ、すぐに冷える。

 ツバキが小さく咳をした。咳は止められない。喉が傷んでいる。傷んでいる喉で、声を作らなければならない未来がある。未来の残酷さが、喉の痛みとして今に出る。


 ユキトはツバキの口元を手袋越しに押さえた。

「抑えろ」

 命令のような言い方になった。ユキトはそれに気づいて、顔をしかめる。自分も命令で動く人間だ。命令を嫌う資格がない。

 だが今は命令が必要だった。命令がないと、ツバキがここで崩れる。


 ツバキは頷く。

 頷いたとき、目の奥が濡れていた。涙は落ちない。落とすと止まってしまう。だから溜める。溜めた涙が瞳の奥に張る。


 ユキトは束を抱え直し、橋の影から出た。

 下町へ向かう。人が多いところへ行くのは危険だ。だが人の多さは、影を薄める。影は影の中で強い。明るい場所では影は薄くなる。

 ユキトはその薄さに賭けるしかなかった。


 二人は細い路地を抜け、低い屋根の連なる区域へ入った。

 魚屋の匂いが残る。塩と血の匂い。夜なのに匂いが残るのは、ここが生活の場所だからだ。役所の匂いとは違う。役所は紙と墨の匂いで、人の匂いを消す。ここは人の匂いが残る。


 路地の角で、ユキトは足を止めた。

 そこで初めて、外套の内側から束を少しだけ取り出した。濡れていないか確かめる。板の縁が冷たい。湿りはない。まだ読める。まだ声になる。


 ツバキが覗き込む。

 目が戸籍板に吸い寄せられる。名の断片がここにある。僧が命を賭けて渡した断片だ。

 ツバキの呼吸がまた浅くなる。息が詰まりそうになる。身体が先に反応する。


 ユキトは束の一番上の板をずらした。

 その下に、異物が見えた。

 金具だ。小さな金具。板を留めるための金具に見えるが、装飾がある。雪の文様。ツバキの小刀と同じ紋が刻まれている。

 細い線。結晶のような形。王家の匂いのする意匠。


 ツバキが息を呑んだ。

 喉が鳴り、すぐに咳が出そうになる。ツバキは口を押さえ、目を見開いた。恐怖と確信が同時に来ている顔だ。


 ユキトの胃が冷えた。

 鍵は一つではない。

 小刀だけではない。

 戸籍板の束にも、同じ紋がある。戸籍焼却の夜と、王家の隠し文庫が繋がっている。

 国家の犯罪が、個人の悲劇の底に口を開けている。


 ユキトは金具を指でなぞった。

 冷たい。鉄の冷たさ。指の腹が痺れる。冷たさは嘘をつかない。嘘は紙に書ける。だが鉄はそこにある。そこにあるものは、否定できない。


 ツバキが小さく言った。

「やっぱり」

 声が掠れる。

「王家だ」

 断言ではない。自分に言い聞かせる声だ。名を呼ばれなくなった日から、母の手が震えた日から、ずっと胸の底にあった疑いが形を持つ。


 ユキトは金具を束の中に戻した。

 見せ場は今ではない。今見せれば追手が増える。追手が増えれば死ぬ。

 だが、見せ場があることは確定した。ドラマは、鍵の形を手に入れた。


 ツバキが言った。

「僧を助けられなかった」

 言い方が責めではない。確認だ。現実の確認。

 ツバキの喉が詰まる。息が浅くなる。泣かない。泣けない。泣けばここで止まる。止まれば消える。泣けない悲しみが、咳になって出る。


 ツバキは咳き込んだ。

 咳が止まらない。喉が痛い。胸が痛い。息が入らない。身体が丸まる。

 ユキトはツバキの背中に手を当て、さっきと同じように叩いた。言葉はない。手だけ。手だけが、今できることだ。


 ツバキの咳が少し落ち着き、息が入った。

 入った息が冷たくて、目の奥がまた濡れる。涙は落ちない。落とすと止まる。止まると消える。


 ユキトはツバキの肩に手を置いた。

 重く置かない。支えるだけ。支えるという行為が、少しだけ罪悪感を薄める。薄めるだけだ。消えない。


 ユキトは言った。

「僧が渡したものを、無駄にするな」

 短い言葉。

 それがカタルシスの予告になる。暴力で終わらせない。声で終わらせる。告発で終わらせる。そのための断片を、今抱えている。


 ツバキは頷いた。

 頷きは弱い。けれど折れていない。

「嘘を、止める」

 ツバキの声は小さい。だが言葉は硬い。硬い言葉は、後で刃になる。


 ユキトは頷き、路地の先を見た。

 雪はまだ降っている。

 白は世界を隠す。火も、血も、罪も、足跡も。

 だが白は同時に、何も書かれていない紙だ。

 書き直す余地がある。奪われた名も、焼かれた戸籍も、嘘で塗り固められた戦の物語も。


 ユキトは胸の奥の針の痛みを確かめるように息を吐いた。

 痛みはある。消えない。

 消えない痛みがある限り、自分はまだ影の中にいる。

 影の中にいるからこそ、影のやり方を知っている。

 知っているなら、逆に使える。


 路地の角で、遠くの鐘が鳴った。

 夜明けの鐘ではない。火事の鐘でもない。時間を告げる鐘だ。

 鐘の音は雪に吸われて丸くなる。けれど耳に残る。耳に残る音は、誰かの中で記憶になる。

 記憶が積み重なれば、やがて声になる。


 ユキトはツバキの手を掴んだ。

 ツバキの手はまだ冷たい。だが、握り返す力がある。

 名を持たない手が、声を持とうとしている。


「行く」

 ユキトが言う。

 ツバキが頷く。


 二人は雪の中へ歩き出した。

 寺の火は背後でまだ揺れている。

 赤い光が白い雪を染め、白が一瞬だけ別の色になる。

 その色が消えれば、また白に戻る。

 白は何もなかった顔をする。

 だが、何もなかったわけではない。


 僧の声は消えるかもしれない。

 だが僧が抱えていた板の重さは、今ユキトの腕にある。

 ツバキの胸にもある。

 重さは、嘘に吸われない。


 雪は降り続ける。

 足跡はすぐ薄くなる。

 それでも足跡があったことは、土が覚える。

 土が覚えたものは、いつか掘り起こされる。


 名はまだ戻らない。

 だが、燃やされた夜があったことは消えない。


 戸籍焼却の夜は、終わっていない。

 今も続いている。

 続いているから、止める必要がある。

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