第2話 名を名乗れない男

 屋根の上は、雪が薄く鳴っていた。

 踏めばきしむ。板の軋みと雪の砕ける音が重なる。夜の王都は静かなのに、この高さだけは別の世界みたいに音が立つ。風が強い。頬が切れるように冷える。息を吐くと白が流れ、すぐ千切れる。


 ユキトは走っていた。

 背中に気配がある。追う気配だ。前にも気配がある。囲む気配だ。

 屋根の端を蹴り、隣の棟へ渡る。着地は浅い。雪を大きく踏まない。足跡を残さないためではない。音を残さないためだ。音が残れば、そこに矢が来る。これも古い癖だった。


 背中の外套の中で、ツバキが息を呑む。

 声を上げない。上げれば喉が裂けると知っている顔だ。だが身体は正直で、肩が硬くなり、指が布を掴む力が増す。その力が、ユキトの肋骨に痛みとして伝わる。


 黒装束は三人。

 いや、三人では終わらない。屋根の影に溶ける者がいる。視界の端に映らないのに、気配だけが増える。数を読ませない動きだ。王都の治安兵の動きとは違う。治安兵は数で圧をかける。彼らは気配で縛る。


「止まれ」

 背後から声が飛ぶ。

 命令の声だ。怒鳴らない。感情を混ぜない。言葉の角だけで人を動かそうとする声。


 ユキトは止まらない。

 止まった瞬間、囲まれる。囲まれた瞬間、ツバキを取られる。取られるという言い方が、もう嫌だった。人は物ではない。だがこの王都は、物のように回収する。


 屋根の先で、黒装束が一人、滑るように前へ出た。

 刃が月光を拾う。薄い光が雪に散る。相手は斬りかかってこない。斬れる距離に入らず、先に道を塞ぐ。逃げる動線だけを潰す。

 殺すためではない。

 捕まえるためだ。


 ユキトは一歩だけ踏み込んだ。

 踏み込みは短い。腕を大きく振らない。剣戟を長く見せない。

 刃が走る。

 黒装束の手首ではなく、指の付け根に当てる。力が抜ける場所だ。刃が落ちる。雪に沈む。音が消える。

 黒装束は声を上げない。訓練されている。痛みをしまう訓練だ。


 黒装束が腰に手を伸ばす。次の刃を取ろうとする。

 ユキトはその動きを止めた。

 足首に刃を滑らせる。骨は折らない。関節の角度を崩すだけ。黒装束の体勢が崩れ、片膝が雪を叩く。

 それで十分だ。

 死なせない。

 息を奪わない。

 止めるだけ。


 別の一人が背後に回り込む。

 ユキトは振り返らない。背中の気配の密度で距離を読む。風の抜け方で相手の位置を読む。目は前の屋根の端に置き、身体だけをひねる。

 刃が後ろへ走る。

 相手の肩口を浅く裂く。腕の動きが鈍る。武器の線が乱れる。


 黒装束が言った。

「鍵を渡せ」

 鍵。

 昨日も聞いた言葉だ。

 胸の奥の冷えが、また強くなる。鍵という音が、湿った紙の匂いを連れてくる。鉄の扉の冷たさも連れてくる。


 ユキトは答えない。

 答えれば、音が増える。音が増えれば、追手の正しさが増える。


 もう一人が前に出る。

 この者は動きが違う。軽い。足が雪を踏まない。踏んでいるのに、踏んでいないみたいだ。影が薄い。目で追うと遅れる。

 ユキトは息を止めた。

 止めた息の中で、相手の刃の軌道だけを読む。


 相手は斬りに来ない。

 ツバキを狙う。

 外套の端を掴もうとする手が伸びる。


 ユキトは刃を立て、手の甲を切った。

 浅い。だが筋は切れる。掴む力が落ちる。黒装束の手が外套から離れる。ツバキの身体がわずかに揺れ、布の中で呼吸が乱れる。

 ユキトの喉が固くなる。

 怒りではない。

 怖さだ。

 取られる怖さ。


 黒装束は一歩下がり、礼儀正しく言った。

「回収命令だ」

 回収。

 その言葉が嫌だった。

 人を人として扱わない言葉だ。名を持たぬ者を、物として扱う言葉だ。


 ユキトは短く言った。

「命令は嫌いだ」

 言ってしまったあとで、自分の声の乾きに気づく。嫌いだと言うほど、自分は自由ではないのに。


 黒装束の目が一瞬だけ細くなる。

 感情が出たのではない。評価だ。仕事の評価。


「お前は、影の外に出るつもりか」

 ユキトの喉の奥が痛む。

 針が動く。

 影、という言葉に反応している。身体が勝手に反応する。誓約がそこにある。


 ユキトは答えず、屋根の端へ走った。

 躊躇しない。躊躇した瞬間に取られる。取られれば終わる。

 隣の棟へ跳ぶ。

 着地。

 雪が鳴る。


 黒装束が追ってくる。

 追い方が揃っている。足音が同じだ。個人が消えている。名がない動き。名がない兵。

 ユキトはその揃い方に吐き気がした。

 過去の記憶がそこに重なる。戦場で、同じように動いた自分たちの影。


 屋根の端が迫る。

 下は狭い路地だ。米屋の裏口の庇が見える。雪避けのために板が張り出している。

 ユキトはそこへ飛び降りた。


 庇は硬い音を出した。

 板の裏の釘がきしみ、雪が落ちる。粉雪が舞い、ユキトの髪に触れて溶ける。頭皮が冷え、感覚が鋭くなる。

 ツバキが外套の中で小さく咳き込む。喉の傷が反応した咳だ。


 ユキトは外套を解き、ツバキを庇の奥へ押し込んだ。

 米俵が積まれ、藁の匂いがする。乾いた藁の匂いは、雪の匂いより生きている感じがした。鼻の奥が少しだけ安心する。


 ツバキは震えていた。

 寒さだけではない。

 指先が白い。肩が上がり、息が浅い。目が、どこか遠いところを見ている。屋根の上では泣かなかった。ここで初めて身体が崩れ始めている。


 ユキトはツバキの顔を見た。

 額の血は固まりかけている。口元の裂けは赤く、乾いた線が走っている。どれも痛いはずなのに、ツバキは痛みを言葉にしない。

 その代わり、目の奥が怯えていた。

 怯えの種類が違う。

 刃への怯えではない。

 名を問われることへの怯えだ。


 屋根の上で、黒装束の足音が止まった。

 見下ろしている気配がある。

 庇の影は浅い。見つかるのは時間の問題だ。


 ユキトはツバキの袖口を掴み、小刀の位置を確かめる。

 雪の文様の小刀。鍵だと言われたもの。

 冷たい金属が指に触れる。鉄の冷たさが骨まで届く。触れた瞬間、紙と墨の匂いが喉の奥に戻る。


 ツバキが小さく言った。

「私、名があるはずなのに」

 声が掠れている。息が浅い。

「呼ばれたことがない」


 ユキトは答えない。

 答えないのに、胸の奥が重くなる。

 呼ばれたことがない。

 それは、存在として扱われたことがない、ということだ。名は呼ばれて初めて重くなる。呼ばれない名は、紙の上の黒い線に過ぎない。


 ツバキは続けた。

「私は、生まれたときに名をもらったはずだと思う。母が、誰かが」

 そこで言葉が途切れる。喉が詰まる。涙は出ない。出せない。

「でも、私はずっと、呼ばれないまま生きてきたみたい」


 ユキトは短く言った。

「名は、重い」

 それだけ。

 説明はしない。

 説明すれば、名が概念になって軽くなる。概念になった途端、この王都はそれを利用して正当化する。名は、紙ではない。呼び声だ。承認だ。だから剥奪は、紙を燃やすだけで終わらない。


 ツバキの指が白くなる。

「重いなら、どうして奪うの」

 問いは鋭い。怒鳴ってはいないのに刺さる。


 ユキトは、口の中で舌を動かした。

 返事を選ぶ時間が必要だった。

 選ばないと、過去が口から出る。


 屋根の上で、雪がずれる音がした。

 黒装束が庇の位置を探っている。探り方が静かだ。獣の嗅覚みたいに、空気を読む。


 ユキトはツバキの耳元に短く言った。

「動く」

 ツバキが頷く。

 頷きは小さい。けれど、逃げる意思はある。


 庇の奥から裏口へ抜ける通路がある。米屋の裏だ。袋や木箱が積まれている。狭い。狭いのはいい。狭い場所は大人数に不利だ。


 二人は身を低くして進んだ。

 藁が服に擦れて音を立てる。ユキトは音を嫌い、手で藁を押さえながら進む。指先が乾いた藁で擦れ、痛い。痛みがある方が頭が冴える。


 裏口の板戸を少しだけ開け、外を見る。

 路地は白い。雪が積もり始め、足跡はまだ少ない。遠くに灯り。近くに影。

 黒装束が降りてきている。庇の上から、路地へ。音がない。雪が吸う。


 ユキトはツバキの手を掴んだ。

 ツバキの手は冷たい。血が引いている。恐怖で血が引いている。名を問われる恐怖だ。


 走る。

 路地を曲がる。

 狭い道を選ぶ。

 見えない壁の影を選ぶ。


 走りながら、ツバキが言った。

「私の名が、消された」

 言葉が突然出た。吐き出すみたいに。

「戸籍を焼かれた」


 ユキトの身体が、わずかに反応した。

 息が止まる。喉の奥の針が、別の方向へ刺さる。痛みが増すのではない。刺さる場所が変わる。

 戸籍焼却。

 戦後の混乱で起きた火事。そう呼ばれた事件。

 火事ではなかった。

 意図的だった。


 ユキトはツバキを見る時間がない。

 だが顔の横で、ツバキの息が震えているのが分かる。言った瞬間に、追手に聞かれたと思ったのだろう。名の話は、音になるだけで危険だ。


 ユキトは短く言った。

「誰が」

 問いは短い。詳しく聞かない。

 詳しく聞けば、ツバキは声を増やす。増えた声は、夜に刺さる。


 ツバキは首を振った。

「見てない。火が来た。墨が熱で酸っぱくなる匂いがして、紙が黒く縮んで」

 描写が具体的だ。嘘ではない。記憶だ。

「私の名のところが、黒い棒で塗られていた。朱印が押されて、そのあと火が来た」


 朱印。

 黒い棒。

 塗り潰し。

 それは処理の手順だ。火事の手順ではない。


 ユキトの指が白くなる。

 過去の映像が重なる。

 焼け焦げた木板。半分残った文字。焦げた墨の匂い。火が強いほど、墨は酸っぱくなる。あの匂いを、ユキトは知っている。


 背後で、足音が増えた。

 屋根の上だ。雪が鳴る。追手は路地ではなく屋根から追っている。上から見れば道を読める。逃げる人間は曲がる癖がある。袋小路を避ける癖がある。その癖を利用する。


 ユキトは立ち止まらない。

 立ち止まれば囲まれる。

 囲まれたら終わる。


 路地の角で、ユキトはツバキを引き寄せた。

 壁際に押し付ける。冷たい石がツバキの背に触れ、ツバキの肩が震える。

 ユキトは指を口元に当てた。

 静かに、という合図。


 黒装束が屋根の端に現れた。

 月光を背に、輪郭が黒く浮く。黒装束の腕に刺繍が見えた。

 雪輪。

 輪の中に小さな点が並ぶ紋。王都の治安組織の紋ではない。宰相府の中でも、表には出ない部署が使う紋だ。ユキトはそれを見た瞬間、胃が冷えた。


 影。

 宰相直属の影。


 黒装束は下を見下ろし、ゆっくりと首を動かす。

 探す動き。嗅ぐ動き。

 その目は人を見ていない。回収するものを見ている目だ。


 ユキトは息を止めた。

 息を止めると、心臓の音が大きくなる。耳の中でどくどく鳴る。指先が痺れる。血が指先へ行かない。

 ツバキの息が短くなる。喉が詰まる。目が見開かれ、白目が増える。

 恐怖の身体反応が、二人分、狭い路地に溜まる。


 黒装束がふっと顔を上げた。

 匂いを嗅いだ犬みたいに。

 気づかれたのではない。偶然だ。偶然の方が怖い。偶然は対策できない。


 ユキトは動いた。

 ツバキを引き、路地の奥へ滑り込む。足音を最小にする。雪を大きく踏まない。石畳の硬さを足の裏で読む。滑る場所を避ける。


 黒装束が言った。

「回収対象は女だ」

 声は遠いのに、はっきり届く。雪が音を殺しているのに、命令だけは刺さる。

「男は、不要」

 不要。

 その言葉は、ユキトの胸の奥を掻いた。

 不要だから殺していい。不要だから消していい。そういう論理が続く。


 ユキトは奥歯を噛んだ。

 それでも動きは乱れない。

 乱れたら終わる。


 狭い通りを抜けた先に、古い橋が見えた。

 橋の向こうは検問がある。灯りが多い。人がいる。人がいる場所は安全ではない。人がいる場所は名を問われる。名を問われる場所は、針が刺さる。


 ユキトは橋を避け、川沿いの低い道へ降りた。

 川は黒い。雪が落ちても溶けないように見える。水の匂いがする。冷たい匂い。生臭くない。冬の匂いだ。


 川沿いの石段の陰に入り、二人はようやく足を止めた。

 ツバキが膝に手をつく。肩が上下する。息が荒い。喉が鳴る。喉の傷が痛むのだろう。だが泣かない。声を上げない。

 声を上げれば、名を呼ばれる。

 その恐怖が、ツバキを黙らせている。


 ユキトは周囲を見回した。

 上に屋根。下に川。近くに古い米屋の裏倉庫。人の出入りは少ない。雪が積もり始めている。足跡が残る前に、決めなければならない。


 ツバキが小さく言った。

「あなたは、どうして」

 言葉が途切れる。

「どうして、名を言わないの」


 ユキトは一瞬、喉が固くなるのを感じた。

 針がそこにある。

 名を口にすることそのものが危険だ。名を問われることが危険だ。名を持つことが危険だ。


 ユキトは答えを選ぶ。

 選びすぎない。

 短く言う。


「言えない」

 それだけ。


 ツバキは眉を寄せる。

 怒りではない。理解しようとする顔だ。

「言えない、って」

「誓約だ」

 ユキトは言った。

 誓約、という言葉は出せた。名そのものではない。針は深く刺さらない。


 ツバキの指が白くなる。

「誓約で、名を捨てるの」

「捨てたわけじゃない」

 ユキトは短く言った。

「封じられた」


 封じられた。

 それは、剣より重い言葉だった。剣は折れる。だが封じられた名は折れない。折れないまま刺さり続ける。


 ツバキが小さく息を吐く。

「名がないと、存在しないって言われた」

「言われたか」

「言われた。紙を燃やす匂いの中で」

 ツバキの声が震える。寒さではない。記憶が身体を冷やしている。


 ユキトは川を見た。

 黒い水が流れている。水は名を持たない。持たないから、命令に従わない。流れるだけだ。流れるものが羨ましいと思った瞬間、自分が人間であることが嫌になる。


 背後で、雪が鳴った。

 屋根の上。追手が近い。足音が増えた。影が増えた。


 ユキトは立ち上がり、ツバキに言った。

「条件がある」

 ツバキが顔を上げる。目の奥に、警戒が戻る。


 ユキトは短く言う。

「俺の問いに嘘をつくな」

 ツバキの喉が上下する。

「嘘」

「嘘が混じれば、死ぬ」

 事務の結論だ。嘘は矛盾を増やす。矛盾は足を止める。足を止めれば囲まれる。


 ユキトは続けた。

「お前の名を取り戻すまで、勝手に死ぬな」

 ツバキの目がわずかに揺れる。

 名を取り戻す。

 それは希望に見える。だがツバキの揺れは喜びではない。怖さだ。名を取り戻した瞬間に何かが変わる。変わればまた奪われる。奪われるなら、最初から持たない方が楽だと、心のどこかが言っている。


 ツバキは小さく言った。

「名を取り戻したら」

 そこで言葉が止まる。

 息が浅くなる。指が白くなる。

「私は、何になるの」


 ユキトはその問いに、すぐ答えられなかった。

 答えがない問いだからだ。

 名を持てば、人になる。そう言いたい。だがツバキはもう人だ。名がなくても、人は人だ。

 この王都の論理は違う。名がない者は、存在しない。存在しない者は、守られない。守られない者は、奪われる。

 その歪みをどう言葉にすればいいのか、ユキトは知らなかった。


 ユキトは短く言った。

「お前になる」

 それだけ。

 慰めではない。約束でもない。

 今言える最小の真実。


 ツバキは目を伏せた。

 その目の動きが、痛かった。

 名を持つことが怖い。名を持たないことも怖い。どちらも怖い。

 それが、奪われた者の現実だった。


 雪が強くなってきた。

 粒が細かく、頬に当たると痛い。空気がさらに冷える。指先の感覚が鈍る。動かないと凍える。凍えれば判断が鈍る。鈍れば捕まる。


 ユキトはツバキの手を掴み、歩き出した。

「寺へ行く」

 ツバキが顔を上げる。

「寺」

「人の出入りが少ない。声も少ない」

 寺は名を問わない。少なくとも表向きは。祈りは名を超えるという顔をする。ユキトはその顔が好きではない。だが今は利用する。


 二人は川沿いを離れ、裏道へ入った。

 夜の王都は複雑だ。道が細い。家が密集している。屋根が重なり、影が増える。影が増えるほど追手は強い。追手は影に慣れている。ユキトも影に慣れている。

 慣れてしまったのが、嫌だった。


 寺は古い石段の上にあった。

 門は半分だけ開いている。雪が門柱に積もり、黒い木が白く縁取られている。境内は静かだ。鈴の音が遠い。風が木の枝を鳴らし、落ち葉の乾いた音がする。


 ユキトは足を止めた。

 寺の中は、名を呼ぶ声が出やすい。人が少ないほど、声が響く。響く声は耳に残る。耳に残る声は、追手にも残る。


 ツバキが門をくぐろうとして、ふと立ち止まった。

 門の内側に、小さな札が吊られている。墨で書かれた戒めの言葉。文字が滲み、古い紙の匂いがする。

 名が紙に乗る匂いだ。


 ツバキの肩が震える。

「ここも、紙がある」

 囁く声。

 紙がある場所は、名がある。名がある場所は、奪われる。ツバキの身体がそれを覚えている。


 ユキトは短く言った。

「見るな」

 ツバキは目を伏せ、門をくぐった。


 境内の奥から、僧が一人出てきた。

 若くはない。だが老人でもない。目が落ち着いている。歩き方が静かだ。雪を踏む音が小さい。寺で生きてきた足音だ。


 僧はユキトを見るなり、口を開きかけた。

 呼ぶつもりだったのだろう。

 名を。


 ユキトの身体が先に動いた。

 鋭く手を上げる。止める動き。刃ではないのに、刃のように速い。


「言うな」

 声は低い。短い。切るような声。


 僧の目が一瞬だけ見開かれ、すぐに落ち着く。

 僧は口を閉じ、ゆっくり息を吐いた。白い息が静かに消える。

「……封じられたか」

 僧は小さく言った。

 理解が早い。理解が早いのは危険でもある。知っているということは、関わっている可能性がある。


 ユキトは僧を見た。

 視線を逸らさない。敵か味方か分からない相手に、視線を逸らすのは悪手だ。


 僧はユキトの目を受け止め、頭を下げた。

「すまぬ。癖だ」

 癖。

 名を呼ぶ癖。

 寺でも人は名に縛られている。縛られない顔をしていても、縛られている。


 僧はツバキを見る。

 ツバキは外套の中で身体を小さくしている。視線が低い。自分の存在を薄くしようとしている。

 僧の目が一瞬だけ、ツバキの袖口へ落ちる。雪の小刀の位置を見たのかもしれない。


 ユキトの指が白くなる。

 刃を抜くほどではない。だが身構える。


 僧は何も言わず、境内の奥を示した。

「ここは夜は閉じている。だが、雪の夜に追われる者を門の外へ返すほど、私は清くない」

 台詞は長いのに、刺さる。清くない、という言葉が自分のことを言っているからだ。清い顔をして人を追い返す寺もある。清くないから助ける寺もある。どちらが正しいかは、誰にも言えない。


 ユキトは短く言った。

「借りる」

「借りろ」

 僧の返事も短い。


 三人は本堂の脇を通り、小さな離れへ入った。

 中は暗い。畳の匂い。古い木の匂い。線香の残り香。紙の匂いが薄く混じる。

 ユキトは紙の匂いが嫌だった。だが寺の紙は、役所の紙ほど冷たくない。墨の匂いも、少しだけ柔らかい。


 ツバキは畳に膝をついた瞬間、肩が落ちた。

 安心ではない。力が抜けただけだ。人は逃げ続けると、止まった瞬間に崩れる。


 僧が水を出した。

 木の椀。水は冷たい。だが喉を通ると少し生き返る。ツバキは椀を両手で持ち、少しずつ飲んだ。飲むとき、喉が痛むのか眉が寄る。痛みを言葉にしない。身体で出す。


 僧がユキトに言った。

「追われているな」

 ユキトは頷く。

「影だ」

 僧の目が少しだけ細くなる。

「雪輪か」

 ユキトは頷いた。


 僧は息を吐いた。

「宰相の影は、ここにも来る」

 ユキトの胸が冷えた。

「寺にも」

「寺にも」

 僧は短く言う。

「名を守るためと言って、名を奪う」

 言葉が短いのに、重い。寺がそれを知っているという事実が重い。


 ツバキが小さく言った。

「名を守るため」

 その言葉を口にしただけで、ツバキの肩が震える。過去の言葉だ。誰かがそう言って、紙を燃やしたのだろう。


 僧はツバキを見た。

「名を失ったか」

 ツバキは頷く。頷きは小さい。

「私は……消された」

 声が掠れる。けれど言う。言わないと消され続ける。


 僧は頷き、畳の端を指で叩いた。

「床下だ」

 ユキトが目を細める。

「床下に何がある」

「灰だ」

 僧の言い方が嫌だった。灰は紙の最後だ。名の最後だ。


 僧は畳を上げ、床板の一部を外した。

 冷たい空気が上がってくる。土の匂い。湿った木の匂い。そして、焦げた匂い。紙が燃えた匂いではない。木が焦げた匂い。墨が焦げた匂い。火が残した匂い。


 床下に、束があった。

 木の板。薄い板。戸籍板だ。紙ではなく板に墨で書かれた記録。古い形式。火事のあとに残りやすい。残りやすいからこそ、燃やす側は徹底して割る。だが割れた破片は残る。残った破片が、真実の断片になる。


 ユキトは息を止めた。

 針が動く。

 名の断片がここにある。名が紙や板にあるのが嫌なのに、ここにある名の断片が必要になる。矛盾に吐き気がした。


 僧が言った。

「拾った」

「どこで」

「川の下流」

 僧は短く答える。

「火のあとに、流れてくる」

 戸籍板が流れてくる王都。名が燃やされ、灰が川を流れる王都。寺はそれを拾って隠す。清くない寺だ。


 ツバキが床下を覗き込んだ。

 匂いに反応して、眉が寄る。墨の酸っぱい匂い。熱で変質した匂い。記憶が刺さる匂い。

 ツバキの指が白くなる。

 息が浅くなる。

 それでも目を逸らさない。逸らしたら、また消される。


 ユキトは束を取り上げ、板の表面を見る。

 墨が滲んでいる。焦げて黒い部分がある。割れて欠けている。けれど、文字が残っている箇所がある。

 年。

 村。

 家。

 そして、名。


 ユキトは読もうとして、喉が痛む。

 針が深く刺さる。

 名を読むことが危険なのか。

 それとも、読もうとする自分が危険なのか。


 ツバキが震える声で言った。

「私の……名が」

 言いかけて、喉が詰まる。息が吸えない。指が畳を掴み、爪が白くなる。

 ツバキは自分の身体反応に気づき、唇を噛んだ。泣かない。泣けば喉が裂ける。裂けた喉から名が漏れるのが怖い。


 僧が静かに言った。

「全部は残っておらぬ」

「……一部だけでも」

 ツバキの声は小さい。だが必死だ。必死を叫びにしないのが、この女の強さだった。


 ユキトは板を一枚ずつ、短く確かめる。

 時間をかければ追手が来る。だが急げば見落とす。見落とせば、ツバキの名の断片が消える。消えたら、声が作れない。


 ユキトは指先で墨の線をなぞった。

 ざらつく。焦げた板のざらつき。指の腹が傷つく。血がにじみそうになる。血の鉄臭さが少し出る。鉄臭さは、記憶を呼ぶ。ユキトは眉を寄せる。


 板の端に、文字が残っていた。

 名の一部。

 最初の一文字と、最後の一画が欠けた二文字目。

 完全な名ではない。だが、名の影だ。呼び声の影だ。


 ツバキが息を止める。

 目がその文字に吸い寄せられる。

 震えが止まらない。けれど目は逸らさない。


 ユキトは声に出して読まない。

 読むだけで針が刺さる。声に出したら、針が骨まで届く。

 ユキトは板をツバキの前に置き、指でその文字を示した。


 ツバキの唇が動く。

 音にならない。

 喉の奥で名前の形だけが動き、外へ出ない。出せない。出したら奪われる。身体がそう知っている。


 僧が言った。

「名は武器だ」

 短い言葉。

 寺の言葉なのに、冷たい。

「持てば狙われる。捨てれば死ぬ」

 続けて短い。

 真理が短い言葉に乗ると、逃げ道がなくなる。


 ツバキの肩が揺れる。

 泣きそうなのに泣かない。声が出そうなのに出さない。喉が詰まっている。指が白い。息が浅い。

 身体が全部、名の重さを受けている。


 ユキトは板を掴み、元の束に戻した。

「持ち出せない」

 ユキトが言う。

 ツバキが顔を上げる。目に怒りが混じる。

「どうして」

「紙も板も、見つかれば燃える」

 ユキトの声は乾いている。

「燃えたら終わる」

 終わるのは板だけではない。ここに隠した僧も終わる。寺も終わる。ツバキも終わる。ユキトも終わる。


 僧が頷く。

「ここに置く。だが、覚えろ」

「覚える」

 ツバキが言った。

 声は小さい。だが硬い。

 覚えるという行為が、告発の始まりだ。紙が燃えるなら、記憶が紙になる。記憶を声にする者がいれば、紙は要らない。紙より危ういけれど、紙より強い。


 外で、雪が強くなった。

 屋根を叩く音がする。粒が大きくなっている。音が増える。音が増えると追手の足音は紛れる。紛れるのは追う側に有利だ。追う側は音を使わない。気配で追う。


 僧が言った。

「長居はできぬ」

 ユキトは頷いた。

 ツバキも頷く。頷きは遅い。板に残った文字が、まだ胸に刺さっているのだろう。


 ユキトはツバキに言った。

「行く」

 ツバキが立ち上がる。

 足が少しよろける。疲労がある。恐怖がある。だが倒れない。倒れたら回収されると知っている。


 僧が二人に外套を渡す。

 僧はユキトを見て、口を開きかけ、すぐ閉じた。

 名を呼びそうになったのだ。癖だ。癖は怖い。癖は油断だ。油断は死だ。


 ユキトは僧に短く言った。

「感謝は言わない」

 僧が目を細める。

「言わぬ方が良い」

 僧の返事も短い。

 感謝を言うと縁が生まれる。縁が生まれると名が生まれる。名が生まれると狙われる。ここでは、優しさも武器になる。


 二人は寺を出た。

 門をくぐると、雪が顔に当たった。冷たい。痛い。目が潤みそうになる。涙は出ない。涙が出ると、感情が声になる。声になると名になる。


 階段を降りながら、ツバキが小さく言った。

「私は、覚えた」

 ユキトは頷く。

「忘れるな」

 言葉は命令に近い。だが命令にしないと、守れないものがある。


 寺の屋根の上に、影が一瞬だけ動いた。

 黒装束ではない。鳥かもしれない。雪が光って見えただけかもしれない。

 だがユキトの背中の皮膚が、嫌な感じで粟立った。

 見られている。

 王都はいつも見ている。名を数えるために。


 ユキトはツバキの手を掴み直す。

 ツバキの手はまだ冷たい。

 けれど、さっきより少しだけ力が入っている。小刀を握っているからではない。名の断片を握っているからだ。声にならない名の形を、胸の奥で握っている。


 ユキトは歩きながら思った。

 自分は守る人間ではない。

 救う人間でもない。

 ただ、止める人間だ。

 奪われるのを止める。回収されるのを止める。命令に従う身体を止める。

 止めるだけで、いつか声が残るように。


 雪は降り続ける。

 足跡はすぐ薄くなる。

 白は世界を隠す。罪も、血も、嘘も。

 その白の下で、燃え残りの文字が小さく息をしている。


 名はまだ戻らない。

 だが、完全に消されてもいない。


 ユキトの喉の奥の針が、わずかに動いた。

 痛みはある。

 痛みがある限り、終わっていない。

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