名を捨てた剣士と、名を奪われた姫

林凍

第1話 雪の下の処刑台

 雪は、音を薄くする。

 王都の夜は、いつもより静かだった。鐘楼の鐘が鳴っても、響きは途中で濡れた布に吸われたみたいに短くなる。風はあるのに、木の枝は揺れない。空気だけが動き、街灯の光だけが揺れている。


 広場の中央に、処刑台が組まれていた。

 新しい木だ。切り口の匂いがまだ甘い。縄は固く撚られ、霜が薄く付いている。踏み固められた雪の上に、黒い影が輪になっていた。見物人だ。

 顔が見えない。帽子の影、外套の襟、息の白さ。誰が誰なのか、判別する気が最初からない群れだった。個人の輪郭が消えている。名を呼ばれない場所の顔だ。


 輪の外側を、一人の男が歩いていた。

 外套は古く、肩の縫い目がわずかに浮いている。手袋は指の腹が擦り減り、雪を握るとすぐ冷えが染みる。腰の刀は、鞘の漆が欠けていた。金具に細かな傷があり、磨かれた形跡が薄い。長い付き合いの武器だと、触れた手が知っている。


 男は人の視線を避けるように、顎を少し引いて歩いた。

 目は広場の端から端へ、滑らせるように走る。人ではなく、動きだけを拾う目。誰が笑ったか、誰が咳をしたか、誰が手を上げたか。名も顔も要らない。危険は形で来る。風のように。


 門を抜けるとき、門番が声をかけた。

「止まれ。名は」


 男の足が止まる。

 止まったのは身体の都合ではない。反射だった。喉が先に固くなる。口を開ければ、冷たい針が刺さる感覚がある。骨まで届く、細い痛み。息が浅くなる。胸の奥がきしむ。

 男は返事をしなかった。


 代わりに、掌を開き、銭を二枚、雪の上に置いた。

 門番の視線が銭に落ちる。小さな欲が先に動く。男はその隙を、自然に通り抜けた。背中に刺さる視線が一瞬だけあったが、すぐに消えた。


 名を言えない。

 言わないのではない。言えない。

 口の中にあるはずの音が、喉の途中で凍る。名を外へ出せば、戻ってくる。自分ではなく、命令として。そういう仕組みに、身体が慣れてしまっている。


 処刑台の下に女がいた。

 縛られた手首は細い。縄が食い込み、赤い線が走っている。頬に青い痣。口元には裂けた古傷があり、乾いた血が薄く残っていた。拷問の痕だろう。けれど女の目は揺れていなかった。

 恐怖より、静けさが勝っている。

 諦めに似ていて、でも燃え尽きていない静けさ。


 女は見物人を見なかった。

 処刑台の木目を見ている。木の節、縄の毛羽、霜の粒。目の焦点がそこに固定されている。雪が睫毛に落ちても拭わない。呼吸は浅いが、乱れていない。

 それが、男の胃をきしませた。


 戦場の匂いがしたからだ。

 血の鉄臭さではない。終わった後の、誰も声を上げない時間の匂い。濡れた土、焼けた布、冷えた金属。勝者の笑いと、敗者の沈黙が混じった空気。あの空気が、女の周りに貼りついている。


 処刑人が台に上がった。

 合図の棒が振り上げられ、見物人の輪が小さくうねる。誰かが息を吸い、誰かが笑い、誰かが手を叩く。声は雪に吸われて丸くなるのに、悪意だけは残る。


 そのとき、石が飛んだ。

 小さな石だ。子どもでも投げられる軽さ。けれど狙いは正確で、女の額に当たった。鈍い音。雪の白に赤が弾ける。

 見物人が笑った。


 笑いは輪になって広がった。

 火が紙を舐めるみたいに、静かな速度で拡大していく。誰も止めない。止めた者の顔が見えるからだ。見えた瞬間、次は自分が標的になる。だから笑う。笑うことで輪郭を消す。


 男の喉が詰まった。

 息が浅くなる。口の中に酸っぱさが上がる。胃がひっくり返りそうで、男は外套の襟を握った。指が白くなる。視界の端が一瞬だけ暗くなり、そこに別の光景が重なった。

 白い雪ではない。

 泥と煙。

 倒れた兵。

 乾いた叫び。

 そして、命令の声。


 引き返せない。

 正義ではない。誓いでもない。

 ただ、過去が引き返すことを許さない。見過ごした瞬間に、自分の中で何かが折れる。それを男は知っている。


 処刑人の手が動く。

 縄が引かれる。女の身体がわずかに浮く。


 男は歩き出した。

 輪の中へ、押し入るのではなく、滑り込む。肩が触れる寸前で体をずらし、視線を避け、足音を雪に溶かす。喧騒はない。大声もない。これは乱入ではなく、処理だ。自分がやるべき仕事のように、男の身体が動いた。


 刀は抜かない。

 抜けば光る。光れば目が集まる。

 男は手袋の中で、短い刃を握った。腰の小刀。柄は冷たく、皮が湿っている。指先に馴染んだ感触がある。


 最初の一手は、処刑台の支柱の陰に立つ見張りの膝だった。

 膝裏に刃を入れる。深くない。筋だけを切る。声が出る前に、男は口元を押さえ、耳元で息を吐いた。見張りの身体が崩れる。雪が舞い、足元で黒い影が伸びる。


 二人目は縄を握る男の手首だ。

 刃を当てて引く。皮膚が開き、指が力を失う。縄が緩む。女の身体が落ちる。

 男は落下の衝撃を最小にするよう、肩で受け止めた。女は軽かった。軽すぎる。骨の角ばった重みだけがある。生きている人間の重さが削られた感じがした。


 処刑人が気づく。

 合図の笛を咥えようとする。男は迷わない。喉を切る必要はない。笛を鳴らす手を切ればいい。刃が手の甲を浅く裂き、笛が雪の上に転がる。音は出ない。雪が吸う。


 剣戟は長くしない。

 派手さより結果。

 男は刀を抜いた。古い刀身が月明かりを拾う。次の瞬間、二つの影が倒れていた。


 どこを斬ったかは、すぐには分からない。

 血も大げさに飛ばない。雪が吸う。けれど遅れて、膝が折れ、腕が落ち、武器が転がった。人は当たった結果で倒れる。強さは、音ではなく結果で分かる。


 男は女の手首の縄を断ち、外套で包むように抱え上げた。

「動けるか」

 女は一瞬、男の顔を見た。瞳の黒が濃い。測る目だ。恐怖ではない。判断の目。

「……動ける」

 声は掠れていた。喉が傷んでいる。けれど芯は折れていない。


 男は頷き、走り出した。

 広場の灯りの外へ。

 路地へ。

 雪の足跡が残る。男は足を置く位置を選び、踏み込みを浅くした。古い癖だ。追われたとき、残るのは足跡だと身体が知っている。戦場でも、王都でも。


 女の走り方は、隠しきれない育ちを滲ませた。

 転び方を知らない。肩をすくめて雪を避ける。足首の角度が綺麗だ。息が乱れても、身体の線が崩れない。

 男はそれを見て、胸の奥が嫌な音を立てた。

 高い場所から落とされた人間の匂いがする。


 背後でようやく笛が鳴った。

 夜の中で、音だけが生き残る。雪は音を殺すはずなのに、笛だけは刺さる。遠くの屋根の上で、影が動く気配が増えた。


 男は女を引き、路地を曲がる。

 壁は冷たい。石の継ぎ目に雪が詰まっている。古い店の看板が半分だけ残り、墨が滲んだ文字が読めない。名が消えた看板だ。

 王都にはこういうものが多い。誰かがここにいた証が、意図的に薄くされている。


 女が言った。

「あなた、名は?」

 男の足が一瞬だけ鈍る。喉の奥が痛む。針が動く。


 答えない。

 沈黙が、痛い。

 沈黙は逃げるための道具になるはずなのに、今は逆に身体を締めつけた。


 女は少しだけ視線を落とし、雪を踏む音に混ぜるように言った。

「……私も、名がない」

 その一言で、男の胸が鈍く鳴った。


 名がない。

 それは自由ではない。

 消されたということだ。


 男は女の顔を横目で見る。

 女は笑っていない。泣いてもいない。淡々としている。淡々とすることで、壊れないようにしている顔だ。身体のどこかに、感情を置く場所がない。置けば割れる。だからしまう。しまったまま歩く。


「どこへ」

 女が聞く。

 男は短く言った。

「ここから出る」


 追手が近い。

 屋根の上の影が一つ、落ちてきた。雪の粒が空中で散り、黒装束が路地の先に着地する。足音がほとんどしない。訓練された身体だ。


 黒装束は二人だった。もう一人が別の路地口に立つ。囲む動き。獣ではない。兵だ。仕事として殺す者の動きだ。

 男は女を壁際に寄せ、自分が前へ出た。刀を構える。刀身に月光が走る。その途中で、わずかに乱れた。

 刃に小さな欠けがあった。

 欠けは小さいのに、目に刺さる。欠けのせいで、月光の線が歪む。男の過去も、同じ場所で歪んだ。


 黒装束の一人が、低い声で言った。

「名を問うな」

 命令ではない。警告でもない。

 規則の確認だ。秩序側の礼儀だ。


 男は息を吐いた。

「……名が人を殺すのか」

 自分でも驚くほど、声が出た。


 黒装束は首を傾けもしない。

「名は人を縛る。縛られた者は、命令に従う。従わぬ者は、存在を失う」

 言葉は冷たい。けれど嘘ではない。嘘を言う必要がない側の言葉だ。


 男は短く踏み込み、黒装束の手首を狙った。

 刃が走る。黒装束は半歩退き、刃を避ける。避けた後の動きが綺麗だ。訓練の匂いがする。恐怖で動かない。理念で動く者だ。


 もう一人の黒装束が、女の方へ回り込もうとする。

 男はそれを見て、刀を振った。派手な斬撃ではない。線を引くように、正確に。黒装束の膝を割る。骨が鳴る。黒装束は倒れながらも声を上げない。痛みをしまう訓練を受けている。


 男は黒装束の胸元へ刃を向けた。

 距離は斬れる距離。けれど斬らない距離。

 男は殺しに慣れている。だからこそ、ここで殺すことの意味が分かる。死体は騒ぎを大きくする。騒ぎは検問を増やす。検問は女の逃げ道を潰す。


 黒装束が言った。

「お前は王の影に触れた」

 その言葉で、男の喉がまた痛んだ。針が深く刺さる。


 王の影。

 王都の夜の仕事。

 名を奪う命令。

 そして、名を名乗れない誓約。


 男は答えない。

 答えれば、針が骨まで届く。


 黒装束は続けた。

「影に触れた者は影になる。影は名を持たぬ。名を持たぬ者は命令だけで動く」

 それは、脅しではない。説明だった。秩序側の論理だ。自分たちが正しいと信じている者の声だ。


 男の指が白くなる。

 けれど腕は揺れない。揺れない腕が、逆に男の中の空洞を見せる。感情が抜け落ちた穴。そこに仕事だけが残っている。


 女が壁際で息を呑んだ。

 男は背中でそれを感じる。


 黒装束のもう一人が、膝を割られながらも立ち上がろうとする。執念ではない。職務だ。職務は執念より強いときがある。個人の感情が介在しないからだ。


 男は短く刃を走らせ、黒装束の肩口を裂いた。

 深くない。けれど腕の力は落ちる。武器が雪に落ち、黒装束は膝をついた。そこでようやく、黒装束の目が男を正面から捉える。

 冷たい目だ。だが憎しみではない。秩序を守る目だ。


「なぜ殺さない」

 黒装束が言った。

 問いは純粋だった。殺さない理由が分からない。秩序の側にいる者は、例外を嫌う。


 男は短く答えた。

「今夜の仕事を増やしたくない」

 皮肉ではない。事務の結論だ。


 黒装束は一瞬だけ、目を細めた。

 そして、礼儀正しく一礼した。

「次は逃がさない」

 宣言でも脅しでもない。報告だ。


 黒装束は仲間の腕を引き、屋根の影へ消えた。

 雪の粒が空中で散り、路地はまた静かになる。笛の音だけが遠くに残り、すぐに薄くなる。


 男は刀を鞘に戻した。

 手袋の中で指が微かに震えている。寒さではない。痛みが遅れて来ている。過去が今夜に追いつく震えだ。

 男はその震えを押し殺し、女の手首を掴んだ。


「走る」

 それだけ言って、男は女を引いた。


 路地を抜け、狭い階段を上り、屋根の低い通りを渡る。雪は細かく、髪に触れて溶ける。頭皮が冷え、感覚が冴える。冴えすぎて、過去の匂いまで鮮明になる。

 焼けた紙の匂い。

 墨が熱で酸っぱくなる匂い。

 それが王都のどこかに漂っている。


 女が男の腕を引いた。

「待って」

 男が止まる。止まった瞬間、胸の奥が痛む。止まると、針が刺さる。動いていれば、針は揺れて痛みがぼやける。止まると痛みが輪郭を持つ。


「……あれを」

 女は自分の袖口を押さえる。袖の中で何かが固い。

 男は目を細めた。

「それ、何だ」

 女は迷い、唇を噛んだ。指が白くなる。息が浅くなる。感情を言葉にする前に、身体が先に反応する。


 女の袖口から、小さなものがこぼれた。

 雪の文様が彫られた小刀。

 柄は古く、しかし意匠は王家の匂いを持っていた。雪の結晶のような紋。細かな線。朱印のように整った刻み。

 男の胃が冷えた。


 王家のものだ。

 けれど女が持っていていいはずがない。

 王都は、そういうものを許さない。許すのは、許される者だけだ。


「それを、どこで」

 男が言いかけたとき、屋根の上で小さな音がした。

 雪が、ずれる音。

 視線を上げると、黒装束がもう一人いた。先ほどの二人とは違う。動きがさらに軽い。影が薄い。気配が遅れて見える。


 黒装束は言った。

「渡せ」

 声は低い。礼儀がある。だが命令が先にある。

「それは王家の鍵だ」


 男の喉がきしんだ。

 鍵。

 その言葉が、ある場所の冷たい空気を連れてきた。石の階段。鉄の扉。湿った紙の匂い。自分が触れてはいけなかったもの。

 男の過去が、鍵という言葉に反応している。


 女は小刀を握り締めた。

「これは……私のじゃない」

 声が震える。震えは恐怖だけではない。怒りが混じっている。名を奪われた者の怒り。奪われたのに、まだ奪われ続ける怒り。


 黒装束は首を振らない。

「名を持たぬ者に所有はない」

 それが秩序の論理だ。

 所有は名に紐づく。名がなければ、何も持てない。持った瞬間、それは盗みになる。だから奪っていい。奪う側は盗まない。奪う側は回収するだけだ。


 男は一歩、前に出た。

 刀を抜く。古い刀身が月光を拾う。刃の欠けがまた目に刺さる。欠けは過去の形だ。直せない歪みだ。

 男は欠けを隠すように、刃の角度を変えた。


「通すな」

 男が短く言う。

 女が息を呑む気配がする。男の背中の筋肉が硬くなる。命令のような言葉が口から出たことに、自分が驚く。自分が誰に命令しているのか、分かっていない。分かっていないのに、身体が言う。実務者の言葉だ。


 黒装束が落ちてくる。

 男は半歩ずらし、刃の線を外す。短く斬る。相手の手首を狙う。黒装束は引かない。刃を捨てるように前へ出て、男の胸へ体当たりする。

 狙いは刀ではなく体勢。

 男の背が壁に当たり、雪が落ちた。視界が白く曇る。白の中で、黒装束の気配だけが鋭く立つ。


 男は肘で押し返し、足を踏み替える。

 黒装束の膝を狙う。骨を折る必要はない。関節の角度を崩せばいい。次の一手で黒装束は体勢を崩し、雪に片膝をついた。


 黒装束の目が男を見上げる。

「お前は……まだ人を殺すのか」

 言い方が少しだけ変わった。命令ではない。観察だ。秩序側の兵が、個人として一瞬だけ口を開いた感じがした。


 男は答えない。

 答えられない。

 殺してきた。殺さなくてもよかったものも、殺した。命令のために。名のために。あるいは名を守るために、と言われたために。

 そのどれもが、今夜の雪より冷たい。


 男は黒装束の喉元へ刃を向け、止めた。

 斬らない。殺さない。

 ここで殺しても、何も変わらない。夜の仕事が増えるだけだ。秩序は死体を糧に強くなる。恐怖が増す。検問が増す。名を奪う火がまた燃える。


「行け」

 男が言った。


 黒装束は動かない。

 動けないのではない。判断している。命令と現実の間で、短い時間だけ揺れる。秩序側の兵にも、その揺れはある。揺れを見せた瞬間、兵は個人になる。個人になった兵は、後で処理される。

 だから揺れは短い。


 黒装束はゆっくり立ち上がり、礼儀正しく一礼した。

「次は、逃がさない」

 報告の声。秩序の声。個人の温度を消した声だ。

 黒装束は屋根へ跳び、影へ溶けた。


 男は息を吐いた。

 吐く息が白く出る。止めていた息がやっと外へ出た。肺が少し痛い。喉の奥の針が微かに動く。痛みは消えない。痛みは、自分がまだ生きている証拠みたいに残る。


 女が小刀を握ったまま、男の背中に近づいた。

「今の人たち……あなたを知ってる」

 声が震える。息が浅い。

 男は短く言った。

「知っている側がいる」


 女はさらに聞こうとした。

「あなたは、何を」

 男は女の言葉を途中で切った。

「今は走る」

 それだけ。


 二人は屋根の低い通りを抜け、裏道へ入った。

 路地の壁に、古い張り紙が重なっている。紙の端が湿ってめくれ、墨が滲む。そこに、名簿の断片が見えた。誰かの名、年、印。

 黒い筋で塗り潰された箇所がある。

 男はそこを見ないように視線を逸らした。


 女が小声で言った。

「紙……」

 男は足を止めずに言う。

「見ない方がいい」

「でも」

「見たら、名が刺さる」

 自分でも変な言い方だと思った。けれど他に言い方がない。名は針のように刺さる。見た瞬間に、自分の中に入り込み、命令になる。


 女は黙った。

 黙ったまま、男の横を走った。雪を踏む音が二人分になり、少しだけリズムが揃っていく。

 揃うたびに、男の胸が痛む。誰かと歩調を合わせることに慣れていない。合わせた瞬間に、失う未来が見えるからだ。


 通りの角を曲がったところで、男は急に立ち止まった。

 女がぶつかりそうになり、慌てて足を止める。

 男は耳を澄ました。遠くの笛。足音。屋根の上の雪がずれる音。

 追手が増えている。


 男は女の肩を掴み、狭い階段へ押し込んだ。

 階段は古い。手すりが冷たく、指が凍る。上がる先は屋根裏の通路だ。誰も使わない。使わないから、見張りもいない。


 屋根裏は暗い。木の匂いが濃い。埃が舞い、鼻の奥がむずむずする。男はそこを抜け、隣の屋根へ出た。

 雪が薄く積もっている。踏めばきしむ。きしみは小さいのに、夜には大きく聞こえる。


 女が言った。

「その小刀……鍵だって言ってた」

 男は頷く。

「そう呼ばれている」

「何の鍵」

 男は答えない。答えれば針が刺さる場所がある。自分の過去がそこに繋がっている。

 代わりに、男は女の手元を見る。女は小刀を落とさないよう、握り方を変えている。指が白い。血が引いている。寒さではない。怖さだ。


 男は女の手に、自分の手袋越しの指を重ねた。

 慰めではない。

 落とすな、という指示だ。

 落とした瞬間に、追手の正しさが増す。回収という名で奪われる。女はまた何も持てなくなる。


 屋根の端で、男は街を見下ろした。

 王都は白い。雪が屋根を均し、道を消し、汚れを隠す。けれど白の下に、火の痕がある。紙が燃えた匂いが、風に混じってくる。どこかで戸籍が焼かれている。名が燃えている。

 それが、今夜の静けさの正体だった。


 女が言った。

「名がないと、存在しないって」

 男は短く答えた。

「この王都では、そう扱われる」


 女は唇を噛み、息を整えようとする。喉が引っかかる。声が出にくい。拷問の痕がある喉だ。

 それでも女は言った。

「私は……消された」

「理由は」

 男が聞くと、女は少しだけ目を伏せた。

 答えを言えば、針が刺さるのは女の方だ。名に触れれば触れるほど、命令が生まれる。命令を生むのは秩序側だ。けれど命令に刺されるのは、名を持たぬ側だ。


「理由は、まだ言えない」

 女はそう言った。

 言えない、と言うときの顔だった。言わない、ではない。喉が拒否している顔だ。

「でも……嘘がある」

 その言葉だけは、出た。


 男の胸が少しだけ熱くなる。

 熱は怒りではない。仕事の熱だ。嘘があるなら、矛盾がある。矛盾は紙に残る。紙は燃やされる。燃やされたなら、燃え残りがある。灰の匂いがする場所がある。

 断片が集まれば、声になる。


 男は女に言った。

「歩けるか」

 女は頷いた。

 頷き方が、決意のそれだった。名がない者の決意は、声にしないと消される。消される前に、自分の中で固める必要がある。女はそれをしている。


 男は屋根から屋根へ渡り、裏道へ降りた。

 降りた先の路地には、人がいない。雪がまだ柔らかい。誰も歩いていない証拠だ。ここなら追手の足跡がすぐ分かる。

 男は女を連れて歩き出した。


 しばらくして、女が小声で言った。

「あなたは……何者なの」

 男は答えない。

 答えるには名が要る。名が要れば針が刺さる。

 男は自分が何者かを、言葉で説明できない。説明できるほど整った人生ではない。


 代わりに、男は言った。

「実務者だ」

 短い言葉。

 それだけで、女は少しだけ理解した顔をした。英雄ではない。救世主ではない。名を掲げて戦う者ではない。やらなければ終わらないことを、やる者。

 傷を抱えたまま、仕事として生きる者。


 路地の突き当たりで、男は立ち止まった。

 扉があった。古い木の扉。飾り気がない。取っ手は冷え、金具は錆びている。扉の周りの雪だけが不自然に踏み固められている。人の出入りがある。

 男は扉を三度叩く。間を置く。もう一度だけ短く叩く。


 内側で足音がした。

 鍵が外れ、扉が少し開く。


 顔を出したのは女だった。年は若くない。だが老いてもいない。目だけが鋭い。眠っていない目だ。

「遅い」

 それだけ言って、女は二人を中へ入れた。


 室内は狭い。倉庫に近い。干し草の匂い。古い酒の甘さ。壁際に麻袋が積まれ、小さな炉の火が弱く燃えている。けれど暖かい。外の冷えが一枚の布を隔てただけで遠くなる。


 女は外套を外されたとき、初めて身体が震えた。

 寒さではない。張り詰めていた糸が緩んだ震えだ。

 男はそれを見ても、慰めの言葉を言わない。言葉は軽い。今は役に立たない。役に立つのは、火と水と、時間だけだ。


 扉の女が、ツバキの傷を見た。

 額の血。口元の裂け。手首の縄の痕。

 女は舌打ちしそうになり、それを飲み込んだ。怒りがあるのに、無駄を嫌う顔だ。


「水」

 女は桶を差し出した。

 男はツバキの口元を洗わせた。水が傷に触れ、ツバキは眉を寄せた。声は出さない。痛みをしまう癖がある。

 男はその癖に覚えがあった。自分もそうだったからだ。


 扉の女が男を見た。

「名は」

 男の手が一瞬止まる。


 扉の女はため息を吐いた。

「聞くな。こいつは言えない」

「言えない?」

 ツバキが小さく聞き返す。

「言うと死ぬ。そういう類だ」

 女はさらりと言った。冗談のように。だが目は冗談を許していない。


 ツバキは桶の水面を見た。

 そこに自分の顔が映る。痣と裂けた口元と血の跡。名がある顔ではない。名を呼ばれた記憶が遠い顔だ。


 ツバキは小さく言った。

「私は……ツバキ」

 名を名乗ったというより、最後に残った札を差し出す声だった。

「そう呼ばれていた」


 扉の女が眉を上げた。

「呼ばれていた、ね」

 男はその言葉を反芻しない。反芻すれば針が動くからだ。


 男はツバキの袖口に視線を落とした。

 雪の文様の小刀。さっき路地で見た瞬間に、胃が冷えたもの。

 男は言った。

「それを見せろ」

 命令の口調になったことに、自分で気づいて少しだけ眉が動く。けれど今は訂正しない。訂正は甘さになる。甘さは死に繋がる。


 ツバキは袖の中で小刀を握り、首を振った。

「取られたくない」

「取らない」

 男は短く返した。誓いではない。事実だけだ。

「ただ、どこで手に入れた」


 ツバキは目を閉じた。

 喉が上下する。息が浅くなる。感情を言葉にする前に、身体が先に反応する。

「牢で……隣の房の女が」

「名は」

 扉の女が問う。

 ツバキは首を振った。

「名は言わなかった。言えば死ぬって」

 男の胸が痛んだ。針が動く。けれど止まらない。針が刺さる場所に、今夜は何度も触れることになる。


 扉の女が火に薪を足しながら言った。

「それが王家の鍵だって、黒装束が言ったな」

 男は頷く。

「言った」

「なら、王都の地下だ」

 女は断定した。

「王家の隠し文庫。紙でできた王都の心臓だ。そこにあるものが外へ出たら困る連中がいる」

「宰相派?」

 男が言うと、女は鼻で笑った。

「宰相派だけじゃない。王家そのものかもしれないし、王家を名乗る影かもしれない。どっちでも同じだよ。火と影はつながってる」


 ツバキが小さく言った。

「私は……ただ、嘘を止めたかった」

 それが、彼女の感情だった。叫びではない。泣き声でもない。事務的な痛みだ。

「嘘のせいで、人が死んだ」


 男は炉の火を見た。

 火は小さく踊り、薪の端を黒く焦がす。

 火は紙を消す。

 紙は名を持つ。

 名が消えれば、存在が消える。


 男は自分の喉の奥の痛みを確かめるように、息を吐いた。

 針はまだある。

 それは誓約の痛みだ。命令の痛みだ。自分が名を持てない理由の痛みだ。


 扉の女が言った。

「黒装束が来る。今夜だけじゃない。明日も、明後日も。鍵がある限り、来る」

 ツバキは炉の火を見つめたまま言った。

「私が言えば、変わる?」

 問いは幼くない。現実を知っている問いだ。声を上げても潰される。潰されるのに、上げる意味があるのか。そういう問い。


 男は即答しなかった。

 世界は単純じゃない。

 声を上げた者は、まず消される。名を奪われる。紙が燃える。縁が燃える。助ける理由が燃える。

 それでも、男は知っている。

 暴力では終わらないことを。

 終わらせるには、紙が要ることを。

 矛盾を示す断片。朱印の順番。年号のずれ。灰の匂い。燃え残った紙片。

 そして、読み上げる声。


 男は短く言った。

「変わる」

 言い切ることで、自分を縛った。縛られるのは怖い。けれど縛られなければ、人は止まる。止まった瞬間に、針が刺さる。


 ツバキは小刀を握った。

 握った指が白い。けれど目は揺れていない。

「なら……私は逃げない」

 その言葉は、勝利宣言ではない。負けを受け入れた者の覚悟だ。負けた者は、嘘の側に組み込まれない。嘘の側は勝者を求める。負けた者は、負けのまま声になる。


 扉の女が鼻で笑った。

「死ぬなよ」

 乱暴な言い方だが、助ける側の礼儀だ。


 外で、微かな笛の音がした。

 遠い。けれど近づいている。雪が音を薄くしても、笛だけは刺さる。


 男は立ち上がった。

「ここを出る」

 扉の女が眉をひそめる。

「今夜に?」

「今夜に」

 男は短く言った。

 時間を置けば、検問が増える。黒装束の数が増える。火が増える。名が燃える。

 今夜に動くしかない。


 ツバキが立とうとして、よろけた。

 疲労が遅れて来る。張り詰めていた糸が緩んだ反動だ。足首が頼りない。

 男はツバキの腕を掴んだ。掴む力は強くない。支える力だ。


 扉の女が外套を投げてよこした。

「これを使え。目立つ」

 男は受け取り、ツバキに着せる。外套は男物で大きい。ツバキの肩がその中で小さくなる。


 男は扉に手をかけ、外の気配を読む。

 雪の匂い。石の冷たさ。遠い笛。屋根の上の雪がずれる音。

 黒装束が近い。


 男は扉を開け、二人で路地へ出た。

 雪はまだ降っている。

 白はすべてを覆い隠す。血も、足跡も、火の痕も。


 けれど白は同時に、何も書かれていない紙でもある。

 書き直せる。

 奪われた名も、焼かれた記録も、嘘の英雄譚も。


 男はツバキの手を見た。

 雪の文様の小刀が、外套の袖の中で微かに光っている。

 鍵は冷たい。

 冷たい鍵がある限り、扉はどこかにある。


 男は言った。

「落とすな」

 ツバキは頷いた。

 頷きは小さかったが、確かだった。


 路地の先に、影が落ちた。

 黒装束だ。今度は三人。屋根の上にもう一人。影が増えている。囲む動きが早い。

 男は刀に手をかけた。

 鞘から刃が出る。

 月光が走り、欠けのところで線が歪む。


 男はその歪みを見つめた。

 欠けは過去だ。

 折れるかもしれない。

 折れたなら、折れた先で、別の何かが始まる。


 黒装束が言った。

「鍵を渡せ」

 礼儀正しい声。

 正しさの声。


 男は短く答えた。

「渡さない」

 剣戟は長くしない。正確に終わらせる。

 終わらせた後に、紙と声が残るように。


 雪は降り続ける。

 王都は白い顔をしている。

 その白の下で、名を奪う仕組みが動く。


 男とツバキは、その真ん中へ踏み込んでいく。

 鍵を握ったまま。名を持たないまま。声を残すために。


 そして、雪は静かに、足跡を消し始めた。

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