第3話 イきり散らした末路

自害岬~バイレスリーヴへの街道


洞窟を抜け出し、バイレスリーヴの街が見えてきた頃には、日は西に傾き、空は不気味な赤紫色に染まっていた。俺とコーマックはボロボロで、アリルは魔力切れで背負われ、ニーヴも矢が尽きている。だが、懐の皮袋には、命がけで手に入れた「希望」が入っていた。


「帰ったら、まず風呂に入りたいな」


「俺は酒だ。高い酒を飲むぞ」


 そんな軽口を叩きながら、街道のカーブを曲がった、その時だった。行く手を塞ぐように、十数人の男たちが立っていた。


「……よう。お疲れさん」


 ねっとりとした声。逆光の中、見間違えるはずもない巨体のシルエットが浮かび上がる。ボルバだ。その隣には、シャラヴとドンもいる。


「ボ、ボルバ……!」


「随分と派手に暴れてたみたいじゃねぇか。洞窟の方からすげぇ音がしてたからよぉ、心配して迎えに来てやったんだぜ?」


 嘘だ。こいつらは最初から、俺たちが消耗して帰ってくるのを狙っていたのだ。シャラヴが、ガムを噛みながら気だるげに言った。


「うわ、汚(きたな)っ。泥だらけじゃん。そんな汚い恰好で街に入ったら迷惑だろぉ?」


「へへっ、だからここで荷物を預かってやるって言ってんですよ。兄貴の優しさですねぇ!」


 ドンが槍を弄びながら、ニヤニヤと近づいてくる。奴らの視線は、俺の腰にある膨らんだ皮袋に釘付けだった。


「通行料だ。その袋、置いていけよ」


「ふざけるな! これは俺たちが命がけで……!」


「あぁん!?」


 ドゴッ!抵抗しようとした俺の腹に重い蹴りが入り、俺は前のめりに倒れ込んだ。背負っていたアリルが放り出される。


「エイダン!」


「抵抗するなよ。殺しはしねぇ。ただ、身の程を教えてやるだけだ」


 ボルバが俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。シャラヴが俺たちの荷物を足で小突き、中身を確かめる素振りを見せた。


「あーあ、無様だねぇ。最初からアタイらに貢いでおけば、痛い目見なくて済んだのにさ」


 圧倒的な暴力。今の俺たちに、戦う力など残されていない。


「ほら、寄越せ」


 ボルバの手が、袋に伸びる。奪われる。ニーヴの夢も、コーマックの盾も、俺たちの明日が。悔しさで視界が滲む。また、何も守れないのか。


 その時だった。


 カツン、カツン。


 場違いに軽い足音が、街道の向こうから近づいてきた。張り詰めた空気を全く読まず、一人の少女が、俺たちの方へと歩いてくる。


 蒼い髪。それが最初に目に入った。最高純度のサファイアを砕いて星空に撒いたような、深く、鮮やかで、吸い込まれそうな蒼色が、夕闇の中で異様な存在感を放っていた。


 彼女は、まるで散歩でもするかのように、ボルバ一味と俺たちの間を通り抜けようとする。


「……あ?」


 獲物を前に邪魔をされたボルバが、苛立ちを隠さずに少女を睨みつけた。シャラヴが不機嫌そうに声を張り上げる。


「はぁ? 何この女。ちょっと可愛いからって調子こいてんじゃないよ。今、取り込み中なのが分かんないわけ?」


 ボルバの全身から、殺気が噴き出す。ドンも槍を構え、威圧に加勢した。


「おいコラ、兄貴と姉御の言葉が聞こえねぇのか? 怪我したくなきゃ失せろ!」


 中級冒険者の殺気。普通の市民なら悲鳴を上げて逃げ出すレベル。だが、少女は止まらない。ただ、邪魔な石ころを見るような目で、ボルバたちを見上げた。


「……邪魔」


 鈴を転がしたような、しかし温度の全くない声。少女の黄金色の瞳が、ボルバを映した瞬間――すうっと細められた。




 世界から、音が消えた。傍観者である俺ですら、心臓を氷の手で鷲掴みにされたような錯覚に陥った。シャラヴが口の端で遊ばせていた草の茎が、ハラリと地面に落ちる。ドンの槍を持つ手が、カタカタと音を立て始めた。


 それは、殺気なんて生易しいものではない。食物連鎖の頂点に立つ絶対的な捕食者が、矮小な羽虫を見下ろすような、根源的な「死」の気配。人の形をした、何か別の――もっとおぞましく、巨大なナニカが、そこにいた。


「ひっ……!?」


 正面から視線を受けたボルバの喉から、空気が漏れるような音がした。さっきまで俺を見下ろしていた傲慢な表情が、一瞬で凍りつき、崩れ落ちていく。


 目が見開かれ、瞳孔が極限まで開き、焦点が合っていない。彼は見ているのだ。少女の瞳の奥にある、決して人が覗いてはいけない「深淵」を。


「あ、あ、あガ……ッ」


 ガタガタ、ガタガタ。巨体が小刻みに震え始める。歯の根が合わず、おぞましい音を立てている。脂汗が滝のように噴き出し、彼の顔面を濡らしていく。


 次の瞬間。


 ジョボジョボジョボ……。


 静寂の中に、情けない水音だけが響いた。ボルバの股間から、濃い染みが広がり、街道の土を泥に変えていく。失禁。それも、少し漏らしたというレベルではない。全身の穴という穴から力が抜け、垂れ流しているような無様さだった。


「あ、兄貴……!?」


「ひっ、いやぁっ!?」


 ドンが情けない声を上げ、シャラヴが髪を振り乱して悲鳴を上げた。ボルバは白目を剥き、口から泡を吹きながら、糸が切れた操り人形のようにどうと倒れた。


 ヒクッ、ヒクッ、と手足が痙攣している。意識が飛んでいる。恐怖の許容量を超え、脳が自己防衛のために強制終了(シャットダウン)したのだ。


 少女は、道端の汚物を見るように視線を外すと、「……さよなら」 と一言だけ呟いて、泡を吹いて倒れているボルバを跨ぎ、何事もなかったかのように歩き去っていった。


 ヒクッ、ヒクッ、と手足が痙攣している。 意識が飛んでいる。恐怖が精神の限界を超え、心が壊れるのを防ぐために、自ら意識の糸をプツリと断ち切ったのだ。


「…………」


 残された俺たちは、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。ドンとシャラヴは、「ひぃぃッ!」「バケモノだ! 来るなッ!」と錯乱したように叫びながら、濡れたズボンのまま動かなくなった大将を引きずり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。


 街道には、俺たちだけが残された。腰の袋は、無事だった。


「……何やったん、今の」


 アリルの震える声が、夕暮れの空に溶けていった。助けられた、という感覚はない。ただ、巨大な台風が横を通り過ぎていったかのような、圧倒的な無力感と、生存の安堵。


 俺は、遠ざかっていく蒼い髪の後ろ姿を、もう一度だけ振り返って見た。彼女の影の中に、もっと濃く、冷たい別の影が潜んでいるような気がして、俺は身震いした。


 あの瞳。あの深淵。彼女は一体、何者だったのか。俺たちが、彼女――イルと名乗るその少女とともに彼女が巻き起こす狂乱の渦に本格的に巻き込まれるのは、もう少し先の話である。





※長編『溟海のイル』はこちら(https://kakuyomu.jp/works/822139841430093938

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【凡庸のエイダン】ダルがらみしようとした相手が悪すぎた。その美少女は、震える俺たちより遥かに「ヤバい」深淵でした。 セキド烏雲 @Uun_Sekido

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