第2話 自害岬のたなびく影
バイレスリーヴの街を出て、海岸沿いの街道を南西へ駆けること数時間。陽が高く昇る頃、俺たちは目的の地、「自害岬」へとたどり着いた。
そこは、世界から色を奪ったような場所だった。海に向かって突き出した巨大な岩塊。切り立った断崖絶壁には、絶え間なく荒波が打ち付け、白い飛沫を上げている。かつて疫病患者が隔離され、絶望の果てに身を投げたという場所。強い海風がヒュオオオ、と唸り声を上げているが、それはまるで死者たちの慟哭のようにも聞こえた。
「……嫌な雰囲気だね」
ニーヴが身震いをして、自身の二の腕をさする。俺たちは馬を岩陰に繋ぎ、地図に記された「抜け穴」――ゴブリンの巣穴の入り口を探した。
すぐに見つかった。岩場の隙間に、ぽっかりと開いた暗い穴。そこから漂ってくるのは、潮の香りではない。獣の体臭と、腐った生ゴミを煮詰めたような、鼻を刺す強烈な悪臭だった。
「うっ……これは酷い」
「口と鼻に布を。集中しよう」
コーマックの指示で、俺たちは布で口元を覆う。松明に火を灯し、俺たちは慎重に暗闇の中へと足を踏み入れた。
洞窟内は湿気がひどく、地面はぬかるんでいた。パチパチと爆ぜる松明の赤い光が、濡れた岩肌を照らし出し、不規則な影を踊らせる。静かだ。波の音は遠ざかり、聞こえるのは俺たちの足音と、どこかで水滴が落ちる音だけ。
カラン。
緊張の糸が張り詰める中、硬質な音が響いた。ニーヴが矢を取り落としたのだ。
「ひゃっ!……ご、ごめん」
「落ち着け。まだ何も出てきてない」
俺は声をかけたが、内心は冷や汗をかいていた。おかしい。ゴブリンというのは、もっと騒がしい生き物のはずだ。侵入者がいれば、金切り声を上げて襲ってくるはずなのに、この静寂はなんだ?
「……エイダン。上だ」
先頭を歩くコーマックが足を止め、松明を掲げた。俺もつられて天井を見上げる。
「ヒッ……!?」
アリルが小さな悲鳴を上げた。天井から、無数の「袋」がぶら下がっていた。いや、袋ではない。それは、蔦で足首を縛られ、逆さ吊りにされた「何か」だった。ゴブリンの死体。動物の死骸。そして――装備を剥ぎ取られ、内臓を晒した人間の死体。
グジュ……。
死体の一つから、ドス黒い液体が滴り落ちた。ここは巣穴ではない。「食糧庫」だ。
「ギャッ!ギャッ!!」
唐突に、静寂が破られた。死体の影から、岩の裂け目から、小さな影が次々と飛び出してくる。ゴブリンだ。だが、その目は赤く充血し、口からは泡を吹いている。正気ではない。
「来るぞ!構えろ!」
コーマックが盾を構えた瞬間、濁流のようなゴブリンの群れが俺たちに殺到した。
「た、魂の底、火種は鎮まれ!我が命脈、熱き血潮よ、今こそ輝け!」
アリルが震える声で、しかし早口に詠唱を開始する。
俺とニーヴは左右に展開し、コーマックの脇を固める。
「ギシャアアア!」
先頭のゴブリンが棍棒を振りかざして飛びかかってきた。俺は剣を一閃させ、その首を跳ね飛ばす。返り血が頬にかかるが、拭う暇はない。次から次へと湧いてくる。
「迸れ、管を抜け、焔、破砕せよ!――《火球(スフェラ)》!」
アリルの杖から、轟音と共にオレンジ色の火球が噴き出した。狭い洞窟内を熱風が駆け抜ける。先頭集団のゴブリンたちが炎に包まれ、断末魔を上げて炭化していく。腐臭と、肉の焦げる匂いが混ざり合い、吐き気を催すような空気が充満する。
「やったか!?」
「いや、まだおる!奥からどんどん来るで!」
アリルの魔法で一掃したはずの空間を埋めるように、さらに奥から新たなゴブリンが溢れ出してくる。数が多すぎる。それに、こいつらは死を恐れていない。仲間の死体を踏みつけ、狂ったように俺たちに食らいついてくる。
「くそっ、キリがない!」
「エイダン、後ろ!」
ニーヴの短剣が、俺の死角から飛びかかってきたゴブリンの眉間を貫いた。弓が使えない狭所での乱戦。彼女も必死だ。
「下がるな!ここで食い止める!」
コーマックが盾でゴブリンを殴り飛ばし、前線を維持する。彼の盾はすでに無数の傷がついているが、その鉄壁の防御がなければ、俺たちはとっくに肉塊にされていただろう。
十分、いや、永遠にも感じる数分間、俺たちは斬り、突き、焼き続けた。やがて、ゴブリンたちの勢いがふっと弱まった。全滅させたわけではない。奴らが、一斉に逃げ出したのだ。俺たちに背を向け、洞窟の出口――俺たちが来た方向ではなく、さらに奥の闇へと、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「お、おい……逃げたぞ?」
「勝った……のか?」
俺は荒い息を吐きながら、剣を下ろした。だが、ニーヴの顔は青ざめたままだ。
「違う。……何かから逃げてる」
彼女の言葉に、背筋が凍りついた。ゴブリンたちが逃げ込んだ先。洞窟の最深部から、異様な気配が近づいてくる。
ズズズ……グジュ……。
重いものを引きずるような、粘着質な音。腐敗臭が、先ほどとは比べ物にならないほど濃くなる。
「アリル!詠唱だ!」
俺の叫びに、魔力切れ寸前のアリルが杖を構え直す。俺は足元に落ちていた松明を拾い上げ、闇の奥へと力任せに投げつけた。
松明が床を転がり、その「正体」を照らし出した。
「な……なんだ、あれは」
絶句した。それは、緑色の半透明な「泥」の塊だった。だが、ただのスライムではない。そのゼリー状の身体の中には、無数のゴブリンの死体、そして人間の死体が取り込まれ、浮いていた。死体同士が癒着し、歪な手足のように蠢いている。
「ウーズ……?いや、死体を食って、巨大化したのか!?」
コーマックが叫ぶ。自害岬の死体と瘴気を喰らい続け、変異した怪物。ウーズ・ゴーレム。その中心には、犠牲者のものと思われるいくつもの「顔」が、苦悶の表情で張り付いていた。
「ヴキャアオァァァ……!」
人間の口とゴブリンの口が同時に開き、重なり合った不協和音の咆哮が響き渡った。
怪物は、巨体に似合わない速度で滑るように迫ってきた。
「させるか!」
コーマックが前に出て、盾を構える。ウーズの触手――死体で構成された腕が、盾に叩きつけられた。
バシュッ!
衝撃音と共に、異変が起きた。弾くはずの盾が、ウーズの身体に食い込み、沈んだのだ。いや、違う。ウーズが盾を「飲み込んだ」のだ。
「なっ!?離れねぇ!」
コーマックが腕を引くが、盾は強力な粘着力で捕らえられ、逆に彼自身の身体が怪物の懐へと引きずり込まれていく。
「コーマック!」
俺は剣を振るい、触手を斬りつけようとした。だが、刃はブヨブヨとした肉体に阻まれ、浅く切り裂くことしかできない。切断面から酸性の粘液が飛び散り、俺の頬を焼く。
「熱っ!?」
「エイダン、下がり!――《風刃(シアカ)》!」
ニーヴが風凪魔法のカマイタチを放つが、泥の身体を揺らすだけで致命傷にはならない。物理攻撃が効きにくい。斬っても突いても、すぐに再生してしまう。
「うおおおぉぉッ!」
コーマックの叫び声。見ると、彼の足元から伸びた別の触手が、彼の脚に絡みつき、全身を飲み込もうと這い上がっていた。盾の表面からはシュウシュウと煙が上がり、鉄が溶ける嫌な音がしている。
「いやっ!来ないで!!」
さらに、ニーヴの方へも触手が伸びる。彼女は短剣で応戦するが、ヌルヌルとした粘液に足を滑らせ、尻餅をついてしまった。そこへ、汚泥の腕が襲いかかる。
「くそっ、どうすれば……!」
俺自身も、剣が腐食し始め、打つ手がない。このままでは全滅だ。俺たちも、あの怪物の身体の一部として取り込まれ、永遠にこの洞窟を彷徨うことになる。
絶望が頭をよぎった瞬間、俺の目は怪物の「核」を捉えた。半透明な身体の奥。死体たちの隙間に、拳大の赤黒い石が脈打っている。あれだ。あれを破壊するしかない。
だが、剣は届かない。俺たちの武器はもうボロボロだ。唯一、届く可能性があるのは――。
「アリル!!」
俺は叫んだ。
「核だ!身体の奥にある核を、最大火力で焼き尽くせ!!」
「む、無理や!もう魔力がすっからかんやで!?」
アリルは顔面蒼白で首を振る。先ほどのゴブリン戦で、彼女は限界まで魔法を使っていた。
「絞り出せ!今やらなきゃ全員死ぬんだぞ!」
「……っ!」
コーマックが完全に飲み込まれるまで、あと数秒。ニーヴの悲鳴も聞こえる。アリルは覚悟を決めたように杖を構え、唇を噛み切るほどの強さで食いしばった。
「……あぁもう!知らんで、倒れても!!」
彼女は杖を両手で握りしめ、自身の生命力そのものを魔力に変換する禁忌の詠唱に入った。杖の先端が、これまでで一番強く、眩い光を放つ。
「燃え尽きろ、我が命!紅蓮の顎(あぎと)よ、全てを喰らい尽くせェェッ!!――《焦熱地獄(スフェリオン)》!!!」
ドォォォォォォォン!!
爆発的な業火が、直線状に放たれた。それは火球などではない。純粋な熱量の奔流だ。炎は俺とコーマックの頭上すれすれを通過し、ウーズ・ゴーレムの正面から直撃した。
「ギョアエェェエエエェェェ!!!!!」
断末魔の絶叫。怪物の水分が一瞬で蒸発し、凄まじい水蒸気が爆発する。高熱に晒された粘液は沸騰し、結合を保てなくなってボロボロと崩れ落ちていく。取り込まれていた死体たちが、焼けた泥と共に地面にぶち撒けられた。
そして、最後に残った赤黒い核が、熱に耐えきれずにパリン、と砕け散る音が聞こえた。
ズズ……ン。
巨大な怪物は、ただの黒い泥の山となって沈黙した。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
静寂が戻る。アリルはその場に崩れ落ち、ピクリとも動かない。コーマックはドロドロになった盾を放り出し、大の字になって天を仰いだ。ニーヴは涙目で震えている。
「やった……のか?」
俺は泥の山に近づき、剣先でその残骸を探った。そこには、砕け散った核の中心部分――宝石のように輝く結晶石が残っていた。ウーズの魔石だ。それに、ゴブリンたちが犠牲者から奪って体内に取り込んでいたと思われる、指輪や金歯も転がっている。
「……生きてる。俺たち、勝ったんだ」
全身から力が抜けた。死と隣り合わせの激戦。だが、その対価は大きかった。この魔石と貴金属を売れば、かなりの額になる。新しい盾も、あの銀の短剣も買えるだろう。
「帰ろう……。こんな場所、もう一秒だっていたくない」
俺たちは傷ついた身体を引きずり、しかし確かな「希望」を懐に抱いて、出口へと向かった。外に出れば、また日常が待っている。そう信じて。
※長編『溟海のイル』はこちら(https://kakuyomu.jp/works/822139841430093938)
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