第2話 解けない変数

恋の方程式は、便利だ。

少なくとも私は、そう信じている。


笑顔、目線、距離。

声のトーン、身振り、秘密行動。


観測できるものを数値に置き換えれば、感情は整理できる。

——はずだった。


けれど。


「……あれ?」


今日の綾音は、どうにも計算しづらい。


朝、教室に入ると、彼女はすでに席に座っていた。

いつもなら、私に気づくと軽く手を振るか、目が合って微笑む。


でも今日は。


視線が合わない。


Y=0。


無意識に眉をひそめる。


笑顔もない。

無表情、というほどではないけれど、少なくとも私に向けられてはいない。


X=0……?


距離は変わらない。

斜め前、Z=1。


仮計算。


0+0+1=1。


——無関心。


そんなはず、ない。


昨日までの数値推移を考えれば、急激な低下は不自然だ。

外的要因? それとも観測ミス?


私は席につきながら、さりげなく綾音の様子を探る。


すると、彼女は前の席の子と楽しそうに話していた。

小さく笑って、身振りも大きい。


……なるほど。


私に向けられていないだけで、感情が消えたわけじゃない。


観測対象を「私への反応」に限定すると、情報が欠落する。


恋愛方程式は、主観に弱い。


私はそう結論づけて、ノートを開いた。


昼休み。


綾音は一人で購買に向かっていた。

普段なら友達と一緒なのに。


——これは、観測チャンス。


私は距離を保ちつつ、後ろを歩く。


数メートル先で、綾音が振り返った。


目が合う。


一瞬、驚いたように目を見開いて、すぐに視線を逸らす。


Y=1。


でも、笑わない。


X=0。


距離は、変わらず。


Z=1。


数値だけ見れば、また「興味あり未満」。


けれど——


彼女は歩調を少し落とした。


私が追いつくのを、待っているようにも見える。


これは距離?

それとも、意図的な間?


Zを上げるには、まだ早い。


「智鶴も、購買?」


綾音が、何でもないふうに聞いてくる。


声は低め。

昨日より落ち着いている。


V=0……?

それとも、これは「意識している」低さ?


判断がつかない。


「うん」


短く答えると、彼女はそれ以上何も言わず、隣を歩く。


沈黙。


なのに、不思議と居心地が悪くない。


身振りは少ない。

W=0。


秘密行動は……?


ふと気づく。


綾音の手には、二つ分のパン。


「それ、二人分?」


問いかけると、彼女は一瞬だけ肩を揺らした。


「……うん。友達の」


一拍、間があった。


——今の、間。


H?


秘密行動にカウントするには弱い。

けれど、引っかかる。


購買から戻る途中、綾音は急に足を止めた。


「智鶴」


名前を呼ばれる。


振り向くと、彼女は私を見ていない。

廊下の窓の外を見つめている。


Y=0。


でも。


「昨日のさ……ノート」


声が、少しだけ柔らかい。


V=1。


「……ありがとう。助かった」


それだけ言って、また歩き出す。


何だ、今の。


感謝を伝えるだけなら、もっと簡単に言えるはずなのに。

わざわざ立ち止まって、目も合わせずに。


これは好意?

それとも、ただの照れ?


数式に当てはめようとすると、どこかがズレる。


私はその夜、ノートに今日の観測を書き出した。


X:不安定

Y:低下傾向

Z:維持

V:場面依存

W:低

H:未確定


——解けない。


数値は確かに存在するのに、答えが一つに定まらない。


恋の方程式は万能じゃない。

そう思い始めた瞬間、胸の奥がざわついた。


もし、彼女の心が

「計算されること」を拒んでいるとしたら?


私はペンを止める。


それでも、逃げるつもりはない。


解けないなら、条件を増やすだけ。


未知数があるなら、仮定を立てる。


次は——

読者であるあなたにも、考えてもらう番だ。


綾音の今日の行動。

X・Y・Z・V・W・H。


あなたなら、いくつを与える?


恋の答えは、

まだ伏せられたまま。

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