第一章 出会いと再会 ①
春の朝、その日ちょうど18歳の誕生日を迎えるハルト・ヴェルナーは夢を見ていた。自身が小鳥の姿となって、自分の住んでいる村を、上空から羽ばたきながら眺める夢を。
そこは森と霧に囲まれた、のどかで静かな、そして少し閉鎖的な小さな村。
山奥から湖に向かって流れる緩やかな川に沿うように、木組みと漆喰で建てられた家々がまばらに並ぶその村は、黄金の朝の光によって、空の群青と森の深緑を透過し照らしだされ、それを合図に新たな生命が次々と芽吹くようにこの日の活動を始めようとしていた。
一度もそこから遠く離れた記憶のない、何の変哲もない日常の一部と化している風景だが、小鳥としていつもと違う視点で眺めるのは新鮮に思えた。
川の流れを遡り、見えてきたのは村の一番奥まった位置にある、石造りの土台に建てられた時計台の有るやや大きな建物。この土地一番の巨木を背に建てられた村の集会所でもあり、村長の自宅でもある。そしてその二階の隅にハルトの利用している自室がある。
早朝の森の、冷たく鋭い空気を感じながら、意識は小鳥とともに風に乗って、吸い込まれるように本来の、ハルトのいるべき場所へと向かっていく。
軽い衝撃とともにハルト・ヴェルナーは見慣れた自室のベッドで目を覚ました。
寝具や衣服が乱れているわけではないので、衝撃と言っても物理的なものがあったわけでなく、どうやら自らの夢によって半覚醒の頭を揺り動かされたようだ。
普段の起床時間よりも幾らか早いようだが、しっかりと目が冴えてしまったので静かに身を起こしながら、先程まで見ていた夢を自分の中で反芻する、が、どんな夢とも同じように目が覚めたその瞬間から、身体からこぼれ落ちてゆくようにその記憶や実感が薄れてゆく。
窓を開けると春とは言え、まだ刺すような森の冷気が襲ってくる。
慌てて閉めようとするも、視界の端、自室のすぐそばに立っている木の枝に小鳥が一羽とまっているのが見えた。何の変哲のない、種類すら知らない小さく地味な茶色い鳥。逃げることなく小さな黒い瞳でこちらを観察するように見ている。
さっきの夢は、お前がみていたのかな。
益体のないことを呟き、今度こそ窓を閉め、一気に部屋に入り込んだ寒気のせいでもう一度寝直す気も起きず、気まぐれに外出する身支度をはじめる。
ふと、改めて自分の誕生日だったことを思い出し、一歳歳を取ったはずの自分を鏡に映してみた。もちろん、そこには昨日までとなにも変わらない、ありふれた自分の姿があった。
平均的な身長、平均的な体重、平均的な顔、おまけに運動神経や頭脳も平均的だ。といってもこの村の未成年全員ひっくるめて三十人弱しかいない面子のなかでの平均だが。だが、その平凡な容姿の中で唯一、そして際立った特徴がハルトにはあった。
それは生まれついて白髪であることだった。
老人のそれと違い、艶も力強さもあるが、色だけが抜け落ちたかのように一点の曇りもなく真っ白だった。その特徴があまりに目立つゆえに、かえってその他の容姿の平凡さが際立っていた。万が一髪を染めたりしたら、顔見知りのはずの村人達もだれも自分に気づかないのではないのだろうか、と思うことがある。
着古した上着に袖を通し、そっと部屋を抜ける。別に誰かに見られたとしても何一つとがめられることはないだろうが、何となく誕生日の朝に普段と違う行動をとる自分を他人に知られることが気まずいような気がしたのだ。
同じ建物の中で、もうすでに起床し活動している村長の気配を背後に感じながら、冷たさの中にもどこか柔らかな空気の混じる春の空の下に自分の身を晒す。
ここは高台に位置するゆえ小さな村の全景を見おろすことができる。舗装されてはいないが、幾度となく繰り返される住人や荷車によって十分に踏み固められた村全体を貫くなだらかで、幅広い坂道。それを中心として大小様々だが、造りはどれも同じような家々が立ち並び、その背後、右手のほうでは背の高い針葉樹の深い森が、左手には幅広の川が常に穏やかな水音を立て麓の大きな湖へとつながっている。自然のなかをくりぬいたような辺境の地にハルト達が住む村、【エカーアスト】はひっそりと存在していた。
偶然にも村人と誰とも会うこともなく、坂道が終わり、木製のどっしりとした門が構える村の入口に着くと、重い閂がかけてあり許可なく開けられることのない門とそれに隣接する見張り台へと向かう。
頭上8メートル程に建てられた同じく木製の簡素な見張り台に、それを支える支柱とともに背の高い針葉樹の木々の間に巧妙に隠された梯子がつながっており、ハルトは慣れた様子でするすると登っていく。
一応許可なくそこに上がってはいけないことになっていたが、ここ5,6年程そこは本来の役割を果たせているとは言えず、もっぱら数少ない若者たちの逢引の場と化していた。
早朝にそんな連中がいるわけもなく、簡易的な屋根と手すりだけの見張台から、独りハルトは湖からふきあげる風を受けながら、眼前に広がる外の世界を見渡した。
こ の日は霧も薄くどこまでも透明の空気のなか遥か彼方まで、珍しく天を突き世界を睥睨する世界樹の姿までも、記憶にない程の鮮明さで見ることができたが、その世界の象徴をじっと見ていると、なぜかまるで逆にこちらが奥深くまで覗き込まれている様な、言い知れぬ不安に駆られてしまう自分がいた。
なぜ、自分が早朝の散歩などに出ようとしたのか思い返していた。先ほどまでみていた夢の中の出来事が少し引っかかったのだ。といってもその夢の具体的な内容は自分の中からもはや全て失われている。ただ、見たという、頭ではなく心の中に燻る感覚だけがなぜかこの足を静かに進めていた。
深緑色の微かな光。
鼓動の様に瞬くその光がハルトを目覚めさせたのだ。
突然にすぐ隣を飛び去った小鳥につられるように、はっと世界樹から目をそらし、あたりを見渡す。何処までも穏やかな湖の水面の直線、その周りを囲む山々の穏やかな緑と灰色と青の稜線の連なり、見たことはあるが行ったことはない、どこまでも広がる大地。何だか今日はいつも以上に世界が広く感じた。そしていつも以上に自分が小さくも。
ぼんやりと定まらない焦点がやがて、ちょうど湖の中央あたりで結ばれる。
そこに初めて見る船が薄緑の煙をはきながらゆっくりと進んでいた。
まだ遠く、その外観や乗組員などははっきりとは見えないが、その船首付近にたしかに微かに瞬く深緑色の光が見えた。もはや忘れてしまった夢で見たのと同じように。湖から吹き上がる風を通して見えるその風景に、自分でも不思議と驚くことはなかった。
ただ一瞬ブルっと身震いしたのは寒さのせいだけではないのだろう。
何かを、ざわめきの様なものを感じ、全身が無意識に緊張していた。
この日、平凡で、静かで、少し孤独な【僕】の人生に何かが起ころうとしていた。
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