第一章 出会いと再会 ②
蒸気船ブラット号の船首に立つリアム・パターソンは何か視線のような気配を感じ、近づきつつある湖の対岸に目を向けた。無造作に短く刈り込まれた白髪交じりの頭髪に加齢と言うよりも人生の苦境によって刻まれたかの様な皺と傷跡の交差する強面、その中にあってより深く濃い灰色の瞳には、早朝の静かな湖面の先の、春の若い葉を茂らせた背の高い針葉樹の木々が立ち並んでいる景色が映るだけだった。
護衛の任務に就いている傭兵たちのリーダーであるリアムにとって船旅は退屈極まりないものであったが、一つ大きく息をはき、背中に背負った長剣とライフルの重さを意識しながら、まだ感じることのない危険に備え、新鮮で肥沃な空気を肺に吸い込む。辺境の孤立した小さな村エカーアスト。森林の奥にありながら、さらに木製の塀でぐるりと巧妙に隠されたその姿はまだ見えない。
「もうすぐ到着ですか」
背後から静かに尋ねる若い男の声。
「ああ、そろそろ客に上陸の準備をはじめさせとけ」
振り返ることなく返事をする。気配からもう一人いることがわかる。
「パターソンさんって、前にもここきたことあるんですよねえ。えらい辺鄙なトコ」
こっちは若い女で底抜けに明るい無警戒な声。
同じく傭兵である一組の男女、クラウス・バリーとキアラ・マイア。
親子ほどにも年齢が離れているが、今この船上では唯一リアムが背中を預けることのできる仲間であり、戦力でもあった。
四十代も半ばを過ぎ、カーキ色の軍用ジャケットに包まれた、実戦で鍛え上げられた身体はまだまだ頑強だが、こんな静かな朝に、特にまだ若い二人の様子を見ると自分の年齢を倦怠感と共に否が応でも感じてしまう。
いつまでも傭兵としていられるわけもないが、自分が戦いを辞めない限り、その終わりの時は、今はまだ知らぬどこかの誰かが銃弾や刃などによって決めてくれることだろう。戦いこそが大部分を占めているこの人生の旅路の終わりを、今はまだ見ぬその誰かに委ねることによって、古強者は自分に常に付き纏う死の影や疲労と折り合いを付けていた。
そのような精神的な疲弊をおくびもださずリアムは振り返ると、クラウスとキアラに今後の指示を伝える。
クラウス・バリーは十九歳。中肉中背にくせのない黒髪、色白で涼しげな目をした一見音楽奏者のような佇まいの若者だが、腰に身を着けているのは楽器などではなく、木製のホルスターに入った自動拳銃であり、背面には二振りの短剣が差さっていた。もう何度もその若者が拳銃で撃ち倒した敵に短剣で淡々と止めを刺す所を見てきた。決して必要以上に冷酷なわけでなく、既に兵士として割り切った精神が出来上がっているのだ。
一方のキアラ・マイアは二十歳。クラウスと頭一つ分は違う小柄な体躯でありながら、それでも肉感的な魅力をもつ赤毛の女兵士。やや癖のあるその赤毛を無造作に束ねた髪形やよく動く大きな瞳によって感じる幼さ、相反する成熟した肢体のアンバランスさに対して、背には戦斧という無骨な武器がさらに異彩をはなっていた。
一通り周りの風景を見渡し、朝の新鮮な空気を吸い込んだ若い兵士二人が船室に戻ろうとしたとき不意にハッチが開き、傭兵達の要護衛対象である人物が姿を現した。
「おはようございます。みなさん早いのですね。」
風に乗ってよく通る、力強さに溢れながらも落ちついた声。
【世界樹の巫女】ジア・アーベルはシンプルな白いワンピースにカーディガンを羽織っただけの無防備ながら、早朝の森林に囲まれた湖上に完璧に調和した様相で一人、甲板に姿を現した。
十八歳というまだ少女とも言える年齢ながら、三人の傭兵の誰よりも、180センチはあるリアムよりもはるかに長身であり、その身長に相応しい恵まれた肉付きに、ウェーブがかった腰までのびる少し色素が薄いながらも風にたなびく力強く豊かな長髪、そして吸い込まれそうな深い緑の瞳をもつその姿は、堅牢な造りの船上においてもどこかおとぎ話の住人のような浮世離れした存在感を示していた。
その色白の首にはシンプルなネックレスがかかっており、ペンダント部分にはカットされていない原石のままの少し歪な形の、ジアの瞳と同じく深緑色の宝石が淡く輝いていた。
「おはよう、姫さん。よく眠れた?」
彼女だけがそう呼ぶ渾名で、キアラは二回りも三回りも体格の違う相手を見上げる様にしながらも努めて親しげにジアに挨拶する。
「ええ、とっても。わたくし、船ってはじめてでちょっと緊張していたのですけど、
逆にみなさんの存在を近くに感じられて今までの旅よりもよっぽど安心できましたわ」
急に一陣の風が吹き、薄着のジアは思わず震える。
「でもちょっと寒いですっ」
「わああ、ちょ、ちょっと」
突然にジアはキアラを抱きしめる。と言っても大きすぎる体格差によって自然に半分のしかかる様な形になってしまう。兵士として鍛えているはずの体がまったく抵抗できずその豊満な身体に埋もれるように包まれていた。
キアラの小柄な身体で暖を取りながら屈託なく子供の様に声をあげて笑うその姿は彼女が抱える宿命や試練を鑑みると場違いなほどに明るく、曇りのないものだった。
まだ若くとも、傭兵として人の汚い部分や窮地の際の残虐性なども多数見てきたキアラにとって、世界樹の巫女としての責務を果たす、自分以上に修羅場を乗り越えてきたはずのジアのごく自然な笑顔や振る舞いは尊敬すべき部分であると思いつつも、苦手な面でもあり心の片隅ではどこか危ういとも思っていた。
過酷な人生の中で自分の全てを受け入れているようでもあり、それ故逆に全てをあきらめているかの様な。
暖を取り満足しキアラを離すと、ジアは船首に立つリアムの隣にそっと並び立つ。まだ森に隠れたまま見えてこないエカーアストの村の方向を眺めながら、誰にともなく呟く。
「本当に久しぶり、あまり変わっていませんね」
その言葉を自分に向けられたものとはとらえてないように、リアムは相変わらず黙ったまま、ジアと同じ方向に視線をむけたままであり、代わりに返答したのがクラウスだった。
「ジアさん、前にもこの村に来たことがあるんですか」
「ええ、もうずっと昔、わたしの背もまだ随分と小さかった頃にね」
ジアの自分の眼に映る実際の景色を通して、かつての記憶の景色を重ねる様に郷愁の眼差しで眺める。その姿は短い付き合いながら初めて見る表情だと、自分の役割をこなす巫女としての顔とも、それ以外の時の明るく振る舞う顔とも違う自然で素直な表情だとクラウスは思った。
ふとその隣に立つリアムをみると、普段あまり感情を表に出さないその目に、ジアと同じ郷愁とそれとは別に、後悔や苦悩が見て取れた。それは過去をあまり語りたがらないベテラン兵の、なんだかあまり見てはいけない一面のような気がして言葉を失い思わず目を逸らしてしまう。やがて、木でできた簡素な桟橋に近づき、数人の迎えの人間が見えてきた。
「さあさあ、もう到着ですよ、いつまでもおセンチに浸ってないで準備準備」
クラウスの気まずい空気を知ってか知らずか、キアラが手を叩きながら皆をうながす。
「その通り、さあ行きますよ、巫女様」
いつの間にか甲板に現れたのか、小柄で痩せた、陰気な雰囲気の中年男が傭兵達三人の存在をまるで最初からいないかのように無視しながらジアに声をかける。
「はい、わかっております。お父様」
その瞬間すっと抜け落ちる様にジアの顔から全ての表情と感情がなくなり、自分よりはるかに背の低いその男の差し出された手を当たり前のように取ると、無言の三人を振り返ることなく船室に戻ろうとする。
傭兵達にとってはもう見慣れた光景だった。
運命の鎖に囚われた、その極めて大柄な体躯とは対照的に己の存在を明るい笑顔の下で矮小化する孤独な少女。
それが世界樹の巫女、ジア・アーベル。
ジアが船室への階段を下りようとしたとき、一羽の小鳥が小さく囀りながら船のすぐ上を飛び去って行った。つられるように反射的に空を見上げる。
そして彼女は世界を見る。
柔らかな風を肌で感じたとき、視覚ではなく感覚で、胸のペンダントの宝石が微かに光っていることがわかった。目的地である村に再び深緑色の瞳で視線を注ぎながら、今度は郷愁ではない力強い表情で【わたし】は心の中、独り呟く。
「そこにいるのね、ハルト・ヴェルナー」
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