プロローグ・後

 気が付くと白い大きな花の生気が急速に抜け、みるみる枯れようとしていた。

まるで自分の役目を全うし寿命を使い果たしたかのように。

 全ての花弁が地に伏し葉は枯れ、茎は崩れ落ち、小さな命の灯火の守護者の面影がすっかり消えてしまうと、見計らったかのように吹く一陣の風が、はじめから何もなかったかのように、その痕跡の全てを瞬く光の粒子と共に舞い散らす。

 

 旅人は理解する、あとは自分の、人間の役割なのだと。

奇跡や神秘と呼ぶにはあまりに泥臭く、執念とも思える意思によって生かされたこの命を、今度は人間が、そうでありたいと願っている自分が守るのだ。

 赤子を抱え上げ改めて顔を見合わせる。色素の極めて薄い産毛の様な髪が風に揺れる。もう泣いてはいない。

 一歳未満なのは間違いないが生まれたばかりの新生児と言うわけでもなさそうだ。無垢な瞳に微かに知性や感情が見え隠れする。

 ここまで数か月、人の手によって育てられたのか、ずっとあの不可解な花に育てられたのかは旅人には知る由もないが、それはもうどうでもよいことなのかもしれない。

 ただ、ここで生きているというだけで、旅人にとっては背後に広がる争いや死の対極に位置する、完全な正の存在。

 汚れた大地に埋もれながらその輝きを主張する、天然の宝石の様な希望の光。

外套を脱ぐと、それで慎重に赤子を、不器用ながらも包み込み身体に縛りつけた。

その小さな生命は、今は静かに寝息をたてている。

 ほんの少しの間逡巡するも、取り落とした小銃を拾い上げ手に取る。


 旅人は再び歩き出す。

身体に伝わる命の暖かさと、手に持つ武器の冷たさを同時に感じながら。

 また風が吹くのを背に感じる。

赤子の泣き声を旅人に伝えた静かな風が、身体を包み込むように、見守るように。

振り返ると先程赤子を救った小さな坂道が見える。

 そして視線を上げると、そこには【世界樹】の姿があった。

天高く雲を突き抜け、世界を包みこむ様に枝を伸ばし、決して枯れることのない葉を茂らせ、世界中の何よりも巨大で神々しく、生命力に溢れる巨木。

 すさまじいまでの質量をもちながらも大地にその影を落とすことのない、常にやわらかな光を発し、たしかにそこに存在しながらも、別次元から覗いているかのような神秘の存在。


 世界樹が姿をその名が示す巨木とする以前、一粒の巨大な種として、天空から飛来してからの月日はまだ一世紀ほどでしかない。世界中を巻き込んだ二度目の大戦争の末期、そこに正義や名誉や浪漫などが失われて久しい、かつてないほど不安定で緊張した情勢のなか、その混乱の裁定者の如く前触れもなくそれは天からこの大地に降り落ちてきた。

 人々との、そして戦争との邂逅の後、その種は【魔王】を生み出し、それまでの戦争以上の破壊と殺戮を自らが創り出すことによって世界中の戦争を終わらせた。

魔王が眠りについた後、その破壊の跡を養分とするかの如く種は芽を出し、花を咲かせた。

 やがてその花が瞬く間に成長し、天を貫き、世界に枝葉を広げ、その根で大地を穿ち、生き残った人々によって自然と世界樹と呼ばれ始めた頃、世界の在り様もまた劇的に変わっていた。

 世界樹を中心とし、新たな植物、動物、さらには新たな燃料、大地の法則、そして新しい宗教、思想までもが生まれ、人々は破壊の痛みの記憶を心の隅に感じつつもその新しい生き方をすこしずつを享受していた。

 その環境の激変は、この世界本来の種である人や動植物の中にも急激な進化を促しながら次々と変化や変異を引き起こし、世界中の情勢はますます混沌の様を呈していった。

 人々はその不安の中で、ある者は変革の象徴としての世界樹に救いを求め、また別の者は旧来の人類の尊厳の象徴として確固たる武力に救いを求めた。

 世界は再び張り詰めた均衡の上に成り立っており、そのバランスに歪みが生じると、今、旅人が立つこの廃墟のような悲劇に散発的に見舞われていた。

 ここ数十年の世界の営みは進歩や歴史と呼ぶにはあまりに劇的で騒々しく、戦争が終わったとは言え、やはり安定や平穏とは程遠い年月が過ぎようとしていた。


 静かな風が吹き続ける中、旅人は一瞬自分がどこいるのか、何をしているのかも忘れてその世界樹に魅入られてしまった。この地に住むどの人間とも同じように何度もごく当たり前の存在として、この時代の象徴として受け入れていたはずなのに。

 ただ、今、自分の方が初めて世界樹に受け入れられた様な、自分の方が見られている様な気がしたのだ。そしてそれは自分一人の存在だけではなく、この腕に抱く小さな生命を含めて見られている様な。

 世界樹の加護を背に受け、旅人は決意新たに再び歩みを進める。死で溢れた廃墟をまた通らなければならないが、もう泣くことはない。世界を照らす灯火がこの腕の中にあるのだから。

 そうして歩き出した旅人は気が付かなかった。世界樹に見守られ、静かに寝息をたてている赤子の小さな掌に、深緑色の宝石が握られていることに。

 世界樹の次なる種となるその宝石は、赤子の鼓動と呼応するように静かに輝いていた。



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