プロローグ・前
旅人が独り泣きながら歩いていた。
薄汚れた外套に身を包み、残弾数を把握していない小銃を力なく抱え、砂埃舞う廃墟となった小さな村を行く。その村は火薬と鉄と血と、それらが入り混じった死の匂いにあふれていた。
あまりにも旅人にとっては身近な匂いであり、辿った道を半生と共に振り返る。
見えるのは壊れた建物に、焼けた畑、まだ煙の微かに立ち上る黒く煤けた大地。
そして動かぬ死体達。
自然というキャンパスの上に、人々の営みという素朴な絵の具によって描き出された作品は、同じく人々の手により生み出された破壊という名のついた、濃く濁った闇色によって上からひどく乱雑に塗りつぶされていた。
旅人は何を求めて彷徨い歩くのかと自問する。この廃墟を、そして世界を。
程度の大小はあれ、歴史上いつでもどこでも起こっている。人々が集まり、家族を作り集団をつくる。開拓し発展して村や町、国となり、やがて他の集団と時には手を結び、時には吸収しより大きなものとなる。
しかし時折、他の集団と交わろうとした際に諍いが起こる。
きっかけはほんの些細な事なのかもしれない。
あるいはすべての人間に衝撃を与えるような劇的な出来事なのかもしれない。
そして人々は破壊と血を伴って争い始める。
その結果を如実に表しているのが、旅人が今歩くこの場所なのだ。
この地に漂う空気に押し潰されそうな重い身体と心を引きずりながら、それでも、と旅人は己と世界にむかって小さく抗い、答える。
それでも、破壊や絶望が溢れているのなら、相反するものもまた同時に存在するはずだと。今の空虚な自分の中には存在しないが、希望や光がどこかにあるはずだと、すがるような想いで足をただ前へと動かし続ける。
やがてその歩みが、村の外れに達し、死の匂いが微かに和らいだ時、一陣の風が吹いた。
旅人はふと足を止め、静かに全身を緊張させる。
破壊ではない何かをその風のなかに感じたからだ。
もう一度、微かな風が吹いたとき、それ、を確信と共に確かに感じ取った。
正確には、それ、を聞き取った。
それ、は風に乗って聞こえてくる小さな泣き声。
その声は、苦痛や悲哀を伴った感情的なそれでなく、もっと原始的で純粋な、本能に基づいた生の主張。
それは赤子の泣き声だった。
無意識のうち、旅人はその声に向かって駆け出していた。その声の主を、そして己の心を救うため。屋根が半分崩れ落ちた小さな教会の横を通り抜けるとますます声が大きくなる。赤子独特の規則正しく繰り返される、それでいて力強い無垢な叫び。この地に蔓延している死の匂いと対極に位置する、旅人が求める尊き光。
旅人が教会の裏手からのびる山道に息を切らせながら入った途端、唐突に視界に入ったものに息を呑み、足を止めると反射的に小銃を構えた。
予想もしなかったもの、理解の及ばないものがそこにはあった。
村の裏の小さな山へと至る上り坂の真ん中に、見たことのない巨大な花がまるで花粉の様に光の粒子をその身に纏いながら咲いていた。
旅人の頭と同じくらいの高さにある五枚の大きな白い花弁は、もしもそれが掌に収まるようなサイズだったらさぞ可憐な様子だったろうが、創造主が縮尺だけを間違った様な、どこか不自然な滑稽さを醸し出している。
茎は大小何本ものそれがねじり、絡まり、より合わせられ、これまた大きく細長い不格好な葉が無数に全方向に広がっている。自然界に咲く花のように調和のとれた美などどこにもない、まるで一度大きな力で押し潰されながらも、抵抗し、不器用に抗い、空に救いを求めて手を伸ばしているかのようだった。
奇妙を通り超して不気味さすらも感じられる存在だが、旅人はどこか生命力溢れる荘厳で純粋な力強さも感じていた。ますます大きくなる赤子の泣き声と同じように。
慎重にその花に近づく。自然と銃口は力なく地面に向けられる。
赤子の声はその花の根本の方から聞こえてくる。
中央よりもやや下のほうに、元々太い茎がさらに膨らんだ部分があった。
だがそれは内部から無理やり押し広げられたものでなく、まるでなかの存在を包み込み抱きしめている、本来そうあるべき、そうするための形として誕生したような、完成された歪さ。
先程まで一生付きまとわれるのではないかと思っていた、死と破壊の匂いが今は何処かに消え、むせ返る様なその花の強烈だが決して不快ではない大地の匂いが鼻孔に充満した時、その膨らんだ無数に束ねられた茎の隙間に声の主の姿が見えた。
まぎれもなく裸の人間の赤子だった。
陽を照らすように輝く光の粒子に守られた、廃墟の片隅に咲く白い花。
命のゆりかご。
旅人は不必要な小銃を取り落とすと身をかがめ、その命を救いにかかる。
素手で引きちぎろうとするも、その不可思議な植物の一部はびくともせず、やはり赤ん坊を守っているのだな、と旅人は確信する。数分の間悪戦苦闘するも赤ん坊を傷つけまいとどうしても慎重になりすぎてうまくいかず、いつの間にか赤子が泣き止んでいることに気が付いた。
無垢な瞳がこちらを見ていた。
これまでの人生で子供をもった事がなく、それに類した存在にふれることもないまま戦場を渡り歩いてきた旅人にとって、思わずたじろいでしまうほどに純粋で脆弱で繊細で、それであってもなお、あるいはそれ故に、その瞳の光はこの場の何よりも強かった。
旅人は腰の鞘から鳥の羽の刻印が刻まれた、黒い柄の銃剣を抜く。本来の使用目的に則り、人を殺めたことをすらあるその刃物を赤子に向けるあまりの不快感に一瞬手が止まるが、それでも太い茎を一本断ち切ると、あとは躊躇することなく次々とその植物を切り開いていった。
まるまった全身が見える様になると、手袋を脱ぎ捨て、そっと花の中に両手を差し入れる。
赤子特有の身体の柔らかさとあたたかさに思わず戸惑いながらも、幾分後その身体は静かに旅人の両腕の中におさまっていた。
命の鼓動と熱と吐息が全身に伝わる。
生きている。
そして旅人はようやく思い出す。自分もまた生きているのだと。
そして世界も。
溢れ出る感情を抑えられず、赤子を抱きしめたまま全身を震わせ、しばらくの間旅人は再び泣き続けていた。
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