第3話 あの日へのカウントダウン
冬が近づき、外の気温が下がるにつれて、私の体温は逆に、生き生きとした熱を帯びるようになっていった。
朝、目覚めるたびに私は「脱皮」している。昨日の自分を包んでいた薄汚れた皮を脱ぎ捨て、より新しく、より透明な、無垢な自分へと。
私の身体からは、不妊治療の薬に含まれていた化学的な匂いが完全に消えた。代わりに、少女特有の、陽だまりのような、あるいは淹れたての紅茶のような甘い香りが立ち上がり始めている。
指先を眺めれば、節くれ立っていた関節は消え、爪は薄桃色の真珠のように輝いている。二十代の絶頂期――私が自分の未来に何の疑いも持っていなかったあの頃の身体が、残酷なまでの正確さで復元されていた。
同時に、私の意識が遡るスピードも上がっていく。
ついに、私はあの「最悪の日」の近くまで辿り着いた。
一年前の、不妊治療の最終報告
「これ以上の継続は、お勧めしません」
医師の無機質な言葉。病院の廊下の、消毒液の匂い。隣で「別の道を考えよう」と冷静に言った健一への、煮えくり返るような憎しみ。
けれど、今の私にとって、その記憶は「これから克服しなければならない試練」に過ぎなかった。
不思議なことに、その記憶に近づくほど、私の心から「母親になれなかった苦しみ」が剥がれ落ちていく。かつてあんなに欲しかった子供への執着が、まるで前世の記憶のように遠のいていく。
私は、ただの「真由美」に戻っていく。誰の母親でもなく、誰の妻でもない。ただ一人の、恋を知ったばかりの瑞々しい少女へ。
対照的に、リビングに座る健一の姿は、まるで時間という名の砂漠に置き去りにされたミイラのようだった。
彼はもう、私を「真由美」とは呼ばなくなった。
彼が私を呼ぶとき、その声には、神聖な遺物に触れるような畏怖と、愛する者を殺めてしまった罪人のような、震えるような悲哀が混ざっていた。
「真由美……いや、君。今日のノートは読んだかな?」
健一が差し出したノートを、私は好奇心に満ちた瞳で覗き込む。今の私にとって、このノートは「昨日の日記」ではなく、これから私が経験するはずの「刺激的なシナリオ」だった。
『12月5日:今日、私たちは結婚記念日のディナーに行った。君はドレスを着て、出会った頃のように笑っていたね』
その夜、私たちはレストランにいた。
窓に映る私は、二十代の絶頂にいるような輝きを放っていた。ドレスから覗く鎖骨は華奢で、唇は紅をささずとも赤く濡れている。
「真由美、君は本当に綺麗だ」
健一さんは、ワイングラス越しに私を見つめた。その目は、沈みゆく太陽を惜しむ旅人のようだった。
私は、彼が今日、私にプロポーズをした時の言葉を繰り返してくれることを期待していた。けれど、彼が口にしたのは、お別れの言葉に近い祈りだった。
「もし、僕のことを忘れても……君が笑っていられるなら、それでいい」
私はその言葉の真意が分からず、ただ楽しげに笑った。私はこれから、彼との新婚生活を始めるのだ。これから、彼とたくさんの夢を見るのだ。悲しい記憶が消えていくことが、これほどまでに心を開放してくれるなんて。
私はノートに書き込んだ。
『これから、素敵なことが始まる予感がします』
その瞬間、ノートの他のページに書かれていた、私たちの「苦闘の五年分」のインクが、シュンと音を立てるように消えた。情報の逆流。彼が必死に守り抜こうとした、私たちの「愛の証明」は、私の無垢な期待によって上書きされ、虚空へと消え去った。
数日後、ついにその朝が来た。
ベッドの隣で眠る、深く刻まれた眉間の皺を持つ男を見て、私は叫び声を上げた。
「あなたは……どなたですか?」
その問いかけが、健一の最後の一線を焼き切った。
彼は静かに起き上がり、私の怯える瞳をじっと見つめた。その目には、絶望の果てに辿り着いた、底知れない平穏が宿っていた。
「僕は、君を観測する者だ。真由美。君が、君であった時間を、代わりに記憶しておくための……ただの記録係だよ」
それ以来、彼は私を「妻」として扱うのをやめた。
私は、自分が何者であるかさえ、朧げになっていた。ただ、窓から見える冬の光が綺麗だということ。お茶が温かくて甘いということ。そして、この「先生」と呼ぶようになった男性が、時折、私を見て胸が張り裂けそうなほど美しい悲しい瞳をすること。
ある夜、私は彼の書斎に忍び込み、分厚いノートの束を見つけた。
『202X年 某日:彼女から苦悩が消えるたび、彼女は輝きを増していく。まるで、苦しみこそが人間を老いさせ、腐らせる毒であったかのように。忘却は、彼女にとっての「救済」なのだ。彼女は、僕との愛を捨てることで、ようやく自分自身を取り戻したのだ』
私はその文章を読んで、不思議な感覚に陥った。 「真由美」という女性は、なんて可哀想で、そしてなんて幸せなのだろう。愛した人の記憶を失う代わりに、すべての苦しみから解放される。それは、神様がくれた最高のプレゼントではないか。
「……先生。私、この『真由美』さんっていう人が羨ましいわ」
背後に立っていた健一は、私の頬をそっと撫でた。彼の指は、氷のように冷たかった。
「ああ。そうだね。君は、もうすぐ彼女を追い越して、もっと遠い場所へ行くんだ」
私の意識は、ついに二十歳の自分へと辿り着いた。
私の記憶にあるのは、大学の講義、友人たちとのお喋り、そして、漠然とした未来への希望だけ。目の前にいる、白髪の混じった、痩せ細った男性。彼を知る術はもうない。
「先生、私……帰らなきゃいけない気がします。両親が心配しているわ。ここは、私の居場所じゃないみたい」
健一の目から、初めて一筋の涙がこぼれ落ちた。
「そうだね。君の場所は、ここじゃない。もっと明るくて、自由な、あの日にあるんだ」
彼は私のために、小さなスーツケースに服を詰めてくれた。不思議なことに、どの服も、今の私の身体に驚くほどぴったりと合った。
駅へ向かう道すがら、私はふと振り返った。 二階の窓から、あの「先生」が私を見つめていた。
彼は、私がかつて愛し、そして私を狂おしいほどに愛してくれた人だったはずだ。でも、今の私には、その事実は何の重みも持たない。
空を見上げると、雪が――
不思議なことに、雪が、空へと昇っていた。 重力さえも、私を縛ることをやめたのかもしれない。
私は笑った。若さという名の、傲慢で残酷な光を全身に浴びながら。
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