第2話 若返る呪い、枯れる絆
その現象を、物理学者である夫、健一は「個人的エントロピーの逆転」と定義した。宇宙の万物は秩序から無秩序へ、新しいものは朽ちるという一方通行の法則に従っている。しかし、私の身体だけがその濁流から切り離され、上流へと遡り始めたのだ。
「真由美、よく聞いてくれ」
夕食後の書斎。健一は数式のインクで汚れたノートを私の前に置いた。彼の瞳にはかつての愛おしさではなく、未知の数式を解こうとする学者の、冷徹で悲劇的な光が宿っていた。
「君の意識は、僕たちの時間軸とは逆方向に走っている。僕にとっての『昨日』は、君にとって『これから経験する未来』だ。君が『明日』に目覚める時、今日の僕との会話は記憶から消去されている。情報の因果律が逆転しているんだ」
私は半分も理解できなかったが、ノートに綴られた彼の文字をなぞると奇妙な眩暈がした。 『10月15日:真由美、今夜は二人で赤ワインを開けた。君は不妊治療で酒を控えていたが、今夜は「一口だけ」と言って笑った。三年ぶりに見る明るい笑顔だった』
私はそれを「予言」として読んだ。10月15日は私にとっての「明日」だ。私は明日、彼とワインを飲み、その幸福な記憶を翌朝には綺麗さっぱり失っているはずなのだ。
「このノートが僕たちの共通言語だ。君が忘れてしまう今日を僕が書き留める。君は毎朝これを読み、失った過去を『知識』として補完するんだ。これは僕たちの愛を繋ぎ止める、唯一の楔なんだよ」
私は頷いた。けれど心のどこかで、言い知れぬ解放感を感じていた。
一週間後、不妊治療の副作用で象の足のように張っていた足首が、カモシカのように細く滑らかな曲線を取り戻した。風呂上がりに脚を眺める時間は、絶望的な点検から、うっとりとする観賞へと変わった。
二週間後には、肌のキメが驚くほど整った。クマや小じわ、荒れた口角が、熟練の修復師に手入れされた名画のように剥がれ落ちていく。指先で押せば跳ね返すような弾力。それと同時に、砂を噛むようだった食事への欲求が旺盛になった。
「美味しい……健一さん、これ、すごく美味しいわ」
夢中で箸を動かす私。その横で健一は急速に老け込んでいった。頬はこけ、髪には白いものが混じる。彼は私が若返るたびに、私という「崩壊していく時間」を観測し続けることに、精神を削り取られていた。
ある夜、喉の渇きで目を覚ました私は、書斎の扉を細く開けた。
デスクライトの下、健一はノートのページを遺髪でもなぞるように震える指で愛撫していた。
『10月20日:真由美が僕を『ねえ、健一』と呼んだ。付き合い始めた頃の瑞々しい響きだ。けれど彼女の瞳は、苦しい不妊治療の五年分を完全に忘却していた。彼女は五年前の『ただの幸せな妻』に戻り、僕だけが五年の重荷を背負ったまま取り残されている』
健一の肩が激しく震えた。彼にとって私が美しくなることは、残酷なカウントダウンだ。私が瑞々しさを取り戻すたび、共有した「歴史」という名の肉体が壊疽を起こし、脱落していくのだから。
私にとって、ノートの苦難はもはや他人事だった。
『11月2日:最後の胚移植が失敗した。真由美は泣き崩れ僕を責めた』
そんな記述を読んでも心にさざ波は立たない。
「へえ、そんなこともあったのね」と、出来の悪い映画を観るような乾いた感想しか出ない。
今の私にあるのは溢れんばかりの生命力だ。朝の光に胸が高鳴り、風がカーテンを揺らすだけで世界が祝福に満ちていると感じる。不妊治療の廊下で死を待つ囚人のようだった私は、もうどこにもいない。
「真由美、今日は……外出はやめておこうか」
健一が怯えるような目で私を見た。二十代後半の輝きを放つ私に対し、彼は五十代の男のような深い疲労を隠せない。
「どうして? 公園の桜が見たいわ」
「……桜? 真由美、今は秋だよ。紅葉が始まっているじゃないか」
ハッとして窓の外を見た。確かに木々は色づいている。けれど私の脳内には、淡いピンクの花びらが舞う光景が、強烈な「予感」として刻まれていた。
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」
私は明るく笑った。笑うたび、さっきまでの記憶が消えていく。昨日何を話したかも思い出せない。でも、それが何だというのだろう?
過去なんて、重くて暗い荷物だ。それを捨てるたび、私はこんなに軽く、自由になれる。 鏡の前でくるりと回る。瑞々しい脚、輝く肌。私は、私を取り戻している。たとえ愛する人の名前を指の間からこぼしていくことになったとしても。
「健一さん、見て。私、綺麗?」
振り返った視線の先で、健一は絶望に顔を歪ませ、力なくノートを閉じた。そこには思い出を繋ぐ文字ではなく、真っ白な余白だけが、口を開けて待っていた。
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