昨日から来た妻と… 明日に向かう僕… 2(忘却という名の福音)

比絽斗

第1話 エントロピーの綻び

目覚めると、頬に当たるシーツがひどく冷たかった。

 いえ、冷たいのは私の方なのかもしれない。不妊治療を始めてから、私の身体はずっとどこか、自分のものではないような違和感を抱えていた。ホルモン剤の影響でむくんだ足、鏡を見るたびに深くなる目の下の隈。心は、使い古された雑巾のように絞り尽くされ、一滴の希望も残っていない。


 そんな私を、夫の健一はいつも静かに見守ってくれていた。けれど、その静けさが今の私には、熱を奪われた宇宙の暗闇のように思えて仕方がなかった。

 その朝、鏡の前に立った私は、自分の顔に奇妙な違和感を覚えた。

 ここ数年、鏡を見ることは、自らの敗北の記録を直視する作業でしかなかった。洗面所のLED照明は、容赦なく私の疲弊を暴き出す。不妊治療のサイクルに合わせて繰り返される、過剰なまでのホルモン剤投与。

 その副作用で土色に浮くんだ頬、重く垂れ下がった瞼、そして何より、希望を奪われた者特有の、底の濁った瞳。三十代半ばの私は、実年齢という数字以上に、内側から枯れ果てた老木のような心で生きていた。


 けれど、その日の鏡に映っていたのは、見覚えのない「予兆」だった。

 肌の奥底に、死んでいたはずの毛細血管が産声を上げたような、微かな血色が差している。指先で恐る恐る頬に触れてみる。昨日の朝、あんなにカサついて指先を弾いていたはずの皮膚が、驚くほど柔らかく、吸い付くような弾力を取り戻していた。まるで一晩中、極上の美容液に浸されていたかのように。


「真由美? まだ準備に時間がかかるのかい」


 リビングから、健一の穏やかな、しかしどこか疲れを含んだ声が聞こえる。

 私は慌ててパジャマの襟を正し、リビングへと向かった。食卓では、彼がいつものようにトーストを齧りながら、タブレットで物理学の論文を追っている。彼の指先は、実験と計算のしすぎか、少しだけ震えているように見えた。


「ねえ、健一。昨日の夕食……ハンバーグ、焦がしちゃって本当にごめんね。後片付けも大変だったでしょう」


 私は椅子に座りながら、ごく自然に謝罪した。  言葉が、自分の意志よりも先に、滑らかな潤滑油を塗られたように口から滑り落ちる。私の脳内には、確かに「昨日」の光景が鮮明に焼き付いていた。換気扇が追い付かないほどの青白い煙、フライパンの上で炭のように真っ黒になった挽肉の塊、そしてそれを無言で片付ける健一の、寂しげな背中。


「……ハンバーグ?」


 健一がタブレットから顔を上げ、怪訝そうに私を見た。その瞳の奥にある、私に対する「腫れ物に触るような優しさ」が、今朝の私にはいつもより痛痒く、そして異質なものに感じられた。


「真由美、今は朝だよ。昨日の夜は、君が作ってくれた野菜スープを二人で飲んだじゃないか。ハンバーグなんて、焼いていないよ」


 私は息を呑んだ。

 混乱が波のように押し寄せる。たった今、私はあの鼻を突く焦げた匂いを、喉の奥に確かに感じたはずなのだ。キッチンにこびりついた汚れをこすり落とす、健一のスポンジの音さえ聞こえていた。


「ごめんなさい……ひどい夢でも見ていたみたい。寝ぼけていたのね」


 私は誤魔化すように笑った。その自分の声が、鈴を転がしたように澄んで響いたことに、自分自身が一番驚いた。

 健一はそれ以上追及せず、「疲れが溜まっているんだよ」と、いつもの労わりの言葉を口にした。しかし、彼の物理学者としての鋭い眼差しが、一瞬だけ私の肌の「輝き」を捉え、不審げに細められたのを私は見逃さなかった。


 その夜、事件は起きた。

 私は夕食の準備をしていた。献立は、なぜか朝から決めていたハンバーグだ。

 玉ねぎを刻み、肉を捏ね、成形する。その動作の一つ一つが、まるで「既知の演劇」をなぞっているような、奇妙な全能感に満ちていた。

 私は次に何が起きるかを知っている。強火で熱しすぎたフライパン。電話のベル。

 健一からの「少し遅れる」という連絡。


 ――ジリリリ。


 受話器を取る。

「ああ、真由美? 悪い、急なゼミが入って一時間ほど遅くなる。先に食べていてくれ」


 健一の声

 私は受話器を握りしめ、フライパンの上で激しく煙を上げる肉塊を見つめた。  真っ黒な焦げ。朝、私が「昨日」の記憶として謝罪した光景が、今、目の前で寸分違わず再現されている。


 私は戦慄した。

 私は「未来」を思い出していたのだ。

 そしてその戦慄の瞬間、恐ろしい感覚が私を襲った。

 今日の昼間、近所のスーパーで誰と挨拶を交わしたか。

 今朝、健一とどんな会話をしてトーストを食べたか。

 つい数時間前の「今日」の出来事が、砂時計のくびれを通る砂のように、さらさらと音を立てて私の意識からこぼれ落ちていく。


 必死に掴もうとしても、指の間をすり抜けていく記憶。

 代わりに、私の身体には、これまで感じたことのない万能感が満ちていく。

 肩の凝りが消え、視界がクリアになり、細胞の一つ一つが「これから始まる」と歓喜の歌を歌っている。


 キッチンに立ち尽くす私の前で、ハンバーグは無惨に黒焦げていく。

 それは私の「未来」が確定した合図であり、私の「過去」が消滅した弔鐘でもあった。

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