第2話 淡墨

「―ト―ヒ―――ル―メ―。―――ハ――ニ――カギ―――ヲ。カ――ハ―ト―――シ―ヲ。」どこからか声が聴こえる。聞いたことのない人ではない何かの声。耳から?否、魂に直接送り込まれてくるかのような感覚。燃えさかる炎、立ち込める煙、耳を劈く怒号がノイズとなって邪魔をする。やがてそれは徐々に遠ざかっていく。意識が薄れていく。「何を言って・・・待ってくれ・・・俺は・・・レイカは・・・。」そして記憶はここで途絶えた。


世界は――――人は――――再び過ちを犯しました―――――。この世界の生命は、もともと皆「自分が生き延びること」「自分の子孫を残すこと」この二つのことを成し遂げるために生きていました。次の子孫を残すために身命を賭して戦い、弱きものは命を落とし、強きもの、運に恵まれたものだけが生き残る掟の中で必死に生きていました。そこには「生命としてこの世界に生まれた喜び」は存在しません。しかし―――――そんな殺伐とした世界を変えられる可能性をもった生命が現れました。そう、初めて「理性」を持ち合わせることを許された生命―――「人」―――。数多の生命の中で、人だけが言葉による高度な意思疎通を可能とし、物事を考える能力を備え、他者の感情を理解し、他者を慈しみ、万物の霊長として、他の生命と共存共栄する世界を創造していくという崇高な使命を与えられました。人は日々成長していくことが出来ます。悠久の時を経て、人は真なる人となるために革新していくはずでした。「楓」はその成長を確かめるべく、「焔」を介して長きに渡って人の革新を見守ってきました。しかし――――人は未だ自らの欲のために他者を殺め、人格を踏み躙り、文化を破壊し、世界を崩壊に導こうとしています。何度も同じ過ちを繰り返す――――最早人はその使命を全うすることは出来ないのでしょうか―――――いいえ――――希望は捨ててはなりません。少しのきっかけで人はきっと変わる――――人が人であるために――――――ユウハ―――今こそ私達は、その使命を果たしましょう―――――共に――――。


聞いたことのない声。自分の姿すら見えない深い闇。一体ここは何処なのか。あの声は。ふと、視界の先に僅かに動く淡い光に気づく。身体が動かない。光が遠ざかっていく。「待ってくれ。ここは・・・・行かないでくれ。」思わず光の方に手を伸ばす―――――。


―――――伸ばした手の先には――――見知らぬ天井があった。襖、床の間、日の光が射し込む障子に囲まれた六畳程の部屋。畳に敷かれた布団。記憶にない知らない部屋。いつから自分はここにいたのだろう。首を傾け、目で耳で辺りの様子を探る。遠くから微かに鳥の声が聞こえる。家の中に人の気配はない。少し身体を動かしてみる。「――――ッ!?――」身体のあちこちに予想していなかった鈍い痛みが走った。軽く深呼吸し直し、痛みを堪えゆっくりと起き上がる。身体が鉛のように重い。自分の身体の一つ一つを確かめるように慎重に立ち上がる。障子を少し開けてそっと外を伺うと、山々が間近に連なっているのが見えた。かなり山の奥深い所なのだろう。襖を開け、板の間から土間にでる。外の空気の刺すような寒さが、季節が冬だと告げる。土間に置かれていた草履を履き外にでる。時刻は正午位だろうか。冬の弱々しい太陽が低く南に上り、凍てつく風が耳元を通り過ぎて行く。玄関先には雪の中から掘り出したであろう野菜が籠に積まれ、庭には洗濯物が干されていた。周りには他の民家らしきものは見当たらない。人の姿を探し辺りを彷徨っていると、少し離れた坂の下の畑に動く人影を見つけた。辿々しい足取りで坂を下りて近づいていく。畑仕事をしているのはどうやら年老いた男女のようだ。――――と、老婆の方がユウハに気付いた。遠目にも「はっ」とした表情が見てとれる。近くにいる老爺に声をかけこちらを指さしているのが見える。二人は作業を止めるとユウハの方に近付いてきた。二人共七十歳前後といったところだろうか。穏やかな雰囲気の二人に少し安堵する。

「目が覚めたか。まだ無理して動かぬ方がよかろう。ここは寒い。家の中の暖かい所に戻ると良い。」

老爺にそう促されるまま、家に戻り囲炉裏の側に座ると、温かいお茶を淹れてくれた。ごく普通でありながら、どこか懐かしさを感じるような、そんなお茶。飲み干す頃には少し身体が温まり、少し気分が落ち着いてきた。

「あの・・・・ここは・・・・?」


何をどこからどう聴いていいのか頭の整理が出来ていなかったが、思わず一番気になっていたことが口をついていた。

「この場所に名は無い・・・・・。その様子だと、そなたは、ここにどうやって来たか覚えてはおらぬようだな。まぁ、傷を負って気を失っておったのだから致し方あるまい。」

確かにユウハの記憶は、クサカと戦っていた所で途切れていた。そして――――――。

「自分一人だけがここに来たのか――――という顔をしておるな。状況がわからず何かと気も逸っておる・・・か。」

不意に心の内を見透かされ動揺が顔に浮かぶ。

「気持ちは分からぬこともない。しかし、まずはその身体を癒すことだ。かなりの深手をおっておろう?歩くことすらままならんようでは何も出来ぬ。傷が癒えるまでは、焦らずここにおると良い。」

ユウハの脳裏には、疑問が無限に湧き出していた。この老夫婦らしき二人は、自分がこの場所に来た時の事を知っているのか。それは、いつ、どうやって・・・そもそもここはいったい・・・。いや、それよりも、彼等は自分を知っている――――?

直ぐに治るだろう―――そう思っていた自分の身体は、切り傷に始まり打撲、火傷に捻挫、多分骨の何箇所かには軽くヒビが入っていただろう。それに自覚のない疲労が蓄積していたことが上乗せされ、想像以上に深刻だった。思ったように回復しない身体は、リハビリのつもりで申し出た些細な手伝いですら悲鳴をあげた。庭の掃き掃除程度ならまだしも、野菜が沢山入った籠を持ち上げるなどもってのほかだ。しゃがんで立ち上がる、という作業は案外身体を使うのだ。

その老夫婦は歳こそ重ねているが、凛とした気高さがあり、崇高な人格者という表現が相応しい人物だった。二人は毎日とにかくよく働いた。朝早くから畑仕事や井戸の水汲み、農具の手入れに食事の準備。時折、かなり長い時間姿を見ないことがあったが、薪拾いか何かなのだろう。ユウハも少しずつ日々の作業を手伝い、身体を慣らしていった。一ヶ月もすると、普通の生活には支障が無い程度まで回復し、無限の時間を小さな冒険に費やすことが密かな楽しみとなっていた。最初は家の周り程度だったが、徐々に畑や井戸の辺りにまでと冒険の範囲を広げていった。ここは奥深い山の中でも、まだ中腹辺りのようだ。家のすぐ裏手には、びっしりと足元を覆う隈笹が、時折吹いてくる柔らかな風にカサカサと葉を揺らす他は、物音一つない静かな澄んだ森が広がっていた。「そう言えば・・・ここに来てから他の人を一人も見ていないな・・・・本当に、ここは一体どこなんだろう・・・・ん?」

その日もいつものように三人揃って夕食をとっていた。

「身体の具合はどうか?だいぶ動けるようになってきたようだな。」

「えぇ、おかげでもう普通に歩くことは問題ないです。・・・そういえば・・・家の裏手の笹薮の中に、か細い道のようなものが見えるんですけど、この山の奥にまだ何かあるのですか?」

老爺は僅かに見を見開き「ほぅ」という表情を浮かべたが、すぐ視線を落とし、その顎に手を遣りながら暫く考え込む仕草を見せた。

「道・・・・な。最初から人が歩くために作られた道などと言うものはここには無い。自分が進むべき道は自ら切り拓くものよ。志を持たぬものが不用意に入れば、迷い、彷徨い、呑まれていく。この山はそういう所だ。悪いことは言わん。生半可に入って行くのは控えられよ。」

ユウハには幾つかの疑問があった。何故、この老夫婦はこんなにも不便な山の中に暮らしているのか。誰かが訪ねてくることもなければ、夫婦の口から他人の話しを聞くこともない。完全に世界から孤立したこの場所で、一体何をしているのか。一日の大半を家の周りの畑で過ごしている二人が、一体どこで自分を見つけたのか。先程の老爺の話も、如何にも不自然ではないか。

その日も、二人がいつものように畑仕事に出たのを確認すると、ユウハは家の裏手の森に向かった。足元をびっしりと覆う隈笹の隙間に、じっと眼を凝らさないとわからないほどの細い糸のような道筋が、山の奥深くに確かに延びていた。「・・・この先に・・・。」何かに誘われるように、今にも消え入りそうな、その道筋を目を凝らして辿っていく。道筋は山の上へ上へと続いていた。山はどこまでも深く静かだった。相変わらずカサカサと風に揺らめく隈笹の葉の音だけが、静まり返った山の中に木霊する。何の位登って来たのだろうか。何時の間にか、周りに薄っすらと霧がかかり始めていた。道はまだまだ続いているようだが、覆う辺を覆う霧は徐々にその密度を増し、視界を白く染めていく。そろそろ戻るべきか―――――そう脳裏を過ったその時、霧の向こうに長い石階段のようなものが朧気に姿を現していた。両脇に石燈籠がずらり並んだその石の階段は、半分現実のような、半分幻のような、今にも消えてしまいそうな蜃気楼のように揺れ、霧の奥に続いていた。「あれは・・・・。」何時の間にか風は止み、隈笹の葉の擦れる音も聞こえなくなっていた。ユウハの足音だけが霧の中に木霊する。その石の階段は―――――歩けど歩けど近づけず、いつまでも朧気にしか見ることが出来なかった。やがて霧は一層その濃度を増し、ユウハの意識を呑み込み、何も無い白一色の世界に染めていった。


世界が禍々しい血に呑み込まれたあの日から、人は争いを止めた。いや・・・正確には、恐怖に怯え争う気力を失くした、と言った方が正しいのかもしれない。そこには、人としての尊厳などというものは無く、人が人であることをも辞めてしまった、ただの脱け殻だけが存在していた。「楓」は一体、人に何を見せたかったのだろう。何を成し遂げるために世代を繋いでいるのだろう。あの時、邪魔が入らなければ、あの場所で何が起こったのだろう。あの精神世界の中で、招かれざる異物の存在に気付かなかったのだろうか。いや・・・・だとすると、敢えて「そうなること」を知って、再び世界を血に染めたというのか。何のために――――――。


あの日から一月ほどが経ち、混迷を極めていた世界は少しずつ自我を取り戻しつつあった。町の集会所や食堂、宿屋といった所にも徐々に人が戻り始め、どこに行けば食糧があるか、どこの道が復旧したか、どの街で露店が出るようになった、といった様々な情報が飛び交うようになった。中でも、ゼンワード王国のエルシン国王、クサカ魔導士団長が公の場に姿を現さなくなった、との噂は瞬く間に世界中に広がっていった。

「おい、聞いたか?ゼンワードは国王や魔導士団に何か揉め事があったらしいぞ?」

「あぁ聞いたよ。あの国王は欲深かったからな。禁忌に手を出して神様の逆鱗にでも触れたんじゃないかって噂まで飛び交ってるぞ。真偽の程はさておき、まさか世界がこんなことになるなんてな。」

「そうだな。てっきり伝説のお伽噺だと思っていたよ。一体いつになったら元に戻るんだかな。」

「なぁマスター。ここには色んな情報が集まって来てるだろう?何かいい話でも聞いてないかい?」

「さぁねぇ。ここには色んな人が、色んな話をしていくけれど、話が錯綜しちまってね。私も一体何が何だかだよ。」

厨房から料理を運んできたばかりの、髭を蓄えた恰幅の良い男性が答える。

「でも、まぁ神様の逆鱗に触れた、といったようなことが起きているんだろうな。人は、生き方を間違ったのかもしれん。万物の頂点などと驕り高ぶりすぎたのかもな。」

「そうだなぁ。戦争ばかりけしかけていたから罰が当たったんだ。こんなことばかりやってて、一体誰のためになったんだか・・・。さて、飯も喰ったし俺達はそろそろ出発するよ。街の復興のために仕入れたものを届けに行かなきゃいけないんでね。また近くに来たら寄らせてもらうよ。・・・・・あぁ、そうそう。最近、あちこちの町や村で幽霊が出るって噂だぞ。」

「幽霊?」

「あぁ、なんでも椅子やテーブルが勝手に動いたり、誰もいないのに足音が聞こえたりするらしい。それも人が沢山集まる場所でよく出るんだとよ。食堂とか宿屋とかな。マスターも気を付けてな。じゃあな、また来るよ。」

その日、ランマはいつものように宿泊客を送り出すと、今夜の客に備え街に買い出しに出かけた。あの日以降、暫くの間食材を始め生活に必要な様々な品物の流通が麻痺し、客にロクな食事も出せない日が続いたが、最近ようやく手に入るようになってきたのだ。そして品物が戻るのと歩調を合わせるように人通りも戻り、街は以前のような活気を徐々に取り戻しつつあった。路地には露店も並び始め、狭くなった道を人を避けながら歩いていく。何軒かの店を梯子し、両手一杯の買い物をして店に戻ろうとした時だった。―――――擦れ違う人混みの中から、急に背筋が凍りつくような視線を感じた。本能的に気配が飛んでくる方向に視線を向ける―――――が、こちらを見ている人は見当たらない。「気のせいか・・・・。」そう思って視線を元に戻そうとしたその時だった。「なっ・・・!?」人混みの中を――――「目」――――だけが通り過ぎていく。途轍もなく冷たく、憎悪に満ちたその「目」は、咄嗟に振り返った時には、もうそこには何も無かった。「今のは・・・・・。」

時刻が昼に差し掛かかると、にわかに重たい曇が広がり始め、やがて朝の晴天が嘘のように土砂降りの大雨となった。雨は夕方になっても勢いを衰えることなく降り続いた。そして、ランマの宿には次々にずぶ濡れの宿泊客がやって来た。この地域は一年を通じてカラッと晴れていることのほうが多い。今日も朝から爽やかな青空が広がっていたため、皆雨具の準備などしていなかったのだろう。ランマは次から次へとやってくる客を、慌ただしく部屋へシャワー室へと案内し、腹を空かせて食堂に下りてきた客に夕食を出していった。急な大雨のせいで、急遽宿に飛び込んで来た客も多く、想定外に大勢の客のもてなしでてんてこ舞いだ。厨房の片付けが終わり、食堂やロビーで寛いでいた客が、それぞれの部屋に戻っていくと、今度は床の拭き掃除が待っていた。まぁ、ずぶ濡れの客が大勢いたのだから板張りの床も水浸しになるのも仕方がない。夜遅くまでかかって全ての作業が終わると、ようやくフロアにいつもの静けさが戻ってきた。ロビーのソファにどっかり腰を下ろし、外の様子に耳を立てながらお茶を啜る。「さすがにこんな時間にもう客は来ないか・・・。」外は相変わらず大雨が続いている。恐らくはもう外を歩いている人などいないだろう。そろそろ店を閉めようか――――そう思い、立ち上がったその時―――――不意に扉がキィッと微かな音を立ててゆっくりと開いた。外は暗く土砂降りの雨で、扉の向こうに人がいるのかどうかすら良く見えない。咄嗟にランマは昼間見た、あの「目」を思い出し身構える――――。しかし、徐々に目が慣れてくると、一人の人影が立っているのが見えてきた。

「・・・泊まりかい?」

ランマは、そう声をかけながらその人影の様子を伺う。玄関先に立っている人物は、暫くの間視線をランマに向けようとはせず、玄関から見渡せるロビーや食堂のあたりに、視線を走らせていた。時折、その目を閉じ、聴覚いや身体中の感覚を研ぎ澄ませて何かを探っているように見えた。やがて、僅かに緊張を解いたような仕草を見せると、徐ろに彼は宿の中に入り扉を静かに閉めた。見たことのない異様な黒尽くめの衣装を身に纏ったその人物は、少し距離をおいて警戒しているランマをじっと見据え口を開いた。

「・・・・ランマ殿・・・・でござるな?貴殿宛の宸翰を預かっておるが故、推参して参った。こちらを。」

彼は唐突にそう言うと、懐から丁寧に折りたたまれた紙を取り出しランマに差し出した。

「俺宛に?宸翰・・・・・だって?あんたは・・・・一体・・・。」事態が全く呑み込めないまま、ランマは彼の一挙手一投足に注意を払いながら彼に近づきそれを受け取りにいく。彼の独特な風貌や言葉遣いが、一層ランマの思考回路を混乱させていたが、彼からは敵対の意思は感じられなかった。

「今読めと?」

彼は目で肯定の意思を示した。ランマはすぐ側のテーブルに腰を下ろし手紙を開く。それは大変に品の良い和紙で出来ており、小筆で達筆な文章が認められていた。そう多くない文面に目を通すランマ。

「・・・!?これは・・・お、おい!?」

視線を上げたそこに、さっきまで存在していたはずの彼の姿はなかった。慌てて玄関の扉を開け外を探す。が、土砂降りの大雨と闇夜の中には人の気配はなかった。


気が付くと、そこはいつもの部屋、いつもの布団、いつもの天井。何事もなかったかのようにいつもの朝があった。「・・・夢・・・でも見ていたのか・・・。」あの出来事が夢なのか現実だったのか分からないまま、日常に戻されていた。いつものように着替えて部屋を出ると、炊事場では既に二人が朝食の支度をしているところだった。そう、いつものように。「おはようございます。」いつものように挨拶をし、朝食の支度の手伝いに加わる。この家の朝食は、いつも玄米ご飯に汁、茹でた野菜に漬物と、いたって質素だ。そしていつものように囲炉裏を取り囲み、食事をとる。いつもは食べ物に感謝の念を忘れないため、ほとんど会話は交わさない。その日も、いつものように静かに食事を終えようとしていた。箸を置き「ご馳走様でした。」と、立ち上がろうとしたときだった。

「・・・少し・・話があるのだが、良いかな?」

そのまま座るよう促された。普段はすぐに片付けをして、そのまま畑仕事に向かうのだが、その日は違った。

「・・・・そなたは・・・自分が何者か理解しておられるか?ユウハ殿。」

「えっ・・・!?・・・あ・・・・僕が・・・ですか・・・。」

一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。それは僅かな時間差で動揺となってユウハの心を揺さぶる。その言葉が想定外のものであったからなのか?いや―――――それもあったのであろうが、それより信じがたいことがあった。ここに至るまで、ユウハは彼等に名を明かしたことがないのだ。それは、これまで名を問われることも無かったからであり、彼等もまたユウハに名を名乗ってはいない。お互いに名を知らないまま、不思議な共同生活を送っていたのだ。理解が追いつかず返事に詰まるユウハに言葉は続く。

「そなたは、自身の意志で今ここに至っているのではないことは薄々感じておろう?予想していなかった出来事が次々に起こり、必死に藻掻いているうち、気付いたときにはここにおったのではないか?不思議なことばかりだったと思うておるかもしれんが、決してそうではない。全ては起こるべくして起きておる。何故なら、それがそなたの宿命だからだ。」

唐突に投げかけられた言葉であったが、それは、ある意味ユウハが心に抱いていた疑問に対する一つの答えとなり得た。


「宿命・・・・レイカが紅い葉を見つけた時から、起こり得ない出来事が続いてきたのは、これが自分の宿命だったからだと・・・・・。」思い返してみれば、辺境の地で大した取り柄もない自分が、王都の魔法学園に入れたことを皮切りに、研究所での出来事、闇夜の草原や森の中でのクサカ達との戦い、そして今この不思議な場所にいることは、なにもかもが普通にはあり得ない出来事ばかりだ。これらは全て自分の宿命に沿って巻き起こったということなのか。ユウハの脳裏に様々な思考が駆け巡る。

「そなたは・・・この世界に何を想うておる?何を望んでおる?自分が何をすべきだと感じておる?」

思考を整理する間もなく問い掛けが続く。

「それは・・・醜い欲に塗れ争うことのない世界、他者を想い皆が手を取り合って助け合える世界、強い者が弱い者を護る事ができる世界、皆が生きる喜びに満たされる世界、そんな世界であるべきだと。自分一人の力ではほんの小さなものしか救えないかもしれない・・・・それでも、僕は・・・。」

「今やらねばならないと思っておることがあるのであろう?確かめたいと思っておることがあるのであろう?それはそなたの宿命がそれを望んでおるからに他ならん。そなたの身体の傷はもう癒えておる。最早いつでもここを発てよう。この山を下ればいずれ人里に出る。ここから先は自身の感覚が赴くままに行くがよい。手掛かりは至るところに存在しておるものよ。そなたの物語がこれからどう彩られていくのか、我等はこの地で見守っておるよ。」

その日は一日かけて旅の準備を整えた。準備といっても、そもそも何一つ自分の持ち物などないのだから、当面の食料を持てるだけ持たせてもらったら準備完了だ。そして、次の日の朝にはお世話になった彼等に礼をいい家を発った。

「見ず知らずの自分を長い間介抱して下さり感謝しております。なんとお礼をしていいのか・・・・・本当に有難うございました。この恩はいつか必ず。」

切り拓かれた畑を抜けると下りの山道に繋がっていく。振り返ると彼等は見えなくなるまで、いつまでもユウハを見送っていた。


「時は――――満ち始めておる――――しかし――――再び去ろうともしておる――――。此度は人はどこに向かうだろうか――――。ところで・・・貴殿は人の行く末をただただ見守るだけ、と言っておったはずだが?手を貸すとはどういう風の吹き回しだ?」

「・・・・・。」


山を下りる道は、道と言える程のものではなく、僅かに草木の少ない部分が筋となって続いている、と言ったものだった。人の存在を感じられるものは何もなく、もちろんここ最近人が通ったような形跡もない。自然と一体化したその道筋は思っていた以上に険しく、ある時は張り出した枝につかまり、ある時は両手をついて段差を下り、苔で滑る地面に何度も足を取られそうになりながら山を下りていった。ユウハには、山を下りたら真っ先に向かいたい所があった。ユキワリ村だ。あの夜に、両親に黙って家を飛び出して以来、今どうなっているのかずっと気掛かりなのだ。村に帰れるのなら、紅の森への道も分かる。森に行けば、行方がわからないレイカのことも何か分かるかも知れない、という一縷の望みもあった。「自分の村に行きたい、か。それならこの山を下りた所にある集落で道を尋ねてみると良かろう。」山を下りる時にそう教えられた・・・のだが、結局その日は日が暮れても人里らしきものには辿り着けず、一人で見知らぬ山の中で一晩を過ごすこととなった。道すがら見つけた大きな岩肌に空いた窪みに、その身を押し込んで夜明けを待つ。信じられない程に暗い、月のない夜。不自然な程に静かな風のない夜。孤独と心細さと疲労が幾重にも積み重なり、潰されてしまいそうな一人の夜。思い返せば、これまでユウハは独りぼっちで夜を迎えたことは無かった。いつも当たり前のように、そこには家族の温もりがあり、友人達の賑やかさがあった。――――そう、「当たり前」ではない「当たり前」。人が生きていく上で最も掛け替えのない「当たり前」を、「当たり前」でなくしてしまうのも、また人――――。人には――――いや、全ての生きとし生けるものには、この「当たり前」を享受する権利がある。頭上に煌めく満点の星空が誰にも等しく降り注ぐように。それは、その生きとし生けるものの権利を護るべきは、万物の頂点に立つべき人に課せられた使命ではないのか。しかし、傲慢、欲望、自己保身といった人の未熟さ故の浅ましい行動によって、何もかもが虐げられている現実。あの日、森にいたレイカ達は、人が人であるための何か大きな力を取り戻そうとしていたのではないか。それを欲望に目が眩んだエルシンやクサカ達に邪魔をされたことによって力が暴発したのではないか。万物の頂点たる責務を果たそうとしない人類に警告を与えるように。何故か漠然とそう思えた。そして、ユウハには一つ大きな疑問が残っていた。そうだとすると、紅い葉を見つけて以来、レイカが何かの役目を負ってあの不思議な場所にいたことは間違いないのだろう。しかし、ほんの短い時間だったといえ、自分までもが何故あの空間に存在できた?そもそもあの場所は一体どこだ?大きな岩の上で大の字になり目を閉じ記憶を辿る。あの日、必要以上の力で捻じ伏せられ意思が朦朧とするなか、自分を拘束していた兵士が次々と何かに薙ぎ倒されていたような記憶が朧気にあった。その後、フワッと身体が浮き紅の森の結界を抜け、森の中を駆け抜けたかと思った次の瞬間には、騒然としたあの場所に自分の存在があった。そしてレイカを襲っていたクサカを見つけ無我夢中で掴みかかった後に、炎の渦にまかれレイカを見失った。そして自分は黒い何かに吸い込まれてあの場所から切り離された。やがて気付いた時にはあの山中の家にいた―――はずだ―――――。

気付けば、夜が白々と明けつつあった。いつのまにか、大きな岩の上でそのまま寝てしまっていたようだ。冷えて固まった身体を少しずつほぐしながら起き上がると、視界の先に昨日は見えなかった山の裾野らしきものが見えていた。山が終わろうとしているのだ。ユウハは簡単な朝食を済ませ、再び山を下り始めると半日ほどで山を下り切り、夕暮れが迫ってきた頃には、ようやく遠くに集落を見つけた。小さな小さな、少しだけ寂しげな表情の集落。ぽつぽつと点在する質素な家屋、その間を埋めるように作られた畑や井戸。道端には少しばかり雑草が生え、落ち葉が静かに風に舞っている。夕暮れ時だからなのだろうか、外には人の姿は見当たらなかった。「誰もいないのか・・・。」そう感じながら、人の姿を探して集落の中を歩いていくと、やがて一軒だけ明かりの灯った家を見つけた。窓越しに影が揺らめいているのが見える。どうやら中に人がいるようだ。

「夜分に申し訳ありません。道をお尋ねしたいのですが。」

ユウハが玄関の扉をノックすると、ほどなくして扉が開くと、一人の女性が顔を出した。紅く長い髪をまとめた。


エルシン国王やクサカ団長が行方不明となった後、コウ率いる騎士団は、王妃から国王を捜索するよう内密に命を受けていた。コウは各地の町や村に騎士団員を派遣し、情報網を築きあげる傍ら、支援物資の供給などの復興支援も行ったことで、王国内は少しずつ生活が改善され、落ち着きを取り戻していっていた。

一方で、国王が不在となった城内は大混乱となっていた。あの日以来、王妃が国王の代わりを務めていたものの、内政には目もくれず国王の捜索だけに執着し、国を治めることには全く手を付けなかったのだ。それでも、コウが治安維持のために騎士団の何割かを王都に常駐させていたことで、辛うじて街は平静を保っていた。

「コウ。陛下やクサカの消息はまだ掴めないの?」

「はっ。残念ながら有力な情報はまだ・・・・。それに・・・陛下やクサカ団長が何を目的にどこへ向かわれたのか、我々騎士団は一切聞かされておりませんでした故に、捜索活動も雲を掴むような状態でありまして・・・・・残念ながら未だ見当すらつけられておりません。」

「そう・・・あなた騎士なんでしょう?主君が行方不明になっているというのに、探しにも行かないでずっと街に閉じ籠もってばかり。全く役に立たないわね。」

「しかし・・・民あっての国であります。陛下が不在の今は、民が動揺しないよう王都内の配慮も必要なときです。」

「あぁ、そんな話はもう聴き飽きたわ。コウ、そんなことは陛下がお戻りになれば何もかもが元通りになるわ。貴方の使命は直ぐにでも陛下の消息を掴むこと。分かったわね?」

コウを始め騎士団員達は、既に領内のみならず他国にも潜入し隈なく探し回っていたが、全く何の糸口も掴めなかった。紅の森だけは捜索出来ていないが、そもそもあの結界がある限り誰も入れないはずだ。他に可能性があるとしたら――――コウには団員達の報告の中に少し気になることがあった。国王とクサカが姿を消す少し前、クサカが一人の少女を秘密裏に王都に連れてきており、今その少女の行方が分からなくなっていること、魔法学校の生徒の一人が行方不明となっていること、そしてその二人は同じ村の出身だ、と言うこと―――――。

紅の森から更に奥地、あまり人に知られていない辺境の地に、その二人の村はある。コウはその村への道中、ふと少し前に王都の魔法研究所で起こった爆発事故を思い出していた。あの事故は未だに原因が特定されてないどころか、不審な人物の目撃証言すらも出ていない。そもそも王都に入る際には、厳しく身分証明や手荷物のチェックを受けるため、外部から怪しい人間が入り込むことも、爆発物を持ち込むことも到底不可能だ。ましてや、王都の中でも特定の者しか入る事を許されていない魔法研究所は、魔導士達によって高度なセキュリティシステムが施されており、部外者が内部へ侵入することは容易ではない。更に不可解なことに、あれだけ大きな規模の爆発事故であったにも関わらず、怪我人を誰一人として見ていない。あの時、確かにコウも爆発音や爆発による地面や壁の揺れを感じ、魔法研究所に向かった。立ち昇る煙も見たような気がした。避難誘導もしたはずだ――――が、コウ自身も怪我人をはっきり見た記憶がない。そして、今魔法研究所は既に元通りに修復されている――――いや――――気付いたときには修復されていた―――何時の間に―――――?

さらに、コウはあの事故の少し前に、普段戦場の最前線で指揮をとることが多いクサカが、あの頃珍しく何度か王国治療院と行動を共にしていたことも不思議に感じていた。治療院は、そもそも戦場に向かう魔導士団に帯同し、傷ついた兵士を治療ために創設された組織がその始まりだ。回復に長けた魔導士は数が少なく貴重な存在であり、日々そこかしこで戦いが繰り広げられている時に、領内の民のために人を割く余裕などない。にも関わらず、ある時を境にクサカの発案により兵士ではなく、民の生活を守るための組織として別途創設されたのだ。このことは、当時クサカの評判を一気に好意的なものにしたものだ。しかし、普段戦いにおいて最前線で指揮を執るクサカが、何故前線を離れ治療院にいたのか?戦いより優先すべきものがあったと言うことか―――――?


紅の森の横を通り過ぎると、その先にはユキワリ村しか存在しない。従って道も道という程立派なものではなく、人が行き来することで草が踏まれ、通り道のような筋が出来ている、といった程度のものだ。コウは、隊列を一列にして歩を進めていた。

「コウ団長、そろそろ例の村が見えてくる頃です。」

コウの前を進んでいた団員がそう言った時だった。俄に先頭の方で隊列が崩れた。

「ん?何だ?どうしたんだ?」

隊列の後方にいたコウの目に、前方の団員や馬が、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちていくのが見えた。そして駆け寄った仲間の団員達も二人三人と次々に声をあげる間もなく倒れていく。

「おい!どうした!?皆止まれっ!・・・何が起こっている?」

そして、コウ自身も身体に異変を感じた。力が抜けていく。意識がどこかに吸い取られていく。「これは・・・・!?不味いっ。罠か!」コウは咄嗟に身を翻しその場を離れようとするが、既に身体は言うことを聞かなかった。「くぅ・・・な・・んだ・・・これ・・・は・・・。」乗っていた馬諸共地面に崩れ落ちる。周りの団員達は既に皆倒れていた。そして、意識が薄れ行くなか、どこかで聞いたことのある声を聞いた気がした。「・・・な・・じゃ・・・お・・・か・・・・・邪・・・し・・・て。」辺りは何事もなかったように静寂の世界に戻っていた。倒れた団員達を残したまま。


「あら・・・あぁ・・・この辺りでは見かけない顔ね。どうしたの?」

玄関の扉から顔を出した女性に、ユウハはあの老爺に言われたとおり道を尋ねてみた。

「あの・・・ユキワリ村への道をお尋ねしたいのですが、ご存知でしょうか?」

彼女は、少しの間ユウハの顔をじっと見つめ、少し考えを巡らせている素振りを見せた。

「そうね・・・前に一度だけ行ったことがあるわ。確か、ここからだとまだ遠いわね。」

「あぁ、ご存知なのですね。助かります。それで、どの道をどの方角に向えば良いのでしょうか。」

すると、彼女は日が落ち暗くなっていく空を見上げ、

「ここからまた歩いていくのよね?夜道を一人で歩くのは危険だし・・・・貴方が良ければ、だけど、今日は一晩休んでいったほうが良いと思うわ。ねぇ、あなた。」

彼女は、家の奥の方に向かって話しかけた。家には、まだ他にも誰か人がいるようだ。

「お客さんかい?あぁ、そうだね。その方がいい。」

家の奥から男性の声が聞こえたと思うと、ひょこっと彼女の後ろからその男性が顔を覗かせた。恐らくは夫婦なのだろう、と直感でそう思えた。その男性は柔和な表情を浮かべながら、

「初めて会ったばかりで戸惑いもあるだろうが、心配も遠慮もいらないよ。困ってる時は助け合わないとね。」

そう言って、家に招き入れてくれた。記憶の彼方に残る、出会ったことのあるようなどこか懐かしい感じを覚える。部屋の片隅には大きな暖炉があり、その背後には大きな絵画が飾られていた。森を包み隠す濃い朝霧の向こう、石燈籠が並ぶ長い石階段が伸びていくその先に、何か建物があるようだ。そして、その周りには淡く繊細な色彩が散りばめられていた。

「・・・絵が気になるの?お茶を淹れたから、熱いうちにどうぞ。」

女性に促され二人とユウハが向かい合うように食卓のテーブルにつく。温かいお茶が少し冷えた身体に染み渡る。それどころか、飲んだ瞬間、身体の痛みや疲れ、心の迷いのようなものまでがスッと溶けていくような不思議な感覚すら覚えた。

「あの絵は・・・あの絵に描かれているものは何ですか?」

ユウハは絵の方に視線をやりながら聞いてみた。

「あれはね、人が人であるための始まりの場所、そして最後の砦とも言える場所。あそこにあるのは、人が忘れてはならない大切な記憶。世界のどこかに実在すると言われているわ。」

「人が人であるため・・・の?」

「うふふ。少し難しかったかしら?でもね・・・いつか貴方なら分かる時がくるわ。あの場所は・・・・。」

彼女がそこまで何かを言いかけたところで、今まで彼女の隣で静かに話を聞いていた男性が、はっと何かを気にするような表情で会話に割り込んできた。

「そういえば・・・君はユキワリ村に行きたいって言ってたね。あそこは辺鄙な所で何にもない村だったはずだったが・・・何か用事でもあるのかい?」

ユウハもその一言で少し我に返った。そう、今はレイカを探し出すことが最優先だ。何一つ手がかりがない今、村にいるであろうナガシしか頼みの綱がない状況だ。いや――――或いはレイカと最後に別れたあの不思議な場所に行くことが出来るのなら――――。今はどんな情報でもあるに越したことはない。そして、幸いにも目の前にいる二人には不思議と何かを知っていそうな感じがしていた。

「・・・・・そう・・・・離れ離れになってる妹さんがいるのね・・・。」

その女性はお茶の入ったカップを両手で持ち、暖を取りながらユウハの話に相槌を打つと、視線を宙に漂わせて何かの想いに耽っているような仕草をみせた。

「その妹さんの名前は何ていうの?」

「レイカって言います。レイカ・オーハン。あぁ、僕はユウハ・オーハンと言います。ユキワリ村は僕とレイカの生まれ故郷なんです。村の人や両親に会えれば、何か手掛かりになりそうなことを知ってる可能性があるんじゃないかと思って・・・。」

「そう・・・そうね・・・妹さん、会えるといいわね。」

「えぇ、そうですね。」

「うん・・・ところで・・・。」

彼女は少し間をおくと、真顔になってもう一つ質問をした。

「君は妹さんを探し出せたとして、その後どうするの?」

――――――その後――――?今はレイカの無事を確認し取り戻すことだけが目的でありゴールだ。そのはずだ。その後の事などもちろん何も考えてはいなかった。誰でもそう思うはずだ―――――では、彼女は何故敢えてそれをユウハに問うた?何か正解となるべき回答の選択肢が他にあるということか――――?彼女は真顔でじっとユウハを見つめたまま回答を待っている。自分は何かを試されている?回答を誤れば、何かが終わってしまう?得体のしれない不安が不意にユウハを覆い始める。その時――――――「そなたは自分が何者であるか理解しておられるか?」――――人里離れた山奥で聞いた、あの老夫婦の言葉が脳裏に蘇った。「全ては起こるべくして起こっておる。何故ならそれがそなたの宿命だからだ。」―――――と。必死で思考回路をフル回転して考えを巡らす。しかし、まだ何一つそれを理解するに至れそうになかった。自分自身に具体的な自覚は何もなかった。

「まだ・・・後のことは何も考えていません。何かすべき事があるのかどうかもわかっていません。今はただ妹の無事を願うだけです。」

そう答えた。

「そう・・・そうね・・・・。」

その答えに、彼女もまた、いろいろと何かを考えているようだった。

結局、その日は彼等の厚意に甘えて一晩を過ごし、次の日の朝、朝食を済ませると二人に見送られ家を出た。

「この道を進めば、紅の森の近くに出るわ。森からならユキワリ村への道はわかるわよね?それと、これも持っていってね。今日のお弁当とお茶。このお茶は特別な水から淹れてあって、疲れが取れたりとか色々効能があるから沢山もっていってね。あと・・・ここは・・・・・貴方達の世界だから。迷ったらいつでも帰っていらっしゃい。」

彼女の最後の言葉の意味はよくわからなかったが、ユウハは見送る二人に礼を言うと、教えられた道を急いだ。


「・・・結局、あれはまだ渡せなかったわね・・・。これで良かったのかしら?」

「まだその時では無いでこざるな。いつか彼が真にそれを手にする資格を得るときまで、今暫く貴殿に預けておくでござるよ。」


歩き始めて間もなく、並木と石燈籠に囲まれた石畳の道を抜けると、不意に景色が変わり小さな沢のある明るい森の中にでた。そして、振り返ったそこには石畳の道も燈籠もなくなっていた。「ここは・・・・。」周りの景色に目を凝らしながら慎重に自分の位置を探る。沢のある谷を離れ、道の続くままに山を登ると僅かに木々の隙間から辺りを見渡す事ができた。どうやらいつも見ていた紅の森の反対側辺りにいるようだ。このまま山を下り森の周りを迂回するように進めば、ユキワリ村へ向かう道に出られるはずだ。道は推測したとおり、森のすぐ脇に繋がっていた。周囲に気を配りながら、薄暗い森の縁にそって見慣れた景色を目指して歩いていく。やがて森の脇を抜けると、そこには柔らかな風、靡く草原、枝葉を擦れ合う森の木々が広がっていた。ようやく、見慣れた日常の世界に戻ってこれたのだ。「父さん達は・・・。」ユウハは逸る気持ちを抑えて、早足で村を目指した。そして、そんなユウハの後ろ姿を、森の陰から見つめる視線があることに、ユウハは気づいていなかった。


「・・・・ここ・・は・・?」気づけば、見慣れない部屋のベッドに横たわっていた。身体に痛みはないようだ。しかし、頭の中は靄がかかったような感覚が残っていた。「くぅ・・・この感覚は・・・何だ?俺はいったい・・・そう・・・そうだ・・・村に・・・あれから・・・・。」仲間が次々に倒れていく記憶だけが、朧気に残っていたが、その後のことが何一つ思い出せない。そもそもここは・・・・。

「あっ!団長、意識が戻られたのですね。良かった。おーい皆、団長がお目覚めだ!」

そこにいたのは、王国治療院の面々だった。聞けば、騎士団員達とユキワリ村に向かう途中で倒れていた所を村の青年によって発見され、王国治療院に連絡をしてくれたとのことだった。そして治療院に運ばれるまでの間、ずっとその青年が介抱してくれていたのだと。

「そうか。そういうことならその青年に礼を言わなければいけないな。その彼は今どこに?」

そう治療院の魔導士に尋ねると、

「それが・・・。」

彼等は皆ばつが悪そうに言葉を濁してしまった。

「・・・地下牢だって!?私達を助けてくれた恩人をか?」


―――遡ること数日前――――


「騎士団員を助けてくれたそうですね。礼を言います。」

ユウハは王妃から城の謁見の間に招かれていた。コウ達を救ったことが王妃の耳に入り、城に招待されていたのだ。

「貴方がいなければ大切な騎士団員を何人も失ってしまうところでした。感謝をしています。ユキワリ村に向かう道に、何者かによって強力な罠が仕掛けられていたようです。彼等はそれに触れ身体の自由を失ったのでしょう。治療院の分析では本来解除が不可能な高度な術式の罠だったと、彼等が生きて助け出されたのが奇跡に近いものであったと報告を受けています。そしてもう一つ。罠の効力が別の力によって干渉され、打ち消された形跡も認められると。・・・あの時・・・あの場所には貴方しかいなかった。彼等を救った「別の力」を、貴方は何か知っているのではありませんか?」

実は、あの時村の外れで折り重なるように倒れていた団員達に、弁当と共に持たせてもらったお茶を少しずつ口に含ませていた。「色々効能がある」と言われていた言葉に縋るように。王妃にそれを告げると、

「そう・・・それはとても興味深いお話ね。詳しく聴きたいところだけど、貴方もお疲れでしょうから、また日を改めましょう。・・・そうね・・・明日は晩餐会にしましょう。そこでまたお話を聞かせてもらうわ。今日は部屋を準備しますから休んでいくといいわ。」

そう言って王妃との謁見が終わると、客間に案内された。「何か用がお有りでしたら、何なりとお申し付け下さい。」そう言って案内役の兵士は部屋を出ていった。

ユウハが通された区画には、他にもいくつか客間が並んでいたが、その日は他には誰もいないようだった。そして、この区画には兵士が何人か巡回して見張りについていた。見知らぬこの場所で一人でいることはそれなりに心細いものだが、おかげで多少の安心感はあった。客間に辿り着くまでの間も、至る所に警備の兵士が配置されており、城の中はかなり厳重な警備のようだ。部屋で一息つき窓から外を伺うと、眼下に王都の夜景が広がっていた。何の不安も感じない日常を目の当たりにしたことで、緊張から解放されたのだろう。いつしか心地良い睡魔に包まれ、ベッドに身体を預けると、目まぐるしかった一日を思い出す事もなく眠りに落ちていった。

 

そして、その夜「それ」は起こった。


城全体が寝静まった深夜、何かの鈍い物音で目が覚めた。「こんな時間になんだ?」――――気のせいか――――眠りに戻ろうとするユウハの耳に再びその物音が響く。今までに感じたことのない重苦しく不快な響き。城の中の見知らぬ場所で一人夜を過ごす不安が俄に駆り立てられる。ベッドから起き上がり耳を澄ます。部屋の外、廊下の方から聞こえてくるそれは、金属同士がぶつかり合うような鋭くも鈍い響きとなり、鼓膜に突き刺さる。「この音・・・この響きは・・・・。」徐々にそれが、剣と鎧によるものだと気づく。やがて兵士と思われる人間の怒号も飛び交い辺りが錯綜し始めた。最早人同士が戦っているのが明らかだ。しかし、一方は恐らくは見廻りの兵士だとして、もう一方は何だ?彼等は何と戦っている?どちらにしても尋常な状況ではない。「こうしていては・・・。」しかし、逃げようにも逃げられる状況ではない。廊下に出る以外には窓しか出口はない。しかしこの部屋はかなりの高さにある。窓から下を伺うがどこかに伝って逃げれそうなルートはない。脱出は到底不可能だ。―――――と、不意に辺りが水を打ったように静まり返った。ユウハも息を殺して辺りの気配を伺う。「誰もいなくなったのか――――――いや―――違う―――。」ユウハはその研ぎ澄ました感覚で、しんとした空気の中に微かな人の息遣いを捉えていた。その気配が注意深く何かを探すように、ゆっくりと廊下を移動しているかと思った次の瞬間、ユウハの部屋から少し離れた所で、何かを破壊したような、大きく激しい音が辺り一帯に響いた。「――――ッ!?今のはっ?」その破壊音は、少しばかりの時間を置いてまた響いてきた。そして何度か続いた時、それが自身の身に危険が迫っている恐ろしい事態が起こっているのだと気が付いた。「部屋の扉を抉じ開けている音だ――――。」誰かが扉を壊してでも探し出したい物がこの辺りにあるということなのか。状況から考えて、ユウハ自身がターゲットである可能性も十分に考えられる。ユウハは咄嗟にベッドを整えると、部屋の隅にある机の下に身を潜め、息を殺した。そして、絶望的な破壊音と振動と共に、とうとうユウハの部屋の扉が崩れ落ちた。もう逃げ場はない。不意を突いてでも何とかこの部屋から出さえすれば―――――。その時だった。再び鈍く重い音と衝撃が耳に突き刺さる。同時に、「グァッ」断末魔の叫びを残して人が倒れる音がした。何が起きている?心臓が高鳴る。大量の脂汗が吹き出す。バサッとベッド掛け布団を捲る音が聞こえた。やはり人を探しているのか――――。ベッドは整えたとはいえ、まだユウハの体温が残っている可能性が高い。状況は圧倒的に良くない。足は容赦なく徐々に近づいてくる―――――。と、「カーンカーン」城中にけたたましく鐘の音が響き渡ったかと思うと、遠くから大勢の兵士たちが大声を上げて向かってくる足音が聞こえてきた。警報が鳴ったようだ。そしてユウハが我に返った時、既に部屋の中にいた足音の気配は消えていた。

警報の音で駆けつけてきた兵士達は、廊下で信じられない光景を目にしていた。仲間の兵士三人が無惨な姿で亡骸となって倒れていたのだ。城の警備に当たる兵士は選りすぐりの猛者ばかりで、城内の見廻りは常に二人一組で行われる。何かあった時に、いくら屈強な兵士といえど一人では危険だからだ。それがどういう訳か三人もが殺されていた。少なくとも相手も複数人いなければこんなことは不可能のはずだ。しかし、要所要所に配備されていた兵士を含め、誰一人怪しい者を見た兵士はいなかった。「馬鹿な・・・一体何が起こったんだ・・・・・。急いで状況把握を。まだ近くにいるかもしれん。注意を怠るな。」隊長らしき人物の号令で辺り一帯の調査が始まった。そして―――――「怪しいものを捕まえました。」

地下牢――――城内に何ヶ所かある牢の中でも最も厳重で脱出が困難な場所にある。故に重大な罪を犯した者や、敵のスパイ等王国の存続を脅かし兼ねない、特に危険な人物だけが送り込まれる。しかし、今はあの世界が忌まわしい血の海に埋め尽くされた日を境に、人々の心身は得体のしれない何かに畏怖し、罪を犯すものは居なくなっていた。自然と牢も閑散としており、薄暗く黴臭い空間にユウハ一人だけが時の流れから取り残されたように監禁されていた。そこに―――――。

「私達を助けてくれたのは、君かい?」

コウは、地下牢の鉄格子を隔た向こう側、暗く冷たい石の部屋の隅で小さく蹲っているユウハに声をかけた。普段なら地下牢に投獄されている人間との面会は、警備兵立会の下で行われるが、ユウハの他には誰もいないこと、コウが騎士団長であることから、この時は特別にコウが一人でユウハと相対していた。膝に顔を埋めたまま動かないユウハにコウは語り続ける。

「あの日、見廻りの兵士が三人廊下で殺されていた。城内で警備にあたる兵士は、腕のたつ精鋭中の精鋭だ。私には、武装した彼等を、何の武器も持たない一般人である君が倒せるなど到底考えられない。それに君には命の危険を犯してまで彼等を襲う理由がない。端的に言うと、あれは君がやったのではないと思っているよ。・・・・・ここからは私の愚推だが、君はどこかの時点から、既にこの城に軟禁状態にあったのではないか?何故なら君が案内されていたあの部屋は、客間には違いないが、本来大切な客人を饗すために用意されたものではない。どちらかといえば注意が必要な客人を監視するために作られたものだ。だから兵士が見廻りをしていた。間違いなく最初に君がこの城に来た時には、純粋に私達の命の恩人だったはずだ。しかし、どこからかそうではなくなった。・・・・・とすれば、それはどこからだ?」

ここで、コウは声を潜めた。

「―――――王妃と謁見した時からではないのか――――。一般的に客人をどの部屋に案内するかは国王の判断だ。国王が不在の今、その権限は王妃にある。そして君は王妃と謁見している。君は謁見中に王妃に何を話したんだい?君さえ良ければ聴かせてくれないだろうか?私は恩人である君の力になりたい。」

「・・・・・・・。」

「もちろん、今すぐに私のことを信じてほしいとは言わない。だが、絶望的な状況に思えるかもしれないが、君にも味方がいるということを覚えて置いて欲しい。」

そう言うとコウは牢を後にした。


「・・・で、彼から何か話は聞き出せて?」

「いえ、何人もの魔導士達が連日自白魔法や催眠魔法で聞き出そうとしておりますが、まだ何も。完全に心を閉ざしてしまっているようですので、情報を聞き出すのはしばらく困難かと。」

「そう。手がかかるわね。少々手荒くしすぎたかしら?でも、あの水の手がかりを掴むことが出来れば、きっと国王が求めていた力にも近づけるはずよ。・・・あぁ・・・・そういえば彼はあの村の出身だったようね。しかも暫く王都の魔法学校にも在籍していたとか・・・・。大した魔法も使えない平凡な存在でしかなかった彼を、クサカは何故魔法学校に連れてきたのかしらね・・・。いけ好かないけれど、やっぱり天才魔道士だったということかしらね。ところで・・・あれはどうなったのですか?検証は終わりましたか?」

「いえ、調査はしておりますが、まだはっきりしたことは何も。ただ、少なくとも彼の仕業でないことは確かかと。」

「でしょうね。あれは彼を地下牢へ連れて行く口実にしただけ。一体誰が・・・まぁ、いいわ。取り敢えず警備は厳重に。あと、彼の尋問も続けて頂戴。何としても・・・・。」

その日、朝から降り始めた雨は、昼になると徐々に激しさを増していった。そしてそれは夕方には、周りの音が何一つ聞こえなくなる程の土砂降りとなっていた。地下牢は、文字通り地下に掘られており、普段は外の様子は全く伺い知ることは出来ない。それでも、その日はユウハの耳も僅かに外の喧騒を捉えていた。「・・・・嵐・・・か・・・。」いつも牢の入口にいる見張りの兵士がいない代わりに、遠くから大勢の兵士達の声が聞こえる。どうやら、城の何処かしこから雨水が漏れて来て、兵士は皆嵐の対応に駆り出されているようだ。―――――と、一人の魔道士がすっと音もなく地下牢に入ってきた。今まで何人かの魔導士が尋問に来たが、その誰でもない初めて見る魔導士のようだ。――――また尋問か――――。今度は何をされるのか―――――そう思って身構えたときだった。

「・・・ユウハ殿・・・でござるな。鍵を外しますが故、暫しお待ちを。」

そう囁く声が聴こえた。

「!?・・・その・・・声は・・・」

「その話はまたいつかゆるりと。それより、今なら兵士は皆出払っている故、急いでここを出るでござるよ。まずはこちらに着替えられよ。」

渡されたそれは、彼と同じ魔導士団が身につけている制服だった。そして、彼は苦無のようなもので器用に鍵を外すと、魔導士に変装したユウハを連れ地下牢を出た。城の中を、曲がり角の度に耳を澄まし、気配を察して兵士がいない通路を選んで慎重に進んでいく。やがて通路の向こうに、城の外につながる出入口が見えてきた。思った通り、至るところが水浸しになっていて、大勢の兵士達が土嚢を積んでいるところだった。これだけ兵士が集まっている所からは、怪しまれずに外に出るのは困難だろう。さらに外は分厚い灰色の雲が渦を巻き、恐ろしい勢いで雨と風が城を叩きつけていた。この状態で外に出るなど自殺行為だ。「これでは・・・・。」思わずユウハが不安を漏らすと、「心配無用でござるよ。」彼はそう言うと出入口に向かう通路を逸れ、いくつかの曲がり角を曲がり、暫く歩くと一つの部屋に辿り着いた。彼はユウハを部屋に招き入れると、

「ユウハ殿、この嵐は直に収まる。そうしたら貴殿はこの窓から出られよ。このまま真っ直ぐ進めば、いつかの裏口に出られよう。後、これを。」

そう言うと、彼は懐から一本の短刀を取り出した。桜の花弁が装飾され、純白の鞘に収められた刀。

「!・・・これは!?」

「この刀の名は『臥龍』と申す。一度貴殿の命を護ってくれたようでござるな。我等の狛犬から事情は聴いたでござるよ。血に穢されて力を失っておったが、浄め直してあるが故、また貴殿の護刀となるでござろう。そして―――――その刀には、もう一振り対になる刀が存在するでござる――――――。」


「・・・さて・・・此度はどうなるであろうな・・・。」老爺は寺の内陣に徐ろに腰を下ろすと、本尊に向かって話し始めた。「あれから・・・・・はや千五百年余もの月日が流れていってしまった・・・・。人が人として創り出されたことの使命を理解し、その役目を全うするその時を、これまで長きにわたり心待ちにしておった・・・・・・。祝福を贈るその時のために、栄誉を称えるその時のために、備えておいたはずのあれは、最早他者の支えなしでは自身を保つこともままならぬほどに老いてしまった。あれも、私もそういつまでも見守り続けることは出来まいて。千五百年も待ったのだ。それでもなお、人が同じ過ちを延々と繰り返し続ける存在でしかないのだとすれば、神々の試みは失敗に終わるということよ。そして失敗作の烙印を押された人の歴史は、神々によって何もかもが無に帰される・・・・・・私自身の存在も含めて・・・・・な。恐らくは、此度が人にとって最後の機会となるのであろう。人は・・・・・どこへ向かうのであろうな?」

そう言うと老爺は視線を宙に漂わせ、物思いに耽っていた。―――――と、背後に何かの気配を感じた。座り込んだまま首と目線だけを後ろに向けると、濃い霧に覆われた境内の中からゆっくり本堂に近づいてくるものが見えた。犬だ。すらっとした白く大きな犬。その犬はゆったりと尻尾を振りながら老爺の横に来ると、同じように腰を下ろした。

「おぉ・・・春風や戻ったか。して、あれは無事吹雪に届けてくれたか?」

老爺が背中を撫ぜながら問いかけると、春風と呼ばれたその犬は、ちらりと上目遣いをしながら、尻尾を二度三度パタパタと振って応えた。

「そうか。大義であったな。後は―――――――お主が救った魂が、人の使命に見事気付くことが出来れば――――――『生きとし生けるものを護る心』と『欲に塗れた魂を浄める心』を真に会得することが出来るのであれば―――――此度こそは辿り着けような――――姫よ――――。」


「もう一振りの刀・・・?」

「さよう。生きとし生けるものを護る力『臥龍』と、もう一振り、別の力を与えられた刀がこの世界に存在するでござる。そして、双方が揃い持ち手として認められた時、新たなる道が拓ける、と言い伝えがあるでござる。そして、それはユウハ殿が手にするに相応しい存在となった時、自ずと現れましょう。さぁ、急がれよ。何時かゆるりと想い出話が出来る時が来ると良いでござるな。では、某はこれで。」

外は何時の間にか嵐が収まっていた。ユウハが元の服に着替え、窓から身を乗り出し外庭に出るのを見届けると、彼も部屋を出ていった。嵐の余韻が残る庭の中を、身を屈め教えられた通りに進んでいくと、先程までの嵐の影響で辺り一帯が冠水していた。お陰で警備の兵士も手薄になっているようだ。嵐が止み風が止んだことで一帯の水溜りは、まるで磨き上げられた鏡のように周りの風景を写し取っていた。その中をユウハが立てる波紋だけが美しく広がっていく。「あそこは・・・・。」やがていつかレイカと一緒に研究所から逃げ出した時の見覚えのある裏口が見えてきた。あと少しで外へ抜けられる――――――そう思った時だった。出入り口に一人の騎士が立ち塞がる。ユウハは思わず身を翻しもと来た道へ引き返そうとすると、

「待ち給え。」

背後から聞こえたその声はどこかで聞いたことのある声だった。

「私だ、ユウハ君。コウだ。逃げる必要はない。この辺りの警備の兵士は、全て他に回しておいたよ。今は君と私だけだ。」

そこにいたのは、確かにあの日ユウハが助けた騎士団長のコウだった。

「君はユキワリ村に向かうのかい?」

ユウハが黙って頷くと、コウは話を続けた

「あの日、私達に掛けられた罠は、恐ろしく強力で高度な術式の魔法によるものだったようだ。罠に掛かった者の自由を奪い、生け捕りにするものだ。恐らくは、どこかそう遠くない所で術者が監視していたはずだ。あの罠は誰が仕掛けたのか?私が知る限り、そのような高度な魔法を操ることが出来る人物は一人をおいて他にはいない。そして、あの罠は誰を捕まえるために仕掛けたのか?その人物は、おそらく我々騎士団が来るなど想定していなかったのだろう。だから邪魔な我々は捕らえられることなく放置された――――――と、なると本当に捕まえたかった人物は、ユキワリ村に舞い戻って来る可能性の高い人物ということだ。あの場所はユキワリ村に向かう者しか通ることはない。それはつまり―――君―――ではないのか?ユウハ君。」

「えっ・・・!?」

意表を突かれ狼狽えるユウハにコウはさらに話し続ける。

「恐らく、あの場所とは違う所に、あの時使われたものとは違う何かの罠が、新たに仕掛けられていると思っておいたほうがいいだろう。それも、君が立ち寄りそうな場所にね。要はこの城壁の外へ一歩足を踏み出せば、危険が幾つも待ち構えているということだ。私は出来ることなら、ここで恩人である君を危険から保護していたい。しかし・・・・君にも目的がある。果たすべき使命のようなものがあって、ここに留まる事もできない・・・と言う事なんだね?」

「はい・・・そうですね。使命というか・・・まだはっきりの自分の成すべきことが理解できている訳ではありませんが、何かの流れの中に自分も組み込まれている、そんな気がしています。」

「そうか・・・。残念ながら私には、その大きな流れに手を貸すことは出来ないようだ。しかし、君への追手を遅らせることくらいはさせてもらうよ。さあ、行ってくれ。ユウハ君!」

コウは、ユウハが外に出たのを見届けると、内側から重厚な扉を閉め閂をかけた。そして、暫くした後、城内に脱獄を知らせる警報が鳴り響いた。「団長、こちらでしたか。裏口は?」「丁度今閉めた所だ。他の出入口の封鎖も急ぐんだ。絶対に外に逃がすなよ。」「はっ!」


数日後、赤々とした美しい夕日が西の空に帰ろうとしている頃、ユウハはある町に辿り着いていた。何時かレイカと来た、あの花鳥風月のある町だ。そして、今ユウハが携えている『臥龍』を最初に託してくれたランマがいる町でもある。この『臥龍』、ユウハは一度失くして以来ずっと、ランマに申し訳ない気持ちで一杯であった。探す当てもなくずっと心に引っ掛かっていた。次ランマに会った時、どんな顔をして何と言えば良いものか悶々と考え続けていた。それが、思いも寄らない場所で、思いも寄らない人物から、再び自分の元に還って来た。普通なら有り得ない出来事だ。しかし――――――これが、何時かの老爺に言われた「宿命」に引き寄せられて来たものだとするならば―――――――再びランマに会うことで、自身の宿命について何かの糸口が掴めるのではないか―――――。

花鳥風月は夕食の時間を迎えており、ロビーや食堂は客でごった返していた。そして客に混じってカウンター奥のキッチンから忙しそうに食事を出すランマの姿があった。以前と変わりはないようだ。店内もあの時のまま小綺麗で心地良い空間となってユウハを迎え入れる。そしてユウハの存在に気付いたランマは、あっ、という表情を見せるとすぐにユウハの所に飛んできた。

「やぁ、久し振りだね。元気だったかい?」

と言いながらユウハを見ると、

「あー・・・とりあえず先にシャワーを浴びてきてもらった方がいい・・・かな?着替えを用意しておくから行ってきな。場所は覚えてるよな?」

それはそうだ。何せ一体何をしたらそうなるんだ、と言うくらい服から足元まで泥だらけなのだ。突き当りのシャワー室で頭の天辺から爪先まで念入りに身体を洗う。以前と変わらぬ良い香りの石鹸で汚れた身体が浄化されていく。頭からシャワーを浴びながら、ふと高い位置にある窓の外に目を遣ると、つい先程まで晴れ渡っていた空に、少し雲が掛かり始めているのが見えた。夕焼けを浴びた雲は、紅く美しい色彩を放ち、刻々とその表情を変えていく。身体を洗うことを忘れ暫くその美しい移ろいに目を奪われていると、日が沈むに連れ、徐々に分厚い雲となり広く張り出し始めてきたのが見えた。もう少し来るのが遅かったら、また嵐に見舞われていたかもしれなかったか・・・・等と考え事をしながら、我に返りシャワーを済ませた。

 先程まで客でごった返していた食堂は、やや落ち着きを取り戻していた。そして、食堂の一番奥のカウンターに近くの空いていた席に案内されると、

「食事の準備をするから、ここで少し待っていてくれ。」

ランマはそう言うと、慌ただしく厨房へ戻っていった。

「なぁ、聞いたか?王都で何やら事件があったって話。」

「あぁ、城の中で警備の兵士が何人か殺されたってやつだろ?」

「それだよ。それも怪しいやつを捕まえたのに、逃げられたって噂だ。」

「物騒な話だな。王都の兵士が逃げたやつを探し回っているらしい。ここらでも夜道はおちおち歩いてられないな。」

「あぁ、早く寝ちまうに限るよ。」

食事をしている客や談笑している客を見ていると、どうやら王都を行き来する商人が多いようだ。既に、あの王都での出来事も周囲に知れ渡っているようだった。「ここにも長居は出来ないか・・・。」この先のことに考えを巡らせているとランマが食事を運んで来た。

「待たせたな。前ほどに食材が潤沢じゃないから有り合わせだけどな。さぁ、冷めないうちに召し上がれ。」

シャワーが久し振りなら、まともな食事も久し振りだ。一口一口飲み込む度に、身体の中に温かさが染み渡り、さっきまでの不安を忘れてしまうような以前と変わらない旨さだ。食事を終えると、ランマへのせめてものお礼にと、食堂や厨房の後片付けを手伝い、全てが終わったときには、食堂には客は誰もいなくなっていた。

「ありがとう、助かったよ。どうだい?お茶でも飲んで少し休もうか。」

そう言って、先程まで食事をしていた席に二人で腰を下ろし大きく息をついた。何時の間にか外は雨が振り始めたようだ。周りに客がいなくなって、すっかり静かになった食堂に、軒先からポタポタと垂れる雨音だけが不規則に響き渡る。一度座り込んでしまうと、忘れていた一日の疲れがどっと押し寄せてくるから不思議なものだ。どこを見るでもなくボーっと時間を漂っていると、その様子をじっと見ていたランマが徐ろに口を開いた。

「・・・・・妹さんは無事なのかい?」

ユウハは視線を宙に漂わせたまま、軽く首を横に振った。

「・・・そうか・・・・。」

暫く沈黙の時間が流れる。

「・・・わからないんです。何処にいるのかも、無事なのかも。」

ユウハは、レイカを最後に見た時の記憶の断片を一つ一つ思い出していた。兵士に捕らえられていたあの夜、魔導士団が紅の森を取り囲んでいたあの夜。ふっ、と自分を押さえつけていた兵士が崩れ落ちると、振り返ったそこに全身の毛を逆立て、猛々しさを身に纏ったハルの姿があった。ハルはユウハを背に乗せるや否や、紅の森に突っ込んでいく。森の結界にぶつかる―――――思わず目を瞑り頭を抱える―――――次の瞬間、何者も寄せ付けなかったはずの結界をハルは何事もなかったかのように越えていた。そのまま森の中を走り、暗い森の中で淡く火を灯す二基の石燈籠の間を駆け抜けると、明るく広い空間にに大きな楓の木を見た。あちこちに火の手があがり、煙が立ち込めている。何かが争っている――――国王陛下とクサカ団長、数え切れない数の魔導士達――――その先には――――レイカ――――。ハルが猛々しく遠吠えをあげると同時に、どこからともなく紅い眼をした熊のような生き物達が次々に現れ、魔導士達を蹴散らしていく。レイカがクサカに襲われている。危ない―――――無我夢中でクサカに飛び掛かる。そしてエルシンが大きな刀を振り上げた時、紅い血のような火の海に飲まれた所で記憶は途切れた。あの後レイカがどうなったのかわからない。しかし―――――。

「どこかで生きている。僕のやっていることをどこかで見ている、そんな気がしているんです。」

「そうか・・・・・そうだといいな・・・・・。」

外は何時の間にか大雨になっていた。少し雨音を気にしながら、ランマはフーっと深く息をすると何かを思い出すような仕草で話し続けた。

「あの日・・・君達を見送ってから間もなく世界が血に染まった。国王も最強を誇る魔導士団も団長諸共行方不明。・・・・・恐らくは力を開放する儀式に邪魔が入った・・・・・と言う事だろう。強大な力を扱う資質を持たない、欲に塗れたものが力を手に入れようとする―――――それは即ち、人が正しい方向に向かっていないということだ。神が人に与えた使命が全う出来なければ、世界はリセットされる。そして、人はまた一からあるべき姿に向かって学びのやり直しをさせられると言うことだ。そして、その世界をリセットする力―――――世界を恐怖の紅一色に染めた力―――――その名を「呪怨」という―――――。そして――――「呪怨」には別の本来の姿が存在する。人があるべき正しい道を歩んだ時、ある資格を持ち合わせた者がそれを手にした時、本来の姿が開放され、人を、世界を理想郷へ導く力の一助となる。その本来の正しい姿こそが―――――「焔」――――――。

あの刀を開放する資格を代々引き継いでいる守護家――――「杠葉」――――。身体の何処かに「楓の紋章」を持つと言われる、杠葉の一族が手にした時―――――それは「焔」となり真なる姿を現す。ただし、「焔」は単体では世界を理想郷に導くことは出来ない。もう一つの力が必要だ。それはこの世界のどこかに封印されている。それを見つけ出すカギとなるのが、今君が持っている「臥龍」だ。「臥龍」は主と認めた者の傍を離れることはない。例え何かの事情で離れ離れになろうとも必ず戻って来る。あるべき世界を創り出す使命を背負った主を護るために。あの日、俺は君に可能性を感じ「臥龍」を託した――――いや、託してみた――――。結果はご覧の通りだ。君は認められたんだ。ハルの言った通り―――。」

ランマがそこまで話し終えた時、ふと玄関の向こうに人の気配を感じた。

「おっと・・・・その前に方を付けなきゃいけない事が出来たようだ。君はそこを動くなよ?」

唐突な展開に事態が飲み込めず混乱するユウハ。

 やがて扉が「キィ」と音を立ててゆっくりと開いた。夜の闇と土砂降りの雨の中に、一人の人影が立っていた。扉を全開にしたまま、何をするでもなくただ黙って立っている。ランマも黙って様子を伺っているようだ。何とも言えない緊張した異様な時間が流れる。やがて、何かを確認したような素振りを見せると、その人影は宿に入ってきた。

「空いてる部屋はあるかな?ご主人。」

どこかで聞いた覚えのある声。そこにいたのは、あの騎士団長のコウだった。いつもの甲冑姿でなかったことですぐに気が付くことが出来なかった。私服姿で剣も携えていない。コウは玄関先で入念に雨に濡れた身体を拭くと、ユウハ達のテーブルにやってきた。

「私も御一緒させてもらえるかな?」

四人がけの丸いテーブルに、ランマ、ユウハ、コウの順に並んでいる格好となった。

「温かいお茶でも淹れましょう。」

ランマがユウハのすぐ後ろのカウンターから、コップを一つ取り出しコウにお茶を淹れると、雨で冷えた身体を温めるように、両手でコップを包み込み静かにお茶を飲み始めた。ランマもユウハも突然の思い掛けない来客に呆気にとられていた。何しろ騎士団長が一人で王国から離れれ、田舎の街の宿屋に泊まりに来ることなど通常あり得ないのだ。何か特別な目的があるのでは?もしかしたら自分を追って・・・・・?ユウハの脳裏を様々な不安と想像が飛び交う。ランマも、コウも下を向いたまま何も話そうともしない。ふと、辺りがやけに静かなことに気付いた。つい先程まで土砂降りだった雨が、いつの間にか止んでいたのだ。不自然な程の静けに包まれた食堂に、ユウハとランマ、コウ、三人の息遣いだけが微かに聞こえる――――――三人―――――!?。その時だった。ユウハの背後の床に、ポタリと一つの小さな水滴が落ちた。その瞬間、「ランマ殿ぉっ!」どこかで聞いたことのある声が聞こえたのと同時に、目にも留まらぬ速さでランマの太い腕に胸ぐらを掴まれユウハの身体は宙を舞う。逆さに投げ飛ばされるユウハの視界に、ユウハの刀を手に取ったコウが、ユウハが座っていた椅子の背後辺りに豪快な風切り音を伴い、その刃を振り上げる姿が見えた。そして「ギィン―――!」鼓膜が破れそうな破壊的な金属音が部屋中に響き渡る。そして、何も無いはずの空間に苦無が一本、さらにもう一本突き刺さった。「ぐおっ!」苦痛に満ちた呻き声が上がると同時に、コウが止めていた刀を振り払う。そして返す刀で再び空間を切り裂く。「ぐおぁぁぁーー」「ガランガランガラガラ・・・」断末魔の叫びとともに、何かの金属の塊が床に転がる音がした、その時だった。テーブルの反対側まで投げ飛ばされたユウハの目に、つい今まで自分が座っていた椅子の後ろに、スゥーッと人の姿が現れるのが見えた。全身ずぶ濡れで、背中には二本の苦無が突き刺さり、肩から腰にかけて深々と切り裂かれたその男は、バッタリとその場に大の字に崩れ落ちた。

かなり深く傷を負っていた。もう動く気配もなかった。止め処無く血が流れ続けるその男に、コウ、ランマ、ユウハが静かに近づき、顔を覗き込む。

「!?・・・・君は・・・・。」

ユウハは息を飲んだ。その男は―――――「カシマ」――――だった。あの頃と何も変わらない。顔に大きな古い傷と片目を失っている以外は―――。

「・・・何故だ?何故君なんだ?何故僕なんだ?教えてくれ・・・。カシマ。」

ユウハが語りかける。

「魔法学校で一緒に楽しい時間を過ごした君が、研究所でレイカを助けてくれた君が・・・・良い友人であった君が・・・・何故だ?」

カシマは応えない。

「・・・・あの夜、草原で僕を襲ったのも君だね?何が目的だったんだ?そして今日までも。何故そうまでして僕を襲う?それに何の意味がある?」


「――――襲うつもりなどなかったさ。」

不意に、弱々しくカシマが答えた。

「襲うつもりは・・・・・・お前さえ気が付かなければ・・・・・俺の役目は・・・・・あの女を監視すること・・・・・いつか必ずあの森に入る・・・・・その時のために・・・・・。お前は・・・・・大した能力も無いのに・・・・・何故王都の魔法学校に入れたと思っていた?・・・・・お前に近づくことで・・・・・あの女を監視しやすくするためだ・・・・・お前の存在は・・・・・ただそれだけのためだった・・・。・・・しかし、あの夜・・・・・お前が俺に気付いてしまった・・・・・いつかの時のために・・・・気配だけを消せる、そう刷り込みをしておいたはずだったが・・・・・お前は俺の本当の能力を知ってしまった・・・・・姿ごと消せることに・・・・・そしてあの女を追っていることに・・・・。あれは魔導士団の最高機密だった・・・・失敗は・・・・・死を意味する・・・・・俺は・・・・・お前を・・・・・消さねばならなくなった・・・・・。」

ここで、これまで黙って話を聞いていたコウが口を開いた。

「姿ごと・・・・とは・・・・ね。魔導師団でもそんな高度な魔法が使えるのはクサカ団長くらいだと思っていたが・・・・君のような者にも使えるとは・・・・・意外だね。」

「・・・・・当たり・・・・前だ・・・・親子・・・・なのだから・・・・。」

「!?・・・クサカ団長の子息・・・?。・・・だとすると、彼は何故、実子である君にこんな危険な任務を命じた?他の誰でも、どんな手段でも、やりようはいくらでもあったはずだろうに・・・・。」

「・・・・俺は・・・・捨てられたんだ・・・・。女を見失い・・・秘密を知ったユウハも消せなかった・・・・・大失態を犯し・・・・傷を負って・・・家に戻った俺に・・・あいつは・・・冷たい目をして・・・・俺に・・・一つ魔法をかけた・・・・。三ヶ月以内に・・・・ユウハを殺らねば・・・俺が死ぬ・・・・呪いのようなものだ。」

「信じられない・・・実の子にそんなことを・・・。」

「・・・あいつは・・・力を・・・権力を求めていた・・・・己の欲望を満たすがためだけに・・・。自分の存在以外は・・・虫螻同然にしか・・・思っていまい・・・。王都に・・・魔法学校を開いたのも・・・・世界中の魔法を・・・自分のものとするため・・・・。全ての思考は・・・欲望の赴くままに・・・世界を支配したい・・・・ただそれだけの男だ。」

「俺は・・・父親に・・・あいつに逆らうことは・・・出来なかった・・・許されなかった・・・。言われるがまま・・・素性を隠し・・・自分を圧し殺し・・・あいつの道具として・・・存在し続けた・・・生まれた時から・・・ずっと・・・。それが当たり前だと・・・思っていた・・・。他人を想うことも・・・信頼することも・・・友と呼べる者も・・・無かった・・・。そんな時に・・・お前は・・・現れた・・・。欲とは違う・・・純粋な心と・・・妹を・・・家族を・・・人を想い続ける・・・俺の・・・人生には・・・あり得なかったものだ・・・・・そんな・・・お前にだけは・・・気が許せた・・・お前との時間は・・・・楽しかった・・・。今思えば・・・そういうことだったんだ・・・・。居心地の悪い世界が・・・少しづつ・・・変わっていく・・・はず・・・・だった・・・・。」


「!?・・・それは、本気ですか?」

「うむ。紅い葉につながるカギとなる女をようやく見つけたのじゃ。あの日、取り逃がしてから十五年もかかったがの。今度こそ、慎重にやらねばな。失敗は許さん。この間魔法学校に連れてきたユキワリ村の青年はその兄にあたる。奴を信頼させ、あの妹に近付く機会を伺え。必要なら兄は殺して構わん。そのために、お前には一つ力をくれてやろう。姿を消せる、というものをな。ぬかるでないぞ?儂にも最後の機会だ。長年追い求め、一度見失ったものがようやくまた、手の届くところに現れたのじゃ。この命は身内のお前にしか下せん。他人に横取りされる訳にはいかんのでな。そして失敗は許さん。その場合は死を持って償ってもらう。よいな?」

父親から受けた一つの命令が、俺を再び闇に堕とした。ようやく触れることのできた人生の光が消されていく。ユウハは人生で初めての大切な友人となっていた。クサカはそうなることを見越していた。己の欲望を成し遂げる道具とするために。全ては奴の計算どおりだったということだ。気持ちの整理がつけられないまま時が過ぎる。そして、その日が来てしまった。彼女が―――レイカが王都に来たのだ。クサカが、再び人を、レイカを道具として扱うことが目に見えていた。助けなければならないと言う感情。命に背けば死が待つと言う現実。幸いにも、研究所で騒ぎを起こした振りをして二人を逃がし、あの紅の森まで泳がせるよう命が下った。それならいい。二人を傷付けることにはならない。俺はユウハと別れ、予め用意された手筈どおりに騒ぎを起こし、王都の裏口に回った。ここだけは警備兵を配置していない。必ずあの二人はここから脱出するはずた。あとはレイカが森に入る所を確認さえ出来ればいい。目論見は的中した。俺は姿と気配を消し二人を追った。途中で喰らったあの大嵐は予定外だったが。二人が逃げ込んだあの宿屋の犬。あれはただの犬ではないようだ。何しろ俺の存在に気づいていたのだから。存在がバレる訳にはいかない。仕方ない。森へ先回りするしか選択肢はないな。案の定、二人は森にやってきた。そして、レイカは予想通り森に吸い込まれていった。幾人もの試みを跳ね返し続けてきた、あの結界が何もないかのように。あの子は一体何者なんだろうか。父は・・・・あの子に何を求めているのだろう?・・・・まぁ、いい。ひとまず報告して王都に戻ろう。ユウハも元気でな・・・・えっ?ユウハ・・・・俺が・・・・・分かるのか?不味い、それは不味い。早くここから去らねば・・・・ユウハを傷付ける訳には・・・・頼む、このまま・・・・。期待はあっけなく打ち砕かれた。ユウハに見つかったことがあいつに気づかれてしまった。「ユウハを即刻始末しろ。」非常な命が意識に届く。逆らえば自分の命が危ない。狂気に満ちたあれが、自分の父親などと・・・・。ユウハは強かった。と言うより、何かの加護を感じた。今まで感じたことのない高貴なオーラに包まれて・・・・そうか・・・ユウハも・・・レイカも・・・何かの宿命を背負って・・・。俺はこの世界は好きではない。欲望に支配され、人を人とも思わないような者達が我が物顔で闊歩する世界など、無くなってしまえば良いと思っていた。ユウハ・・・君は・・・この世界を変えられるかい?人が人らしく生きていける希望に満ちた世界を創ってくれるかい?君が懐に隠し持っているその刀は・・・人を・・・魂を・・・護るものだ・・・邪悪なものから・・・。君は生きなければならない。俺はユウハを殺してはならない・・・俺が負ければ良い・・・。風下に回ろう。ユウハも気がついてくれるはずだ。そして、期待通り俺は負けた。あの閃光は素晴らしい威力だった。おかげて全く避けられなかった。片目を失い、もう片方もかなり視力を奪われた。それでも――――――人類の希望を―――――君に――――託せる。

王都に戻った俺に、最早存在価値はなかった。「三ヶ月くれてやる。必ずや彼を始末しろ。我らの計画が台無しになる前に。もし、それが出来ねば、役立たずに未来はない。」俺の胸に呪いの刻印が刻まれた。これは――――恐らくユウハを殺しても消えることはない――――身体がそう感じていた。あと三ヶ月。その間に、世界は血に呑まれた。国王もクサカも行方不明となった。恐らくは、奴らは何かに失敗したのだろう。しかし――――胸に刻まれた呪いの刻印は消えていない――――通常、術者が死ねば呪いは解ける――――クサカはまだ――――生きている―――――。ユウハとレイカに知らせなければ・・・・。しかし二人共消息を絶ってしまった。姿を消して国中探しても何の手掛かりも見つからなかった。ユウハ・・・俺は何をしたらいい?君は今何処で何をしているんだい?俺は・・・疲れてしまったよ。残された時間はあと一ヶ月を切った。

そんな折、王国の騎士団がやられた、と言う話しが飛び込んできた。コウ団長もだ。何でも一人の青年が不思議な力で団員を救ったらしい。間違いない。君だ。君がどこからか戻って来たんだ。俺は急いで王都に戻った。姿気配を消して城内を探った。やはり――――そこにいたのは君だった。いや、君だけではなかった。俺と同じように姿気配を消した存在がもう一人いる―――――こいつは――――。それはクサカが放った刺客だった。用心に用心を重ね、俺の他にもう一人ユウハを始末するための刺客を用意していたのだ。そいつは虎視眈々とユウハが無防備になる時を狙っていたんだ。やがて夜になり、ユウハは客間へ入っていった。周りには定期的に巡回する警備の兵が二人だけ。これは客人を見張る体制であって、警護するには手薄すぎる。奴が行動を起こすなら間違いなくここだ。そして、それは的中した。奴は警備の兵に襲いかかった。警備兵は王国屈指の強者だが、不意討ちされてはさすがに分が悪い。しかし、俺には奴が見える。いや、見えるというより感じる。警備兵を倒した奴はユウハの部屋の扉を破壊し始めた。辺り一帯に大きな破壊音が響く。扉に気を取られている今なら・・・。俺は奴が扉を蹴破ったのと同時に、奴を背後から襲った。ユウハは無事なのか?部屋に入る。ベッドにはいない・・・が体温が残されている――――と、そこの机―――――あぁ、無事だったか。良かった。むっ、警報が鳴った――――。見つかると面倒だな。一度引くとしよう。

そして、君は王都を出た。何度も後ろを振り返りながら。大丈夫、コウ団長が上手く追手を留めているよ。万が一の場合は俺に任せておきな。三ヶ月の期限まであと数日。最期の時まで、君を護らせてもらおうか。

今日は、素晴らしい夕陽だ。こんなに神々しい景色がこの世に存在するとはね。さて・・・呪いの期限が近い・・・そろそろこの世界の運試しをしようか。ユウハ・・・君がこの世界に選ばれし人であるならば・・・世界の変革を成し遂げるべき宿命を負っているのならば・・・俺が襲っても生き延びるはず・・・だよな。君が向かった、あの時と同じ宿屋。何とも言えない力を感じる不思議な宿屋。今日はあの犬はいないか・・・。なら見つかることはあるまい。後は人が寝静まるまで待とうか。

夜になると、大雨になった。どういう訳か、ここに来ると嵐に合うようだ。むっ、客が来たようだ。丁度良い、扉を開けたら潜り込もうか。部屋に居るのは三人。ユウハともう一人は宿の主人か?後は・・・コウ団長じゃないか。成る程、運試しには持って来いの状況だ。ユウハ・・・・これはあの夜に戦った時の剣だ。今、参るっ!世界は!神は!何を選ぶ!!」

 

「・・・一つだけ・・・聴きたい・・・何故・・・俺の存在が・・・分かった?」

「雨水が滴ったからでこざるよ。あと僅かに床も軋んでいたでござるな。」

不意にカウンターの奥から、聞いたことのある声がした。振り返ると、そこには王都でユウハを助けてくれた、あの魔導士の姿があった。

「カシマ殿・・・久方振りでござるな。」

「・・・お前は・・・・フブキ・・・。」

「さよう。会うのは魔法学校以来でござるな。」

「・・・あぁ・・・そう・・・そうか・・・・この嵐は・・・・・全ては・・・。」

カシマは何か腑に落ちたような表情を見せた。

「フブキ?やっぱり、あの魔法学校にいたフブキだったんだ。」

「そうでござるよ。ユウハ殿も改めて久方振りでござる。」

魔法学校時代には、特に一緒に行動することはなかったが、何せ結束力の強い変わり者集団にいたのだから、存在ははっきり覚えていた。あの胡散臭いと思っていた「嵐を呼ぶ男」だ。フブキはカシマに話を戻した。

「カシマ殿・・・某からも貴殿に聴きたいことがあるでござるよ。実はこれまでずっと貴殿を監視して来たでござるが、貴殿からは、ただの一度も殺気や怨念のようなものを感じたことがなかったでござる。それなのに、何故このようなことを?」

「・・・そもそも・・・ユウハに・・・恨みなど・・・ない。・・・それが・・・俺の・・・宿命・・・だから・・・だ・・・。俺は・・・クサカに・・・道具として・・・扱われ・・・続けた・・・。そして・・・捨てられた。・・・俺は・・・自分に・・・こんな宿命を・・・負わせた・・・この世界が・・・嫌いだ・・・。ユウハ・・・俺は・・・お前に・・・ひどいことを・・・した・・・。恨んで・・・いるよ・・・な・・・・。さあ・・・殺せ・・・今しか・・・機会は・・・。」

「カシマ。僕は君を恨んでなんかいない。僕も、君と同じようにこの世界が嫌いだ。そして、僕にもまだ自分の知らない宿命が宿っている。それは、きっとこの世界を変えられる。もう、君のような悲しい宿命を負う者がいない、人のあるべき世界を創るんだ。そう感じている。だからカシマ、君も一緒に未来を開こう。こんなことで死んでは駄目だ。」

カシマは一瞬、微かな笑みを浮かべた、ように見えた。

「・・・今日で・・・呪いの・・・三ヶ月・・・丁度・・・だ。俺は・・・ここまで・・・だ・・・。ユウハ・・・有難う・・・・・お前に・・・願いを・・・託そう・・・・。生まれ変わったら・・・また・・・・・・。」

そう言うとカシマは静かに永い眠りについた。カシマの亡骸は、フブキが「これでも同じ魔法学校の仲間でござるからな。」と言う理由で引き取っていった。クサカの手の届かない所に埋葬する、と言葉を残して。

「さて・・・ユウハ君。君に伝えなければならないことがあってね。」

フブキが去った後、コウが神妙な顔つきで話し掛けてきた。

「君は今、王国のお尋ね者になっている。」

こうなることを予測していなかった訳ではなかったが、いざそうなると心の準備が追い付かないものなのかも知れない。

「そう・・・ですか・・。」

少し肩を落として俯くユウハにコウが言葉を続ける。

「それも一生遊んで暮らせるほどの賞金付きだ。殺さないで王国に引き渡す、と言う条件でね。王妃は君が持っていたあの水にご執心だ。クサカの魔力を上回る力にね。唯一在り処を知っているであろう君に死なれても困る、と言うことだろう。」

ユウハの気持ちは沈んでいた。どうして人は力や権力ばかりを追い求めるのか。そのせいでレイカも危険な目に遭ってしまった。何故世界は一向に良い方向に向かわない?力を手に入れた者が、力を正しく使わないからではないのか?自分の欲望を満たすことだけに執着するからではないのか?それならいっそ―――――。

「少なくとも、今ユキワリ村に行くことは危険だ。」

ユウハの思考を遮るようにコウが制止する。

「クサカの罠はまだ何がどこに仕掛けられているか分からない。ユキワリ村にも何かが起こっている可能性もある。それにいずれ新たな追手もくるはずだ。勝算がなさ過ぎる。」

「・・・そう、ですね。確かに危険極まりないと思います。でも、妹を探す手掛かりが何一つ無い今、あそこに行く以外にやれることが思いつかないんです。他に何か良い手立てがあるといいんですけど・・・。」

切実な眼で訴えるユウハ。

「ユウハ君、急ぎたい気持ちは分かるが、こういう時は焦っては駄目だ。今日はもう遅い。この間と同じ二階の突き当りの部屋が空いてるから、一晩よく休んで落ち着いて冷静に考えた方が良い。」

「そうだね。私もその意見に賛成だ。君も疲れているだろうに、まずはよく休んで、また明日作戦を練ろう。」

時間は深夜を回っていた。いろんな事に巻き込まれた事に加え、長旅の疲れもあって心身共に疲弊していることも事実だ。ユウハは二人の提案を受け入れ、用意されていた以前来た時と同じ二階の突き当りの部屋でベッドに横になった。窓の向こうには、いつもと同じ様に無数の星が瞬いていた。星の瞬きを見ていると、星から何か話し掛けられているような錯覚に陥るから不思議だ。星よ、そこからは全てが見渡せているんだろう?レイカが何処にいるのかも見えているんだろう?教えてくれよ―――――心の中でそう語り掛けながら眠りに落ちていった。


「!?どっ―――――すか?―――は―――ひどい――――。」「―――お――――――す――どう―――この―――を―――。」「え?あ――――わ、――――た。皆―――――くれ!私の――――――んだ。―――と何か――――るものを!こ―――では―――も――――。」


「はっ――――――!?」暗い部屋の中で飛び起きると、窓の外では音もなく無数の星々が瞬き続けていた。「・・・夢・・・か・・・。」まだ眠りに落ちてから二時間ほどしか経っていなかった。「しかし・・・今のは・・・。」初めて見た夢。それでいて何か朧気に既視感のある夢。夢とはそういうものだ、と言ってしまえはそれまでだが、ユウハの心に何かが引っ掛かっていた。レイカを探しに行けないもどかしさ故なのか。それどころか、コウの話が本当なら両親の安否までもが危ういのだ。ユウハに最早冷静な判断力は失われていた。コウやランマの忠告はユウハの心に届かなかった。「やっぱり、こんな所で留まっていられない。行かなきゃ・・・皆が・・・・。」

何もかもが寝静まった街の外は、何処からともなく僅かに虫の声が漂う他は、暗く、それでいて澄み切った空気に満たされた世界だった。そして、ユウハの姿はその世界に吸い込まれていった。

 

ユキワリ村―――――――。王都から遠く遠く離れた辺境の地にあるこの村の存在が確認されたのは、まだ比較的最近のことだ。あの誰も近寄ろうとしなかった、薄気味悪い紅の森の横を通らなければ辿り着けないのだから、無理もなかったのかも知れない。実際いつから存在していたのか、村人達はどこからやってきたのか、何故敢えて何もかもが不便極まりない辺境の地に居を構えたのか、何故発見されるまで外界との交流をしてこなかったのか、誰もそれを聞いたものはいない。誰もそれを話すこともない。何もかもが謎に包まれたまま。

村は、いつもと同じように、何ら変わることなくそこに存在していた。時刻は夕方になろうという頃。一日の仕事を終えて一息ついていた村人が、ユウハを見つけ次々に駆け寄ってきた。「おぉ、ユウハ君、無事だったか!よかった。ナガシさん達も心配していたぞ?早く家に帰ってやれよ。」

窓の外から家の中をそっと伺うと、家では夕食の準備が始まっていた。何となく後ろめたい気持ちを抑え、恐る恐る扉を開ける。

「・・・父さん、母さん・・ただいま・・・。」

「ユウハ!?あぁ・・・・よく・・・・無事に帰って来て・・・。」

玄関先に出迎えてきた母カスミが、ユウハの存在を確認するかのように両手をぎゅっと握り締める。感極まって次の言葉が出ないカスミの後から、ナガシが遅れて出迎えに来た。

「おぉ、ユウハ!よく無事で帰ってこれたな。部屋からいなくなった時はどうなるかと思ったよ。・・・レイカを助けに森に行ったんだろう?」

「うん・・・黙って出て行って悪かったよ。ごめん。」

「もう済んだことはいいさ。色々大変だっだろうに。世界が血に飲み込まれた時は、何が起こっているのかも分からなくなって、もう二人とも帰ってくることは無いんだ、と勝手に諦めていたよ。さぁ、入った入った。丁度夕食が出来た所だ。今日はお前が好きなシチューだぞ?」

自分の家で家族ととる食事の味は格別だ。ここにレイカがいないことを除けば。

「レイカは・・・あれから帰ってきてないの?」

「あぁ、ここには帰って来ていないし、何もわからない。お前の方が何か手掛かりがあるんじゃないか?あれから何が起こっていたんだ?教えてくれないか?」

残念ながら、両親もレイカの行方はわからないようだった。ユウハは家を飛び出したあの日から起こったことを、一つ一つ思い出しながら両親に話した。紅の森に王国魔導師団が集結していたこと。彼等に見つかり捕らわれていた所をハルに助けられ一緒に森に入って行ったこと。森の中に石燈籠のある階段が現れ、そこを登った先の不思議な場所で、レイカがもう一人の知らない紅い髪の女性と一緒に居るのを見かけたこと。レイカが国王やクサカ団長と対峙しており、戦いに加勢していた最中にレイカを見失ったこと。気付けば怪我を負い山奥の一軒家に住む老夫婦に助けられていたこと。山を下りる途中の集落で紅い髪の女性に親切にしてもらったこと。村の側で倒れていた騎士団を助け王都に行ったこと。そこでフブキと言う知人から『臥龍』を託されたこと、そして―――――あの夢のことを――――。

「あの時、レイカと一緒にいた女の人は、レイカと同じ綺麗な紅髪をしていたんだ。そして炎が迫る中、二人一緒にどこかに消えていったんだ。きっと、レイカはどこかであの人と一緒にいると思う。そういえば・・・山を下りた所で出会った人も、綺麗な紅い髪の人だった・・・・あの人達はいったい・・・・。」

両親はユウハの話を黙ってじっと聴いていた。時折、お互い目を合わせて軽く頷いたり、何か考え事をしているような仕草を見せたりしていた。ユウハが話し終わっても、両親は何か話すことを躊躇するような、どう話そうか迷っているような素振りで、暫く沈黙の時間が流れた。そして

「・・・・少し、待っていなさい。」

ナガシが何かを決心したような顔付きで口を開き、席を立った。ナガシの隣に座っていたカスミも、何が思い詰めたような表情で俯いていた。暫くして部屋に戻ってきたナガシは、ユウハに一枚の写真を差し出した。

「お前が出会ったという紅い髪の人は、もしかしてこの人だったかい?」

それは少し縁が欠け、色褪せた古い写真で、三人の人物が写されていた。一人は大人の男性。そしてその隣には、小さな赤ん坊を抱く大人の女性――――長く紅い髪をまとめた――――。

「父さん・・・・これは・・・この人は・・・何で!?」

ナガシはテーブルの上で両手を組んで暫く黙り込んでいたが、

「今から・・・・そう、十五年程前の事だ。」

一つ一つを思い出しながらポツポツと話し始めた。

あの日も、いつもと同じように一日が終わり辺りが暗くなり始めていた頃だった。カスミは家で夕食の支度を、私とユウハは村の集会所で、村の仲間達との会合を終え帰途に就こうとしていた時だった。

「では皆さん、この件はそういう事でよろしくお願いします。さぁ、ユウハ家に帰ろうか。お母さんが、お前が大好きなシチューを作って待ってるぞ。」

「うん、ぼくお腹空いたー。早く帰ろう。」

「ははは、急いで走って転ぶなよ?・・・・おや?・・・なんだ?」

ナガシは村の外に何かの違和感を感じた。

「おーいユウハ!少し待ちなさい。」

「ん?オーハンさんどうしたんだ?何かあったのかい?」

「いや・・・・何か・・・少し外を見てきます。ユウハはそこで待っておいで。」

そう言って入口の門の外に様子を見に行った時だった。暗闇の向こうに私は何かの気配を感じた。それは徐々にゆっくりと村に近づいてくる。「あれは・・・・」やがて、それは人であることがわかった。そして―――――。

「!?どっ・・・・どうされたのですか・・・・これは・・・ひどい怪我だ。」

「・・・お・・・願い・・・です・・・どうか・・・・この子・・・を・・・。」

「え?あ・・・・・わかりました。皆手を貸してくれ!私の家に運ぶんだ。それと何か治療出来るものを!このままでは二人とも助けられない!誰か外の見張りを!・・・いったい何が起こったんだ・・・・。」

彼等は、二人とも酷い傷を負い、かなりの量の血を流していた。私は彼等に託された赤ん坊を抱き、村の仲間とともに彼等を家に連れ帰り傷の手当に取り掛かった。ボロボロになった衣服を外し、容態を詳しく調べていくうちに私は愕然とした。想像以上に酷いものだった。――――もう助からない――――直感でそう感じた。奥の部屋でカスミが赤ん坊にミルクをやっている。どうやらあの子だけは少し衰弱している程度で済んでいるようだ。ミルクも飲んでいるようだし、いずれ元気になるだろう。しかし――――恐らくあの子のご両親であろうこの二人は――――。

「ナガシさん。外が急に濃い霧がでて何も見えなくなってきた。おまけに雨も降り出した。それも嵐になりそうな勢いだ。もう見張りどころではないぞ。・・・・彼等の容態はどうなんだ?」

二人とも身体中を包帯で巻かれ、力無く横たわっており、既にほぼ意識はないように見えた。「そんな・・・。」

そんな時だった。ミルクを飲み終えカスミに抱かれていた赤ん坊が泣き始めた。お腹がいっぱいになり眠たくなったのだろう。――――と、いままで気を失っていた紅い髪の女性が微かに目を開けたのだ。赤ん坊の声が聞こえたのだろう。

「気が付きましたか?大丈夫ですか?」

「・・・あの子は・・・無事・・・でしょうか・・・」

「はい。ミルクを沢山飲んでくれましたし、大丈夫ですよ。我々がついてますから、安心してください。」

「・・・そう・・・ですか・・・有難う・・・ございます・・・・。あの子は・・・レイカと・・・いいます・・・どうか・・・・。」

「もう心配いりませんよ。今は我々に任せて休んでさいね。」

「あぁ・・・よかっ・・・た・・・。」

これが彼等と交わした最後の言葉だった。最後に、一番の気掛かりであったであろう、我が子の無事を確信してもらうことが出来ただけでも良かったのだと思いたい。翌朝、私達は総出で彼等のための墓を作り、丁重に埋葬した。我々の先祖が眠る墓地の一角。名を知らぬが故の名もなき墓。あれは彼等が眠る場所。レイカの本当の両親。

「その写真は、その時に彼等が服の中に大切に持っていたものだ。たった一つの所持品だった。そして、恐らく彼等こそがレイカの本当の御両親だ。・・・・これまで黙っていてすまなかった。」

「じゃあ・・・・僕があの場所で出会ったあの人は・・・レイカの・・・お父さんとお母さん・・・?。レイカは僕の妹じゃない・・・・。」

そこまで口にしてユウハが、はっと我に返った。

「え!?この人達は十五年も前に亡くなってるってこと?・・・じゃあ、ついこの間出会ったあの人達はいったい・・・。」

考えれば考えるほど分からないことが次々に吹き出してくる。どうして彼等は大怪我を負っていたのか。誰かに襲われた――――としたら何故彼等は追われる身であったのか。どこからやって来た?レイカの本当の故郷がどこかにあったということか。何より夜暗い中を、何故存在が知られていなかったはずのこの村に来たのか――――いや、来れたのか――――始めから存在を知っていた――――?

「あの時、彼等は・・・彼等の故郷は、何者かに襲われたのだろう。日々争いが絶えない中で、何者かから町や村が襲われたということは十分に考えられる。最も、ここのように国同士の境界に近いような場所なら起こりえても、彼等が来たのは王都の方からだった。つまり明らかにゼンワード王国の支配地域からだということだ。この国の戦力は強大だ。他国に侵略することはあっても、領内が攻撃を受けるとは考えにくい。それでも、実際に不幸は起こった。命からがら逃げ出すのが精一杯な状況が起こったんだ。我々は彼等以外の生存者を知らない。その故郷がどこなのかもわからない。普通、町や村が壊滅する程の大きな事件なら、何かしらの情報は伝わってくるものだが、あの時は不思議な位に何一つ情報はなかった。唯一あったのは、この村の仲間が、暫くの間軍の兵士が執拗に森の周りを彷徨いていたのを見た、ということ位だったな。恐らくは、生き残りを探していたんだろう。もしかしたら、彼等―――――いや、レイカこそが襲われた原因だったのかもしれないな。」

「森の周り・・・・・そういえば・・・・。」

いつだったか、レイカが言っていた言葉を思い出した。王国の研究所で見た地図に、森の側に見たことのない集落の痕跡が記されてあった・・・と。その時だった。

「オーハンさん、急いで集会所に来てくれ。他の皆にも集まってもらってる。大変な事態だ。」

集会所には、既に何人もの村人が集まっていた。そして全員が集まると、ユウハ達に声を掛けていた村人が話始めた。

「皆こんな夜遅くに集まってもらってすまない。実は隣町で聞いたんだが、王都から派遣された軍がこっちに向かってきているらしい。何でも騎士団襲撃の罪と脱獄犯討伐のためだとかで、途中の町や村でもかなり強引に聞き込みをしてるらしい。俺にはいったいなんの事か全くわからないんだが、誰か心当たりはないか?」

村人は皆、困惑した表情でお互いに顔を見合わせていたが、ユウハが声をあげた。

「それは、間違いなく僕のことです。実は今、王都から追われています。」

「なんだって!?ユウハ?いったい何をしたんだ?」

ざわめく村人達に、ユウハはこれまでの出来事をつぶさに話した。

「ふむ・・・そうか。そんな事があったのか。よく無事にここまで辿り着いたな。しかし・・・・それならその騎士団がやられた罠とやらで、軍の連中もここには来れないんじゃないのか?」

「それが・・・僕がここに来るときに、これが全て解除してくれてしまったので・・・。」

そう言って、懐に持っていた臥龍を見せた。すると、村人達は一瞬驚いたような表情を見せ、暫くざわめいたが、一人の村人がユウハに声をかけた。

「そうか・・・またお前の元に帰ってきたか・・・。ならば、我々は命をかけてお前を護らねばならんな。」

他の村人も頷きながらユウハを見ていた。その時、

「大変だ!奴らがもうすぐそこまで迫っている。どうする!?思ったより早い。くそっ、これでは何も手が打てん。」

外で見張りをしていた村人が血相を変えて集会所に飛び込んできた。ナガシが立ち上がる。

「ユウハ。今すぐ裏口から逃げるんだ。後は父さん達に任せなさい。さぁ、行け!ここでお前を失う訳にはいかん。」

「あぁ、そうだぞ。ユウハ。俺達の心配はいらん。お前はお前のやるべきがあるんだろう?さぁ、行きな。あるべき世界のために!」

村人達の後押しを得て、ユウハは夢中で集会所をでて裏口へ走り出した。墓地まで来ると、名も無い墓の前で一瞬立ち止まり手を合わせた。「レイカ・・・待ってろよ。」そして、ユウハは一人夜の闇に消えていった。


「全員ここで止まりなさい。これより先は隊を二つに分けます。兵士長、貴方達は例の村へ向かいなさい。私達は紅の森周辺を捜索に向かいます。」

王妃は、銀色の鎧を身に纏い、無精髭を生やした粗暴な風貌をした兵士長に命令を下す。

「恐らく村で彼を捕捉する可能性は低いでしょう。・・・そこで・・・貴方達は村人を全員拘束し王都へ連行しなさい。いいですね。」

「村人を・・・全員ですか?」

「えぇ、そうよ。王都の地下牢を抜け出すような大罪人なのよ。そう簡単に私達に捕まるとは思えません。しかし、仲間達が捕まったとなれば、必ず彼の方からやってくるわ。そこを捕えます。」

「しかし、村人達には何の罪もありませんが、本当に連行して良いのですか?」

「心配はいりません。脱獄犯を捕えるため、という大義名分は立ちます。さぁ、行きなさい。」

ユウハ捕捉のため、王都から進軍してきた王妃達は、紅の森の手前で二手に分かれ、それぞれユキワリ村と紅の森へと向かっていった。


「レイカは・・・。」暗闇の中を走りながら想いを馳せる。彼女を最後に見かけたあの場所。石燈籠のあるあの階段。紅の森の結界の向こう。あの場所に再び行くことが出来れば――――あの場所は――――あの場所への道は、ハルが開いてくれたものだ。ユウハ一人では切り開くことが出来ないことはわかっている。しかしこの現状で行くべき場所はあそこしかないのだ。「行ってみるか・・・。」

 紅の森には、人を寄せ付けない結界が存在する。しかし、結界が存在しない森の周囲は、隣接する山林との境界を縫うように歩くことは可能だ。ただ、如何せん薄気味悪い森であることに加え、魔物が出るとかで普段は好き好んで森そのものに人が近づくことはなかった。唯一、ユキワリ村から王都方面へ向かうときだけは、森の南側を掠めるように延びる小さな道を通る時だけは、森の存在を間近に感じることになるのだが。森の外周は所どころ木や枝が折れ、破壊されたような跡が残されていた。恐らくはあの夜、魔導師達が森に何かしたのだろう。しかし、彼等はどうやって森に入ることが出来たのか?ハルはなぜいとも簡単に結界を通り抜けられたのか?現に今も結界は健在だ。ブツブツと考えごとを口にしながら森の周囲に沿って歩いていく。鬱蒼とした森には光が殆ど差し込まず、生命の息吹もほとんど感じることがない。足が草木を踏みつけるガサガサ、パキ、ポキといった音以外には何も聞こえない、何とも言えない静けさに支配されていた―――――はずだった―――――。「ん・・・・これは・・・人の声?」不意にユウハの耳が遠くから聞こえる微かな音を捉えた。低く響く男達の声。地面を踏みつける足音。こちらに近づいて来ているようだ。「・・・それもかなりの人数・・・!?こんな所でどうして・・・・・・まさかっ、追手がこっちにも来ていたのか!引き返すか――――いや―――。」咄嗟に身を屈めて周りを見渡すが、逃げ込めるような道も場所も見当たらない。迂闊に動けば物音で存在が気付かれてしまう。このまま逃げてきた方に引き返しても挟み撃ちに合う可能性が高い。「どうする―――!?あれは――――?」ユウハの目線の先。薄暗い山林の笹薮の中に、妖しく光る二つの眼を見た。


「俺達がいったい何をしたと言うんだ?どうしてこんなことをする?」

「大人しく観念しな。王妃様直々の命だ。ユウハ・オーハンの逃亡に加担した罪で、これから貴様らを全員拘束して城に連行する。早く全員手を頭の後ろに組んで壁を向け。抵抗するならただでは済まさん。おい!お前達は村の出口を全て封鎖しろ。一人も逃がすなよ?」

「はっ!」

「さて・・・・。」

粗暴な兵士長が剣を抜き、村人の面前に突きつける。

「奴を何処に匿っている?何処に逃がした?」

「・・・知らん。ここには暫く帰って来てはいない。」

「ふん・・・まぁ、いい。お前らの尋問は王都へ行ってからじっくりとやってやろう。それも公開でな。果たして、奴は仲間がいたぶられる姿を黙って見ていられるかな?出て来なければ、お前たちを順番に殺してみようか?いや、簡単に殺しちゃ駄目か?腕を斬り落とそうか?足がいいか?奴はいつまで我慢出来るかな?どうなるか楽しみだなぁ?おい。」

「くっ・・・・下賤な奴め・・・。」

「はっはっは、何とでも言え。何せ奴には高い報奨金がついてるんだ。これで俺達も遊んで暮らせるってもんだ。おい、こいつらを全員後ろ手に縛り上げて繋げろ。一人も逃げられんようにな。」


「・・・来てみると本当に気味の悪い場所ね。どおりで普段誰も近寄ろうとしない訳ね。貴方達ならこんな所に一人で逃げ込もうと思うかしら?」

「いえ、とても無理です。こんな所に隠れるくらいなら、街の人混みに紛れた方がよっぽど良いですよ。捕まるよりここにいるほうが、普通の人間には拷問です。」

「そうね。では、さっさと彼を捕まえて城へ戻るのよ。あぁ、嫌だ嫌だ。」

――――徐々に兵士達の声が近づいてくる。「・・・くっ・・・。」ユウハは兵士達の声が迫る中、無我夢中で妖しく光る眼に誘われるように、森の結界とは反対方向の薮の奥深くに飛び込んで地面に伏せ、息を殺していた。「不味い・・・このままでは見つかるか・・・・。」兵士達の気配はどんどん近づいてくる。這いつくばった姿勢のまま必死で辺りを伺う。――――と、「ん?・・・これは・・・?」暗闇の中、木々が不規則に立ち並び、熊笹がびっしりと生い茂っているそこに、あの山奥の一軒家の裏山で見た獣道に似た小さなか細い道筋が一筋延びているように見えた。「こんな所に道筋が・・・?この辺りは・・・確か・・・。」そこは、いつも通る道からみて森の反対側、北東の方向―――――いつかレイカが王都の地図で見たという知らない集落の存在がある方角――――。「この先に・・・・。」ほぼ地を這うように体勢を低くしたまま、兵士達に悟られないよう慎重に道筋を辿っていく。その道筋は蛇行しながらも途切れることなく延々と続いていた。ユウハは何かに取り憑かれたように、鬱蒼とした暗い山の中を、木々の間を縫い熊笹を掻き分けて山を登って行く。辿り初めてから、いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか。最早自分がどの辺りにいるのか、どの方角を向いているのかも分からなくなった頃、ふと気がつくといつの間にか夜が明け、木々の枝葉の僅かな隙間が白々とし始めていた。そして、目の前に小さな谷筋が現れていた。そこは小さな沢が流れ、辺りは広葉樹に囲まれ、木漏れ日が射し込む明るい森になっていた。そしてその場所は、風景全体が何かこう、蜃気楼のように遠く揺らめいているように見えた。「目の錯覚か?・・・どうなっているんだ・・・・?」ユウハは谷筋の奥へと歩いていく。が、やがてそれは違和感となった。歩いても歩いても距離は縮まっていく気配がないのだ。「おかしい・・・そんな事は・・・・。待てよ?もしかすると、これもある意味結界のようなものなのか?だとすると・・・これは・・。」先程からユウハの懐で小刻みに臥龍が震えている。まるで何かに共鳴しているかのように。そう言えば、ユウハが、ユキワリ村に向かう道すがら、あちこちに設置されていた魔法の罠を消滅させたときにも、この臥龍は同じように震えていたことを思い出した。「・・・試してみるか・・・・。」ユウハは臥龍を手に取り、鞘から刀身を引き抜くと、目を閉じ精神を集中する。気は・・・・魔力の流れは・・・・「ここか!」臥龍が強く共鳴したその場所に臥龍を突き立てる。目を閉じたままの瞼の向こうで、何かが「パシュン」と弾けた気配を感じ、そっと目を開く。そこには――――「な・・・なんだ・・・・ここは・・・?」


「おら、さっさと歩け。列を乱すんじゃないぞ?」

村人は全員一つの縄で縦に繋がれ森に繋がる細い道を一列に隊列を組んで歩かされていた。前後左右を兵士達に囲まれ、列を乱すことも許されず、時に小突かれながらただ黙々と歩き続ける。村を出てから一睡もせず食事も与えられていない。村人達の足取りは徐々に重くなっていく。「王都に着く前に、何とかして逃げ出す方法を考えなければ・・・。」ナガシ達は必死で兵士達の隙を伺っていた。村人の数と兵士の数はそんなに変わらない。ただ武器を準備する前に拘束されてしまっただけで、まだチャンスはある。村人の中にも微小な魔法を使えるものはいる。隙を見て縄を焼き切る事は可能だ。今なら兵士達はかなり油断している。不意をつけば或いは―――――ナガシが仲間に目で話し掛ける――――合図と同時に何人かの仲間の拘束を解き、兵士の剣を奪う。あの兵士長さえ制圧出来れば勝機はある――――。全神経を集中し、兵士達の様子を伺う。油断している今しかチャンスはない。「行くか。」ナガシが合図を送ろうとした時だった。

「隊長・・・?向こうに見えるあれは・・・なんでしょう?」

先頭を歩いていた兵士が指差した方向に、何かの一団の姿が見えた。


「王妃様。先頭の兵士がこの先で何か動くものを見かけたと言っています。どうされますか?」

「そう。それなら全員その辺を徹底的に調べなさい。このような所にいる人間は、彼くらいのものでしょう。さぁ、早く探しなさい。」

「はっ。ようし全員散開。人が歩いた痕跡を探すんだ。山の側の方を重点的にな。その辺に潜んでいるかもしれん。見落とすなよ?」


―――――そこには――――「集落・・・か・・・?」いや、正確にはかつて人の生活の営みがあった場所と言うべきか。破壊され、捨てられ、寂れ果てた集落。家屋の屋根壁は焼け跡が残り、葉を落とした木々は傷つき所々枝が折れ、無秩序に生い茂った雑草はひどく踏み荒らされ、全ての活動が破壊され時が止まってしまったかのようだった。集落の中は、水を打ったように静まり返り、生命の気配は全く感じられず、どこも同じように破壊され荒れていた。中を進むうち、やがて一軒の家が目についた。小さなお墓の隣に建っている家。「あの家は・・・・。」家の扉は朽ちて壊れており、容易に中に入ることが出来た。中に入ると、部屋には大きな暖炉があり、その背後には大きな絵画が飾られていた。その絵画は――――。

「ほぅ・・・・あの結界を越えてくるとは・・・のぅ。」

「はっ!?だっ・・・誰だっ?」

不意に何処からともなく声が聞こえた。振り向いても辺りには人は見えない。

「まぁ、探す手間が省けたというものよ。久しいのぅ、小僧。」

「この・・・・声は・・・・。」

聞き覚えのある声。忘れもしない、忘れられる訳もない。自分を監視するために魔法学校に引き入れたあの声。あの場所でレイカを襲っていたあの声!「クサカ・・・団長・・・か・・・。」大切な友人であったはずのカシマの命を踏みにじった彼の父親。

「お主がここにいるということは、我が息子は死んだということじゃな・・・生きる意味と機会を与えてやったというのにのぅ・・・全く・・・役に立たない奴よ。まぁ、もとより期待などしておらんかったがのぅ・・・。」

「黙れっ!貴様、自分が何をしたのか分かっているのか!あいつはっ・・・彼は・・・どれだけ苦しい想いをしていたと思っているっ!貴様は・・・貴様だけは許さん!」

「・・・小僧の分際で大きな口を利く。親が子をどう扱おうと他人に口出しされる謂れはないわ。ごときには少しばかり言葉を慎んでもらわんとな。」

そうクサカの声が聞こえた瞬間、ユウハの足元に魔法陣が現れたかと思うと「バチン!」と大きな音を立てて弾けた。思わず身を屈め目を瞑る――――。

「ッ!・・・・え・・・あ・・・何とも・・・ない・・・?」

ユウハの身体に特に異変は起こらなかった。

「ほぅ?儂の魔法を打ち消した・・・とな・・・。どこまでも忌々しいやつよ。でもまぁ、良い。どの道お前はここから生きては帰さん。冥土の土産に最後に少しだけ話をしてやろう。・・・・あの時は・・・お前さえ割り込んで来なければ、今頃あの力は・・・世界は儂のものになっておるはずじゃった・・・。儂の計画は完璧じゃった。あの赤い葉を見つけた女が、森に取り込まれたと言う話を聞いて儂は確信しておった。かつて世界を支配したといわれる強大な力「呪怨」を保持する森の守護者。かつて取り逃がした杠葉の一族。そうじゃ。この村は儂らがかつてあの一族を捕らえるために襲った村じゃ。大人しく奴らと呪怨を差し出せば良かったものを、こうなることを分かっていながら抵抗などするから、成る可くしてこうなった。今お前の目の前にあるものは、かつて儂らに逆らった者共の成れの果て・・・じゃな。あれから十五年の歳月が過ぎた。その間、取り逃がした杠葉の行方は全く掴めなんだ。あの日まではな。儂は歓喜に震えたよ。しかし、また焦っては同じ轍を踏むことになる。儂は周到に作戦を練って慎重にことを進めた。まずは、杠葉の証である「楓の痣」を確認するために、村に治療院を派遣した。もちろん、治療という名目で身体を調べるためじゃ。しかし、巧妙に封印が施され見つからなんだ・・・というより確証を持つに至らなんだ。そこで、ごく自然にお前達に監視の目が届くように、お前を魔法学校に取り込んだ。もちろん、あの役に立たん息子と引き合わせるためにじゃ。あやつにはお前を監視するよう命じてあった。そして、あの女は治療と称して研究所に連れてきた。もちろん痣の封印を解くためじゃ。封印を解かねば呪怨も開放されん。治療院で一度封印式を見て、解除の方法はおおかた予想が出来ておった。そして目論見通り封印は解けた。恐らく杠葉が呪怨を奪われることを恐れて、事前にあの女に封印を施したのじゃろうが儂には通用などせん。更にあの女には「印」を付けておいた。いつでもそこに転移できるようにな。あの森の結界が破れなんだ時の保険に、じゃな。そして後は森に入るのを待つだけじゃった。呪怨の力が開放されるきっかけが森の何処かに存在する、と読んでおった。そのためにわざとお前達を王都から逃がした。下手な芝居までしてな。案の定、杠葉の精神世界への道は開いた。儂はあの女の元に転移した。予想通り、呪怨の力を開放する儀式が行なわれる所じゃった。予定通り邪魔な国王を消し、後一歩で全ては儂のもの―――――そこでお前が現れた。どういう訳か、大量の守護獣を伴ってな。そこから先は知っての通りじゃ。結果的に、あの夜、役に立たん我が息子がお前を仕留め損ねたことが、最後に響いたということよ。その息子も、咎めようにももうこの世界にはおらんがな。さて・・・長々と詰まらん話をし過ぎたようじゃ。そろそろお前も息子の所へ送ってやろう。世界最強の魔道士といわれる儂の、最大限の力でこの世界から去れることを光栄に思うが良い!」

クサカの声が途絶えた瞬間、頭上に眩い光と熱を感じて空を見上げると、そこには空一面を覆い尽くすばかりの特大の火の玉が、みるみるうちに大きく膨れ上がり空一面を覆い尽くさんとしていた。そして、ゆっくりとユウハ目掛けて落ちてくる。破壊され焼け跡だらけだった家屋は、最初は屋根から、そして剥き出しの柱、崩れかけた壁と徐々に炎に飲まれていく。想像を絶する灼熱に辺りの空気が歪み始める。皮膚が灼ける。頭が朦朧とする。必死で自我を保ち辺りに目をやるが、最早どこにも逃げる場所など見つからなかった。「こん・・・な・・・これでは・・・逃げられ・・・・ない・・・。」


「ん?あれは・・・?王妃様たちは森へ向かったんじゃなかったのか?」

「え?はい・・・・確かそのはずですが・・・・。」

「ではあれは何だ?いったい誰だ?」

その一団はこちらに近づいてくるにつれ、のぼり旗を掲げた騎馬隊であることが見えてきた。そして一人の兵士が声をあげる。

「あののぼり旗は・・・・騎士団・・ですよ!・・・あの先頭にいるのは・・・。」

それはナガシ達を連行している兵士達の倍の人数ほどを揃えた、紛れもない王国騎士団だった。そして先頭に立っていたのは――――。

「領民を護るはずの王国の兵士が何をしている?誰の命でこんなことをしているのか答えてもらおうか?」

「騎士団・・・貴方は・・・コウ団長・・・・!。何故こんな所に・・・。」

兵士長の表情がみるみる青ざめていく。

「彼等はお尋ね者ではないはずだな?今直ぐ解放したまえ。」

コウが馬上から大きな槍を隊長格の兵士の鼻先に突きつける―――と、兵士長はすっとその場を下がり、連れていた村人の一人を盾にし、勝ち誇ったかのような表情でコウを睨みつけた。そして、

「あんたこそ、誰の命でこいつらを解放しろと言っている?俺達は王妃様から直々に命を受けている。あんたに指図される謂れなどないのだよ。・・・それとも、騎士団は王妃様の命に背くとでもいうのかい?そりゃあ、王都に戻ったら王妃様に報告せねばなぁ?団長さんよぉ!下手な真似をすればこいつらの命も、あんたの立場もない。さぁ、そこをどいてもらおうか!」

そう言い放った。

「・・・そうか。やはり王妃の命か・・・。我々騎士団は己の欲望のことしか考えられんような者に付き従う理由はない。・・・ここは通さんよ。」

「ふん。ではこいつらが傷ついていってもいいんだな?黙って道を開けた方が身のためだと思うがな・・・。ただの脅しと思うなよ?おい、そこのそいつを連れてこい。」

隊長格の兵士の命令で二人の村人が前に引き出された。

「こいつらが誰か知ってるか?団長さん。そうだよ、あのユウハとか言う奴の両親だよ。・・・さて、どこから斬ってやろうか?それとも大人しく道を開けるかぁ!」

隊長格の兵士は二人を締め上げ、大声でコウを威嚇する。

「やれやれ・・・これが人の姿だとはね・・・。やはり道は正さねばなりませんね。さぁ・・・そろそろ行きましょうか!!」

「御意―――――雷遁―――――。」

どこからともなく声が聞こえたその瞬間、兵士達は閃光に貫かれていた。「ぐあぁぁぁ!」一斉に兵士達が崩れ落ちる。その隙にナガシ達が縄を切り、騎士団が兵士達を瞬く間に制圧していく。気が付けば、ナガシ達は全員自由になり、兵士達は全員地面に組み伏せられていた。

「・・・ナガシさんにカスミさんですね。私は騎士団長のコウと申します。お初にお目にかかります。ユウハ君からいろいろ話はお伺いしています。この度は我軍の兵が大変な無礼を働き、何とお詫びを申し上げたらよいか・・・。我々騎士団は以前ユウハ君に命を救われました。今回は我々が貴方がたをお護りします。」

「貴方がコウ団長様でしたか。我々も王都で貴方がユウハを助けて下さったと聞かされておりました。こちらこそ何とお礼を申し上げればよいのか・・・有難うございました。」

「いえいえ、我々も国王や王妃の振る舞いには疑問を持っていましたから。それで・・・ユウハ君は無事なのですか?」

「あぁ、彼は・・・・」

その時騎士団員の一人が叫んだ。

「団長!あれを!」

団員が指し示した方向。紅の森の北東の方角の空に、空一面を覆い尽くさんばかりの、見たこともない巨大な火の玉が表現していた。そして、それはみるみる大きくその威力を増していく。


「お・・・王妃様・・・あれは・・・。」

「!?な、何なの・・・あれは?」

「地に向って落ちてきています!このままでは・・・王妃様、退避なさっ――――うおぁぁぁぁ―――。」


それは、大地を揺るがす信じられない衝撃を伴った大爆発を巻き起こし、立っていられない程の地響きと、少し遅れて何もかもを吹き飛ばさんばかりの凄まじい灼熱の爆風を辺り一帯に撒き散らした。コウの所までかなり距離があるはずにも拘らず、焦がすような熱気に覆われ思わずむせ返る。「な、なんだ?何が起こった!?皆臥せろっ!」その場にいる全員が地面に伏せ頭を抱え、爆風と熱気に必死に耐える。―――――と、爆風の中、フブキがすぅっと姿を現した。「クサカ・・・あんな所にいたでござるな。コウ殿、ここはお任せするでござる。恐らくはユウハ殿もあそこに!」そう言うや否や、信じられない速さで爆発のあった方へ駆け出していた。――――ユウハ殿――――どうかご無事で――――。


――――ユウハ殿。今貴殿を失う訳にはいかないのでござるよ。我等は我が主とともに、来たるべきその時を心待ちにして、千五百年もの歳月の間、今はオーハンと名乗る貴殿の一族を護って来たでござる。この世界に生命が溢れ出した千五百年前、神々は自らに代わって世界を治めるべき、「新たな生命」を創り出した。新たな生命―――――それはもちろん「人」でござる。しかし、人はこれまで神々が与えた試練を全く乗り越えようとはしてこなかった。欲望の赴くまま、世界を我が物にせんと、醜い争いを繰り返し、弱きを傷つけ、強きに媚び、世界に共に生きる生命には目もくれず破壊し続けた。人は・・・人という試験的に創り上げられたそれは、万物の霊長として、いつまでもこの世界の秩序を形成することは出来なかった。

そこで、今から八百年ほど前に、神々は「世界を統治する力」と共に「新たな一族」を創り出した。「世界を統治する力」を、選ばれし人の手にしか届かぬよう管理させるために。それが――――「杠葉」――――オーハン家とは別の宿命を与えられた一族。神々が創り出した「世界を統治する力」は、正しい心を持ったものが振るえば、それは『焔』となり世界に「秩序」をもたらし、そうでなければ、それは『呪怨』に姿をかえ「災厄」となって世界を破滅に陥れる。そう、世界を恐怖の血の海で呑み込むことによって、愚かな人に「気づき」と「改心」を促すために。稀に現れるという、あの「紅い葉」はその前兆を意味するもの。

あの時、国王やクサカが手にしたのは『呪怨』であった。しかし、紙一重で『焔』となる可能性があった。そう、レイカ――――本当の名は「杠葉麗楓」――――。あの時既に、彼女の準備は整っていた。後はオーハン家・・・いや、ユウハ殿、人の未来は・・・この世界の未来は貴殿にかかっているのでござるよ。貴殿がオーハン家の本当の意味を知り、また杠葉の真の存在意義を理解し、千五百年晴れることのなかった霧を払い、人なるものが神々の試練を乗り越えるその時まで、我等は貴殿を死なせはしないでござるよ―――――。


「―――――派手に始まったな。此度は、世界は「秩序」と「災厄」のどちらを選ぶのだろうな?我々はここでまたその時を待つとしようか。彼等を信じてな。さて・・・お主も・・・初代から永きに渡って人の移ろいを見てきたであろうが、此度はどうだろうかな?」

「・・・・・・・。」


―――――真っ暗だ・・・・ここは・・・どこだ?・・・何も・・・見えない・・・いや・・・・あれは・・・光・・・。気付いた時、そこは真っ暗闇の空間の中だった。そこがどこなのか、自分が生きているのか死んでいるのが、周りの様子がどうなっているのか、何も分からない。世界から隔離されたような静かな空間。不思議な程に澄んだ場所。頭上からほんの僅かに射し込む光の筋一つ一つが神々しい。ユウハは暗闇の中で仰向けになったまま、暫くぼうっと光の筋を眺めて考えごとをしていた。自分は確かにあの火の海に呑まれた。まともに大爆発を食らったはずだ。あの熱量の感覚が幻では無かった証に、身体中の皮膚がジリジリと痛む。「この痛みは・・・まだ生きていると言うこと・・・か。」身体中を触ってみる。とりあえず軽い火傷以外は怪我らしいものはしていないようだ。手を後ろについて上半身を起こしてみた。―――――と――――眼の前に何かの気配を感じ、思わず身構える。――――何だ―――?目を凝らすが暗闇の中にいるそれが何なのか全くわからない。人ではない――――。そう感じたその時、それは、ユウハの心を読んだかのように、ゆっくりと僅かに射し込む光の元にその姿を見せた。それは――――「イヌ?・・・・いや・・・違う・・・か。」妙にずんぐりとした体型、毛足の長い綺麗な毛、顔は犬というより獅子といった表現の方が適切なそれは、そのままごく自然にユウハの元まで歩いてくると、火傷を負ったユウハの手の甲をそっと舐め始めた。ユウハもまた、初めてみるその獅子になんの警戒心も抱かなかった。そして、不思議なことに舐められた部分からは、ジリジリとした痛みは和らいでいくように感じた。やがて、それは暗い中をユウハを誘うように、何度もユウハの方を振り返りながら歩き始めた。手探りで周りの様子を伺いながら後を追う。ゴツゴツとした冷たい岩肌の感触が伝わる。どこかの地下なのだろうか?この獅子は灼熱の地上から助けてくれたのか?そんなことを想いながらついていくと、それはある壁の前で立ち止まった。一見、何もないようだが・・・・「ウォーーン」それが、壁に向って遠吠えに似た声を上げると、壁がずれ小さな部屋のような空間が現れた。その空間にはぼんやりと蝋燭が灯り、正面にある細長い机には、何かの書物が開けたままになっていた。そこに記されていたのは―――――。

「対立を融和に。服従を協調に。呪いを戒めに。人が人であるための真なる覚醒の時を、神刀焔と楓の守護家が共に見守らん。守護初代 杠葉彩楓。」

 そして、代々の守護者らしき人物の名前も記されていた。

初代     杠葉彩楓

   〜

第四十三代  杠葉楓恋

第四十四代  杠葉麗楓

「・・・ユズリハ・・・レイカ・・・。その先代はカレン・・・。やっぱり、楓恋さんが麗楓の本当のお母さんなんだ。と言うことは、イチョウさんがお父さん・・・か。」ユウハは書物から視線を上げ、気持ちを落ち着かせるように、今までの出来事を思い返していた。―――――と、正面の壁の四角くくり抜かれた場所に飾られていた大きな絵画に目が留まった。そこに描かれていたのは――――紅色や黄色などの鮮やかに彩る紅葉の中で、それに勝さるとも劣らない美しい着物に身を包み、紅色の長い髪を靡かせてこちらを振り返る一人の若い女性―――「この人は・・・・・あの時、麗楓と一緒にいた人じゃないか・・・・。」皆綺麗な紅色の髪。杠葉の一族の証。「それが、麗楓が背負う宿命なんだね・・・・。では僕の宿命とは・・・何なのだろう・・・分からないよ。」ユウハは部屋を出ると、暗く細い地下道のような場所を、手探りで獅子の後ろを付いて歩いていく。やがて、視線の先に小さな光が見えた。静かだった空間に、遠くから滝のような轟音が微かに伝わる。ようやく出口か・・・そう思った矢先、光の前に一人の人影がいることに気付いた。真っ暗な中に真っ黒な出で立ちの人物。―――――こんな所に人が?――――いったい誰だ――――ユウハが足を止め、身構えようとしたその時、獅子はその人影目掛けて脱兎の如く駆け出した。ぐんぐん距離が縮まる。スピードを落とす気配がない。そして、とうとう獅子がその人影に飛び掛かった。


「よしようし。ユウハ殿を護ってくれたのでごさるな。よくやったでござるよ。」

見慣れない忍者のような黒装束を身に纏った人物――――。

「フブキ・・さん?」

ぶんぶんと尻尾を振り回し戯れつく獅子をあやしていた人影が立ち上がる。

「いかにも。ユウハ殿、ご無事で。」

「フブキさん、その格好は?」

「あぁ、これは・・・某の本来の姿でござるよ。某は主に仕える忍びでござる。今までは、訳あって王国の魔道士として行動してたでござるが、もうその必要は無くなったでござるな。ほれ、ソラ!ちっと落ち着くでござるよ。」

千切れんばかりに尻尾を振り回し、元気いっぱいにじゃれつく獅子をあやす忍者姿のフブキ。眼の前の思いも寄らない光景にあっけにとられていると、

「さて、ユウハ殿。貴殿が来るのを待ち望んでいる者がいるでござるよ。さぁ、共に。」

そう言ってフブキは光の方へ歩き始める。

「僕を・・・ですか・・・分かりました。お願いします。・・・・ところで・・・・ここは何処なのでしょうか?」

「ここは杠葉の始まりの記憶。貴殿もその一部を見たでござろう?選ばれし者にしか入ることも、入口を見つけることすらも叶わぬ、彼等の記憶と神刀焔が眠る場所。外界からの干渉を一切受けることはない別の世界。あの爆発に巻き込まれる直前に、このソラが結界を抜けて貴殿を安全なこの場所に避難させてくれたでござるよ。」

フブキがそう言うと、ソラが前を歩きながらチラッと得意気な顔でユウハの方を振り返った。

外は、クサカが引き起こした大爆発によって、北東の谷を中心に円を描くように、何もかもが跡形もなく燃え尽き、吹き飛ばされ、消え去っていた。紅の森を除いて。

「谷諸共無くなってしまったでござるか・・・。地形まで変えてしまうとは・・・・クサカの存在は厄介でござるな。」

「ソラが助けてくれなかったら今頃ぼくは・・・。はっ!?村の人達は?父さん、母さんは?フブキさん、僕は村に戻らなきゃ!皆が!」

「心配ご無用でござるよ。ほら。」

フブキの目線の先、紅の森の傍らに村人達と騎士団の姿があった。

「ユウハ、無事だったのか!?あの爆発に巻き込まれていやしないかと心配したぞ?」

真っ先に駆け寄ってきたナガシが、ユウハの頭をクシャクシャにしながら抱き締める。

「巻き込まれたんだよ。でもこのソラが助けてくれたんだ。」

「あぁ、そうなのね?ソラって言うのね。助けてくれて有難う。」

足元で座り込んでいたソラの頭をカスミが撫ぜると、ソラも気持ち良さそうに顔をカスミの手に委ねた。そしてもう一人。

「ユウハ君、無事で何よりだ。」

「コウ団長!・・・あ・・・あのぅ・・・あの時は勝手に抜け出してすいませんでした・・・。」

「はっはっは。気にしなくていいよ。そうなるだろうと思って近くに騎士団を待機させておいたんだ。ここまで皆無事にいられて何よりだ。」

周りを見渡すと、村人達全員の姿があった。皆大丈夫そうだ。

「ところで何で皆と騎士団がここに一緒にいるの?」

「そうだな。不思議な光景だな。実はな――――。」

ユウハが村を脱出してからこれまでのことをナガシが説明する。

「そんなにすごい爆発になっていたんだ・・・」

「さようでござるよ。某達もこの結界が防いでくれてなければどうなっていたことか・・・さすがは彩楓殿。・・・さて・・・と・・・。」

フブキが森の結界に手を触れながらユウハ達を振り返る。

「ユウハ殿、貴殿には行くべき所があるでござる。某はまだやることが残っている故、ソラに付いて行って欲しいでござるよ。」

「行くべき所・・・?」

「そうでごさる。さぁ、時を逃されぬよう急がれよ。」

「行って来い、ユウハ。父さん達は心配しなくても大丈夫だ。お前が帰ってくるべき村は皆で守る。お前は、お前にしか出来んことを成し遂げてこい。もう迷う必要はない。」

「私も我々騎士団の役割を果たしに王都へ戻ります。ユウハ君、君がこの世界を変える、そんな気がしているよ。お互いに背負うものは小さくないようだが、きっと上手くいく。全てを成し遂げたときに、また逢おう。」

そして、皆それぞれの役割を果たすために散っていった。


森の結界は、ソラとユウハを拒むことはなかった。ソラに付いて歩く森の中は、外から思う以上に暗く静かで鬱蒼としたものだった。生命が織り成す物音すら一切しない。それでいて嫌な感覚は全くなく、寧ろ安心すら感じる不思議な場所。やがて少し開けた場所に辿り着いた。森全体は木々や下草で鬱蒼としているにも関わらず、そこだけは綺麗に何もない。まるであるべきものがそっくり無くなってしまったかのようだ。ソラが開けた場所の手前で立ち止まり、「ウォーーン」と遠吠えをすると、真っ暗だった空間に、ふぅっと朧気な二つの明かりが灯った。それは石燈籠の火袋に灯された明かりだった。二列にそして奥に奥にと次々にポゥっと灯っていく石燈籠。その間には石畳の道が、そして石燈籠の周りには大きな木々が並木道となって照らし出される。その中をソラについて歩いていくと、やがて見えてきたのは、いつかみたあの集落だった。

「お帰りなさい。」

家の前では、ユウハが来るのを知っていたかのように、楓恋と銀杏がユウハに手を振って出迎えていた。

「火傷してるのね、あれから大変だったのでしょう?でも、またここで逢えて嬉しいわ。」

「楓恋さん・・・銀杏さん・・・。」

ユウハの声が思わず詰まる。そう、何故なら彼等は―――――。

「もう・・・知っているんでしょう?」

楓恋が優しい表情でユウハを見つめる。

「そう、私達の命はあの時に潰えた。貴方のご両親に一人娘の麗楓を託してね。私達杠葉一族は、その特別な力を常に狙われ続けてきたわ。だから人里離れた場所でひっそりと、来たるべきその時まで、その力を、一族を護って来たの。貴方達の一族と同じように。でもどう言う訳か、国王にその存在が知れてしまった。真夜中に不意を突かれた私達には、あの子を連れて逃げるしかなかった。そして何かに誘われるように逃げ落ちた先にあったのが、貴方達の村。私達には、一目でそこが何の郷なのか理解できた。そして麗楓を託せる唯一の選択肢だったことも。その後は貴方も知っての通り。今まで麗楓を大切に護ってくれて有難うね。あの子なら大丈夫。どこかで貴方のやっていることを見ている。そしてその時を待っている。そう、貴方にはまだやるべき事があるわ。あまり時間の猶予もないようだし、早速だけど一緒に付いてきてくれる?」

そう言うと、楓恋と銀杏は家の脇を抜け、集落の外に向かって歩き始めた。途中、木々に囲まれた小さな社の横を通り、谷を下った所で、大きな沢に辿り着いた。二人は意に介さずジャバジャバと水の中に入っていく。「貴方も来るといいわ。」楓恋に誘われ、ソラと共に水の中に足を踏み入れる。水は信じられない程に透き通り、心地良い冷たさと流れる水の音が相まって疲れ切った心持ち身体も浄化されていくようだ。ソラも気持ち良さそうに泳いでいる。と―――――「火傷が・・・傷が・・・消えていく?」水に触れた部分は、不思議なことにことに傷も痛みも何もなかったのように消え去っていた。「それなら・・・。」ユウハは身体全体を水の中に沈めると、身体中の火傷や傷が全て癒されていた。

「もう痛くないでしょう?」

楓恋がいたずらっぽい表情でユウハに話し掛ける。

「楓恋さん、この水は・・・。」

「何故、傷が治るのかって?正確には、傷を治しているというよりは、負の部分を浄化している、といった方が良いわね。」

「そうなんですね。確かに傷が癒えただけじゃなくて、身体中の疲れがリセットされたような感じがします。すごく元気が湧いてくるような・・・でも、どうして・・・。」

「秘密が気になるわよね。いいわよ、教えてあげる。付いてきて。」

楓恋はそう言うと、沢の中をどんどん上流に向って登っていく。やがて、遠くから滝のような音が聞こえていた。そしてそれは目の前までくると、とても大きな水量のある滝だった。滝壺のからまだ少し距離があるにも拘らず、水深は既に胸の辺りにまで達している。滝壺の真下は相当深いはずだ。

「滝壺の中を潜って見てみて?」

「滝壺の中?」

楓恋に促され、大きく息を吸い込んでザブンと潜る。滝壺の中は上から絶えず落ちてくる途轍もない量の水が狂ったように泡となって渦となり何も見えない。

「滝壺の底よ?」

楓恋に教えられもう一度潜ってみる。泡の渦の下――――滝壺の底――――「あれは・・・。」そこには、白い棒のようなものが底の地面に突き刺さっていた。

「何かが刺さっているのが見えます。」

「そう。それね。今の貴方になら引き抜けるはずよ。取ってこれるかしら?」

ユウハは再び大きく息を吸い込んで勢いよく滝壺に潜っていく。滝壺の下は危険だ。絶えず落ちてくる水の圧と、複雑な水の流れに巻き込まれれば水面に顔を出す事すら出来なくなる。ユウハは滝壺の脇からギリギリ底を伝って滝の真下に辿り着くと、その棒を掴んだ。それは予想に反して、まるでユウハにその身を委ねるように、すっと地面から抜けた。「プハァっ!」水面に顔を出し、水際まで辿り着いて改めて間近に見たその棒は――――見たことのない花弁の装飾――――純白の鞘――――『臥龍』と瓜二つの容姿の長刀――――。

「それは『荘川』という名を持つ、『臥龍』と対を成すもの。『臥龍』は、生きとし生けるものを護りたい、と真に願う者だけが、『荘川』は、人を塗れた欲望から来る苦痛や悪行といった闇から救いたい、と真に願う者だけが、それぞれを手にする資格が与えられる。そして、双方の資格を同時に得たものが現れた時、更なる高みへ繋がる道が開かれる―――――と言うことらしいわよ?」

「らしい?」

「そう。そもそもこの刀は貴方達の一族に伝わるもの。貴方達にしか扱えないもの。私達は貴方がこれを手にするに相応しい存在であるかどうかの見極めを頼まれていただけ。詳しいことはあまり分からないのよ。」

「頼まれて・・・僕は誰かに試されているのですか?」

「うーん、多分少し違うと思うわ。そうね・・・その答えには貴方自身の力で辿り着くべきね。」

「そうですか・・・そうですね。でも、ここからどうしたら良いのか・・・。」

「そう?よく思い出してみて?今までに貴方を導いてくれた人がいなかった?貴方がまだ辿り着けていてない場所はない?」

「僕を・・・あぁ、そう、そうですね。有難うございます、楓恋さん。僕、行ってきますね!」ユウハほもと来た道を辿り集落に出ると、一目散に走り始めた。そう、あの場所を目指して――――。


 ――――あの時、ナガシさんと一緒にいたあの小さかった子が、あんなにも立派になって・・・。私達は、この場所にしか居ることが出来ない存在になってしまった。もう麗楓の側についていてあげたいという願いすら叶わない。でも―――――ユウハ君、貴方になら託せる。麗楓を――――私達一族が永い間守り伝えて来たものを。貴方なら成し遂げられる。貴方達一族が、世界が、永い間待ち望んだ悲願を―――――。


「・・・誰もいない・・・。」畑にも、井戸にも、家の中にも彼等の姿はなかった。耳を澄ましてみても、人の活動らしい物音はどこからも聞こえてこない。洗濯物もなく、かまども暫く使われていないようだ。家の裏手に回ってみる。身体を低くし、びっしり密生した隈笹の隙間に目を凝らす。「・・・行ってみるか・・・。」あの時と同じように、隈笹の隙間に見える僅かな道筋を辿っていく。前回のような霧に覆われることはなく、何か神聖な空気に満たされたかのように透き通った空気。そして、あの時と同じ場所に、それは朧気なものでも、蜃気楼なようでもなく、はっきりと目の前に姿を現した。――――石で積み上げられた長い階段――――等間隔に並んだ石燈籠――――。燈籠には見たことのない花弁の紋様が刻まれ、火袋に淡い幻想的な明かりが、一番下の燈籠から上に向って次々に灯っていく。ユウハは、その明かりに導かれるように階段を登っていった。永い年月をかけて程よく風化し、所々苔むした階段に降り積もった落ち葉を、一歩一歩踏み締めながら登っていく。そして階段を登りきったその先には――――。

 

そこには古いお寺があった。決してそう大きな寺ではないが、青緑瓦が整然と並び独特の勾配に仕上げられた入母屋の屋根、斗栱や肘木など和様の社寺独特の複雑な柱組の外観が、一層の荘厳さを醸し出している。悠久の時を経てなお、何一つ朽ちることのない重厚感のある佇まい。恐らくは、永い間大切に手入れされてきたのだろう。ユウハはこの寺が経てきた時に想いを馳せた。いったい誰が何のために、こんな山の奥深い所に建てたのだろうか。この寺はここで何を見てきたのだろうか。この寺の名前は―――――。


「この寺は―――願成寺―――という―――。」


「えっ!?」

不意に背後から聞こえた声に思わず振り向くと、そこにはいつの間にか、あの一軒家に住んでいた老爺の姿があった。

「ここは、人が人であるための始まりの場所。導きの地。気が遠くなるような永い時を、祝福の木へ通ずる道の封印を解くその時を、待ち焦がれておる者が眠る場所。」

突然の事に驚くユウハに、「付いて来るが良い。」一言そう言うと、ゆっくりと本堂に向かって歩き始めた。状況が理解出来きないまま、後を付いていく。周りを見渡すと、本堂以外には目立った建物はなく、代わりに何本かの杭で丸く囲まれた小さな丘の上に、大きな木が一本聳え立っているのが見えた。そして本堂の前までくると、すぐ側に一対の狛犬の像があった。その像は――――「ハル?それに・・・こっちはソラ!?」そう、向って左側の狛犬は、ランマの元にいたあのハルに、右側の狛犬は森で助けてくれたあのソラにそっくりだった。そして、それぞれには名前らしき文字が刻まれていた。左側の台座には「春風」、右側の台座には「秋空」と。

「その狛犬は、永きに渡り我等と共にこの地を護り続けてきたものよ。もっとも、このところ珍しく何度かここを留守にして、どこかに行っておったようだがな・・・。さて・・・中に入るが良い。そなたを待っているものがおる。」

老爺の後について本堂に入ると、そこには、あの時の老婆が本尊の前に座っていた。そして、その向こうには―――――「本尊」――――人の背丈程の、いや――――人そのもの―――――長く艶のある黒髪、紅色の生地に、艶やかな桃色の見たことのない花弁の紋様で彩られた着物姿。その胸に大きな両手で大きな太刀を抱きかかえた可憐な女性――――。淡い桃色の結界に囲まれ、まるでそこだけが時が止まっているかのように、目を閉じて宙に浮いていた。

「この・・・人は・・・。」

「この娘子の名は――――中将姫――――。『臥龍』と『荘川』の双方に認められた者だけが、この封印を解き、人のあるべき未来を紡ぎ出すことが出来る。我等は千五百年余の間、この時が来ることを待ち続けた。この世界に存在する生きとし生けるものは、皆自分自身が生き延び、そして子孫を残すためだけにその生涯を費す。全ての行動はその本能に刻み込まれたものに支配されており、そこには他者を慮る要素など何一つ存在しない。生物とは、ただただひたすらに種を繋ぎ続けるだけの存在であった。そんな世界に神は一つの可能性をお造りになられた。知識の蓄積、知恵の創造、多彩な思考を可能にする高度な「頭脳」と「理性」を与えられ、神々に代わって生きとし生けるものの頂点に立ち、生命が共存し、繋がり、互いに思い遣り、生きる喜びに満ち溢れた世界を創り得る存在――――そう、人を世に生み出した。欲望と理性の間で紆余曲折を経て、いつか神々が思い描いた世界に人が辿り着くことを望んで――――。しかし、人の欲深さは神々の想像を遥かに越えておった。己のために他者を傷つけ、奪い、時に戦争を繰り返した。価値観の違いのような些細な物事までもが、いとも簡単に大きな争いに発展してしまうような、どうしようもない生命体であった。それでも神々は待ち続けた。人の可能性を信じてな。人は今もまだ、未熟な存在であることき変わりはない。しかし、そなたのような者が現れ始めたこともまた事実。そなたはこの封印を解き、世界に人なる存在が気高く生きるためのきっかけを与える宿命を負っておった。そして今、ようやくその時を迎えた。その手にある二本の刀を納められよ。さすれば道は開く―――――。」

ユウハは腰に差していた二本の刀を鞘ごと外すと、ゆっくりと姫の方へ向かう。そして刀掛けに一本づつそっと刀を納める。すると、姫を覆っていた結界が突如眩い光に包まれた。「うわっ!?」思わず目を覆う。


「――――ようやく――――務めを果たす時が来たのですね――――。」


光が収まったそこには、結界から解放され、目を覚ました姫の姿があった。

「ヲホドノオウ様、タシラカ様、お久しゅうございます。」

「うむ。そなたもな。」

「あなたが、ユウハ様ですね。ずっと見守っていましたよ。よくここまで辿り着いてくれました。」

姫は柔らかな笑みを浮かべてユウハの元まで来ると、両手に抱えていた太刀を差し出した。「さぁ、これを。」

それは、『臥龍』や『荘川』と同じような淡い桃色の柄、見たことのない花弁の紋様があしらわれた純白の鞘の大きな太刀だった。

「この太刀の名は――――『薄墨』――――と言います。杠葉が持つ『焔』と対になる、貴方方オーハン家――――いいえ、正確には『桜坂』家が持つことを許される太刀。世界を理想郷に導く道標。」

「さくら・・・ざか・・・?僕の・・・。」

「そうです。貴方方の一族は・・・この『薄墨』に繋がる一族は、欲に塗れた者にその存在を知られるわけにはいかなかった。よって、名を偽り人目につかない辺境の地で、従者達に守られ今まで生き延びてきました。来たるべきこの時のために。」

「従者・・・?あの村の皆が・・・・。」

「その通りです。今は貴方のお父様「流」とお母様「霞」に仕える従者達。私達は、桜坂一族から「資格」を手にする者が現れることをずっと待ち焦がれていました。彼等には、その時が来る前に一族に危機が訪れた時、貴方方をお守りする使命が与えられていたのです。そして、もう二人、使命を与えられていた者がいました。―――「爛漫」と「吹雪」――――。貴方と同じ桜坂の一族。爛漫の家系には『臥龍』を、吹雪の家系には『荘川』を託し、その主に相応しい者を見極めるように、と。最も、吹雪の方は少し事情が特殊なのですが。」

「そうですか・・・。ランマさんも、フブキさんも・・・。フブキさんの事情が特殊・・・?」

「うふふ。それはいずれ本人から聞けるでしょう。それより、貴方自身にも特殊な事情が存在しているのですよ?」

「僕にも・・・ですか?」

「貴方の名は「悠颯」。これまでの桜坂一族の名には無かった意味が込められているのです。まぁ・・・それは御相手が揃った時にお話しましょう。さぁ、悠颯様、杠葉が待っています。人のあるべき道を開けに参りましょう。」

姫がそう言うと、辺りは瞬時に濃い霧に包まれ、あの石燈籠に挟まれた石階段が姿を現した。階段は右に緩やかに曲がりながら下に降りていくように延びている。姫が降りていく後を、悠颯達が付いていく。やがて、何も無い霧に覆われた広い空間に出た。――――と、霧の向こうにも、こちらと同じ様な石燈籠に挟まれた階段があることに気が付いた。そして、そこから降りてきたのは―――――姫と同じ様な着物姿の女性と、もう一人―――――。

「お兄ちゃん!」

「れ・・・麗楓!?麗楓ーーー!」

どちらからともなく駆け寄った二人が固く抱きしめ合う。

「お兄ちゃんお兄ちゃん!」

「麗楓!良かった。無事で・・・。」

「うん。ずっとあの彩楓さんの世界に居させてもらってたんだよ。あれから、お兄ちゃんのことをずっと見てたんだ。」

「彩楓さん・・・あぁ、あの時麗楓と一緒にいた・・・あの人は・・・。」

悠颯が振り返ると、彩楓と中将姫も再会を果たした古い友人同士のように振る舞っていた。

「久しいですね、彩楓。ようやくこの時が来ました。」

「はい。ここで姫様にお会い出来る時をずっと待ち望んでおりました。」

「さぁ、私達の使命を果たしましょう。悠颯、麗楓こちらへ――――ッ!?。」

その時だった。突如霧の向こうから、巨大な火の玉が悠颯達目掛けて放たれた。

「きゃあっ!」

「危ないっ!」

悠颯は咄嗟に麗楓に覆い被さり目を瞑り身を屈める。――――このままでは当たる――――!?――――来ない――――?恐る恐る目を開けると、そこには―――――。

「危ない所だったでござるな。」

吹雪の姿があった。火は吹雪によって軌道が歪められ霧の中に消えていった。

「さて・・・出てくるでござるよ。」

吹雪が霧の中に話し掛ける。

「クックック。儂の魔法を弾くとはのぅ。」

「その声は・・・クサカかっ!」

再び霧の中から火の玉が襲い、吹雪が跳ね返す。すると、すうっと霧の中からクサカの姿が現れた。森で見た時には分からなかったが、顔や手足にひどい火傷を負っているように見えた。「いかにも。亡者どもよ。まさか、呪怨以外にもまだ儂の知らん力を隠しもっておったとはのぅ。いやはや、この世界には飽きることはないわい。さぁ、力ないものはそれを置いて去るがよい。儂に丸焦げにされんうちにな。」

そう言うと、かざした手の平に、新たな火の玉を作り出していた。

「そうはさせんでござるよ。某がお相手するでござる。」

「ほぅ・・・面白い。古の忍びとやらが、どの程度のものか見せてもらおうかぁ!」

「彩楓殿、結界を!ここは任せるでござるよ。」

クサカと吹雪の壮絶な戦いが始まった。クサカが繰り出す圧倒的な物量の火の玉を、吹雪が次々に避ける。クサカの猛攻は全く衰える気配を見せない。

「どうしたぁ!避けてばかりでは儂は倒せんぞ!」

「クッ・・・どうしてそんなに魔法を打ち続けられるでござるか・・・。」

吹雪も隙をみて忍術で反撃を試みる。

「忍術とはそんなものかぁ!ぬるい。生ぬるいぞ!」

クサカから放たれる無数の火の玉が途切れることなく吹雪に襲いかかる。徐々に吹雪が押され始める。避け切れず、腕に、足に、少しづつ火の玉がかすり始める。

「ふん。少しは楽しめるかと思ったががっかりだなぁ、忍びの者よ。もう戯れは飽きたわ。これで消えるが良い!」

クサカが今までのものより数段大きな火の玉を無数に頭上に作り出すと、不規則な軌道で一気に吹雪目掛けて放った。

「不味いっ!あれでは吹雪さんは避けられない!」

悠颯が叫んだその時、火の玉の一つが吹雪に直撃し、炎の渦に飲み込まれた。

「吹雪さん!」

言葉も発せずに燃え上がる吹雪。

「ハッハッハ!お別れだなぁ。忍びの者。次はお前らよぉ。そんな程度の結界で、儂の魔法を防げるとでも思っておるかぁ!」

クサカは森で悠颯に見せたあの、空一面を覆い尽くさんばかりの巨大な火の玉を頭上に作り出す。

「これで最後じゃあ!」

火の玉が悠颯達に向かって襲いかかる―――――。


―――――「空蝉」―――――


火の玉を受けて燃え上がっていたはずの吹雪が不意に姿を現した。―――「金縛りの術」―――。

「むぉっ、か、身体が・・・動かん・・・小癪なっ、この程度の術が儂に効くかぁっ!」

クサカが吹雪の術から抜けだそうとした時だった。クサカの心臓を一振りの剣が背後から貫いた。

「ぐはっ・・・だ・・誰・・・だ。ここには・・・他には・・誰も・・・。」

「やれやれ・・・・俺に姿も気配も消す魔法を教えたのはどこの誰だった?クソ親父。悪行もここまでだな。」

クサカがゆっくりと崩れ落ち始める。

「今です、吹雪さん、頼みます!」

「――――御意――――「魂魄転生」―――――。」

吹雪の術を唱えるとクサカの身体は光に包まれ、そして徐々に砂像が霧散するようにその身体が塵と消えていった。

「カシマ・・・カシマなのか?生きて・・・いたのか!?」

そこには、確かにカシマの姿があった。

「あぁ、あの宿屋で切られた時に、親父に刻まれた呪いの刻印諸共切られていてな。あの刀の力らしいんだが、刻印の効果が無くなっていたみたいだ。傷は深かったけど、吹雪さんに治してもらったよ。おかげで、何とか死なずに済んだって訳だ。」

「カシマ殿は、運命に振り回されただけで、こんなことで失われて良い命だとは思えなかったからでござるよ。無事回復して何よりでござるな。」

「ところで・・・クサカはどうなってしまったの?」

「魂を浄化して天に送ったでござる。いずれ次の生でみっちりやり直しをすることになるでござろう。本来、地獄に落とすべき魂でござるが、あれでもカシマ殿の実の父親でござるからな。少し温情を施しておいたでござるよ。」

「あぁ、吹雪さん、何と言っていいのか・・・恩に着ます。昔は親父もあんな人ではなかった。傷つけられ、裏切られ、屈辱の日々を送るうち、いつしか力こそ全てと言う考えに染まっていってしまった。いわば、親父もこの欲に塗れた醜い世界の被害者だったのかもしれません。犯した罪は消せないですけどね。」

「姫様も、彩楓殿も無事で何よりです。」

「はい。最初から彼が・・・クサカがここで現れるのは分かっていましたから。麗楓のところにね。ですから、ひとまずこの何も無い場所に来たのです。心置き無く彼を討つために。」

「さぁ、悠颯、麗楓、今度こそ道を開きましょう。」

姫はそう言うと、濃い霧の中、目の前に再び石燈籠に囲まれた石畳の道が姿を現した。姫を先頭に道を進み、やがて燈籠が無くなると少し小高い丘のような所に登ったところで、姫が足を止めた。そこには石で作られた何本もの杭が並んでいた。霧でよく見えないが、どうやら円を描くように杭が打ち込まれているようだ。

「悠颯、『薄墨』を抜いてここにかざして下さい。」

姫の言う通りに、刀を抜き円の中心に向けてかざす。美しい刃文をもつ見事な刀身だ。続けて

「麗楓、『焔』も同じようにかざしましょう。」

彩楓に促され、刀を抜き円の中心に向けてかざす。

そして、姫と彩楓が声を揃えて円の中心に向かって言葉を唱えた。


「人が人であるために。桜は人に気高き心を。楓は人に戒めを。今、我等の祝福とともに、その道を開かん!」


その瞬間、二人の刀が眩い光を発したかと思うと、『薄墨』の刀身には花弁の、『焔』の刀身には楓の葉の紋様が鮮やかに浮き上がり、周りを覆っていた霧が瞬く間に晴れていった。そして、その刀の先、円の中心には―――――「この・・・木は・・・・。」とてつもなく大きな一本の大木があった。いったいどれ程の時を重ねて来たものなのだろうか。大きな幹、無数に張り出した太い枝は、その自重故に何本もの支柱に支えられ、威風堂々とそこに立っていた。

「その木は桜と言う。そう、そなた達の苗字「桜坂」の由来となったものだ。さぁ、悠颯よ。その心に、人のあるべき未来を願うが良い。人を導く決意を示すが良い。さすれば世界中に、その想いは伝わるであろうぞ。」

姫にヲホドノオウと呼ばれたその老爺の言葉に、悠颯が心に誓う。―――――争いのない世界を、皆が手を取り合い生きていける世界を、生きる喜びみ満ち溢れた世界を、必ず作り出してみせる――――――その時――――――。

「こ・・・これは・・・・。」

「わぁ・・・すごい綺麗・・・。」

その大木の枝葉の隅々にいたるまで、みごとな桃色の花が咲き誇った。

「この桜は「気高き人」を意味するものです。この美しい花には、人が本来もつ生命の気高さを思い出させる力があるのです。今、この瞬間に下界では、全世界に桜の花が咲きました。きっと人々は心洗われていることでしょう。」

「姫様の着物も、薄墨の紋様も、この桜の花弁だったのですね。すごく綺麗で美しい。本当に心が洗われる気持ちになれます。」

「さて・・・悠颯殿、麗楓殿、此度の働き見事であった。千五百年余に渡った我等の悲願は貴殿達によって成し遂げられた。これで、人は・・・人類は、あるべき姿に向かえよう。我等の務めもここまで。肉体を持たんが故に、これからは遠くの地で貴殿達を見守っておるよ。」

気がつくと、ヲホドノオウ、タシラカ、中将姫、吹雪、彩楓、楓恋、銀杏、八咫烏、ハル、ソラがずらりと並び悠颯達に視線を送ると、徐々に陽炎のようにその姿が揺らぎ始めた。

「お父さん、お母さん!私・・・私は、貴方達の子供で産まれて幸せでした!あまり一緒に暮らすことは出来なかったけれど、この思い出は一生忘れないよ。有難う。」

麗楓が手を振りながら叫ぶと、楓恋も手を振り

「お母さん達も大きくなった貴方に逢えて良かった。これからもずっと貴方を・・・いいえ、貴方達を見守っているわ。悠颯君と仲良くね。」

「悠颯殿、桜坂一族の中で、貴殿の名前だけが桜に因んでいない理由知っているでござるか?それは杠葉の象徴である楓と繋がるためでござるよ。『風』でね。風は世界のどこにいても吹くものでござる。二人の心は、魂は、この先どこにいても離れることはないでござろうな。さて、某も肉体を持たぬ身故に、陛下とともにこの地で、貴殿達を見守るとするでこざるよ。お達者で!」

「ヒトノウツロイ・・・シカトミトドケヨウ・・・レイカ・・・サラバダ・・・。」

「ワォーーン」

「さぁ、行くが良い。未来を創りし若者達よ。人の世界を、未来を、任せたぞ―――――。」

彼等は眩い光に包まれ、その姿を消していった。





「・・・桜が・・・咲いたか・・・。悠颯達、上手くやったんだな。俺も桜坂一族としての務めはひとまず果たせたって所だな。さて、人がこれからどうなるか・・・俺は俺の出来ることをやろうか。」

「おーい、マスター!今日は部屋は空いてるかい?」

「あぁ、空いてるよ。何人だい?」

「私達の分も空いてるかな?ご主人。」

「もちろんだとも。何人・・・おぉ・・・貴方は!」

「団・・・いえ、国王様。急ぎ、外を御覧ください。今まで一度たりとも花を付けなかった木々に花が咲いております。」

「おぉ・・・なんと・・・気高く・・・美しい花なんだ・・・心が洗われるな。」

「そうですね。とても高潔な花ですね。それも見事な満開で。嫌なことも何もかも忘れられますよ。・・・新しい国王様への祝福ではないでしょうか?」

「いや、これは私の友人達の決死の戦いの結果だよ。人の未来を切り拓くためのね。」


「新しく来た先生って、歴戦の猛者だって噂だな。顔だけでなく、身体にもすごい傷跡があるんだってさ。」

「あぁ、でも魔法の腕もすごいらしいぞ。世界でも先生にしか使えない魔法があるって聞いたぞ?」

「へぇ、いったいどんな魔法なんだろうな?」

「・・・おい、お前達、そこで何をさぼっている?課題が出来るまで今日は帰さんぞ?」

「!?せっ・・先生?いつの間にそこに・・・?」





「ようやく、このお墓に名を入れる事が出来たな。」

「うん、有難う。お父さん、お母さん。」

「・・・まだそう呼んでくれるのかい?」

「あったり前でしょ?今までと一緒。何も変わらないよ。・・・・でも・・・たまには八咫烏に連れてってもらおうかな・・・。」

「そうね。たまには顔を見せてあげなきゃね。」

「それにしても綺麗な花だね。花って、一つの木にこんなに沢山咲くんだね。なんだか花が何かを祝福しているみたい。本当に綺麗。」

「あぁ、その通りだよ。人が神々が望んだ高みに辿り着いたその時のために、人に祝福を与えるために、あの方が植えられた木だよ。まさかこんなに見事なものだったとはね。」

「うん。ところで、お兄ちゃんは?」

「旅に出たいからって部屋で荷支度していたよ?世界中に桜を広めに行くんだって言ってたな。」

「えーーー、お兄ちゃんだけズルい。私も一緒に行きたい!」

「あははは。よく相談してきなさい。お前達の好きなようにするといいさ。」


季節は春。毎年一年の始まりに、その高潔な「桜」は満開に咲き誇り、人に精神の美しさを説きつづけた。欲望に塗れた愚かな存在に戻らぬよう。

そして、「楓」もまた、人がかつての愚かな振る舞いを忘れてしまわぬよう、桜の季節のちょうど間、秋になるとその葉を禍々しい赤に染めるようになった。そしてそれはいつしか、人の心が気高く、高潔になっていくにつれ、それに呼応するように、その色を美しい鮮やかな紅色に変えていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紅の記憶、花の咲かない木 涼白望逢 @kingfisher8890

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画