紅の記憶、花の咲かない木
涼白望逢
第1話 赤い葉
今日も深く濃い霧に覆われたまま――――。霧が晴れる「その時」をこの地で待ち続けて、いったいどれ程の時が過ぎていったのだろう。神々の想いは―――――彼等は―――――。
人里から遠く遠く離れた辺境の地。鬱蒼と繁った森を抜けた更に向こう、その奥まった谷筋にひっそりと、その村「ユキワリ村」はあった。いや、村というより集落といったほうが正確なのかもしれない。幾つかの家族が寄り添い、三十人程が厳しくも豊かな自然に溶け込み、慎ましい生活を送っていた。村の入口には集会所があり、その側には子供たちの遊び場である小さな広場があった。集会所には掲示板のようなものが立てられており、文字通り村人達の情報交換の場として使われている。村内に点在する家屋の周りには各々の田畑があり、簡易な井戸も何ヶ所か掘られている。そして、村の外れには墓地があった。彼等の先祖代々が眠る墓だ。ここは毎日村人が交代で掃除にあたり、とても大切にされている。今の彼等があるのは先祖の努力あってのものだからだ。ただ、その中に一つだけ名のない墓があったが、誰も気にも留めることもなく、他の墓と同じように綺麗に手入れがされていた。そして、村の周りには、村を護るように大きな木が立ち並んでいた。未だかつて「花」を付けたことのないと言う不思議な木だ。辺境の地で、お世辞にも物質的に豊かな環境とは言えないこの村で、彼等は家族同士が皆が協力し合いながら日々の生活を送っていた。
その幾つかの家族の一つに、オーハン家という家族がいた。オーハン家の主であるナガシ・オーハンとその妻カスミ。そしてユウハ・オーハン。今年十九歳になるオーハンの長男。濃茶色の瞳に黒髪の青年。彼は魔法に似た力を使うことが出来た。最も、指先に淡い光を灯す程度のささやかなものだったが。この時代、彼のように特別な力を持つ者が少なからず存在した。小さな火を起こしたり、傷の治りを早めたり、持っている力は人それぞれだ。そして、この家族にはもう一人、娘のレイカ・オーハンがいた。透き通るような色白の肌に薄茶色の瞳、美しい紅色の髪。今年で十五歳になる。
その日、父親のナガシとユウハ、レイカの三人は、食料を求めて村を離れ野山を巡っていた。人里から程遠い辺境のこの地では、山菜や野草、川魚といった自然の恵みを頂くことも、生活していく上で重要なのだ。
「そろそろ休憩にしようか。」
ナガシが荷物を置き、草原に突き出た大きな岩の上に腰を下ろす。目の前には「紅の森」と呼ばれる鬱蒼とした大きな森が広がっていた。一際大きな大木が密生し、どのくらい先まで続いているのかわからないくらいに奥深く広がっている森。そしてこの森には、不思議な言い伝えがあった。かつて一度だけ、森のすべてが血に染まり、やがてそれが世界中を覆い尽くし、何日にも渡り地を、天を焦がし続けたという。人々がこの森を「紅の森」と呼ぶ所以だ。そしてもう一つ不思議な事があった。この森には人が入ることが出来なかった。入ることが禁止されているのではない。入れないのだ。入ろうとしても不思議なことに森の外に戻されてしまうのだ。かつて何人もの人があの手この手で森に入ろうと試みたが、結局誰も入ることは出来なかった。人々は徐々にこの森を薄気味悪がるようになり、ついには森の中には魔物のようなものも住み着いているという噂も立ち始め、やがて誰もこの森に近づこうとしなくなってしまっていた。
季節はちょうど夏が終わり秋の気配が漂って来る頃。少し寂しさを感じる秋独特の、爽やかな中に少しの冷気を伴ったキリッとした風が吹きぬけ、森の木々はざわめき、草原の草花は波をうっていた。と――――森の際の草花の陰で、何か小さく燃えているようなものがレイカの目に留まった。「あれは・・・?」レイカは何かに惹き寄せられるように近づいていくと、やがて見えてきたそれは、燃えているのではなく、恐ろしいほどに鮮やかな紅に染まった一枚の大きな木の葉であった。今まで見たこともない何とも形容しがたい、重苦しく何かの意志を宿しているかのような暗い紅。レイカがその葉に手を伸ばそうとした時、ユウハはレイカが側にいないことに気付いた。慌てて辺を見渡す。そして、視線の先に森のすぐ際にしゃがみ込んでいるレイカを見つけた。
「レイカ!森の側は危ない。戻ってこい!」
大声でレイカに向かって叫ぶ。
「レイカ?・・・レイカ!」
ユウハの声に、父親のナガシもレイカが何をしているのか確かめるように声を上げる。しかし、レイカは全く気がつく素振りを見せない。それどころか、レイカの手元から発している暗い紅色の光が徐々に大きくなっていく。ユウハは、レイカの方に走り出した。
「・・・何だ・・・あれは・・・?戻れ!レイカ。戻ってこい!」
再びユウハが叫ぶ。しかし、それでもレイカは何かに取り憑かれたように動かない。そしてユウハがレイカのすぐ側まで来たその時、突如、強烈な風が二人を襲った。ユウハは思わず顔を背け目を瞑り、身を屈める。肉体に、ではなく魂に向かって吹いたかのような、何とも表現し難い風。今まで体感したことのない、何か意思のようなものを纏った風。一頻り風が去り目を開けると、そこにレイカの姿はなかった。
―――――どのくらいの間、気を失っていただろうか。レイカが気がつくと、そこは薄暗い森の中だった。さっきまで吹いていたはずの秋風の気配はなく、時折木々が僅かにギシギシと軋んだ音をたてる以外は、不気味な程に静かだった。空は鬱蒼とした森の木々に遮られ昼か夜かも分からない。周りに道らしきものも見えない。レイカは薄気味悪さに怯えながらも、身を屈め意識を研ぎ澄まし辺りの様子を探った。木々の鈍く軋む音。風に飛ばされたであろう葉が舞い落ちてくる音。森の高い所をすり抜けていくほんの僅かな風の音。耳に、肌に触れる一つ一つを感じとっていく。やがて身体の感覚が森に慣れてきたその時、微かに不自然な気配があることに気付いた。姿は見えない――――が、自分よりかなり大きなもののようだ。まだある程度距離がある。逃げるべきか、このまま気配を殺してやり過ごすか――――。極度の緊張にさらされながら必死で思考を巡らす。と、徐々にその得体の知れない気配が間合いを詰めてくるのが感じ取れた。「このままでは・・・逃げなきゃ!」レイカの直感が頭の中で叫ぶ。本能的に「後ろ」へ走り出そうとしたと同時に、その大きな気配は草木を薙ぎ倒し一気にレイカに向かってきた。熊に似た生き物が、フッフッという息遣いが聞こえるまでに背後に迫る。レイカは我を忘れ逃げようとするが、身体が思うように動かず、張り出した木の根に足を引っ掛け転んでしまった。「もうダメだ・・・。」派手に体を地面に打ち付け意識が遠退いていくなか、微かに身体がふわっと浮き上がるのを感じたような気がした。
「痛っ・・・。」手のひらの何か染みるような感覚に目を覚ますと、見た覚えのない天井があった。どうやらベッドに寝かされているようだ。辺りを見渡そうと首を向けると、王国の制服を来た女性が何人か見えた。その中の一人が目を覚ましたレイカに気がつくと、
「レイカちゃん、良かった。気がついたのね。」
そう言うと、周りにいた人々が次々に顔を覗き込みにきては安堵の表情を浮かべた。
「え・・・と・・・ここは?」
レイカは部屋の中を見渡しながらその中の一人に尋ねると、
「王国の治療院よ。今日からこの村に来てるの。あなたは、数日前に紅の森のそばで気を失って倒れていたところを村の人に助けられたの。いくつか小さな怪我もしていたから治療していた所よ。もう大丈夫だから、今日はここで安静にしていてね。」
と優しく教えてくれた。
「そう・・・なのですか・・・有難うございます。」
レイカには、森であの魔物のような生き物に襲われそうになった後のことが、全く思い出せなかった。
「レイカ!大丈夫か!?」
暫くして両親とユウハが息を切らして部屋に駆け込んできた。ユウハが言うには、強い風が吹いたあの時、一瞬顔を伏せ風をやり過ごした隙に、レイカはいなくなっていた。周りを探し回ったが見つからないまま日が暮れ始めたため、一度村に戻り、翌朝両親と村の大人皆で再び森に戻った。そこで、ナガシが休んでいたあの大きな岩の上で倒れていたところを助けられ、今までずっと意識が戻らなかった、ということだった。結局その日は、王国治療院で傷の手当と体力回復の魔法を少しかけてもらい、夕方には家に帰れることとなった。帰りがけに、念のため身体の具合を見てもらう。
「傷もだいぶ塞がったようだし、痣も・・・ないわね。もう家に帰っても大丈夫よ。」
と、お墨付きをもらうと、家族とともに帰途についた。
その頃、村ではレイカがいなくなったことの他に、もう一つの話題でも持ち切りだった。あの「紅い葉」だ。レイカがいなくなった後、ユウハが拾って村に持ち帰っていたのだ。治療院の魔道士によると、見つかったのは王国でも実に八百年振りのことらしい。このことは、レイカが森に消えたことと一緒に、王国に報告されていた。
ゼンワード王国の王都ヘイデン。周囲を重厚な高い城壁で囲み、堅固な防御力を誇る難攻不落の城塞都市。騎士道を重んじ、人格を兼ね備えたコウ・クワハ団長率いる騎士団と、史上最強の魔道士と言われ、目的のためなら手段を選ばないクサカ団長率いる魔道士団とで組織された強力な軍隊を保持し、着々とその勢力を伸ばしつつあった。
国という国、人という人が富や力、領土や食料を我が物にせんと、欲望の赴くままに、日々血を血で洗う戦いが繰り広げられる混迷の時代。当代のエルシン国王も、権力と欲望の権化のような人物であったが、コウが国の良心となり国王の暴走を抑えていたこと、クサカも他国と戦う軍隊とは別に、領民のために治療や回復に長けた魔導士達で王国治療院を創設するなど、国内の統治にも尽力していたことで、国内は程よい均衡が保たれ統治されていた。
一方で、軍内部においては、性格が真反対のコウとクサカの折り合いは常に悪かった。例え敵であっても、礼儀や義理人情を重んじるコウは、勝敗が決すれば必要以上に相手を傷付けることはなかったが、クサカ率いる魔導士団は、場合によっては戦う意志のない小さな町や村であっても、国王の意に沿わなければ容赦なく壊滅させるなど、狂気に満ちたその非道な振る舞いは他国を恐怖に陥れていた。欲望の権化である国王にとっては、クサカの方が馬が合うのだろう。常にその働きを称賛し、クサカは王国の中で次第にその地位と発言力を強めていった。そしていつしか、国王とクサカの関係は日増しに密になっていき、二人で密談する機会も増えていった。
「クサカよ、聞いたか?とうとうあの紅い葉が現れたようだな。」
エルシンは玉座の間にクサカ団長を内密に呼び、周囲に声が漏れぬよう注意を払いながら話しかけた。
「はい。どうやら世界中で見つかっておるようですな。あれから十五年余の月日が経ちましたか。我々の目論見通り、待ち続けた甲斐があったというものです。」
「うむ。あの時は何もかもを取り逃がしてしまったが・・・結果的に紅い葉が現れたことは願ってもない機会。今度は逃すまいて。」
エルシンはそう言うと、目を閉じ何かに思いを巡らせていた。
「しかし、その森に入ったという娘には、痣がなかったそうだな?」
「八百年以上も前からの言い伝えですからな。どこまで信憑性があるものか・・・。しかし、痣に関しては、森に入れたという話が本当なら、改めて確かめてみる価値はあるかと。」
「うむ。そうだな。そこはお主に任せるとしよう。良い知らせを待っておるぞ。・・・あぁ、それと・・・コウには悟られんようにな。あやつは有能だが、少々礼儀だの筋だのに拘りすぎで融通がきかん。気付かれると色々面倒なのでな。」
「はっ。お任せを。」
クサカは部屋を出ると、自室に戻らず古い蔵書が保管してある魔道士団の書庫に消えた。
あれから一週間程が経った。レイカの傷跡は少し薄くなり、元の生活に戻りつつあったものの、何とも言えない妙な気怠さが残っていた。その日、いつものように朝食を済ませ、畑仕事に出る準備をしていると、村長が血相を変えて家に飛び込んできた。
「オーハンさん大変だ。王都から王国魔道士団のクサカ団長が急遽お越しになられた。何でもあの「紅い葉」を見つけた兄弟に会いたいと仰られている。・・・どうする!?」
「王国魔導士団が?・・・むぅ・・・そうですか。」
あまりの急な出来事に、ナガシは少し考え込むような素振りを見せていたが、
「王国魔道士団だって?」
隣りで話を聞いていたユウハが目を輝かせた。ユウハは、王国治療院の魔道士達を間近に見て以来、彼等に憧れを抱いていたのだ。王国魔道士団は、まず王国にある魔法学校に入り、厳しい競争に打ち勝った一握りのエリートだけが所属を許される精鋭部隊だ。そもそも魔法学校に入ること自体が、限られた上級層の人間や、ずば抜けた能力の持ち主にしか門戸が開かれておらず、このような辺境の村からは入学など到底不可能な世界なのだ。その魔道士団の団長に、直接面会出来る機会が転がり込んできたとあって、ユウハは期待に夢を膨らませていた。
「お父さん、行きたい!いいよね?」
右手を顎にやりしばらく考え込んでいたナガシだったが、何かを思い直したように
「わかりました。行かない訳にはいかないようですね。村長さん、二人を頼みます。」
「分かった。では、ユウハ、レイカ行こうか。既に団長様はお待ちだ。」
「やった!団長さんって、どんな人なんだろう。すごい人なんだろうなあ。」
「良かったじゃない、お兄ちゃん。目の前で魔法使って見せたら魔法学校行けちゃうかもね?」
そんな冗談を言いながら村の集会所に着くと、村の入口に、数台の馬車とともに、一台だけ一際綺羅びやかな装飾が施された大きな馬車が停まっていた。「すごい・・・これが魔道士団長の・・・。」初めて見る豪華な馬車に気圧されながら集会所に入ると、ずらりと並んだ側近を従えたその中心に、一人だけ椅子に着座している、高貴な装いの魔道士の存在が目に留まった。歳は六十歳ほどだろうか。白髪混じりで少し小柄、柔和な表情の中にどこか威圧感のある鋭い眼差し。「団長の御前に。」側近魔道士の一人にその人物の前に進むよう促され、二人がその人物の前に出て跪く。
「そう畏まらんでよい。面をあげよ。」
そう言って二人の前に立ち上がると、レイカを見て優しい口調で話し始めた。
「紅の森で怪我をしたものがおると聞いてな。あの森は呪われた森じゃ。身体に変調をきたしておらんかと心配でな。急いで駆け付けてきた、という所じゃ。治療院からある程度の報告は受けてはおるが念の為じゃ、今一度怪我の様子を見せてはくれぬか?」
レイカが黙って頷くと、クサカは何かを確かめるようにレイカの頭、首、肩から腕から足の先まで順番に手をかざしていく。
「ふむ、多少森の邪気を吸ってしまっておるやも知れんな。まだ体調が優れまい?これは王都でしっかり治療したほうがよかろうな。ただ折角じゃ。今日は傷跡位は綺麗にしておこうかの。」
そう言って、手の平でポウッとし淡い光を作り出し、レイカの傷に軽く触れかと思うと、まだ薄く残っていた傷跡がみるみるうちに消えていった。「すごい・・・。」王国最高位魔道士の力を間近にし、興奮の余り居ても立っても居られなくなったユウハが思わず、
「団長様、僕も少し魔法が使えるんです。見て頂けますか!」
そう言って団長の前に手を差し出すと、五本の指一つ一つに小さな灯りを灯してみせた。
「ほぅ。これはこれは。大したもんじゃな。どうじゃ、王国の魔法学校に来る気はないか?遠慮は入らん。民のためにその力を存分に磨くと良い。何なら今から儂と一緒に王都に行くかの?あと、そちらのお嬢さんは、改めて治療を施した方が良かろうな。こちらの準備が整い次第、日を改めてまた遣いのものを出すとしよう。」
「あ・・・有難うございます!今すぐにでも行きます。是非お願いします!レイカ、父さんたちにはお前から伝えておいてくれ。沢山勉強してすごい魔道士になってくるって。」
そう言うとクサカに連れられ馬車に乗り込んだ。
「クサカ団長様、本日はこのような辺境の村までわざわざお越し頂き有難うございました。なんの御饗しも出来ませんでしたことお許し下さい。」
「気にせんでよい、村長。饗しを受けに来たのではないのでな。今日の目的は成した。後のことはまた後日遣いをだす。頼んだぞ。」
魔道士団の馬車は、ユウハを乗せ王都へ帰っていった。
「陛下、只今戻りました。」
「おぉ、クサカよ。待っておったぞ。して、どうであったか?」
「はい。報告にあった通り、確かに痣はありませんでした。いや、見えませんでした、と言った方が正しいかと。丁度首から肩にかけて治療院の魔道士でも気が付かないほど、精巧な封印が施されておりますな。あの時取り逃がした赤子である可能性は高いかと。」
「うむ。やはりか。封印を解くことは可能か?」
「只今、私が直接触れて移しとってきた封印式を、魔法研究所で解析しております。数日あれば解く方策は導き出せるかと。」
「そうか。今度は逃さんようにせんとな。まさか・・・悟られてはおらぬだろうな?」
「ご心配なく。あくまで森の邪気による体調不良を治療するため、とだけ伝えております。さらに、念のため既にもう一つ手を打っております。対策は万全です故、ご安心を。こちらの準備が整い次第、遣いのものを出し、こちらに連れて来る算段となっております。」
「うむ。任せたぞ。我々はあれから更に十五年も待ったのだ。この世界を我が物にする力を手中に収めるためにな。」
魔法学校では、ユウハの入学手続きと適性試験が終わり、これからの住まいとなる寮に案内されていた。
「この部屋が今日から君の部屋だ。」
寮は魔法学校の敷地の中に建てられており、十階建ての大きな建物だった。いったい国中からどれ程の数の人間が集められているのだろうか。ユウハの部屋は一階の一番端にあった。上層階へ行けば行くほど身分が高く、成績のよい生徒に充てがわれるしきたりのようだ。
「君のことはクサカ団長から聞いている。ここは国中から選りすぐられた腕利きの魔法使いが集う場所だ。この中から、王国魔導士団の一員になれるのはほんの一握りという厳しい競争の世界だ。皆自分が生き残るために手段を問うことはない。仲間を蹴落とすなんてことも日常茶飯事だ。特に君は辺境の村の出身だから目を付けられやすいだろう。絶えず気をつけておくことだな。」
そう教官から注意を受け部屋に入った。ユウハの部屋は、机とベッドを置くだけが精一杯の小さく質素な部屋だった。また外は大通りに面していて、道行く人の声や荷馬車の音が響く落ち着かない部屋だった。
「明日から早速講義に出るように。・・・あぁ、適性試験の結果だが、君は攻撃魔法にも回復魔法にもこれといった適性は無いようだな。やれやれ、団長様も何で君のような者を連れてきたのかね。」
教官はそう言うと部屋を出ていった。魔法には大きく二つの種類があるらしい。一つは炎や氷といった相手にダメージを与える所謂攻撃に特化したもの。もう一つは病や傷を治す治癒に特化したものだ。ユウハはそのどちらの適性も持ち合わせていないため、ただ辺りを明るく照らすこと以外に、新しい魔法を修得出来る可能性は極めて低いと言うことになる。
魔法学校では、適性毎にクラスが分けられていた。炎を使える者だけが集まるクラス、治癒の能力を持つものだけが集まるクラスといった具合だ。彼らには英才教育が施され、一定レベルに到達すると記章が与えられ、それぞれ魔道士団や治療院に配属されていく、という仕組みになっていた。そんな中、ユウハは特殊能力者が集まるクラスに配属された。特殊能力と言うと聞こえは良いが、要は戦場で大して役に立たない能力の持ち主だけが集められた、言わば変わり者の集団だ。小さな物を宙に浮かせられる、と言った如何にもありふれたものから、嵐を呼ぶことが出来るなんて胡散臭いものまで、実に種種雑多な者が集まっていた。彼等は、戦闘や治療には不向きでも、それぞれの特性によっては重宝されることもある。例えば、物を浮かせられる力は、前線に大量の物資を届ける補給部隊のような所にはちゃんと需要があるのだ。最も、ユウハ自身は小さな明かりを灯すことしか出来ないのだが。ただ、明らかに待遇が良いとは言えないこのクラスには、変わり者同士の妙な団結感があった。おかげでユウハがクラスに配属されると、すぐに周りと打ち解けることができた。中でもカシマという人物とは不思議と馬があった。ユウハより幾分歳上だろうか。彼は「気配を消すことができる者」だった。透明になれるわけではないが、人から気付かれなくなるのだそうだ。影が薄い人なら幾らでもいそうなものだが、兎に角彼のような変わり者も魔法学校に何人も在籍していた。
王都に来て数日が立った頃、いつものように夕方になり訓練を終えた後、カシマと二人で書庫に忍び込んでいた。書庫は、誰にでも開放されている図書室とは違い、重要な機密情報だけが保管されている部屋で上層階にあり、身分の高い者や教官、成績の優秀な者しか出入りが許されておらず、ユウハのような最下層に住む者は立ち入れない所だった。もちろん、見つかればただでは済まない。しかしその日、ただ明かりを灯すだけの魔法にも、上位魔法があるという噂を聞き、魔法書を調べたくて居ても立っても居られなくなったのだ。ただ、書庫は思っていたよりかなり広く、初めて来る二人には、短時間で目的の魔法書を探し出すのは困難だった。
「そろそろ夜になっちゃうか。程々にして部屋に戻らないとマズイな。」
と、書庫を出ようとしたその時、外の廊下から誰かの足音と話声が聞こえたかと思うと、そのまま書庫に入ってきた。ユウハとカシマは咄嗟に本棚の隅に身を潜める。
「なあ、さっきこんな時間に魔道士団の馬車がいくつか戻ってきたようだが、何かあったのか?まだまだ隣国との戦いも膠着状態で戻ってくる余裕など無いはずだが?」
「あぁ、お前もあの紅い葉の話聞いてるだろ?どこかの辺境の村の子供が見つけたっていう。どうやらその子供の一人があの紅の森に入れたらしいんだ。」
「本当か?あの森には誰も入れないんじゃないのか?」
「俺も詳しいことはわからないが、実際に入れたって噂だ。そして森に入れる者は、言い伝えにある「世界を支配する力」を手に入れるためのカギを握っているんだとかで、秘密裏に王都に連れてくる手筈が進められていたと聞いている。わざわざ一般人には明かされていない秘密の裏口を使ったのも、よほど他には知られたくないんじゃないか?ここ最近クサカ団長の周りが妙に慌ただしいのも何か関係あるのかもな。団長直属の魔法研究所で何か始まるかもって噂だぞ。」
「世界を支配する力・・・か。それって、十五年前にどこかの村を襲った事件と関係あるのだろうか。結局何故壊滅までさせられたのか未だに謎なんだよな。」
「さあな。よくわからんよ。我々には何も知らされていないからな。しかし、少なくとも余りいい予感はしないな。」
ユウハ達は息を殺しながら、本棚の隅で彼等の会話を聞いていた。「これって、レイカのことじゃないのか?クサカ団長は治療のためだと言ってたはずだったけど・・・。」ユウハは得体の知れない不安と嫌な胸騒ぎを覚えた。そしてつい本能的にその場を離れようとしてしまった。
「まあ誰かに聞かれてもマズイ。そろそろ部屋に戻るとしようか。」
そう二人が書庫を出ようとした時、不注意にもユウハは本棚の角に躓き音をたててしまった。
「ん?誰かいるのか?」
「話を聞かれてるとマズイな。探し出すぞ。」
そう言うと二人は物音がした方に向かってきた。
「棚の陰に潜んでいるかも知れん。お前は向こうに回ってくれ。」
片方がそう言うと二人は本棚の両端に位置取り、二人歩調を合わせて端から順に入念に調べ始めた。徐々にユウハ達との距離が詰まる。聞こえる足音が次第に大きくなる。ユウハの全身に脂汗が滲む。汗が床に滴る音までが大きく聞こえるような極限に追い込まれ、必死で身体を屈め息を殺す。足音はいよいよユウハ達のいるすぐそこまで来た。もう逃げ場はない―――――。
「・・・・棚はここまでか。誰もいないな。そっちはどうだ?」
「ああ、こっちもいない。気のせいだったか・・・。」
二人はユウハ達の目の前で辺りを見渡し、そう言って書庫から出ていった。彼等の足音は徐々に遠のいていく。やがて辺りから人の気配が消え、静寂に包まれていった。いったい何がどうなっているのか。まだ心臓が高鳴り呼吸も落ち着かないユウハ。ふと、カシマがユウハの肩に手を触れているのに気付き、カシマを見る。
「どう?気配を消す魔法。たまには役に立つ時もあるだろう?俺だけじゃなく、俺が触れている人の分も一緒に気配を無くせるのさ。」
そういたずらっぽく笑った。
「それならそうと最初から教えてくれよ・・・。」
ユウハは緊張から解放され、ガックリと身体の力が抜けていくのを感じだ。手は汗でびっしょり、膝はガクガクのままだ。
「ところで・・・カシマって微かに爽やかないい匂いがするんだけど、香水か何か付けてるのか?」
「あぁ、消臭のためにほんの少しだけね。折角気配を無くしても汗臭いと見つかっちゃうかもしれないだろ?」
なるほど。汗っかきのカシマならではの悩み、といったところか。二人はユウハの部屋に戻ると、どっと力が抜けた身体を椅子の背もたれに預け、紅茶で心身を潤した。
「ところで・・・さっき聞いた話、あの森に入った人間と言うのは、もしかして君の知り合いか何かかい?」
「ああ。知ってるも何も僕の妹だ。」
「何だって!?それは本当なのか?さっきの話だと、その・・・妹さんが王都に連れてこられたこと自体、悪い予感しかしないんだが。大丈夫だろうか?」
「あぁ、クサカ団長は、身体に吸い込んだ森の邪気を払う治療をするから王都に来るように、と言ってたけど・・・。」
「そうなのか。何か心配だな。いろいろ探って見たほうが良いかもしれないぞ?何ならいくらでも協力するから言ってくれよ。」
「有難う、確かにいろいろ不安はあるし・・・助かるよ。」
「困ってるときはお互いさまってね。じゃ、また明日会おう。」
そう言うとカシマは自分の部屋に帰っていった。
王都魔法研究所―――。王国魔導士団長クサカ直属の研究施設で、選りすぐりの魔道士達が日々新しい攻撃魔法や治癒魔法の研究を行っており、周辺国の中でも圧倒的な技術力を誇ると言われている。施設は秘密保持のため、壁や床、天井等に魔法障壁が展開されており、魔法の力による外部からの干渉を遮断し、さらには衛兵を幾重にも配置した迷路のような複雑な構造となっていて、恐ろしく堅牢な造りとなっていた。研究所では、魔道士達が昼夜を問わず様々な研究に没頭しており、研究に携わる者なら誰でも利用できる休憩室や食堂、シャワー室などが完備されているようだ。
「今日はこちらの部屋でお休みください。」
案内役の衛兵に促されレイカは用意された部屋に入った。そこは魔道士達の宿泊施設のようで、通路に沿って同じような部屋がいくつも用意されていた。施設の中でも中枢部にあるらしく、外に繋がる窓がなく、多少息苦しい感じの部屋であったが、机に本棚、質の良いソファーやベッドが備えられており、かなり贅沢な空間となっていた。
「治療の日取りが決まったらまたお知らせします。それまで、この部屋でお過ごし下さい。」
衛兵はそう言うと持ち場に帰って行った。どうやら周りの部屋には、他に人はいないようだ。衛兵の足音が遠ざかるに連れ、辺りは徐々に静寂に包まれていった。
次の日、カシマは訓練に現れなかった。基本的に魔法学校に通う生徒は無断欠席は許されない。少しでも早く有能な人材を育て上げ、魔導士団を増強することが戦争の勝敗に直結するからだ。ただ特殊クラスであるが故なのか、教官やクラスの仲間達は、カシマの不在をそれほど気に留めてはいないようだった。このクラスは、それ程大きな役割は担っていないのだ。しかし、ユウハだけは、昨日の書庫のこともあってカシマとレイカの事が気になっていた。書庫に居たことが誰かに知られたのだろうか?それでカシマの身に何か起きているのだろうか?そうだとすると自分も危険なのではないか?いや、それよりレイカは今どこにいるんだ?魔道士達の会話が本当なら、一刻も早く助けに行かなければ。でもどうやって?ただでさえ警備が厳しい上に、どこにいるのかも、いつ何が行われるのかもわからないのだ。結局、その日一日悶々として訓練に全く身が入らず、日が暮れてからも食堂で一人あれこれ考えを巡らせていた。
時間だけが過ぎて行き、「そろそろ部屋に戻ろうか・・・。」そう思った時だった。
「よぅ。浮かない顔してるな。」
背後から今日一日姿を見せなかったカシマがふらっと食堂に入ってきた。
「カシマ!お前今日はいったいどこにいたんだ?」
「まぁ、いろいろあってね。」
カシマは対面の席に腰を下ろし、周りに視線を巡らせて誰もいないことを確認すると、ユウハの方に身を乗り出してきた。
「魔法研究所の一番奥。中央第一研究室にある宿泊施設。」
「えっ?」
「そこにお前の妹さんがいる。」
「レイカが!?」
思わず大きな声で聞き返すと、カシマは指を口に当て
「バカ!声が大きい。他に聞かれたらどうするんだよ。」
そう言って改めて周りに人の気配がないことを確認すると、
「どうやら今夜にもクサカ団長直々に「治療」とやらを行う予定らしい。最もその治療が何なのかまではわからないが。ただ昨日書庫で魔道士達が話してた内容からすると、あまり良い予感はしないな。ユウハ、どうする?」
「どうするって言われても・・・ 。」
魔法研究所は王都の中でも、とりわけ警備が厳重な場所で、単身助けに行くなんてことは不可能だ。さらに、表向きレイカは森の邪気を払うための治療を受けることになっていて、レイカが危険な目に遭うという確証は何も無い。よって、誰かに危険を訴えることも出来ない。それにレイカ自身、身体の気怠さからまだ回復しきれていないことも事実だ。本当に治療であった場合に、何の見返りもなく引き受けてくれたクサカ団長に合わせる顔もない。何より本来王都の魔法学校にこれるはずのない自分を拾ってくれた恩もある。また下手な行動を起こせば故郷の村に何かしらの報復があることも容易に想像できる。しかし・・・もし本当にレイカの身に危険が迫っているのだとしたら――――。
「カシマ。お前気配を無くせるんだったよな?少し付き合ってくれないか?」
「ああ、そう来ると思ったよ。で、どうする?」
「今からその魔法研究所に行く。」
外はすっかり日が暮れ、街の人通りも少なくなってきていた。魔法学校の生徒がこんな時間に外出することはない。
「校門の衛兵に見つかっては厄介だな。俺から離れるなよ?」
ユウハはカシマに手を引かれ、ひっそりと外へでた。人通りが少なくなっているとはいえ、誰もいないわけではない。気配をなくしているとはいえ、感知される可能性はゼロではないのだ。二人は巧みに人気の少ない裏通りを通り、魔法研究所に向かった。
「ユウハ、あれだ。」
カシマが指を指した方向に、周囲を高い塀で囲まれた一際大きな施設が目に留まった。ユウハにとっては始めて見る施設だ。入口には衛兵が門の両端に立っており、身分証明書を見せないと中には入れないようだ。
「問題はここからだ。気配を無くせるといっても、見えなくなるわけじゃない。魔法でいつ感知されてしまうかもわからない。出来るだけお前も気配を殺す努力をしてくれ。それと、何があっても手を離すなよ。」
カシマはそう言ってユウハの手を握ると、呼吸を整え塀伝いに門に近づいていく。足音一つたてないように、静かに呼吸しながら慎重に衛兵の脇を抜け、研究所の建物の中に潜入していった。
「妹さんは建物の三階のはずだ。」
二人は廊下の壁にそってレイカの居場所を目指した。施設の中は意外に警備は薄かった。入口で厳重に管理しているからだろうか。しかし、三階につくとカシマの足が止まった。
「・・・なんだ・・・あれは?」
視線の先には見たこともない重厚な扉が立ちはだかっていた。明らかに魔法の力を帯びており簡単に通れる扉ではなさそうだ。と――――背後から誰かが近づいてくる足音が聞こえた。二人は咄嗟に柱の陰に身を潜める。研究所に通う魔道士だろうか。彼は扉の前に来ると、白いカードのようなものを取り出し、扉の取っ手のあたりにかざした。すると、扉は僅かに淡い光を発すると音もなくゆっくり開き、彼は中に入っていった。
「どうやらここから先は入室が認められた者しか入れないようだな。開いた隙に一緒に潜入できても出られる保証が無いな。感知魔法が展開されててもおかしくない。何の策もなくここから先へ進むのは危険か・・・。一旦引いて策を考えたほうが良さそうだな。」
あの扉の向こうにレイカがいるかもしれない。今助けなければ一生後悔することになるかもしれない。しかし――――真正面から突破して何とか見つけ出せたとしても、現実的に無事に王都から逃げ出せる可能性は無いに等しい。ユウハはカシマの提案に従い扉から離れ、少し戻った所にあるトイレの個室に身を潜めた。何と言っても研究所の内部はカシマのほうが詳しそうだし、他に頼れる者もいない。こんな状況では自分一人でどうすることも出来ないのだ。そんな間にも時間は刻一刻と過ぎていく。と―――カシマはユウハに声を殺して耳打ちをした。
「今から俺一人でここを離れる。そして何とかしてあのセキュリティシステムを解除する方法を探ってくる。それまでお前はここで待っていてくれ。」
「解除って、お前一人でどうやって?」
「どのみちここままでは助けられるものも助けられない。俺は気配を消せる。人に気付かれないように何とかしてくるさ。無理なら一か八か、この施設ごと壊してしまうしかないかもな。幸運を願っていてくれよ。」
そう言うと、カシマはユウハの返事も聞かず、辺りを一頻り伺うと一人出ていってしまった。カシマの気配が遠のいていくと、辺りは不自然なほどに静かだった。ユウハは一人残された不安に押し潰されそうになりながら、極度の緊張に耐え、人に見つからまいと気配を殺し、体中の神経を両耳に集中させていた。そしてそれは時間の経過と共に研ぎ澄まされていった。自分自身の息遣いや心臓の鼓動、服の布が擦れる音、遠くの衛兵らしき人物の足音や話し声などが手に取るように感じ取ることが出来るようになっていた。―――――いったい何の位の時が経っただろうか。何かが起こった気配が無いまま、短いような長いような胃が痛くなるような時間が過ぎていく。同じ体勢のままで潜んでいた身体が徐々に軋み始め、心身ともに限界を迎えようとしていたその時、遠くから僅かに人の気配を感じた。そしてその気配は徐々に大きくなり、はっきりと通路の方から誰かの足音と声がはっきりと聞こえてきた。足音から判断してどうやら二人いるようだ。
「あの娘は例の部屋に確保しておるな?さていよいよじゃな。あの封印、解いてみせようかの。今日は儂らの他に人はおらんな?これでの十五年越しの悲願に一歩近づけるというものよ。」
どこかで聞いたことのある声。足音は、あの重々しい扉が開く音とともに施設の奥に吸い込まれ、再び辺りに静寂が戻っていった。
「封印を・・・解く?やっぱり治療なんかじゃない・・・。」
明らかにレイカの身に何か良からぬ事態が迫っている。「カシマ。まだか――――。」ユウハは奥歯を噛み締めひたすらその時を待つしかなかった。
―――王都からはるか東。幾つもの丘や川を越えたその先に「紅の森」はあった。そして森から更に南東に進んだ先、王国の支配圏が辛うじて及ぶ場所に、新しく書き加えられた名前の無い村の存在があった。その村と森の位置から、これがレイカ達の村だということが推測できた。どうやらレイカ達の村は最近まで王国の地図には記されていなかったようだ。レイカは地図を見ることは初めてだった。物心ついてからこれまで辺境の村でずっと過ごしてきたのだから無理もない。地図に記されているもののうち、知っていたのは森と、その近隣の小さな町や村だけだった。王国は広く、要所要所に城郭都市が配置され、その他にも多くの町や村が点在していた。王国全体はなだらかな地形のようだ。大半を平地や緩やかな丘で占められているが、森から北や東、南に至る方面は山や谷が複雑に入り組んだ険しい地形になっているようだ。このことがレイカ達の村が、長年王国に存在を認識されて来なかった理由なのかもしれない。レイカが見慣れた森の辺りを眺めていた時だった。「これは―――?」紅の森の北東の方向の、かなり奥まった場所に、聞いたことのない村の存在が記してあった。森から繋がる険しい山の谷にあるその場所には「古より伝わる森の守護者」と記されており、さらに二重線で見え消しがされていた。線の具合からは、消されてからそれ程年月が経っていないことが伺えた。不思議なことに、これまで両親や村の人からも、その村の存在を聞いたことはなかった。普段、森には西側や南側からしか見ることはない。村人も好んで薄気味悪い広大な森の周りを探索することもなかった。森の反対側の遥か向こうには険しい山々が見え、到底人が足を踏み入れられるような場所には見えないのだ。地図にもその辺りは、山と谷が入り組んだ険しい地形であることが記されていた。しかし「森の守護者」とは何を意味するのか――――。地図からはそれ以上のことは読み取ることは出来なかった。
そして机の上にはもう一つ、歴史書らしきものも無造作に置かれていた。王国が出来るはるか昔、まだ国という概念もない太古の昔の歴史から、現在に至るまでの世界の変遷が事細かに記されているようだった。と――――あるページに真新しい栞が差し込まれていた。そこには―――「時代を遡ること八百年程前。乱立した国同士が支配地を広げんとばかりに、血を血で洗う狂気に満ちた戦いが幾度となく繰り広げられていた。時の支配者達は民の犠牲も顧みることもなく、戦いに明け暮れ、夥しい屍の山を築き、民は徐々に人の心を失い、世界は荒れ果てていった。いったい何時までこんな世の中が続くのか、人々が夢も希望も失いかけたその時、一夜にして戦乱の世を鎮めた強大な力が降臨したという。それは、諸国の王達を恐怖に畏怖させ、彼らは、いや人は我先にと争いを捨て、世界は再生に向かって舵を切ることとなった。しかし―――そこには新たな権力者が現れたという記録は残されていない。つまり戦乱の世を平定したものがいなかったということだ。いったい何が起きたというのか、何故に長年絶えることのなかった争いが一夜にして終焉を迎えることとなったのか。具体的なことは不思議なほどに何も記録は残されていない。仮にこの強大な力を手中に収めることが出来るなら―――――そう考えるものが現れても不思議ではない。その力が現れる時、その予兆は確かにあったのだ。それは―――――」そこまで読み終えた時、不意に扉をノックする音が聞こえた。
「レイカよ、治療の準備が整うた。ついてくるが良い。」
扉の外にはクサカが一人立っていた。
その部屋は窓一つなく、床や壁、天井に至るまで、見たことのない魔法陣のようなもので埋め尽くされていた。そして壁には魔法で生み出されているであろう、小さな炎の明かりが幾つか灯されており、部屋の真ん中に椅子が一つ、壁際に小さな机が一つ置かれていた。
「奇妙な部屋に見えるかもしれんが心配せずとも良い。森の邪気の猛威は計り知れんのでな。万が一のために施設の外に影響が及ばぬよう、魔法陣で結界を張っておいたのじゃ。お主はあの椅子に座っておるだけでよい。」
クサカはそう言うと部屋の真ん中に置かれた椅子を指した。レイカは促されるままに用意された椅子につく。レイカが椅子に座ったのを見届けると、クサカは背を向け壁際の机に向かって歩いていく。そこで、ふと何かを思い出したかのように振り返り口を開いた。
「・・・お主は、あの村で生まれ育ったのじゃったかな?」
レイカは急に予想外の質問を受け少し戸惑いながらも答えた。
「はい。物心ついた時からあの村に住んでいますから。」
「さようか・・・あのような辺境の地に・・・な。」
クサカは、視線を宙に漂わせ何か考え事をする仕草をみせたが、すぐに向き直り壁を背に机の前に立つと、
「さあ、始めるとするかの。目を閉じて身体の力を抜くのじゃ。痛みも苦痛もなく終わる。」
そう言うと、クサカは何かの本を開く音とともに、呪文のようなものを唱え始めた。目を閉じてはいるものの、部屋全体が明るさを増していくのが瞼の向こうに伝わる。暫くの間、特に何も変わったことが起きている感覚はなかったが、徐々に左の首筋から肩にかけてじんわりと熱を帯び始めるのが感じ取れた。それは想像していた身体から邪気が取り除かれ浄化されていく、という清々しい感覚ではなく、まるで身体が何かに必死に抗うような苦しく重い感覚だった。頭が痛い。閉ざされていた何かが断片的に、次々に溢れ出してくる。やがて、それは奔流となって徐々にレイカの意識を飲み込んでいった。
―――――温もりに包まれた穏やかな世界に身を委ねていた。窓から射し込む柔らかな光。髪を擽る微風。優しい声。何も考えることもない。不安という言葉さえも知らない。ただただ当たり前のようにそこにあった平和を享受していたはずだった。しかし――――平和な時は、静寂は、突然斬り裂かれた。怒号が飛び交い、悲鳴があがる。何かが壊れ焼け焦げる臭いが立ち込める。誰かに抱きかかえられ薄暗い空間に身を潜める。遠くから烈しく吠える犬の声が聞こえる。揺れる蠟燭、古い書物、祭壇、肖像画。頭上に激しい喧騒を感じる。暗く冷たい空間はどこまでも続いている。走る誰かに固く身体を抱きしめられ、揺さぶられ―――――。
「レイカ、目を覚ませ。レイカ!レイカ!!」
気がつくと、兄ユウハの腕の中で横たわっていた。さっきまでいた部屋は壁が崩れ、煙が立ち込めていた。遠くで何かが爆発する音が聞こえる度に、その衝撃で天井がパラパラと崩れる。
「・・・お兄・・・ちゃん?」
「レイカ!気がついたか。良かった。話は後だ。急いでここを出るぞ!」
事態が呑み込めないままユウハに手を引かれ部屋を出る。辺りを警戒しながら廊下を走る。断続的に外で爆発音が鳴り響き、その度に地響きとなって建物を揺らし、壁や天井が僅かに崩れる。「一体どこで何が起こってるんだ・・・はっ!カシマはどこに・・・・・いや、今はレイカをこの施設から連れ出すのが先か。誰もいない今なら・・・いける。カシマも無事でいてくれよ!」そう祈りながら走る。施設はあちこちが損傷し、セキュリティロックも機能していないようだ。人の気配、足音に神経を集中させ、細心の注意を払って足速に出口を目指す。出口につくとそこに衛兵の姿はなかった。爆発音のする方へ行っているのだろうか。慎重に辺りを見渡し、誰もいないことを確認すると体を低くして外に出た。外は既に日が暮れていた。暗い夜空の向こうで爆発音はまだ鳴り響いている。大混乱に陥っている王都の街を、人混みをすり抜けながら走る。時折後ろを振り返るが追手が来る様子はない。王都に何箇所か建てられている監視塔からは烈しく鐘が鳴り響いていた。音の鳴り方から王都全体に外出禁止令と避難指示が出ているようだ。「よし。少しずつ人混みが少なくなってきている。このまま外までつっ切るぞ!」ユウハ達は王都の出入口を目指した。問題は王都と外界を仕切る門だ。門に取り付けられている、鉄と木で造られた重く大きな扉は、人一人の力では到底開くことはできない。よって閉ざされている場合はどこか他の出入口を探す以外に外に出る方法はない。やがて正面ゲートが見える位置までくると物陰に身を潜め様子を伺う。「やはり・・・閉まっているか・・・。」王都は非常事態になると門を閉ざすことが一般的だ。更にかなりの数の衛兵達が門の所に集まっているのも確認できた。こうなるととても正面からは出ることは不可能だろう。王都には大きな門が東西南北に計四箇所ある。残りの三箇所も一つ一つ見て回る価値はあっても、この非常事態の中、恐らくはどこも同じような状況であろうことは容易に想像がついた。他に門はない。うかうかしているといつ追手が迫ってくるかもわからない。「他に外に出る方法は・・・。」王都は城塞都市だ。街の周り全てが高い城壁に囲まれており、出入りは門からしか出来ないのだ。万事休すか・・・そう思った時、ユウハはふと、書庫での魔道士達の会話を思い出した。
「そういえば・・・・・そうだ。レイカ、王都に来る時どこから入って来たか覚えていないか?」
「え・・・と確か、馬車が一台何とか通れる位の小さな門からだったよ。」
王都の門の扉はどれもとてつもなく大きいはずだ。
「それだ。秘密の裏口!場所は覚えていないか?」
「うーん、あんまりはっきりとは覚えていないけど・・・頑張って思い出してみるね。一度研究所まで戻っていい?そこから記憶を辿ってみる。」
そう言うと、二人は今走ってきた道を研究所まで戻り、レイカの記憶を頼りに裏口を探した。「確かこっちの方から・・・。」「あっ、この建物のところをこっちだったはず・・・。」王都は広い。焦れば焦るほど記憶に迷いが生じる。どれ程の時間が経っただろうか。何度も迷いながら迷路のような道を進むと、徐々に建物が少なく木々が生い茂る区域にでた。木立の間を抜けていくと視界の先に城壁が見えてきた。
「あっ、あそこ!」
レイカが小さく声を上げる。木の茂みに身を隠し目を凝らすと小さな扉が見えた。扉は閉められているようだ。カギが掛けられているのかどうかは遠くからは分からなかったが、辺りには誰もいないようだ。二人は人の気配が無いことを確認すると、扉に向かって慎重に近づいていく。扉には大きな角材の閂が掛けられていた。幸い扉自体が大きく無いため二人で持ち上げることは出来なくても、ずらせば何とか外せる大きさだ。
「レイカはそっちを持って。タイミングを合わせるんだ。いくぞ!」
二人で力を込めると閂は少しづつずれていき、あと一息で外せるところまで来た。
「これで最後だ!」
力を振り絞って閂をずらすと、とうとう扉の枠から外す事ができた。―――が、余りの重たさに閂は大きな音をたてて地面に落ちてしまった。「不味い!」そう思ったのと同時に遠くから人の声が聞こえた。
「誰だ!誰かいるのか?」
何人かの足音も近づいてくる。考えているいる余裕などなかった。
「レイカ来い。走るぞ!」
ユウハはレイカの手をとると扉を開け外に出ると、一目散に暗闇に向かって走り出した。ここで捕まるわけにはいかない。カシマが作ってくれた機会を無駄にするわけにはいかない。二人で必死で走った。背後から衛兵達と思われる声が聞こえていたが、それも徐々に小さくなり、やがて何も聞こえなくなった。いつの間にか辺りは暗闇と僅かな風の音だけの世界に包まれていた。
「彼らの様子はどうか?」
「はっ。目論見どおりに。」
「・・・そうか。さて・・・国王にも伝えておかんとな・・・。」
王都からレイカ達の村までは、馬車でも一週間程かかる。道すがら人里を見つけると、なけなしの金でパンや飲み物を買い、夜は大きな岩陰や木の下で野宿をしながらただ只管村を目指した。季節が寒さの厳しい冬でなかったことは幸いであった。―――王都を出て四日程経った。その日は朝から爽やかな秋晴れであったが、昼過ぎから俄に天候が崩れる様相を見せ始めていた。「一雨来るかもしれないな・・・。」身体を濡らしてしまうと、急激に体力は奪われてしまう。紅の森までかなり近づいているはずだが、村まではまだ数日かかるはずた。そう思うと雨の中の野宿は避けたい所だが、宿に泊まればそれは王都から逃げ出してきた自分たちが立ち寄った痕跡を残すことになるし、何より手持ちもそう潤沢にあるわけでもない。これまで必要最低限の食料を手に入れる以外は極力人との接触を減らしてきたが、そろそろレイカの体力も限界に近い。この日は近くの町で宿を探すほかなかった。
どっぷりと日が沈んだ頃に運良く見つけたそこは、様々な店が建ち並ぶちょっとした街だった。恐らく旅人や商人達が集まる要衝なのだろう。既にほとんどの店は閉まっていたが、明日になれば最低限、旅に必要なものの調達も出来そうに思えた。すっかり日が落ち人気が消えた街の中を彷徨っていると、玄関先にポツンと明かりが灯っている一軒の建物があった。どうやら宿のようだ。「花鳥風月」と書かれた看板の脇の入口には、すらっとした体形の白い大きな犬がいた。遠くの方から二人の存在には気づいていたようで、二人が近づくと構ってほしいと言わんばかりに尻尾を振ってじゃれついてきた。特にユウハには大興奮だ。
「人懐っこい犬だね。」
王都を出て以来張り詰めていた気持ちが、戯れあっているうちに少し和らいでいくのを感じる。すると、キィっとドアが軋んだ音をたて、中からヒゲをたくわえた恰幅のよい男性が顔を覗かせた。
「あ・・あの・・・僕達・・・。」
予期せず人が出てきてユウハはしどろもどろになってしまったが、男性は察していたのか、
「泊まりかい?部屋なら空いてるよ。」
と声をかけてきた。だが、ユウハ達は手持ちのお金も少なくなっていた。
「あの・・・僕たち余りお金がなくて・・・。雨さえ凌げれば外の物置でもどこでも良いので、一晩置いていただけませんか?」
そう恐る恐る事情を伝えると、
「そうか・・・。ふむ、まぁ困っているときはお互い様さ。今日はここに泊まっていくと良い。うちのハルは賢くてね、人を選ぶんだ。お陰でお客さんがくると、その人が良い人なのかどうかすぐわかるんだよ。こういう商売をしていると悪い人間とは関わりたくないからね。ハルの様子をみる限り、君達はとても良い人間なんだろう。さあ、お金のことは心配しなくていいから中に入ってくれ。」
そう言われて中に入ると、薄暗かった部屋全体に明かりが点いた。ここは食堂兼受付カウンターのようだ。ちょっとした置物やアンティーク調のテーブルに椅子、壁掛けの絵画などが小綺麗に配置され、木枠の出窓や板間の床も磨き上げられて程よい風合いとなっており、気持ちが落ち着く素敵な空間だ。泊まり客は部屋で寝ている時間なのだろうか、既にそこには人は誰もいなかった。宿の主人はボロボロの身なりの二人を見ると、
「なかなか訳あり、といった感じだね。あぁ、そんなに身構えなくてもいい。詮索するつもりも追い返すつもりもない。それより右へ行った突き当りにシャワー室があるから浴びてくると良い。その間に何か食事を準備しておくよ。私の名前はランマって言うんだ。この宿の主をしている。何か用があったら呼んでくれ。」
そう言って二人にタオルと着替え用の部屋着を渡し、ハルを家の中に入れると、厨房に消えていった。
シャワー室には良い香りのする石鹸が用意されていた。これで久しぶりに身体を洗うことが出来る。シャワーは汗や汚れを落とすだけでなく、身体に纏わりついた重苦しく湿っぽいモヤモヤしたものも洗い流し、身も心も軽くなったような気になるから不思議なものだ。レイカはシャワーを浴び、脱衣場で身体を乾かし終えると、洗面所で大きな鏡に映る自分の姿を見ていた。「結局あの治療って、なんだったんだろう?意識の中に飛び込んできたあの映像は―――――。」レイカ自身には何かが変わったという自覚は全くなかった。特に身体に違和感も感じない。と、何となく身体を鏡に映して見ていた時――――首から左の肩の後ろ辺りに、今まで無かったはずの決して小さくない痣のようなものが目に入った。何とか見ようと懸命に身体を捩ってみたが、何かの形のようにも見えるそれをよく見ることが出来なかった。恐る恐る手で触れてみたも特に痛みも何もない。王都から逃げるときにどこかでぶつけたりしたのかもしれない。ただ、あの部屋で感じた今まで見たことのない映像だけは妙に鮮明に蘇っていた。
シャワーで少し元気を取り戻したレイカは、用意されていた部屋着に着替え食堂に戻ると、一足先にシャワーを終えたユウハが、ハルと戯れながらレイカが来るのを待っていた。テーブルには、既にサンドイッチと肉料理にスープが並んでいた。
「こんな時間だから今日の残り物しかないけど、食べていきな。あぁ、食事代は心配ない。どうせ一人では食べ切れない所だったからサービスしておくよ。ゆっくりしていくといい。私は奥の部屋にいるから食事が終わったら教えておくれ。」
そう言うと彼はカウンターの奥の部屋に戻っていった。静かな食堂にナイフやフォークとお皿があたるカチャカチャという小さな音だけが遠慮がちに響き渡る。久しぶりの温かい食事は一口一口が身体に染み渡っていく。熱いシャワーも、温かい食事も、これまで当たり前にそこにあったものが、今となってはとてつもなく有り難いものに感じる。帰るべき家も、熱いシャワーも、温かい食事も当たり前にそこにあるものではないのだ。ほんの些細なきっかけで、それらはいとも簡単に当たり前ではなくなってしまうものだということを、自分が自身がとてつもなく無力な存在だということを、思い知らさられる。しかしそれは一方で、争いに明け暮れ、人々が心身ともに疲弊し、ただその日を怯えながら暮らすだけの日常も、「当たり前」なのではなく、毎日が希望を持って目覚めることが出来る世界に変えていける、そんな可能性もあるということでもあるはずだ。王都を出て以来、二人にはその不安や希望とも違う何か特別な感情が芽生えつつあった。
二人が食事を終えるころ、外では本格的に雨が降り出していた。
「明日はどうなることか・・・とりあえず今日はもう休んだほうがよさそうだね。」
ユウハはそう言うと、ランマに食事を終えたことを告げ、食器の片付けを手伝い、夜遅くに温かく受け入れてくれたことに感謝を伝えた。
「なぁに、困ってるときは助け合うのが当たり前だろう?こっちこそ、片付けまでさせちまって悪かったな。」
そう言うと大きな手でユウハの肩をたたいた。雨はいよいよ大降りになってきた。ユウハに寄り添っていたハルは嵐が不安なのか時折外の方に向かって唸っていた。ランマは外の方に視線をやると、
「君たちの部屋は二階に用意してある。廊下の突き当りの部屋だ。もう時間も遅いから他の客が起きないように、そっと歩くんだよ。灯りもつけちゃ駄目だ。分かったかい?今日はもう静かにお休み。私は嵐が心配だからもう暫くここで休んでいるよ。何かあったらすぐ呼ぶといい。」
そういって扉や窓の戸締まりを入念にして回ると、ソファーを並べハルと一緒に横になった。ユウハとレイカは主人に言われたとおり、そっと階段を上り廊下の突き当りにある部屋に入った。
二人は久し振りのベッドに横たわると、ようやく少し落ち着くことができた。
「大変だったけど・・・何とかここまで来れたね。レイカ、よく頑張ったな。研究所で酷い目に遭わなかったかい?」
「うん・・・あのクサカ団長に何か魔法のようなものをかけられた気はするんだけど・・・・特に変わったことはないよ。・・・・そういえばね、研究所に泊まった部屋にこの国の地図があったの。森のそばに私達の知らない村があったみたいなことが書かれてて・・・・他にも古い言い伝えとか歴史とかが沢山書かれてて・・・。」
「へぇ、面白そうな話だね。こっちも凄かったんだぞ。いきなり研究所が爆発して・・・・。」
二人は暫く王都で起こったことをお互いに教えあっていた。やがて、長旅の疲れと布団の心地良さが睡魔を誘う。しばらく頭上の窓をぼんやり眺めていると、外はどんどん酷い嵐になっていった。風や雨が怖いほどの勢いで窓に打ち付ける。下の階では、まだハルが時折唸っている声が聞こえる。当分嵐は収まることはないのだろう。そう考えているうちに、二人は何時の間にか深い眠りに落ちていった。
何時の間にか唸ることのなくなったハルが身体を横たえソファーでランマに寄り添っていた。「なぁハル・・・見たかい?あの子の首筋の痣を。あれは・・・あの形は・・・・・・。少年の方も・・・そうなんだね?これも巡り合わせなのか・・・血の導きというやつかもな。ハル、今日はもう大丈夫だ。夜も遅くなったし、ゆっくり休んでおくれ。」
そう呟きながらハルの頭を撫ぜると、ハルもランマを上目使いでチラッと見上げ細くクゥーンと返し、眠りに落ちていった。
―――――「あなた!焔は!」「焔はここに置いていこう。両方とも奴らの手に落ちる訳にはいかない。我々はここから逃げよう。入口に結界を!」暗く狭いトンネルのような長く長く続く道。何度か後ろを振り返りながら、何の位の距離を走ったのだろうか。遠くから聞こえてきた微かな水の声は、やがてそれは大きな滝だと気づく。轟音は暗闇の中から徐々に近づいてくる。不意に歩みをとめ立ち止まる――――と、行く手の暗闇の中に滝を背に紅く光る眼を見た気がした―――。
「はっ・・・。」レイカが目を覚まし飛び起きた。窓には横なぐりの雨が烈しく打ち付けて、ガタガタと揺れている。外はドス黒い雲に覆われ嵐が荒れ狂っていた。まだ深夜のようだ。「夢・・・だったの・・・?」額に手を当て目を閉じて、大きく息を吸い気を落ち着かせる。暫くして再び顔をあげ窓の外を見たレイカは、そこにあったものに言葉を失った。「あ・・・・・あれ・・・は・・・。」窓の向こうの暗闇のなかに、紅く光る二つの眼が不気味に浮かび上がっていた。直感が、夢で見たものと同じものだと訴えかける。レイカの視線は紅い眼に釘付けにされ、金縛りにあったかのように、動くことも、声をあげることも、隣で寝ているユウハに助けを求めることも出来ない。そのまま何の位の時間が経ったのだろうか。一瞬のようであり永遠にも感じられたその時、レイカの意識に重く低い声で言葉のようなものが飛びこんできた。
「・・・ワレガ・・・ミエルカ・・・・。ナラバ・・モリニ・・クルガ・・・ヨイ・・・。」
そう感じ取れた瞬間、紅い眼は忽然と姿を消し、身体の呪縛が解け、狂った嵐だけが残されていた。そして、レイカもまた何時の間にか深い眠りに戻っていった。
翌朝、相変わらず風は強く吹き付けていたが、雨は止んでいた。嵐の峠は越えたのだと思いたい。まだ朝早かったが先を急ぎたい二人は、身なりを整え食堂へ降りていくと、ランマがソファーに腰掛け二人を待っていた。
「もう行くのかい?」
「はい。先を急がなければならなくて・・・。大変お世話になりました。」
「そうか・・・そうかい。まだ風は強いから気をつけてな。また困ったことがあったら何時でも来るといい。あぁ、それと・・・少し待っててくれ。」
ランマは厨房に行くと、すぐにいくつかの手荷物をもって戻ってきた。
「これだけあれば、暫く飯には困らないだろう。」
そう言ってパンや肉などの食料を渡すと、
「これをご両親に渡してくれるかい?」
と封をした手紙のようなものを手渡した。
「これは?」
「あぁ、それは宿の請求書みたいなもんだ。恐ろしい金額が書いてあるから子供は見るんじゃないぞ?」
ランマはいたずらっぽい顔で言うと、
「あと、これを持っていくといい。何かあった時のお守り代わりにな。」
大事そうに生地に包まれたそれは、見たことのない花弁の装飾が施された、純白の鞘に収められた短刀だった。柄は淡く品のある桃色をしており、透き通るようなその刀身には見事な刃文が浮かび上がっていた。
「これは・・・高価なものなのではないのですか?頂くわけには・・・。」
ユウハが躊躇していると、ランマは少しだけ真顔になり、ユウハの目をじっと見ると、
「もし・・・使う時が来なかったなら、その時はまた返しに来てくれればいい。今は君に託してみるとするよ。さぁ、先を急ぐんだろう?気をつけてな。旅の成功を祈っているよ。」
ランマはそう言うと、ハルと一緒に二人が見えなくなるまで見送ってくれた。
風は相変わらず強く吹き付けていた。風に向かって身体を倒しながら歩かなければ飛ばされてしまいそうな位に荒れた天候の中を、二人はひたすら歩きつづけた。そしてようやく視界の先に紅の森が見えるところまでやってきた。夕方を過ぎ、辺りには夜の帳が下りようとしていた。森の木々は強風に煽られ激しくざわめき、来るものを拒んでいるかのように見えた。そして森の前に差し掛かった所で、不意にレイカが足を止めた。
「レイカ?どうした?」
気づいたユウハが問いかけても、レイカはユウハの声が届いていないのか、森の一点をじっと見つめたまま動こうとしない。やがてレイカは視線を森に向けたまま、ユウハに話し始めた。
「お兄ちゃん・・・森が・・・森がね、私を呼んでるの。私、行かなきゃ。ここには私のことを知ってる何かがいる。そして私の知らない何かを知ってる。私は・・・自分に何が起こっているのか知らなきゃいけない・・・そんな気がしてるの。お兄ちゃんは先にお父さんとお母さんの所に行って。絶対に戻ってくるって約束するから。」
「森が?レイカいったい何を言って・・・。」
「大丈夫・・・きっと・・・少し怖いけど、行かなきゃ。」
そう言ってレイカが森に向かって歩き出す。そして、森に向かって何か話していたかと思うと、すぅーっとその場で姿を消した。
「レイカ?・・・レイカっ!?くそっ、一体何がどうなってる!」
強風吹き荒ぶ草原に、ユウハだけが一人残されていた。
荒れ狂う風に、木々の枝葉が引き千切られんばかりにのた打ち回る。その一角、一際大きな木に一つだけ揺れていない枝。そこにあの「眼」はあった。夜の帳が落ち、真っ暗な森に浮かび上がる二つの紅い眼。確かに宿の窓でみたのと同じあの「眼」だ。レイカは眼に呼びかけた。
「あの時、私を呼んだのはあなたなの?」
「・・・・」
「あなたは誰?」
「・・・・」
沈黙が続く。―――――と、あの重く低い声が意識の中に帰ってきた。「・・・クルガイイ・・・。」はっと我に返ると、いつの間にかレイカは森の中にいた。外の嵐が嘘のように、森の中は静まり返っていた。そして、目の前の木の枝から、人の背丈ほどの大きな黒い鳥のような生物がこちらを見下ろしていた。
「あなたね、あの時窓の外にいたのは。」
レイカと大きな鳥の間に沈黙が漂う。
「私はあなたを知らない。けれどあなたは私を知っている。あなたと私は、その前にも一度どこかで出会っている―――――違う?」
再び二人の間に沈黙が漂う。
「お願い、教えて!あなたは誰なの?私は・・・私に何が起こってるの?何か知ってるんでしょう!?」
すると、その大きな鳥はフワッと枝から飛び立ち、レイカの前に降りてきた。それは背丈がレイカよりやや小さく、足が三本の大きな黒い烏のような生き物だった。――――と、レイカの耳にはっきりとした声が飛びこんできた。
「ワレハヤタガラス。ヒトノユクスエヲミマモルモノ。」
「人の・・・行く末?」
「ヒトハ・・・ヒトデアルタメニナスベキコトヲ・・・ミズカラサトラネバナラナイ。」
「人が・・・人であるため・・・に?」
「サモナクバ・・ヒトハ・・・マモナクショウメツスル・・・。」
そう言うと八咫烏はクルッと背を向け森の奥へ向かって歩き始めた。
「ツイテクルガイイ・・・。」
言われるがまま黙って後ろをついて歩いていると、遠巻きに二人とは別の何かの気配と視線があることに気づいた。どこかで会った覚えのある――――そう、初めて森の中に迷い込んだときにレイカを襲ったものと同じ気配――――レイカに緊張が走り、思わず歩みを止め辺りを見渡す――――。
「キニスルヒツヨウハナイ・・・アレハコノモリヲマモルモノ・・・・。イマノオマエハ、ハイジョサレルコトハナイ。」
八咫烏は歩みをとめて振り返り、レイカにそう告げると再び歩き始めた。いくつもの分かれ道を右に左に進み続けると、やがて鬱蒼と繁った木々が少しだけ開けた場所に出ると、八咫烏は足を止めた。
「・・・イマナラ・・・ミエヨウ・・・。」
そう言うと八咫烏は道を開け、レイカに前に来るよう促した。レイカが暗い森の中に目を凝らすと、開けた場所の真ん中辺りに、人の背丈ほどの石燈籠のようなものが二メートル程の間隔を開けて二つ建っているのが見えた。それは近づくにつれ、奥に奥にといくつも連なっているのが見えてきた。燈籠はひどく風化し、所々形が崩れ苔生しており、火袋には長い間火が入れられた形跡も見られなかった。いったいどれ程の歳月を経てきたのだろう。何かの形を模ったのであろう紋様も崩れかかっていた。レイカは薄暗い中を、規則正しく並ぶ燈籠の間に続く石階段を一歩また一歩と進んでいった。何の位歩いただろうか。何時の間にか八咫烏の姿はなく、周りはしんと静まり返り、歩くたびに落ち葉を踏み締める自分の足音だけが聞こえていた。辺りには徐々に霧が立ち込め視界を塞ぎ始める。空は暗く重い雲で覆われ、柔らかな霧雨が舞っている。やがて霧の向こうに家屋のようなものが建っているのが見えてきた。遠目にも屋根や壁が風化し所々崩れているようだ。不規則に打たれた飛石を渡り、その家屋に近寄ってみると、中は畳も痛みが激しく、その独特な造りから、辛うじてもともとが茶室であったであろうと推測できた。レイカは暫く躙口に立ち、かつて茶室であったであろうその建物を見上げていた。―――――と、
「・・・・・その時が・・・来るのですね・・・。」
どこからともなく女性の声が耳に届いた。建物の外からのようだ。
「誰?・・・・誰か・・いるの?」
恐る恐る建物の周囲に目を配る。辺りは霧に覆われ、全ての呼吸を止めてしまったかのように暗く静かなまま、何の気配も感じられない。暫く霧の中を彷徨っていると再び声が届いた。
「・・・人は同じ過ちを繰り返し続ける・・・。」
その声は、どこからという訳ではなく、レイカの意識に直接話しかけてきているようだ。
「あなたは誰?どこにいるの?」
レイカが深い霧の中に問いかける。
「私の名はサイカ。永きにわたりこの場所で、人の移ろいを見守ってきました。・・・しかし・・・未だ人は己の欲望に塗れ、歪み合い、他者を傷つけ、人が人であるための道を踏み外したまま・・・・。人は、自らあるべき姿に辿り着かなければなりません。貴方には、その一助を担う役目があります。」
「役目・・・?一体どういうことなの?」
「レイカ・・・貴方にはそれを行う資質があります。しかし・・・まだ行使することは出来ない・・・。そして時は迫っています。あとは貴方次第・・・・私はここで今暫く見守るとしましょう。」
「待って!役目って・・・私は何をしたらいいの?どうしたらいいの?」
レイカは何度も問いかけたが、再び声が届くことはなかった。そして辺りは再び静寂の闇に閉ざされていった。
レイカが森に消えたのと同時に、これまで荒れ狂っていた風も森に吸い込まれたかのように消え、辺りには行き先を失ったかのように、そよそよとした風が緩くユウハの周りを渦巻いていた。「一体何がどうなって・・・このままレイカを置いて一人で帰る訳にも行かない・・・・。」あまりにも予想外な出来事が続いていた。ユウハは大きく深呼吸をして気を落ち着かせると、状況を整理するため、これまでの自分達の身に起こってきたことを思い返した。最初の森での出来事、王都の研究所での出来事、そして今レイカは森に消えて行った。どう考えても、レイカが何かに巻き込まれているのは明らかだ。このままレイカを置いて村に戻ることなど到底できる訳がない。そうこうしているうちにもレイカが戻ってくるかもしれない。あの日もレイカは森の外で一人倒れていたのだ。ユウハは森の脇にあった少し大きな石に腰を下ろすと、目を閉じレイカの戻りを待った。柔らかな風が草原を森を渡り、ユウハの手や首筋、顔を撫ぜていく。どれ程の時間が経っただろうか。「さて・・・・・と・・・・・。」一度大きく深呼吸して、周りに神経を研ぎ澄ませる。
「いつまでそうやってるつもりだ?」
緩やかに舞う風の流れが五感に伝わる――――変化は――――何かが起こる気配は――――ない―――。草原の草が風に揺れている―――と、僅かに背後の空気が乱れた。同時にユウハは身体を翻す。
「痛っ―――。」
左腕に鋭い痛みが走る。圧えた右手の指の隙間から血が滴り落ちる。剣のようなもので切りつけられたような傷口が出来ていた。「!!」続け様に何度も空気が乱れ、空間を切り裂きユウハに迫る。地面に伏せ、後ろに飛び退き、必死に躱し続ける。相手が見えない。どんな攻撃が来るのかもわからない。「動きを止めたらやられる―――。」神経を研ぎ澄ませ必死に距離を取り続ける。しかし、次第にユウハ体力は削がれていく。反応が遅れ攻撃が躱しきれず徐々に満身創痍になっていく。そしてとうとう足が縺れ倒れてしまった。暗闇からまた何かがくる――――咄嗟に手に取った小石を音の方へ投げつけると、「キンッ」と金属音と共に弾けた。音の方に目を凝らすユウハ。そこでようやく大きな思い違いをしていたことを悟った。「はぁ・・・はぁ・・・気配を・・・そういうことか・・・・やれやれだ・・・。」そう言うと肩で荒く息をしながら漆黒の草原に大の字に倒れ込んで目を閉じた。
「・・・お手上げだ。好きにしろよ。」
草原を風が静かに通り過ぎる。気を鎮め、身体中の神経を研ぎ澄ます―――――。頬を、腕を、草の上を柔らかな風がリズムを刻むように同じ方向に流れていく―――――と、僅かな空気の乱れを捉えた――――その瞬間、ユウハはその方向に、持てる力の最大限をぶつけた。それは「灯」などではなく、強烈な「閃光」となり辺りを白一色で支配し刻を止める。ユウハはそこに出来た隙と影を見逃さなかった。最後の力を振り絞り、忍ばせていた短刀を抜き影に向かって振り抜く。「ぐぉっ!」断末魔の叫びとともに血飛沫が飛ぶ。
「・・・ぐ・・・はっ・・・・・・。」
「はぁ・・・はぁ・・・姿は・・・見えなくても・・・消せてないものが・・・あるんだよ。だったら・・・風下だろう・・・ざまぁ・・・み・・・ろ・・・。」自分に向けられていた殺気がスッと消えていく。同時に極限状態にあった緊張の糸が切れ、その場に仰向けに倒れ込んだ。ユウハ意識は徐々に薄れていく。冬の足音が聴こえ始めた秋の夜。キンッとした冷気が倒れたユウハの身体を包み始めた。そして、静寂を取り戻した暗闇の中、ユウハに近づく一つの影があった。
「・・・クサカか。こんな時間にどうした?」
「国王陛下。追跡に出した者からの連絡が途絶えました。」
「不測の事態・・・と?」
「はい。まだ詳細は掴めてはおりませんが、恐らくは・・・。」
「そうか・・・して、どうするつもりか。」
「あの娘が一人で紅の森に入っていったことまでは掴めております。どちらにしてもそろそろ頃合いかと。」
「そうか・・・あの時から待ち続けてはや十五年か・・・いよいよあの力を我が手中に収める時だ。ありったけの魔道士を集めろ。準備が整い次第出る。クサカよ、計画どおりに進める。あれに察知されんようにな。ぬかるでないぞ。」
気が付くと、そこはつい先程までいた森の中だった。そしてあの八咫烏が眼の前の木の枝に止まり、紅い眼でこちらをじっと見下ろしていた。
「ねえ、八咫烏。私の役目って何なの?」
レイカが話しかけると、八咫烏は目を閉じ、考え込むような仕草を見せた。
「サイカって人が話し掛けて来たんだけど誰なの?声しか聞こえなくて。霧が酷くて周りも何にも見えないし、家も壊れちゃってて。あそこは何なの?あの人のこと知ってるの?」
「・・・・・・・。」
「ねぇ、私は何なの?何をしたらいいの?何か知ってるんでしょう?教えて。八咫烏!」
暫くの沈黙の後、八咫烏は紅い眼を開いた。
「・・・マダ・・・タリヌ・・・カ・・・。」
「何?何なの?何の話をしているの?」
「・・・シレンヲ・・・コエヨ・・・。」
そう八咫烏の声が聞こえた瞬間、レイカは薄っすらと夜が明けかけた森の外にいた。そこはレイカには見覚えのない場所だった。周りの地形の様子からして、恐らくいつも見る森の反対側辺りなのであろう。鬱蒼とした森は、そのまま険しい山に連なっていた。ちょうど森と山の際のような所に放り出されたということらしい。「確か森の北東側は険しい山と谷が入り組んでいて・・・・。」レイカは研究所で見た地図を思い出しながら、何かに誘われるように山の中を進んでいった。細い獣道を辿り、山を登り、何の位歩いた時だっただろうか。ふと、遠くから水のせせらぎが聞こえてきた。そういえば朝から水一つ口にしていない。やがて、音のする方に苔生した岩の隙間を流れる小さな沢を見つけた。レイカは沢に降り、冷たくて澄み切った水で喉を潤すと、沢の脇にあった大きな岩に腰掛けようやく一息ついた。気が付けば、木々が鬱蒼と茂って薄暗かった森と違い、沢の周りは木漏れ日の届く明るい広葉樹の森になっていた。辺りは時折柔らかな風に揺れる木の枝や、舞い落ちる葉の音だけが住む、外界と切り離されたかのような、とても居心地の良い清々しい空間だった。深く呼吸をするたびに、身体の中から清められていく。心の迷いや不安が溶け、レイカの心が流れる沢水のように洗われ澄み渡っていく・・・・そんな感覚に包まれ、心身がまるで森の一部のように一体化したその時、一枚の見たことのない花弁がどこからともなくレイカの前に静かに舞い降りてきた。―――森に―――花が―――――?思わず振り返ると、そこにはいつの間にか、大きな木が立ち並ぶ並木道が陽炎のように揺らめいていた。現実と幻の狭間に仕舞い込まれたかのような並木道。その地面には苔生した石畳が敷かれ、その石畳の両脇には古ぼけた石燈籠が等間隔に奥へと立ち並んでおり、それはまるで自分自身の意思で、その存在を幻にしようとしているかのように朧気に存在していた。「私を・・・呼んでいる・・・?」レイカは何かに誘われるように、並木道を奥へと進んでいった。物音一つしない、僅かな風さえも感じ無い、生命の気配すら感じ無い無機質な空間。そして、その道は寂れ果てた集落へと繋がっていた。家屋の屋根壁は崩れて焼け跡のようなものが残り、葉を落とした木々は所々枝が折れ、無秩序に生い茂った雑草はひどく踏み荒らされていた。まるで全ての生活が破壊され、刻が止まってしまったかのように。集落の中に入っても、人の気配は感じられない―――――と、視線の先、道から少し外れた空き地に二人の人の姿を見つけた。紅く長い髪をまとめ、両手に花を抱えしゃがみ込んでいる女性。その横で寄り添うように立つ細身の男性。二人とも会話を交わすこともなく、ただ黙々と何かをしているようだ。
「・・・あの・・・・。」
恐る恐るレイカが話しかける。二人はレイカの存在に気づくと、お互いに顔を見合わせ、目で何かを確認したような素振りを見せると、手足についた土を払いながらこちらに歩いてきた。まだ二十代と思しき若い男女だ。どうやら警戒されている訳ではなさそうだが、その目はどこか悲しげな表情にも見えた。
「・・・この辺りでは見かけない子ね。どこから来たの?」
紅い髪の女性に尋ねられ、レイカはこれまでのことを話した。両親や兄と離れ離れになっていること、王都から逃げてきたこと、紅の森でのこと。
「そう・・・レイカさんて言うのね。大変な目に会ったわね。疲れているだろうから、少し私達の家で休んでいくといいわ。行くところもないんでしょう?」
そう言うと、二人は直ぐ側の家に案内してくれた。かなり傷んではいるが、まだ辛うじて人の住める体を成している、といった感じの家だ。部屋の片隅には暖炉があり、その背後の壁には大きな絵画が掛けられていた。透明度無限大の青空に浮かぶ、葉を美しく色鮮やかな紅に染めた木々が連なる森。楓の葉の紋様が模られた石燈籠には赤々と火が灯り、規則正しく配置された石畳の道が奥へ消えていく。今までに見たことのない、澄み渡るような色鮮やかな紅色。あの紅の森でみた禍々しい紅い葉とは別世界の、魂までもを澄み渡らんとする極限まで浄められた紅。
「絵が気になるの?お茶淹れたわよ。温かいうちにどうぞ。」
後ろから声を掛けられ、はっと我に返ると、促されるままテーブルについた。
「そういえば自己紹介もしてなかったわね。私はカレン。こっちは夫のイチョウ。あの絵はね、私達が・・・・・。」
そこまで話始めたその時、遠くから微かに怒号のような声が聞こえた。「えっ・・・?」三人が声の方に振り向くのとほぼ同時に、血相を変えた村人と思わしき人が家に飛びこんできた。
「イチョウ!また奴等だ。今度はかなりの人数だぞ。とても防げそうにない。一度逃げるぞ!急げ!」
「これはマズイわね。レイカさん、付いてきて!」
カレンとイチョウに連れられ、家の裏口から外に出ると、葉の落ちた木々に囲まれた小さな社の横の細道を抜け、谷を下り、大きな沢をジャブジャブと渡って上流に向かって行く。水の中を歩くことで追手の目を欺くのは常套手段だが、それだけではないようだ。
「この沢の水に触れると、人は魂を浄化されて消えてしまうって言い伝えがあってね。誰も近寄らないのよ。」
こともなげに話すカレンに、身が竦むような感覚に怯えながら必死について行くと、やがて遠く前方に大きな滝が見えてきた。
「あの滝の裏に行くわよ。あそこに村の仲間が避難してるの。」
カレン達に続いて滝壺に飛び込み水中を潜り、強い水流に翻弄されながら滝の裏にでると、そこには洞窟のような暗い入口が口を開けており、何人かの村人が出迎えていた。
「おぉ、カレン、イチョウ!無事だったか。・・・ん?その子は?」
カレンに事情を話してもらい、村人に受け入れてもらったレイカは、洞窟の中に案内された。入口も狭かったが、内部も通路程度の広さしかないところに、既に十人程の村人が身を寄せていた。
「この辺りは食べ物があまり潤沢にとれなくてね。周りの村とのいざこざが絶えないの。畑の作物も森の恵も何もかもが奪い合いでね。最近は村の中にまで奴等が襲って来るようになって、生き残った皆でここに避難しているの。」
「生き残った・・・?」
カレンとレイカが話していると、他の村人も集まってきた。
「そうだ。もう何人も仲間が殺されてしまった。俺にもカレンにも親や子供がいたんだが、襲われたときに、殺されたり離れ離れになってしまってな。ここは食料の乏しい場所で皆自分達が生きていくために、少しでも条件が良い場所を確保しようとする。もともとこの辺りは何もない土地だったんだが、俺達の先祖が代々畑をつくり、実のなる木を植え、住みやすい場所に作り上げてきた大切な場所なんだ。あまり目立たないように暮らして来たんだが、とうとう村の存在が見つかっちまってな。奴らは俺達を全員殺して何もかもを奪うつもりだろう。」
「そんな・・・そんなことをしても何も解決しないのに・・・。」
「あぁその通りだ。人のものを奪い取るだけでは、いつまで経っても皆が安住できる世界は来ない。もちろん俺達は他所の物を奪うつもりはない。皆で質素に暮らしていければ良いと思っているし、そうなるよう努力してきた。ただ残念なことに、世の中皆そうとは限らない。ここを襲ってくる奴等は人数も多いし、戦い慣れしている。恐らくこれまでも他の集落を襲って勢力を広げてきたんだろう。残念ながら俺達にはそれを止める力はない。」
「彼らも死活問題なんだろうけど、かと言って先祖代々受け継いだ大切な土地を、ただ黙って奪われるわけにもいかないわね。」
「・・・何か良い方法があるのですか?」
暗い表情で俯く村人達にレイカが問いかける。
「・・・一つだけ、方法があるの。レイカさん、よく聞いてくれる?」
カレンはそう言うと、周りの村人に目配せすると話を続けた。
「この村には先祖様から代々引き継がれてきた力があるの。・・・これがそうよ。」
村人がカレンに刀のようなものを渡した。
「この刀には周囲の人の魂を自在に操る力があると伝えられているわ。」
「魂を・・・?」
「そう。刀を手にしたものが、その血を刀身に捧げると、その場にいる自分以外の全員に影響を与えることができるようになる。レイカさん、次に奴等が襲ってきたら、あなたがこれを使って奴等の魂を消滅させて欲しいの。」
「消滅って・・・待って!さっき効果は自分以外の全員にって・・・それじゃカレンさん達も皆・・・」
「お嬢ちゃん察しがいいな。その通りだ。奴等のことは許せたもんじゃないが、俺達も戦いの中で何人もの人の命を奪ってきたこともまた事実。例えそれが自己防衛で不可抗力だったとしてもな。俺達も等しく裁きは受けねばならん。その刀は使った本人だけは生き残っちまう。仲間の中で一人だけ助かるってのは俺達の本望ではないし、こっちから一人で奴等の村に乗り込むのも不可能だ。だがお嬢ちゃんが使ってくれるなら話は別だ。」
「何とか共存していける方法はないの?話し合えば・・・きっと・・・。」
「それはただの理想に過ぎんよ。憎しみが憎しみを呼び、その憎しみがまた次の憎しみを呼ぶ。この負の連鎖は断ち切ることは出来ん。そして相手がいなくなるまで殺し合いが続いていく。俺達はもうここにいるだけの人数しか残っていない。死んでいった仲間のことを想うと今更和解など出来ん。もう奴等も俺達も引くに引けない所まで来てしまったんだ。こんな馬鹿げた世界を終わらせるには無に帰すのが一番だ。何もかもな。」
その時、村に残って見張りをしていた村人が血相を変えて飛びこんできた。
「奴等がこっちにくる!」
「ここが見つかったの!?二手に分かれて挟み撃ちにするよ!私達が食い止めている間にお願い。レイカ!貴方の手で終わらせて!いくよ!!」
「奴等の方が圧倒的に数が多い。そう長い間食い止められん。お嬢ちゃん、頼んだぞ!」
洞窟に残った村人が一斉に鍬や棒を手に飛び出していく。隣村の追手はもうすぐそこまで来ていた。ざっとこちらの三倍近い人数だ。
「こんなところにいたとはなぁ。今日こそ全員殺してやる!」
戦いが始まると、多勢に無勢でみるみるうちに村人達が血を流し倒されていく。レイカは目の前の出来事に震え足が竦む。カレンやイチョウ達も徐々に満身創痍になっていく。
「どうしよう・・・皆・・死んじゃう・・なんで・・・。」
呆然と立ち尽くしていると、不意に身体に激痛が走った。
「ほぅ、いい刀もってるじゃねえか。」
何時の間にか背後に回りこまれていたのだ。刀を握りしめていたレイカの腕を血が伝う。咄嗟に刀を抜き身を守る。が、レイカにも魔の手は容赦なく襲いかかる。次第に意識が薄れていく。
「どうして・・・何の罪もない人がこんなことを・・・この世界は・・・どうして・・・。」
「お前等で最後だなぁ。死ねやぁ!」
「レイカ!危ない!!」
レイカの眼の前で、鈍い衝撃とともにレイカを庇ったイチョウが崩れて落ちていく。
「!!!」
レイカの中で何かが弾けたのと同時に、レイカの血が刀身を伝った。
「うぁっ?何だ?何が起こった!?」
刀に血に染まった見たことのない花弁の紋様が浮かび上がり、周囲を真っ赤な闇で覆い尽くすと、その場にいる全員の感覚を奪っていく。「お願い!貴方の手で終わらせて!」レイカの脳裏にカレンの言葉が過る。やり場のない怒りが頂点に達したその瞬間、人々は糸の切れた操り人形のように、一瞬にしてその場に倒れていった。レイカが我に返ったときには、双方の村人の無数の亡骸だけが残されていた。そして、レイカの側にはカレンとイチョウが、レイカを守るように手を繋いで静かにその身体を横たえていた。
「あぁ・・・あぁぁ・・・カレンさん、イチョウさん・・・皆・・・あぁぁぁぁ!!」
レイカはカレンの亡骸に抱きすがり、空を仰いで為すすべなく泣き叫んだ。心に遣り場のない怒りが沸き起ったまま。そして、それはイチョウやカレン達を追い詰めた人間に対する憎しみへと変わっていった。恨み憎しみを持つ者を消滅させても、人を怨嗟の連鎖から解放することなど出来なかった。争いは新たな争いを呼び、恨み憎しみもまた、新たな恨み憎しみを呼び続けるのだ。
――――――呆然と地面にへたり込むレイカの眼の前に、陽炎のように揺らめく並木道が静かに続いていた。何時の間にか手に持っていたはずの刀も身体の傷も村人達の亡骸もなく、レイカを誘うように優しく揺らめいていた。――――人は、どうすれば共存できるのだろうか。これまで人は思想、宗教、人種、身分、国、様々な価値観の差異を相容れることなく、衝突し、争い、時には命の奪い合いをしてまでも、自分達のエゴを押し通そうとしてきた。そんな人の本来あるべき姿とは――――「人が人であるために」――――レイカは、よろよろと立ち上がり、再び一步また一步と並木道を進んだ。やがて、荒れ果て寂れた集落にでると、道から少し外れた空き地に建ち並んだ石碑のようなものの前で、しゃがみこんで何かの作業をしている紅く長い髪をまとめた女性の姿が見えた。
「・・・あの・・・・。」
レイカが声を掛けると、女性は石碑のようなものの前にそっと花の咲いた木の枝を置き、手足の土を払いながら石碑に視線をやったまま呟いた。
「亡くなった夫のお墓をね・・・。」
視線の先にあったその真新しい石碑には「銀杏之墓」と彫られ、花立てにはリンゴの花の咲いた枝が飾られていた。
「・・・旦那様の・・・ですか。」
「そう・・・夫の・・・イチョウのお墓。」
ヨロヨロと立ち上がったその女性はどこか怪我をしているように見えた。そして暫くの沈黙の後、その女性はレイカの顔を覗き込むと
「あら?・・・この辺りでは見かけない顔ね?どこから来たの?」
レイカはこれまでのことを話した。ついさっき起こったことを除いて。
「そう・・・レイカさん大変な目に会ってきたんだね。疲れているだろうから、少し私の家で休んでいくといいわ。大したもてなしは出来ないけどね。・・・行くところもないんでしょう?」
そう言うと直ぐ側の家に案内してくれた。部屋の片隅には暖炉があり、その背後には大きな絵画が掛けられていた。漆黒の闇に浮かぶ、葉を禍々しい赤に染めた木々が連なる森。風化し崩れかかった石燈籠は冷たくその気配をなくし、割れた石畳は闇へと飲み込まれていく。つい先程見たはずのものとは、似ても似つかない狂気を纏った絵に、思わず気圧される。
「絵が気になるの――――?お茶淹れたから、こちらにどうぞ。」
レイカ促されるままテーブルにつくと、
「自己紹介がまだだったわね。私はカレンて言うの。この村の・・・最後の生き残り。」
彼女は必死に身体を支えながら、苦しそうに話始めた。
「この辺りはね、畑の作物は育ちが悪いし、森の恵もあまりなくて、生活していくには厳しい所なの。それでも村の皆と助け合って、貧しいながらに活き活きと生活していたわ。でも・・・食べ物を巡って周りの村とのいざこざが絶えなくてね。辛いときこそ、皆で力を合わせて乗り越えなきゃ、って思うんだけど、現実は争いが争いをよび、憎しみがまた新たな憎しみをよび、いざこざは殺し合いへとエスカレートしていった。この村でも何人もの仲間が死んでいった。この世界の誰もが、いつ何時争いに巻き込まれるか怯えながら、時には脅しながら日々を暮らすしかなかった。それでも少し前までは、まだ未来に希望をもっていたの。いつか分かり会える時が来るって。争いがなくなる時が来るって。本当は誰もが穏やかな世界を望んでいるはずだって。でも・・・・・!!ゲホッ・・・ゴホッ・・・。」
カレンはそこまで話したところで、急に咳き込み床に崩れ落ちてしまった。
「カレンさん?カレンさん!?しっかりして下さい!カレンさん!」
レイカがカレンに近寄ると、服の至るところに血が滲んでいることに気が付いた。「酷い怪我・・・。」レイカはカレンを抱きかかえると隣室のベットにカレンを寝かせた。
「カレンさん、何か薬になるようなものは・・・。」
レイカが部屋の中を探したが何も見つからなかった。
「・・・有難うね。ここには・・・薬もなければ、怪我や病気の手当をするところもないの。どのみち・・・私は・・・もう長くない。」
カレンは仰向けになって目を閉じたまま話し続けた。
「・・・人は・・・人には・・・無限大の可能性があるわ・・・。一人では出来なくても、皆が協力すればなんでも叶う。・・・でも・・・啀み合ってしまったら・・・壊れていく未来しか残らない。現に私は・・・・私達の世界は・・・皆生きるのに必死だったとはいえ、怨嗟しか残せなかった。そんなものは誰も・・・望んでいなかったはずなのにね・・・。でも・・・多分このままでは・・・この負の連鎖がなくなることはない・・・このままでは・・・人に希望ある未来はない・・・。レイカさん・・・あなたには・・・その負の連鎖を断ち切ることが出来て?あなたには・・・その覚悟があって?」
レイカはすぐに答えを口にだすことが出来なかった。戦いに怯え、仲間を失いつづけた魂の傷を全て水に流し、手を取り合うことなど本当に出来るものなのだろうか?そんなことが簡単に出来ないから、人は同じ過ちを永遠に繰り返してきたのだ。――――しかし――――もし、自分自身に「人が人であること」を呼び起こす力があるならば――――。
「あなたがそれを望む時・・・あなたが真に向き合う覚悟ができた時・・・あなたが力を正しく使える心の強さを持った時・・・あの人は・・・きっと・・・・・あな・・た・・・を・・・。」「あぁ・・・カレンさん・・・カレンさん!いや・・・死んじゃいやぁーーー!!」
レイカは、事切れたカレンの胸に突っ伏して泣き叫んだ。二度も機会がありながら結局誰一人救うことが出来なかった。悲しみだけがレイカの魂を埋め尽くしていた。人はいつまで、こんなことを繰り返せば気が済むのだろうか。いつになったら手を取り合い生きていける世界が訪れるのだろうか。それは誰かから与えられるものなのだろうか。ただ待つことしか出来ないのだろうか。否。きっと、それは皆が願えば必ずこの世のものとなる。そして、そのきっかけは一人のちっぽけな自分からでもきっと生み出すことができる。――――この世界に―――二度とこんな悲しみが訪れないように――――皆が手を取り合い、幸せに生きていける世界を――――そう心に誓ったその時、辺りを眩い光が包み込んでいった。
眩しい光に、思わず片方の手で光を遮る。空に浮かぶ分厚い曇から幾筋もの光が差し、そのうちの一筋がベッドに横たわるユウハに降り注いでいた。「・・・ここは・・・。」視界には、見慣れた窓にカーテン、天井に照明。「・・・僕の・・・部屋?」頭の整理が追いつかず、起き上がろうとすると、身体のあちこちに鈍い痛みが走った。「くぅっ!」思わず声をあげる。身体には、至るところに切り傷や痣が出来ていた。「これは・・・そういえば、確か・・・あの場所で・・・・・・うわっ!」目の前の風景を森に戻し、記憶を辿ろうとしたその時、突然白く大きなものがベッドの脇からユウハ目掛けて飛び掛かってきた。
「ワン!」それはユウハに馬乗りになると、尻尾を千切れんばかりに振り回し、ユウハの顔という顔を舐め回し始めた。
「え?・・・あ・・・ハ、ハルなの?」
「ワンワン!」
そう。飛び込んで来たのは、花鳥風月にいたあのハルだった。
「ハルわかった、わかったから少し落ち着けって。」
「ワンワンワン!」
そこに、騒ぎを聞きつけた両親が部屋の扉から顔を覗かせた。
「おぉ、意識が戻ったようだね。」
父親のナガシは部屋に入りユウハの側に来ると、ユウハに戯れるハルをあやしながら、
「何があったのかわからないが、体中ひどい傷だ。まだしばらく休んでいたほうがいい。」
そこに包帯や薬を持ってきた母親のカスミも部屋に入ってきた。
「あぁ、ユウハ。気がついたのね。良かった。ハルにはいろいろ助けられてばかりね。本当に良かった。」
聞けば、どうやら明け方にハルがユウハのことを村まで知らせに来たらしい。そこで村の大人達がハルについて行って、森のそばで傷だらけで倒れているユウハをみつけ、村に連れ帰ったとのことだった。両親はずっとユウハに寄り添って看病していたのだ。
「・・・ところで、お前だけが傷だらけで帰ってきたということは、王都で何かあったんだね?レイカはどうしたんだい?」
ユウハは、王都の研究所での出来事、クサカの目を盗みレイカを連れ王都から逃げ出してきたこと、嵐の夜に偶然立ち寄った街で宿の主人とハルに助けられたこと、を一つ一つ思い出しながら両親に伝えた。
「・・・レイカはまた一人で紅の森に入っていってしまって。まだ戻ってきていないんだ。」
「森へ入っていった?ということは、レイカが自ら森に入っていったということかい?」
「うん。森が呼んでるって。何かを確かめに行くって。そう言って自分から森に消えていったんだ。」
ユウハはベッドに横たわったまま、視線だけを父親に向けていたが、ふと机の上の鞄に目が留まった。
「そういえば・・・父さん、鞄の中に・・・。」
ユウハは宿の主人に渡された手紙のことを話した。恐ろしい金額と言われたあの請求書だ。
「・・・ふむ・・・。」
手紙に目を走らせていたナガシは、視線を宙に彷徨わせ何か考えを巡らせ始める。
「あ・・・と、何がかいてあるの?」
恐る恐るユウハが聞く。
「あぁ、大丈夫だよ。何も心配ないさ。いつかその宿の主人にお礼しに行かなきゃいけないな。」
父親の表情を見る限り法外な内容ではなかったようだ。しかし、ユウハにはもう一つ気掛かりがあった。
「そう言えば・・・刀・・・落ちてなかった・・・?宿の主人からもらった大事な刀だったんだけど・・・刀身が少し短めの・・・。」
「刀?さて・・・・気が付かなかったな?お前が倒れていた辺りは、皆で隈なく探したはずだが見てないな。」
「あ・・・そう・・・なんだ・・・。」
薄々予想はしていたユウハであったが、現実となるとやはりすぐに受け入れられるものではないようだ。
「父さん、あれはどうしても失くしちゃいけないものなんだ。今から探しに連れて行ってくれないかな。無茶はしないから。」
一縷の望みをかけ藁にも縋る想いで父親に頼み込んだユウハだったが、父親の答えはユウハの期待に沿ったものではなかった。
「・・・今は駄目だ。お前、王都から逃げたして来たんだろう?追手も来ていたんだろう?どう考えてもお前とレイカは王都から追われている立場だ。大事な預かりものを探しに行きたい気持ちはわかるが、わざわざこちらから捕まりに行くようなものだ。直にここにも追手がくる可能性が高い。今はお前の身の安全を考えることが先だ。」
確かに、これまでの状況から考えてもクサカ達の目的はレイカであり、自分は邪魔者で消される対象だとされていることは明らかだ。父親の言い分は正しい。しかし―――――。
「レイカは・・・レイカを助けにいかなきゃ!」
「あぁ、その通りだ。しかし、森の中に行ってしまったのでは我々には手が出せない。今夜、村の集会所で皆集まって何か方法を考えることにしているから、今は父さん達に任せて、今日は休んでいなさい。あと―――村の外に見張りを置いてある。万が一の事があったら、お前は村の裏口から逃げるんだ。いいね?」
「それじゃ、父さん達はどうなるの?逃げないの?」
「恐らく、奴等の目的はお前とレイカであって、この村自体には執着はないはずだ。大丈夫だよ。さぁ、今は父さん達に任せてお休み。お腹がすいたらまた呼んでくれるかい。ほら、ハルも行くよ。」
そう言うと皆部屋を出ていき、ユウハ一人が残された。時刻は昼過ぎから間もなく夕方になろうとしている頃だった。レイカと離れ離れになってから、時間だけが無情にも過ぎていく。「レイカは大丈夫だって言ってたけど・・・。」追手は一人だけだったのだろうか?もし、自分があの存在に気が付かなかったらどうなっていたのだろうか?少なくとも、すぐには何も起こらなかったのではないか?ということは、レイカが戻って来るのを待っていたのではないか?ハルが村に知らせに来たのが明け方ということは、あの冷え切った寒空の下で自分は何故無事だった?あの刀はどこにいったのか?あの追手も傷を負ったはずだがどこに消えたのか?ユウハは今現実に起こっている何もかもが腑に落ちず、ずっと悶々と考え込んでいた。夜になり、両親はユウハと夕食を済ませると、ハルを連れて村の集会所に向かっていった。夜は徐々に更けていき、冷たい空気が辺りを覆い始めた。もしかしたら、この瞬間にもレイカが助けを求めているかもしれない。王都が誇る最強の魔道士団相手に、村人達がいくら皆で考えても良い方法がそう簡単に思い付くとも思えない。このままここで自分だけが休んでいても―――――いや、村の皆が集会所に集まっている今なら―――――家の周りに人の気配はない――――。ユウハは夢中で机の上の鞄を手に取ると、痛む身体をおして家を出た。「待ってろよ、レイカ。今行くからな。」すっかり夜の帳が下り、自分以外の生命がいなくなってしまったかのような静寂な暗闇の中に、ユウハの姿は吸い込まれて行った。
「静かすぎる・・・な。そう思わんか?」
「はい。なにせこのような時間に国王陛下だけでなく、魔導士団の主力までもが王都を空けるのですから。コウにも民にも悟られぬよう魔道士達の力によって物音一つ立てずに進軍しております。また人目に付かないよう普段人があまり通ることのない道を進んでおります。仮にすれ違う者がいても、我々の存在を認識すら出来ていないでしょう。」
「・・・そうではない。何と言うか・・・嵐の前の静けさのようなものだ。長年の悲願が叶う時がようやくすぐそこまで来ていると言うのにだ。この世界が大きく変わることになろうというのに、この静けさよ。何と言うか、落ち着かんな。」
「それは、国王陛下のお気持ちが昂っておられるからではないですかな?我々は長い間この時を待ち続けて来たのですから、平生を保っていることは困難かと。しかし、作戦は万全です。今日のために気が遠くなるほどの時間をかけ、徹底的に調査し、各地から選りすぐりの人間を集め、最高の魔道士団も作り上げたのですぞ?必ずやあの力を陛下の手中に収めてご覧にいれましょう。その時こそ、陛下がこの世界の覇者となるのです。」
「うむ。わかった。頼むぞ?クサカよ。」
一団は静けさを増した闇のなかに、音もなく消えていった。
顔を上げると、そこにカレンや村、並木道はなく、何時の間にかもといた広葉樹の森の中にいた。辺りに人の気配はない。そして傍らには、いつか見たあの小さな社がひっそりと佇んでいた。苔生し風化して、周りの風景と同化していまっているが、確かにあの社だ。「さっきまでのは一体・・・。」夢を見ていた――――それにしては、何もかもが生々しく思い出される。村人達の声、カレンの温もり、ジャブジャブと渡った小さな沢の水の感触、鈍い痛み、拭いきれない悲しみ。その全ての記憶が、夢の出来事では無いと訴えかけていた。目の前の既視感のある小さな社の存在もまた、幻ではなかったのだと思わせた。レイカは社の前に立ち記憶を辿る。そう、つい先程カレンに連れられ村から逃げるときに、横目に見ていたはずだ。社の周りは足の踏み場も無いほどびっしりと隈笹が覆っていた。恐らく長い間誰もこの辺りには足を踏み入れていないのだろう。レイカは記憶を頼りに、笹薮を掻き分け、道無き道を奥へと向かった。藪は進むに連れその背丈と密度を増し、人の侵入を拒んでいく。レイカもまた、手や足に血を滲ませながら何かに取り憑かれたように、藪を掻き分けて行く。藪の中を進み始めてどのくらい経っただろうか。進むべき方角もわからなくなり、辺りも日が暮れ始め薄暗くなって来た頃、レイカの耳が微かな川のせせらぎを捉えた。その川は、幅五メートルほど、深さはレイカの腰の辺りまでありそうだ。大きな岩を呑み込むように悠々と流れ、澄み切った川底には綺麗な砂利が、まるでそこには水などないようにはっきりと、そして僅かに揺らめいて見えた。川に降り喉を潤すと、記憶を辿って上流へと向かった。岩をよじ登り、蔦につかまり崖を越え、暫くすると、前方から大きな滝の音が聞こえてきた。高さは五十メートル、幅五メートル程はあろうその滝は、近付くものを拒むかの如く轟音を上げながら、途切れることなく滝壺に大量の水を叩きつけていて、滝の向こうの様子は全く窺い知れそうにない。滝の周りは絶壁に囲まれており裏側へ回り込める道もありそうになかった。記憶通りならあの轟音の向こうに何かがあるはずだ。かと言ってこのまま生身で滝壺に飛び込むのは危険だ。滝壺は水が渦巻いていて、一度流れに呑み込まれると抜け出すのは容易ではないのだ。しかし、このまま引き返しても―――――。レイカは覚悟を決め、力一杯息を吸うと滝壺に飛び込んだ。水の中は想像以上に圧力が強く流れが渦巻いており、あっという間に水に呑み込まれてしまった。最早自分がどこを向いているのかも、水面がどこにあるのかもわからない。レイカは必死で暗い方へ暗い方へと何とか自分の身体を押し進め、息がもたなくなるギリギリのところで、何とか滝の裏側へ辿り着くことができた。そして見上げたその場所には、人一人がようやく通れるほどの小さな穴が口を開けていた。濡れてツルツル滑る岩肌の凹凸に手足を掛け、波にもまれる水の中から身体を強引に穴の中に引っ張り上げると、穴の中は人が普通に立って歩けるほど高く奥へと続いていた。レイカは暗い中を、壁に手を付きながら慎重に一歩一歩奥へと進んでいく。入口から遠ざかるにつれ、暗さは徐々にその濃さを増していく。やがて穴の中は光も音も消え、レイカの足音と息遣いだけが、しんとした暗闇の中に吸い込まれていく。しかし――――不思議と怖さは感じない。遠い魂の記憶がこの場所を知っている?そんな感覚に包まれながら先へと進んでいった。何の位の時間歩いただろうか。ここがどこなのか、今何時なのかもわからなくなってきた時、真っ暗闇だった視界の先にほんの僅かな光を感じた。そこには天井に延びる短い階段があり、階段の先には地上へと繋がっているであろう蓋のような重厚な扉があった。そして、その隙間から月明かりであろう澄んだ光が、いくつかの筋となって暗がりに射し込んでいた。どうやらここで行き止まりのようだ。レイカは扉を開けようとしたが、その扉は全く動かす事が出来なかった。物理的に動かせない、と言うより何かしらの封印が施されている、といった感じだ。レイカは扉から離れ、何かの手掛かりを求め、辺りの壁を手探りで調べ始めた。ゴツゴツとした岩壁は硬く冷たく無機質にそこに立ちはだかっている。―――――と、レイカの肩の痣にポゥっと熱を感じたその時、目の前の壁が微かに動き、人一人が入れる大きさの入口がすっと開いたかと思うと、小さな部屋のような空間が現れた。その部屋は、不思議と蝋燭の明かりが何処かしこにぼんやりと灯っており、中を見渡せるほどに明るかった。部屋の正面には、四角く細長いテーブルと椅子が、そのテーブルの上には何かの書物のようなものが見えた。さらにその向こうの壁は四角くくり抜かれ、そこには大きな絵画と古い太刀のようなものが飾られていた。絵画には、紅色や黄色が鮮やかな紅葉を背景に、それに勝るとも劣らない、鮮やかな着物に身を包み、紅色の長い髪を靡かせて振り返る、一人の若い女性の姿が描かれていた。レイカは椅子に腰掛けると、テーブルにあった書物を開いた。そこには―――――「対立を融和に。服従を協調に。呪いを戒めに。人が人であるための真なる覚醒の時を、神刀焔と楓の守護家が共に見守らん。守護初代 杠葉彩楓」そう記されていた。「ユズリハ・・・サイカ?」
そして、書物には代々の守護者らしき名前が四十四代目まで綴られていた。
初代 杠葉彩楓
〜
第四十三代 杠葉楓恋
第四十四代 杠葉麗楓
魂の奥底に眠るあの記憶。暗闇の中を抱きかかえられどこかに向かっていた記憶。聞いた覚えのある声。揺れる蝋燭、古い書物、祭壇、肖像画。そして紅い眼。もしこれらの記憶が、幼き日の自分のものだったとしたら――――私は――――楓の守護家?―――――と、混乱するレイカの前で、目の前にある太刀が全身にボゥっと淡い紅色の光を宿した。「・・・・・私に持っていけと言うことなの?」レイカは八咫烏の言葉を思い出していた。「私に足りないって言ってたものは――――試練とは――――神刀焔を手にする資格――――。」レイカがその太刀に両手で持ち上げるように触れると、それまで古びた無機質な塊でしかなかった太刀は、精気が蘇ったかのように色艶を増していった。同時にレイカの魂に直接入り込んでくるかの如く、様々な思念や風景がどっと流れ込んできた。「これは・・・焔が見てきた先祖代々の記憶・・・・。」レイカは眼を閉じ、魂に訴えかけてくるそれを一つ一つ確かめるように受け入れると、「彩楓様・・・・・私を待っているのね。今行くから―――――。」
そこにはいつもと同じ風景が広がっていた。月明かりに照らされた草原、風のささめき、森の木々の影。しかし、いつもと違う何かの違和感を感じ、ユウハは近くの岩陰に身を潜めた。張り詰めた空気が、何も見えないそこに何かが存在することを知らせていた。「あの時の気配とは違う・・・何かもっと大きな・・・。」その時だった。「うあっ!?」突然、ユウハは何者かに背後から地面に捻じ伏せられ、一瞬の間に口を塞がれ手足も拘束されていた。相手の姿を見ることも、人数もわからない。「一体何を・・・。」ユウハが抵抗しようと藻掻くと、さらに上から恐ろしい力で押さえつけられ、身動きが取れず声も出せなくなってしまった。油断をした――――。あの時と同じことが起こる可能性を忘れていた訳ではなかったが、逸る気持ちが判断力を鈍らせていたのだ。「くそっ、このままではレイカが・・・・・。」そして、森に何かが起きようとしていた。
「・・・シカクヲ・・・エタカ・・・イクガヨイ・・・。」森の暗闇の中、八咫烏が指し示したその先には、石燈籠が並んでいた。重厚な柱に支えられたその何基もの燈籠は、楓の葉の紋様が施された火袋に煌々と光を宿し、レイカを誘うかのように奥へ奥へとずらりと並んでいた。レイカは前に来たときと同じように、燈籠の間に出来た階段に消えて行った。
「・・・・セカイハ・・・ナニヲ・・・エラブカ・・・・。」
不規則の中に侘び寂びを兼ね備えた、手入れの行き届いた石階段を一歩一歩登っていく。空には無数の星が儚い瞬きを繰り返し、凛とした空気に包まれていた。やがて石階段を抜けると、眼の前にとてつもなく広い空間が姿を現し、視線の先にぼんやりとした灯りが見えてきた。それは茶室の窓から溢れた光であった。一軒だけぽつんと存在し、どこか厳かな雰囲気を漂わせるその茶室からは、明らかな人の気配を感じた。飛石を渡り、恐る恐る躙口から中を伺うと、釜からは湯気が立ち上り、床の間には鮮やかな紅に染まった楓を描いた掛け軸が掛けられていた。そして―――――。
「よく来てくれましたね。どうぞ、中へ。」
長く美しく艶のある紅い髪、大きな楓の葉をモチーフにした紅色の髪飾り、桃色の生地に鮮やかな紅色の楓の葉で彩られた着物姿、年恰好はカレンと同じ位だろうか。可憐な姿の女性が優しい笑みを浮かべてレイカを招いていた。レイカが促されるまま中に入り、その女性を伺いながら、恐る恐る炉の側の畳に座る。もちろんの事だが、これまで茶室という場所には縁がなくこれが初めての経験だ。しかし、何と言うか良く知った実家に帰ってきたかのような居心地の良さを感じられる空間でもあった。彼女は何も喋らず滑らかな点前でお茶を練り始めると、出来上がった濃茶を出し袱紗とともにレイカにそっと差し出した。とろりとした濃厚な濃茶がじんわりとレイカの身体に染み渡り、すっと疲れや緊張が溶けていく。
「美味しい・・・。」
思わずレイカの口から言葉が溢れた。彼女は変わらず母親が子供を見るような優しい表情をしてレイカをじっと見つめていた。そして少しの間を置いて静かに彼女が口を開いた。
「もう、私が誰なのか、そして貴方が誰なのか、知っていますね?」
その声は、確かにあの時聞いたあの声、そして書物に書かれていたあの名前、部屋に飾られていた絵画と同じあの姿。
「私は彩楓。楓の守護者となった初代の杠葉。そして貴方も――――私と同じ楓の守護者。杠葉家の四十四代目の―――杠葉麗楓―――。」
言葉を探して返事に戸惑う麗楓に彼女は続けた。
「予てから、この世界は争いが絶えることがありませんでした。強き者は欲望の赴くままに権力を振りかざし、弱き者は為すすべなく抑圧され、戦争、略奪、破壊、裏切、何もかもが当然のように日常に存在し、夥しい血を流し、人の心は荒んでいきました。そしてその行いは、同じ世界を構成する動物や植物、この大地に至る全てのものを巻き添えにしてきました。動物は狩り尽くされ、生き延びたものも住処を追われその姿を消し、植物は荒れていく大地の上で枯れ果て、山は崩れ、川は氾濫を繰り返すようになりました。それでも――――人がその愚かな行いを止めることはありませんでした。人の性とは、その傲慢さ故に自ら滅びていくしかないのでしょうか。八百年前、私は、世界を血の海に沈めました。愚かな人の行いに対する警告と、それが人のあるべき姿を見つめ直す切っ掛けになることを願って。人自身が無意味に流し続けた血。その禍々しさに畏怖することで、己の過ちに気づき、人が人であるための心を取り戻して欲しかった。欲望に呑まれ、世界を、生命の営み全てを破滅に向かわせ続ける彼等を止めるために、私が放った血の海は、半ば強制的に人の変革を促そうとするものでした。結果――――確かに争いは止みました。しかし、それは恐怖によって作り出された仮初の平和でしかありませんでした。決して、正しいものに裏打ちされたものではない、まやかしの世界。しかもそれは、―――たった一日で世界を変えた強大な力が存在した―――と意図せぬものとなって語り継がれていってしまった。今、世界は――――あなたも良く知っているとおり、再び秩序を失い、人はかつてと同じ過ちを犯しています。それどころか、留まることを知らない欲望は、かつて世界を変えた強大な力――――語り継がれる伝説でしかないようなものまでも、我が物にせんと争いを繰り広げています。このままでは、間違いなく人は、世界は再び破滅に向かうでしょう。人が何のために創られたのか、その意味を知ることもなく。今、止めなければ―――――私は――――私達は、まやかしの結果にしか辿り着かないことを知りながらも、再び警告を発するしかなかった。血の色に染められた楓の葉。そう、あの時あなたが拾ったあの紅い葉。しかし、それさえも「伝説の権力の降臨」と認識され、一層の欲望を掻き立てる事になってしまいました。人は、どこまで愚かな存在になってしまったのでしょうか。最早、一刻の猶予もありません。人としてのあるべき心を持ち、力の正しい使い方を会得した私達楓の守護者にしか扱えない力――――あなたが手にしているその刀。その名は――――「焔」――――。その力で人をあるべき姿に導き、今度こそ破滅に向かう人を、世界を救わねばなりません。今は眠ったままの焔を目覚めさせるために、これから貴方を「記憶の楓」に案内します。正しい心を持った貴方が、焔とともに人をあるべき姿に。権力と欲望に塗れた醜いものを浄化するために。さぁ、行きましょう。」
茶室を出ていく彩楓に続き、麗楓も躙口から外に出て茶室の裏手に回ると、いつの間にか、そこに見たこともない大きな楓の木が一本聳え立っていた。天辺がどこまであるのかも分からない大きな楓。そして枝という枝に、夥しい数のあの紅い葉を付けていた。彩楓は木の袂に立つと、
「この木は私達の魂の源です。この木に宿る力は、貴方が焔を覚醒させるための一助となるでしょう。人々に、生きとし生けるものに、この世界に安寧と幸せと尊厳を。さぁ、麗楓、その手で焔を抜くのです!」
半信半疑の麗楓が焔の柄に手を触れたその時―――――。
「きゃあっ!?な、なに・・・!?」
突然見えない何かによって、麗楓は腕を捻りあげられ、焔が宙を舞う。焔は宙に浮いたままピタリと動きを止めた。
「・・・・・よくやった。クサカよ。」
声がしたその方向に現れたのはエルシン国王だった。国王は宙に浮いた焔の元まで歩いてくると、手を伸ばし焔を手中に収めた。そして、気が付いた時には、麗楓達の周りに何人もの魔道士達が次々に姿を現していた。そして魔道士達の中心にはクサカ団長の姿があった。
「・・・っ!あなたはっ!」
麗楓が声をあげる。
「やれやれ・・・・。八百年前の言い伝えは本当だったということじゃの。よもやこのような場所にあるとはのぅ・・・。あれから、もう十五年も経ったか。あの時は、少々気が焦っておった。強引に手に入れようと、お前さんの村ごと襲った挙げ句に逃げられてしまったが、儂も二度同じ過ちは出来んのでな。お前さんがこの紅の森に入ったと聞いて、儂は楓の守護者がお前だと確信しておったよ。真に目覚めた楓の守護者でなければ、道を開くことは出来ん。そのために、まずお前さんに施されていた楓の封印を解く必要があった。お前さんに確実にここに向かわせるためにな。その口実を作るために、何の役にも立たんお前の兄を王都の魔法学園に招き入れることで、お前の警戒を解き、邪気を祓うという口実で研究所で封印を解いた。後はお前さんの動向を監視していれば良かった。あの時、儂の計画どおり、お前さん達が王都から逃げ出した後、ずっと監視をさせておった。まぁ、少々想定外はあったがの。お前さんがこの呪怨を手に、この精神世界に来た時に、儂らも一緒に来させてもらったのじゃ。姿気配を消してな。気がついておらなんだじゃろう?」
「そんな・・・それじゃ、今までのことは全部・・・兄さんは!?」
「クサカよ。もうそんな話はどうでもよい。ようやくこの呪怨を我が手中に収めることが出来たのだ。そして世界が我に平伏すときが来たのだ。後はこの呪怨をあの楓の木に突き刺せば良いのだったな?」
「さようで。この巨木の莫大な力が呪怨を通じて開放されることで、陛下はこの世界を支配する力を我が物とすることができましょう。」
焔を手にしたエルシン国王が楓の木に向かっていく。
「お止めなさい。それは貴方のような邪な者が扱うべきものではありません。」
彩楓が冷たく静かな声でエルシンを窘める。
「くっくっく。お前は・・・ユズリハの始祖だな。お目にかかれて光栄だよ。この力は私がいただいていく。なに心配はいらん。お前たちの代わりに私がこの世界を作り直してやろうというのだ。私に刃向かう全てを屈服させ、従属させ、排除し、争いのない世界を創るのだ。それがお前達の望みでもあろう?さぁ、新しい時代の幕開けをその目に刻むが良い。」
エルシンが焔を抜き、無機質な刀身が姿を現す。
「さぁ、力よ!我がもとに来るがよい!」
半ば狂気に満ちた表情でエルシンが焔を振り下ろそうとした、その時―――――。
「・・・うっ・・・くぅ・・・な・・・何が・・・うご・・・けん・・・・だと・・・。」
エルシンの身体は、焔を振り上げたまま動かなくなった。まるで何かに動きを封じられたかのように、その顔に苦悶の表情を浮かべる。そしてそれは、魔道士達の仕業であることは、一目瞭然であった。
「き・・・貴様ら・・・何のつもりだ!今直ぐ私を解放しろ!さもなくば全員処刑だ!早くしろっ!!」
エルシンが鬼の形相で魔道士達を睨みつける。
「・・・エルシン国王陛下。」
それまでことの成り行きを傍観していたクサカが、取り乱す国王を制するように口を開いた。
「おお、クサカっ!こいつらを止めさせろ!早くっ!!」
しかし、クサカは魔道士達に目をくれることもなく、表情一つ変えずにエルシンに向かってゆっくりと歩き始めた。
「陛下。残念ながらそれは貴方如きに使わせるには少々過ぎたもののようですな。」
クサカがエルシンに静かに言葉の刃を差し向ける。
「な・・・なんだと?クサカ、まさか・・・貴様っ!自分が何をしているのか解っているのか!?」
「無論。この呪怨は力あるものが持つに相応しい。貴方は確かに権力をお持ちだが、それは我々魔道士団や騎士団の献身の上に成り立っているもの。貴方自身は何の力もお持ちでない。楓の守護が言う通り、そのような無力な者にその力は扱えますまい。」
「きっ貴様ぁっ!許さん!許さんぞ!!魔道士ども、クサカを討て!今直ぐに!!褒美は何でもくれてやる。早くっ!!」
怒りを爆発させエルシンは魔道士達に命令するが、魔道士達はクサカを討つところか、エルシンの拘束をより一層強く、身体を捻り上げていく。
「ぐぉあああっ!貴様らっ、私に楯突くとはっ!全員処刑だっ、クサカっお前もっ!!」
エルシンは眼の前に来たクサカに今にも飛びかからんばかりの表情で睨みつけるが、
「やれやれ・・・少し静かにしていただきたいものですな。」
クサカはエルシンに向かって掌を広げたかと思うと、エルシンは凄まじい衝撃波で吹き飛び、楓の大木にその身体を叩きつけられると、その場に崩れ落ちた。
「なに、死なせはせぬよ。貴方には僅かばかり恩がありますからな。儂は、ここに辿り着くために、この小娘と呪怨を探し出すために、どうしても国の力が必要じゃった。貴方に取り入ってから、何十年もの時をかけて騎士団しかなかった国に魔道士団を結成し、調査のための研究所を作り、数え切れん程の数の諜報員をばら撒き、時に村を焼け野原にしてまで追い求めたものに今こうして辿り着けたのは、貴方の国王としての力を利用させてもらったからに他ならんからの。感謝しておりますぞ?最も、国王の立場も今日までですがね。さて・・・・・あの衝撃波で気を失っても呪怨を手放さんとは・・・・・さすがの強欲にも程がありますな。どれ・・・・・。」
クサカがエルシンが握る焔に手を掛けようとした、その時だった。
「ウォーーーーーーーーーーーーン!」
どこからか、気品に溢れ、夢幻の力を纏った狼の遠吠えのような響きが、辺り一帯に干渉する。と、「ぐあぁっ!」「きゃあっ!?」突然、麗楓を押さえつけていた魔道士達が吹き飛ばされ、麗楓の拘束が解ける。振り返ったそこには、黒く大きく紅い眼をした熊のような怪物が、仁王立ちになって麗楓を見下ろしていた。「これは・・・あの時の・・・。」それは、最初に森に迷い込んだときに麗楓を襲ったあの魔物以外の何者でもなかった。自分も逃げなければやられる――――恐怖が麗楓を襲う。次の瞬間、その魔物は麗楓に覆い被さってきた。「ッ―――――!」思わず身を屈め目を閉じる――――――何も―――起こらない―――?恐る恐る目を開けると、魔物は麗楓を魔道士達から護るように立ちはだかっていた。
「守護獣かっ!?魔道士ども、やれっ!こいつらを焼き尽くせ!!」
クサカが命令するや否や、魔道士達が火炎魔法を唱え次々と火の玉を作り始める。と、魔道士達の背後の何もない空間から、麗楓の目の前にいるものと同じ様な魔物が何頭も現れ、魔道士達を次々に蹴散らし始めた。
「魔道士ども、少しの時間で良い。そやつらを食い止めよ!」
クサカは倒れたまま動かなくなったエルシンに駆け寄り、その手から焔を奪うと楓の大木目掛けて振り上げる。
「残念だったなぁ!楓の始祖よ。そして守護獣ども!儂の勝ちじゃあっ!!」
クサカが焔を振り下ろそうとした、その時、
「させるかぁーーーっ!」
突然、クサカの目の前で凄まじい閃光が炸裂したかと思うと、クサカは焔を握っていたその手を蹴り上げられ、焔が地面を転がっていった。
「ぬおっ!お・・・お前は!?あの時捕まえて閉じ込めておいたはずじゃ!どうやってここに来た!」
「レイカっ!大丈夫かっ!?」
「兄さん!」
熊に似た守り神に吹き飛ばされ、魔道士達の悲鳴や怒号が飛び交う。夥しい血飛沫と、炎に焼かれ焦げた匂いが立ち込める。地獄絵図のような様相のなか、突如現れたユウハとクサカが睨み合う。
「邪魔をするなぁっ、小僧!お前はとうに用済みじゃ。よもやあやつが始末に失敗するとは思わなんだがなぁ。まぁよい!儂が直々に消してやるわぁ!」
クサカが放った衝撃波がユウハを襲う。吹き飛ばされたユウハに、クサカは頭上に自分より大きな火の玉を作りながら躙り寄る。
「終わりだ、小僧―――――。」
「!?兄さん、焔がっ!」
クサカがユウハ目掛けて火の玉を放とうとした時だった。レイカの声に二人が振り返ると、そこには焔を手にしたエルシンが、息も絶え絶えに、楓の木の前によろよろと歩いていく姿が目に入った。
「しまった!まだ動けたかぁっ!」
刹那にクサカが宿した炎をエルシンに向けて放つ。
「・・・これは・・・誰にも渡さん・・・愚民ども・・・私に・・・平伏すがよい!くらぇぇぇーー!」
クサカが放った炎がエルシンを覆い尽くすと同時に、エルシンが断末魔の叫びを上げて焔を楓の大木に切りつけた。その瞬間、焔を握ったエルシンの手から、禍々しいほどに暗く紅い血そのものの色をした炎が噴き出したかと思うと、炎は辺りにいた魔道士達を巻き込み、瞬く間に全てを呑み込み始めた。
「魔道士ども、退けっ!巻き込まれるぞっ!」
次々に炎の海に消えていく魔導士達にクサカが叫ぶ。
「・・・馬鹿な・・・こんな筈は・・・この世界は儂のものに・・・ぐおっ!?」
そしてクサカの声も炎に掻き消されていった。
「人は欲に塗れた下賤な存在でしかないのでしょうか。人の移ろいは・・・・人が果たすべき責務は・・・これでは・・・・。」
「お兄ちゃん・・・どこ?どこにいるの?・・・きゃあぁぁっ!」
麗楓達も瞬く間に炎の渦に呑み込まれていく。
「レイカ!どこだっ、レイカっ!くそっ、このままではっ!」
荒れ狂う炎を掻き分けレイカを探すユウハ。しかし、炎で視界は遮られ、声も掻き消されてレイカを見つけだすことが出来ない。そして、気付いたときには自分自身も炎の海の真っ只中に取り残され、逃げ道を失っていた。炎から逃げ惑うユウハ。容赦無い熱と煙が、ユウハの意識を削り取っていく。「ここまでか・・・。」―――――と、思ったその時、視界が突然、暗闇に包まれた。視界も音も重力も感覚も何もない空間を漂うユウハは、失いゆく意識の中で何かの声を聴こえた気がした。「・・・ヒトハ・・・カワラヌ・・・・・・トキハ・・・マダ・・・・・。」その日、世界は紅の森から溢れ出した血の海に呑み込まれ、木々も、草花も、山も川も海も、存在する全てが血色に染まり、その禍々しさと恐怖は人々の魂に深く刻み込まれた。そして、一切の争いが止んだ。
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