◆明晰夢◆
茶房の幽霊店主
第1話 明晰夢。
※(店主の体験談です)
※(プライバシー保護のため地域・固有名詞などは伏せています)
※※※※※
就職後に自分の精神状態を分析するため、夢日記をつけていたことがあり、ランニングする奇妙な夢を数カ月繰り返し見続け、最終的に「予知夢(?)」と思われる転倒事故を経験した後、夢日記をやめていたのですが……。
「夢日記」を書き続けていると「明晰夢」を見られるようになると聞きます。
しかし、自分は夢日記をやめてから「明晰夢」を見るようになっていました。
明晰夢とは「これは夢だ」と本人が自覚でき、さらに夢を自在に自分の意思で制御できるものです。
たとえば、○○へ行きたい、△△さんに会いたいなど、夢の中で望んだ場所や人のところへ行くことができます。
ただし、行ったことのある場所でないと移動することができませんでした。人物は、すでに亡くなっている人であっても「明晰夢」の中では変わらない姿で普通に会話できました。
いつかこの夢も見なくなるだろう。特に執着もなく、軽く考えていました。ところが、通常の夢の大半が少しずつ「明晰夢」に入れ替わっていったのです。
夢の中は、現実と見まごうほどのリアリティがあるのですが「痛み」を感じません。また、本の中身など「文字」が読めないことが「夢」である証拠なので、よく頬をつねったり、本棚の本を開いて「今、明晰夢を見ている」と確認していました。
所詮は夢ですので、いつか覚めます。夢だと分かっているので好きな場所で好きなように過ごして現実で目覚めていました。そのこと自体はストレス発散になっていたので、あまり気にしていなかったのです。
ある日の夕方。
仕事の疲れから自宅の二階で寝入ってしまったときのこと。
目を開けると部屋の中が妙に赤黒く、飛び起きてみれば「明晰夢」の中でした。
こういうときは慌てないで、もう一度寝ると現実の部屋へ戻れるのですが、
目をつ瞑ろうとした視界の端へ、誰かがいることに気がつきました。
何気なく首を動かして横を見ると、父が正座をしてアイロン台でシャツにアイロンをかけているのです。
『お父さん、何してるの?』
「夢の中の父」であるのは分かっているのですが、一応、声をかけました。
父は満面の笑みを顔全体に貼りつかせ、左右にアイロンを動かしているだけです。夢の中に招いてもいない父が、真横でアイロンを使っている。
夢は自在に変更可能なので、父の姿が見えなくなるよう思考しました。しかし、父は全身灰色のまま部屋の前の廊下で正座をして、アイロンがけをしていました。
もう一度目を瞑り、目が覚めるよう念じます。
ベッドの上で目が覚めると、日が沈んで青くなった自分の部屋でした。
夢の中ではないか確認するため、本棚の本を一冊取り出し、開きましたが文字は読めませんでした。
まだ「夢の中」だったのです。
こんなことは一度もなかったので、心臓の鼓動が早くなっていきます。
現実となんら変わりのない部屋の中、閉めていた窓が開いていました。
外の風景はどうなっているのか。いつもと変わらない田んぼとその先の住宅地なのか。気になって窓の外を見ると、部屋の暗さと異なり、夕暮れの赤い風景。
目の前の田んぼの真ん中で、正座をした父がアイロンがけをしています。
もう一度目を瞑り、目が覚めるよう強く念じます。
電灯の付いた部屋で目覚め、ホッと息をつきました。
見渡しましたが、「アイロンをかけている父」はいません。
畳の感触を足の裏で感じながら、カバンから会社の資料を手に取りパラパラとページをめくって冷や汗が出ました。
文字が読めません。
現実と変わらない風景でしたが、夢の中だったのです。
もしかしたら、寝ている間に、自分は死んでしまったのではないかと思いました。
床にぶちまけたカバンの中身はいつも自分が使っているものでしたが、書かれている文字やマークはまったく読めませんでした。
通常の夢なら恐怖心が出てくると自然に覚めるものですが、この「明晰夢」は、まるでループをし続けているような状態なのです。
夢から覚醒しようと何度も試すのですが、「夢の部屋」から脱出できなくなっていました。
一度一階へ下りましたが、家族は誰もおらず、テーブルの上には唐揚げと茶碗に盛られた白米、味噌汁が置かれているだけです。
トイレや玄関の方も調べてみましたが、帰宅しているはずの父も、専業主婦である母の姿も見当たりません。それどころか、夕方に庭木へ集まってくるスズメの鳴き声もなく、生き物の姿が一切ありません。静かすぎるのです。
柱にかかっている時計は辛うじて見えますが、12時のまま進んでいませんでした。
もう一度、起きられるか試してみようと思いました。
二階の自室へ戻り、天井を見上げると大きな穴が空いて、屋根の裏側が見えています。
現実ではありえません。
自分に言い聞かせ、何度も目を瞑って、何度も目を開けました。
これを20回近く続けていたのですが、ふと、水から浮上するような感覚に包まれて、「自分の部屋」で目が覚めました。
ループしていたときの下へ下へ押し込まれるような圧迫感が去り、熱されて埃っぽかった空気は当たり前のように澄んでいます。
ベッドから跳ね起きて、本棚から寝る前に読んでいた本を取り出しました。
しおりの部分を開けば、昨日読んだ物語の文面が読める形で綴られてます。
階段を踏みしめるようにして一階へ下りると、母が食器を並べている最中でした。
晩御飯は唐揚げではなく、手作りコロッケ。
「明晰夢」から出られない状態が起こったのはこれきりでした。
その後、「明晰夢」の回数は徐々に減ってほとんど見なくなりました。
いまだに覚えている夢に関する奇妙な恐怖体験です。
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【追 記】
※ここからは「明晰夢」の追記です。
「明晰夢」はトラウマの結末などを夢で書き換えることができるので、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に用いる研究がされていたり、精神的な回復、ストレス発散、スポーツのスキル練習(イメージトレーニング的な効果)、創造性の開発など有用な面があります。ですので、制御できるのであれば見る分に問題はありません。
ただ、睡眠不足・睡眠の質が落ちる状態になったとき、上記の体験談のような「現実と夢の境目」が溶け合って曖昧になり、夢と自覚しながらも「悪夢」に陥ることも発生するそうですのでご注意を。
◆明晰夢◆ 茶房の幽霊店主 @tearoom_phantom
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