第三話 聖女の皮を被った魔物、あるいは神をも狂わせる輝き
大聖堂の中は、ひんやりと静かな空気が満ちていた。
天井は遥か高く、音のひとつひとつが吸い込まれていくようだ。
ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光が、石畳の床に整然ときらめく。
本来なら心が洗われるような神聖な場所だ。空気そのものが清められ、満ち足りた静けさがただよっている。
だが、少女にとっては、そこは処刑場に等しかった。
(……息が、苦しい)
一歩足を踏み入れるたびに、肌がチリチリと焼けるような感覚に襲われる。
実際に物理的な痛みがあるわけではない。
けれど、空間に満ちる「正義」や「秩序」の気配が、魔物である自分を異物として弾き出そうとしている気がした。
視界がくらりとゆれる。
いつ「邪悪な気配」を感知され、聖水でもかけられるか。
いつ祭壇の奥から光が放たれ、自分が灰になって崩れ落ちるか。
少女はフレアの腕の中で、借りてきた猫……いや、敵地に紛れ込んだネズミのように小さくなっていた。
「どうした、震えているのか? やはり呪いの影響が強いようだな……」
フレアが眉を寄せ、腕に力を込めてくる。
その温もりだけが、唯一の命綱だった。
「おお、これはフレア殿。本日はどのようなご用向きで?」
礼拝堂の奥から、一人の司祭が歩み寄ってきた。
白髪を綺麗になでつけ、柔和な笑みを浮かべた初老の男だ。その体躯は丸々と肥えており、法衣が高そうなきぬずれの音を立てる。
見るからに徳の高そうな、街の人々に慕われているであろう人物だ。
「司祭様。実はこの子が、何やら悪い気配に当てられたようでして。浄化をお願いしたいのです」
「ふむ、なるほど。……ほう、浄化が必要なのは、そちらの可愛らしいお嬢さんで?」
細められた目が、少女をとらえた。
少女はおずおずと顔を上げ、その目を見た。
目が合った瞬間だった。
「……ッ!」
空気が
カチリと何かが嚙み合う、嫌な音が聞こえた気がした。
司祭の顔から笑みが消え失せた。
無表情。
数秒の沈黙の後、その顔に、どす黒いナニカが張り付いた。
「おお……おおお……なんという……!」
司祭がうめくように声を漏らした。
粘着質な視線が、少女の全身をねめ回す。
それは、美術品を鑑定する目ではない。
もっと原始的な、抑制を失った獣の目だった。
「なんという濃い妖気……いや、これは神が私に与えたもうた試練か……! この幼き羊を、私が……私が救済せねば……!」
彼は震える手で聖印を握りしめ、ふらふらと、まるで意思の宿らぬ人形のような足取りで少女へ近づいてくる。
一歩ごとに、呼吸が荒くなっていく。
額には脂汗がにじみ、清潔だったはずの法衣から、生々しい欲望の匂いがただよってくるようだった。
(目が! 目がイッちゃってる!)
少女はフレアの背中に隠れようとしたが、司祭の歩みは止まらない。
彼は両手を広げ、救いを求める信徒のように、けれど獲物を追い詰める捕食者のように迫ってきた。
「娘よ、さあ、私の胸へおいで……。神の御名において、私が直々に清めてしんぜよう……」
言葉の端々から、粘液のような湿り気が
「礼拝堂の奥で、二人きりで……手取り足取り、一晩かけてじっくりと……!」
(ひぃぃぃっ! 一番言っちゃいけないこと言ってるー!)
少女の心の悲鳴と、物理的な衝撃音は同時だった。
ドォォンッ!
礼拝堂全体が揺れた。
フレアが、背負っていた大剣の石突きを、足元の石畳に力いっぱい叩きつけたのだ。
衝撃波が広がり、司祭の体が宙を舞った。
「ごはぁッ!?」
数メートル後方の祭壇に背中から激突し、燭台を巻き込んで崩れ落ちた。
ガシャンと金属音が響き渡り、火のついた
それでも、司祭はまだ止まっていなかった。
よろめきながらも上体を持ち上げ、血の
その目は、まだ
「司祭様まで、その面をなさるかぁぁぁッ!」
フレアの絶叫が、高い天井に反響した。
彼女は少女を胸に抱き寄せ、後ずさった。
その美しい顔が、苦痛にゆがんでいた。怒りではない。深い悲しみだ。
「信じられん……。あれほどの徳の高い司祭様ですら、一目でこれほどの狂気に堕とすとは……」
「う、うう……試練……これも神の……ぐふっ」
小刻みに震えながら少女を見つめ続ける司祭の姿は、もはや悪夢でしかない。
「どれほど
フレアは少女の頭を抱え込み、わなわなと震えた。
「可哀想に……。これまで一体どれほどの男たちに、その身を狙われ、
(ち、違うの! たぶんあのおじさんもわたしの毒にあてられた被害者なの! あと『悲劇的な魅力』って何!?)
弁解しようにも声が出ない。
それ以前に、今の司祭の状態を見れば、何を言っても無駄だろう。
彼はまだ、床を這いながらこちらへ手を伸ばしているのだから。
「こんな
少女は必死にうなずいた。ここに居ては自分も司祭も危ない。
二人は逃げるように教会を飛び出した。
* * *
夕暮れの川沿いの道を、フレアは無言で歩いていた。
長く伸びた二人の影が、石畳に揺れている。
川面には夕日が反射し、世界を赤く染め上げていた。
少女はフレアの腕の中で、小さくなっていた。
(どうしよう……。わたし、やっぱりここに居ちゃいけないのかな)
市場の店主も、教会の司祭も、自分のせいで狂ってしまった。
「人間でいられたら」と夢見ていたけれど、現実は残酷だった。
自分がただそこにいるだけで、周囲の人が壊れていく。
自分は病原菌なのだ。人のような見た目をした、致死性の毒なのだ。
フレアは優しいけれど、いつか彼女までもがああなってしまったら――あるいは、自分の正体に気づいて剣を向けてきたら。
そう考えると、怖くてたまらなかった。
フレアの腕から今すぐ飛び降りて、あの森へ帰るべきかもしれない。
そう思って、身じろぎしたときだった。
ピタリとフレアが足を止めた。
彼女はゆっくりと視線を落とし、少女の顔をのぞきこんだ。
逆光で表情が見えにくい。けれど、その目だけが、夕日のよりも強く、
「……わかったぞ、小さいの」
フレアの声は低く、そして重かった。
腹の底に響くような、絶対的な響き。
「……もう、誰も信じぬ」
ぎりと少女を抱く腕に力がこもる。痛いほどではないが、逃走を許さないような強固な拘束。
「市場の民も、あろうことか教会の者たちでさえも、貴様の無垢な輝きを前にしては
フレアは独り言のようにつぶやくと、少女の背中に回した手に、愛おしさと狂気を込めて力を入れた。
「それならば、私が守るしかない。……そうだ、貴様がどこへ行っても男を狂わせてしまうのなら、私が砦となろう」
(えっ?)
「決めたぞ。貴様を一生、私の目の届く範囲から出さぬ」
フレアは、聖なる誓いを立てるかのように、少女の額に自分の額を押し当てた。
至近距離で見つめ合う、深い
「我が屋敷こそが貴様の世界だ。外の害悪になど、二度と触れさせはせん。……それが、この世界で唯一、貴様の純潔を守る道だ」
それは、外の世界との決別で、完全なる引きこもり宣言だった。
(……あれ? なんか、すごい勢いで逃げ場がなくなった気がする)
助けてもらったはずなのに、いつの間にか「一生監禁」を宣言されていた。
それは
けれど、外の世界で「毒」として虐げられるよりは、この狂った騎士の腕の中で「小鳥」として愛される方が、ずっと安全なのかもしれない。
何より、あの冷たい森に一人で戻るよりは、この暑苦しいほどの腕の中にいる方が、ずっと温かい気がしたのだ。
少女はあきらめたように力を抜いた。
フレアの腕の中で、これから始まる過保護すぎる生活の予感に、遠い目をするのだった。
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聖なる加護は、魔物である少女にとって身を焼く毒だった。
フレアの愛情が深まるほど、少女の居場所は狭まっていく。
次回、鉄壁の鳥籠の中で、二人だけの歪んだ日常が幕を開ける。明日の20:14公開!
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