第二話 魔物娘、その可愛さは街中を狂わせる

 意識が浮上するとき、最初に感じたのは、これまで経験したことのないようなやわらかさだった。

 背中を包み込む羽毛のような感触。頬をなでる清潔な布。

 そして、鼻をくすぐる陽だまりのような匂い。


(……ここ、どこだっけ)


 少女――女騎士フレアに「小さいの」と名付けられた吸精種きゅうせいしゅの幼体は、重いまぶたをゆっくりと開いた。

 視界に飛び込んできたのは高い天井と太いはり。そこに細やかな細工がなされたシャンデリア。窓から差し込むまばゆいばかりの朝の光。

 昨夜の記憶がよみがえる。

 飢えと寒さに震えていた森。そこに現れた、嵐のような黄金の騎士。

 抱き上げられたときの、体温。


(わたし、人間に拾われたんだ……)

(それも、とびきり強くて、ちょっと変わった人に)


 夢ではなかったという安堵と同時に、不安がよぎる。

 自分は魔物だ。人の精気を喰らう害獣だ。

 いつか必ずバレる。そうなれば、あの剣でつらぬかれる。

 ふと、自分の手を見た。

 泥だらけだった爪の間は綺麗にぬぐわれ、ささくれていた指先に薬が塗られている。

 昨夜、フレアがやってくれたのだ。不器用な手つきで、けれど必死に。


 そこで、違和感に気づいた。


(……あれ? 私、生きてる)


 精気はとっくに底をついていたはずだ。昨日の夜、森で死を覚悟したとき、体が動かなくなり、指先から感覚が消えていくのを感じていた。

 それなのに、今はどうだ。

 体はポカポカと温かく、指先まで力が満ちている。


(どうして……? 誰かから精気を吸ったわけじゃないのに)


 心当たりは一つしかなかった。

 昨夜、フレアがくれたスープだ。


(あ……そっか)


 ストンと胸に落ちるものがあった。

 自分は魔物だから精気が必要だと思いこんでいたけれど、体の中は人間と似ているのかもしれない。あるいは、人間の栄養価の高い食事は、その代わりになるのかもしれない。


 ……たぶん。今はまだ満腹感があるから分からないけど、きっとそうに違いない。


 そう結論づけた瞬間、視界がぱあっと晴れた気がした。

 二度と叶わないと思っていた「人としての暮らし」。それが、ご飯さえ食べていれば現実のものとなる。

 これからも、誰かを傷つけて精気を奪わなくていい。

 誰かに迷惑をかける「害獣」にならなくて済む。


(よかった……本当に、よかった……)


 胸の奥がきゅっと痛んだ。それは、昨夜までの絶望とは違う、安堵と希望の痛みだ。

 それを感じた直後。


 ドォォンッ!


 轟音と共に、寝室の扉が弾け飛んだ。

 蝶番ちょうつがいが悲鳴を上げ、木片が宙を舞う。


「おはよう、小さいのッ! 目覚めの気分はどうだッ!」


 そこには、朝日に美しい顔を輝かせたフレアがいた。

 なぜかフルプレートアーマーを完璧に着込み、背中には愛用の大剣まで背負っている。


(……え? なんで?)


 少女がくりくりした目をさらに丸くしてその金と銀のかたまりを見上げると、フレアは勝ち誇ったように胸を張った。


「ふふ、驚いたか? 本日は貴様を連れての初外出だからな! 万全を期して、夜明け前より装備の手入れと準備運動を済ませておいた! これならドラゴンが出ようと問題ない!」


 今から戦場へ向かうと言われても信じてしまう重装備だ。

 だが、その手には湯気の立つ可愛らしいマグカップと、焼きたてのパンが載った盆がある。ミスマッチにも程がある。


「な、なんという……!」


 フレアはベッドの上でぼうぜんとしている少女を見るなり、盆を取り落としそうになって叫んだ。


「寝起きの無防備な姿……乱れた髪、まどろむ瞳……まるで生まれたばかりの精霊のようではないか! この愛らしさはもはや凶器! 神からの精神攻撃か!?」


(……朝から、声が大きい)


 思わず布団を頭までかぶり直して、その猛烈なテンションから身を守ろうとした。

 だが、そんなささやかな抵抗は、フレアの理不尽なまでの行動力の前では無意味だった。

 ガバッと布団がはぎ取られる。


「さあ起きろ、いつまでも寝ている場合ではないぞ! 今日は貴様を連れて市場へ赴くのだ」


 少女は首を傾げた。

 市場。人が、たくさんいる場所。


(……この格好で?)


 少女は自分のボロ布をまとった体を見下ろした。

 昨晩、フレアは風呂や着替えを勧めてくれたが、少女はそれをかたくなに拒否した。

 服を脱げば、背中の小さな羽根がバレてしまう。そうなれば殺されると思ったからだ。

 フレアも、あまりにおびえる様子を見て、無理強いはしなかったのだが――。


「昨夜は貴様の安眠を優先し、その汚れた布をまとうことを許可したが……もう限界だ!」


 フレアはビシッと少女を指差した。


「そんな格好では、私の心が痛んで張り裂けそうだ。我が騎士団の威信にかけて、貴様をこの国で最も輝かしい花嫁のごとく着飾らせてやる!」


(いや、花嫁はさすがに……)


 心の中でツッコミを入れるが、言葉にはならない。

 フレアはクローゼットから何やら引っ張り出すと、ひょいとボロ布の上から少女に被せた。

 騎士用のインナーシャツだった。それは小さな少女が着るとダボダボで、まるで魔法使いのローブのようだ。だが、ボロ布よりは遥かにマシだし、何より背中の羽根もすっぽりと隠れる。


(……これなら、安心)


 少女がホッとする間もなく、フレアのしなやかな腕によって小脇に抱えられた。

 見た目はグロテスクだが味は絶品のスープを流し込まれ、嵐のように屋敷の外へと連れ出されることになった。



        * * *



 王都の市場は、朝から熱気に包まれていた。

 石畳の道の両脇には所狭しと露店が並び、威勢のいい売り声と、客たちの笑い声が交錯する。

 香ばしい焼き肉の匂い、腐りかけの果実が放つ甘い香り、家畜のフン、そして人々の汗と土の匂い。

 それらが混ざり合って、熱気になって押し寄せてくる。


(また人の街に出られるなんて……)


 深い森で過ごしてきた少女にとって、その喧騒は暴力的なまでに鮮やかだった。

 自分もこの景色の一部になれたのかもしれない。そんな淡い期待に、少女の頬が自然とゆるんだ。

 しかし、その高揚は一瞬で冷水を浴びせられることになる。


(……なに?)


 背中がぞわりとした。

 これは視線だ。

 刺すような、じっとりとした視線。


(……見られてる)


 群衆の中から、いくつもの目が自分をとらえているのを感じた。

 すれ違う男たちが、ふと足を止める。

 最初は驚き、次に感嘆、そして――濁ったような熱。

 目の奥に、ぼんやりとした赤い灯がともるのが見えた。


 魔性の本能が、彼らの情欲を感知してしまう。

 無意識にもれ出る魔性の香りが、少女の意思に関係なく周囲を侵食していく。人々の理性を侵し、奥底の欲望を引きずり出していくような感覚。


 怖い。

 自分が猛毒の病原菌になって、この平和な日常を汚しているような気がした。


 ぎゅっとフレアの腰のマントの端を握りしめる。


(ごめんなさい、ごめんなさい……)


 小さく身を縮め、フレアの影に隠れようとした。

 そのおびえた仕草を、フレアは見逃さなかった。

 ピタリと足が止まる。


「……くっ、震えているのか」


 頭上から降ってきたのは、苦しげにしぼり出した声だった。


「よほど外の世界が恐ろしいのだな。無理もない……それほどの地獄を見てきたのだ。男たちの視線ひとつひとつが、貴様にとっては刃先を向けられるに等しい苦痛なのだろう」


(いや、そこまでは言ってないけど……でも、怖いのは本当)


「案ずるな、小さいの。このフレアがいる限り、有象無象の視線など、我が覇気はきで焼き払ってくれよう!」


 少女は目をギュッとつむって、こくこくとうなずいた。

 それを見たフレアは、すさまじい眼光ですれ違う人々をにらみつけた。

 道行く人々が「ひぇっ」と悲鳴を上げて道を開ける。


 だが、そんなフレアの威圧を以てしても、服飾店に立ちよった時、事件は起きた。


「店主、いるか! 我が家の至宝にふさわしい、最高級の衣服を出せ!」


 フレアの大声に応じて、店の奥から腹の出た中年の男が現れた。

 人の良さそうな笑顔を浮かべ、手をこすり合わせながら近づいてくる。


「へぇ、いらっしゃい。騎士団長様直々のご来店とは恐縮で――」


 言葉が、途切れた。

 男の視線がフレアの腰元、マントの影に隠れていた少女をとらえた瞬間だった。


 ピクリと男の頬がひきつった。

 愛想笑いの形をしたまま、時間が止まる。

 次の瞬間、その笑顔が別人のように歪んだ。


「……うわあ……」


 店主の瞳孔どうこうが開き、呼吸が荒くなる。

 頬が不自然に上気し、口元からだらしなくよだれが垂れた。


「な、なんだこのお嬢ちゃん……可愛い、なんて可愛いんだ……」

「うむ、そうであろう。見る目があるではないか」


 フレアは満足げにうなずいているが、事態はそんな悠長なものではない。

 店主の目から理性の光が消え、代わりに飢えた獣のような色が宿る。

 彼はカウンターを乗り越えんばかりの勢いで身を乗り出し、震える手を少女へと伸ばしてきた。


「ああ、触れたい……その肌に、その髪に……。おじさんに、もっとよく見せておくれ……」


(ひっ……!)


 ねっとりとした声。

 その手つきは、明らかに子どもを愛でるものではなかった。

 獲物を狙う蜘蛛くものような指先が、少女の頬に触れようとする。

 生理的な嫌悪感が背筋を駆け上がり、少女が声にならない悲鳴を上げて硬直した――瞬間。


 ドォンッ!


 フレアが店の石床を力強く踏み抜いた。

 爆音に近い衝撃が店内に走り、ガラス窓がガタガタと揺れ、棚の商品がいくつかなだれ落ちた。


「控えよ、痴れ者がッ!」


 その鋭い刺激が気付けとなったのか、店主の目からにごった光が消えた。


「……あ、あれ? 私は、何を……?」


 店主は差し出した手を力なく下ろし、ぼうぜんと自分の掌を見つめている。

 だが、店主の目の奥には、今しがた触れようとした熱への名残惜しさが、おりのように沈んでいた。

 もう一度、あの甘い香りを嗅ぎたい。そんな未練が、視線に残っている。


「ふん。身の程を知るがいい、不潔な輩め。貴様のような濁った目で我が家の天使を汚そうなど、万死に値するぞ!」


 フレアは困惑する店主を冷たくひとにらみすると、少女の体を軽々と抱き上げ、別の店へと向かって歩き出した。


「恐ろしい所だな、街は。この私が見込んだ貴様の輝きを前に、正気でいられぬ不届き者がこれほど多いとは」


(……違う。わたしのせいだ)


 自分が魔物でなければ——

 胸の奥で、何かがぽろりと剥がれて落ちた気がした。


「……むう。やはり、ただ事ではない」


 フレアが立ち止まり、あごに手を当てて深刻そうにうなった。

 その視線が、街の中央にそびえ立つ尖塔へと向けられる。

 王都で最も神聖な場所。大聖堂だ。


「これほどまでに邪悪を引き寄せてしまう体質……もしや、貴様には何か強力な『呪い』がかけられているのではないか?」


(……ぁ)


「そうだ、そうに違いない。魔物の巣窟で育ったのだ、何かしらの穢れを受けていても不思議ではない。……よし、教会だ」


 フレアの目に、使命感の炎が宿る。


「聖なる浄化が必要だ。教会で、その身にまとわりつく不浄な気配を清めてもらわねばならん!」


(……ぅ、ううんっ!)


 「待って」と言いたいのに、音にならない。

 顔面蒼白で首を振った。

 魔物が教会に行くなど、火薬を持って火の中に飛び込むようなものだ。

 だが、御者のいない早馬のごとく突き進むフレアに、手綱はなかった。


「行くぞ、小さいの! 神の御加護があれば、このような視線など恐れるに足らん!」


 フレアは少女を抱え直すと、大聖堂へ向かって大股で歩き出した。

 その背中を見送りながら、ひどくやるせない気持ちで空を見上げた。


 神様がいるなら、お願い。

 どうか、これ以上わたしのせいで、誰かを狂わせないで。







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救いを求めて向かった神の家。だがそこで待っていたのは、聖職者の尊い信仰心さえも踏み砕く、無慈悲なまでの魔性の輝きだった。

次回、聖女の皮を被った魔物、あるいは神を狂わせる輝き。明日の20:14公開!


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