ただ待つだけの肉塊

森崇寿乃

蜜の底の闇の澱

 地下室の淀んだ空気は、まるで腐りかけた果実からにじみ出る汁のように質量を持って私の皮膚に吸着し、そこに充満する古革と獣脂の匂いは、呼吸をするたびに肺腑の奥底までべっとりと侵入してくるのだが、私がその時、荒縄によって全身を亀甲の形に、それも極めて強固かつ執拗しつように締め上げられていたという事実は、単なる物理的な拘束を超えて、私の存在そのものをある種の恥ずべき分泌物として外界から隔離するための、厳粛な儀式であるかのように感じられた。


 視界を遮断する黒絹の目隠しは、私のまぶたにじっとりと張り付き、そこから滲む脂汗を絶えず吸い取っていた。私のあられもない姿をさらしている四肢――特に、二の腕や太腿の柔らかな肉に容赦なく食い込む麻の繊維は、時間の経過とともに私の体温と汗を吸って重く湿り気を帯び、あたかも生きている蛇が私の肢体を愛撫しながら締め殺そうとしているかのような、不快極まりない、しかし同時に逃れがたい親密な粘度を伴って私にまとわりついていた。


 口蓋こうがいを無理やり押し広げて嵌め込まれた真紅の猿轡さるぐつわは、私の嚥下えんげ機能を半ば麻痺させており、処理しきれない唾液が、だらしなく口角から溢れ出ては、顎を伝い、喉元へと糸を引いて垂れ落ちていくのを私はどうすることもできなかった。その生温かい液体の感触が、私の理性が必死に維持しようとしていた人間としての尊厳を、ぬるぬると溶かしていくような錯覚に囚われ、私は羞恥というよりは、むしろ泥沼に自ら沈んでいくような、暗く湿った陶酔に蝕まれつつあった。


 ねちゃり、ねちゃり、と床を踏みしめる音が、私のすぐ側で響いた。

 その正体不明の執行者は、私の苦悶を鑑賞することにサディスティックな喜びを見出しているのか、あるいは単に熟した肉の具合を確かめる料理人のような無感動さで見下ろしているのか、その気配からは感情の温度を読み取ることができない。ただ確かなのは、その視線が、私の全身を舐め回すように這い回り、汗と縄の摩擦によって赤く腫れ上がった皮膚の、その熱を帯びた一点一点を、執拗に確認しているということだけであった。


「いい汗だ」


 鼓膜にへばりつくような、湿り気を帯びた低い声が降ってきた。

 直後、氷のように冷たく、それでいて異様な滑らかさを持つ細い棒状のもの――おそらくは鞭の柄か、あるいは特殊な器具であろう――が、私の汗ばんだ背筋を、尾てい骨から首筋にかけて、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと這い上がってきた。その器具は、私の皮膚表面に浮いた汗の粒子をならすように、あるいは私の恐怖心を練り上げるように、ねっとりとした愛撫を繰り返した。


 私は悲鳴を上げたかったが、詰め込まれた異物のせいで、喉の奥から「ぐう」とも「ひい」ともつかぬ、粘液混じりの情けない唸り声を漏らすことしかできなかった。その音は、地下室の壁に反響し、私自身がいかに無力で、肉の塊に過ぎない存在であるかを、残酷なまでに強調していた。


 見えない何かが、私の耳元で湿った息を吐いた。

 その生々しい呼気の熱が、私の産毛の一本一本に絡みつき、私の思考能力を泥のような混乱の中へと引きずり込んでいく。これから私に与えられるであろう刺激は、痛覚の限界を試すものなのか、それとも神経を焼き切るような快楽の奔流ほんりゅうなのか、私の貧弱な想像力では到底たどり着けない領域にあることだけは明白であった。


 ただ、全身の毛穴という毛穴から吹き出す汗が、拘束された肉と縄の隙間を埋め尽くし、私と、私を縛るこの世界との境界線を曖昧にしていく感覚だけが、妙に鮮明であった。私は、その底なしの沼のような予感の中で、次なる一手が打たれるのを、脂汗にまみれながら、じっと待つしかなかったのである。

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