最終章 名前が呼ばれる瞬間――ガイドちゃん…

――それでも、世界は終わらなかった


夜明けは、驚くほど静かに訪れた。

空を裂く雷鳴も、目を射る極彩色の光もない。


ただ、世界の縁からインクが滲むように、

淡く、しかし確かな光が空を白ませていく。


「……来たね。この時が」


彼女は朝露に濡れた草を素足で踏みしめ、そう言った。


「ああ。来たな」


それ以上の言葉は必要なかった。

ここが、俺たちの旅の終着点だ。


かつて五人で立ち、三人が去っていった、あの丘。

今は俺と彼女、二人きり。


世界はゆっくりと、

冷徹なほどの精度で輪郭を研ぎ澄ませていく。


足元の地面に、文字が浮かび上がった。

淡い黄金色の光を放つ、完全な円。


ドリームランドという巨大な仕組みが、

彼女の存在を確定させるために用意した「座」だった。


彼女は一歩、円へ踏み出し、そして立ち止まる。


「……あのさ」


振り返った瞳は、朝陽を受けて透き通っていた。


「本当に、いいの? 本当に……呼んじゃうのね」


最後の、震える確認。

俺は答える代わりに、距離を詰めた。


「逃げ道はもうない。

 ……お前が俺を拒んでも、世界が俺を拒んでも、

 俺の心はもう、 お前の名前を知ってしまった」


「……分かってる。分かってるわよ」


「それでも俺はお前を選ぶ。

 ガイドという記号じゃない、お前自身を」


彼女はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

甘い夢の匂いと、朝の冷気を胸いっぱいに溜め込むように。


「……じゃあ」


初めて会った時のような、少し幼い微笑み。


「ちゃんと呼んで。私の、本当の名前を」


喉が渇き、心臓が痛いほど脈打つ。

俺は魂を削るように、言葉を紡いだ。


――彼女の名前。


その完全な響きが音になった瞬間、世界は確かに応えた。


吹き荒れていた風が止まり、

文字の円から眩い光が立ち上る。


渦を巻く文字が、彼女の不確定だった存在を、

この世界の一部として刻みつけていく。


彼女は流れ込む記憶に耐えるように眉を寄せた。

だが、霧に溶けることも、光に消えることもなかった。


「……あ」


光が収まった頃、彼女は自分の手を見つめる。


「まだ……私、ここにいる。消えてない」


『――当然だ』


背後から静かな声。

白い猫が、いつの間にかそこに座っていた。


『名を呼ばれ、定義された存在は、

 もはや概念ではない。


 確固たる魂を持つ住人として、

 この世界に定着した』


瑠璃色の瞳が俺を見る。


『ただし対価として、汝らは帰路を永久に失った。

 この世界の一部として、生き続けるしかない。

 ……後悔はあるか』


「……ない」やはり即答だった。


迷いは、ずっと前に置いてきた。


彼女が俺を見上げ、泣きそうな顔をしてから、

今日一番の笑顔で笑う。


「……私ね。本当は、自分の名前、嫌いじゃなかった。

 ただ……呼んでくれる人を失うのが怖かっただけ」


光は完全に消え、静寂が戻る。彼女の服は、

いつの間にか素朴で温かな少女のものに変わっていた。

もう「ガイド」ではない。一人の少女だ。


「……ねえ」少し照れた声。


「これから、どうするの?」


「生きるんだ」


「ここで?」


「ああ。この狂ってて、美しくて、残酷な世界で」


「……一緒に?」


「ああ。一緒に」俺は彼女の手を握った。


猫が満足そうに尾を揺らす。


『それもまた一つの救いだ。

 汝らの夢が、永遠に覚めぬことを祈ろう』


そう言って、猫は朝の光に溶けた。


世界は続いていた。終わらなかった。

ドリームランドは、選び、捨て、

覚悟を抱いた者が生きる場所だった。


「ねえ」彼女が手に力を込める。


「もう一回、名前を呼んで」


俺は躊躇しなかった。

それは誓いであり、生の証明だった。


彼女は花が綻ぶように笑う。

温かな鼓動が、確かに掌に伝わる。


「ありがとう。私を見つけてくれて」

「こちらこそ。選ばせてくれて」


二人で歩き出す。現実へ続く道は、もうない。

だが、俺たちの一歩一歩が、新しい世界になる。


ガイドではない彼女と、ただの男の俺。

終わらない夢の中で、物語はここから始まる。



▶エピローグへ続く

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