第12話 呼ばれないという選択――それでも、世界は待たない
どれほど願っても、朝は来てしまった。
「……来ちゃったね。一番、来てほしくなかった朝が」
ガイドちゃんが目元をこすり、眠たげに呟く。
その声には、夜のあいだにかろうじて保たれていた安らぎが、
朝日という現実に削り取られていくような、危うさが滲んでいた。
「来たな。……最悪の目覚めだ」
空は昨日よりもさらに低く垂れ込み、
重たい雲が地面に触れそうなほど近い。
湿った空気が肌にまとわりつき、息苦しい。
ドリームランドが、俺たちを次の舞台へ押し出そうとしている――
嫌な予感が、はっきりと形を持っていた。
「ねえ」彼女が、縋るようでいて、必死に冷静さを保った声で言う。
「今日……もし私たちが、何もしなければ。
この流れを、止められるかもしれない」
「……何もしない?」
「そう。進まない。選ばない。分岐が現れても無視する。
私の名前に関わること全部から、徹底的に目を逸らすの」
彼女は俺を真っ直ぐに見据えた。
「ドリームランドは、
旅人の『認識』と『選択』で形作られる世界。
私たちが何も認識せず、何も選ばなければ、
世界は停滞するしかない。……停滞は、死と同じ。
でも今の私には、それが唯一のシェルターなの」
理屈は通っている。旅を終わらせるのではなく、停止させる。
彼女の名前が確定する瞬間を、
無期限に先延ばしにするための、最後の抵抗。
「……やってみる価値はある」俺は頷いた。
「お前が消えるくらいなら、世界が止まったままでも構わない」
彼女は、少しだけ緊張が抜けた顔で微笑んだ。
「ありがとう。……失敗して、
永遠にこの退屈な丘に閉じ込められても、後悔しない?」
「ああ。しない。本音だ」
俺たちは動かなかった。
魅力的な道が現れても、背後から影が迫っても。
座り込み、風の音だけを聞き、
お互いの存在だけを拠り所に、変化を拒み続けた。
一分が一時間のようにも、一瞬のようにも感じられる。
時間は歪み、世界の色はゆっくりと褪せ、セピア色に沈んでいった。
「……ねえ。こういうの、初めて」
彼女が膝を抱え、楽しそうに笑う。
「ガイドとしてじゃなく、誰からも必要とされない時間。
私の案内を待つ人も、言葉に
……あなたはどう? 退屈で死にそう?」
少し考えてから、正直に答えた。
「……静かすぎる。耳が痛くなる。でも、悪くない」
「でしょ」彼女が苦笑した、その瞬間だった。
世界が、明確な意志を持って動き出した。
丘そのものが粘土のように歪み、ゆっくりと傾き始める。
「……来るわ」彼女が息を呑む。
「世界が、私たちを停滞させてくれない」
虚空に、黄金色の一本道が浮かび上がった。
逃れようのない「正解」。選ばせるために存在する道。
「無視しよう。進まなければいい」
俺は地面を掴み、動かなかった。
だが道のほうが、蛇のように蠢きながら、こちらへ近づいてくる。
足元の地形ごと、俺たちをその上に乗せようとする。
「……反則よ。嫌だって言ってるのに」
彼女が唇を噛む。ドリームランドは、受動的な拒絶を許さない。
「認識しない」という態度すら、ひとつの認識として飲み込んでいく。
「名前を呼ばなくても……」
彼女が震える声で続けた。
「ただ一緒にいるだけで。
あなたが私を『特別な一人』として意識し続けるだけで、
認識の歯車は回っちゃう」
最悪の真実だった。
空気が鉛のように重くなり、呼吸が浅くなる。
「……どうかな」彼女が俺を見つめる。
「あなた、心の中で私のこと、どう呼んでる?」
心臓が跳ね上がる。
「……呼んでない。俺は――」
「本当に?」
彼女の視線は、逃げ場を与えない。
「心の中でも、ラベルを貼らずに私を見てる?
『ガイドちゃん』っていう便利な記号じゃなくて、
たった一人の、名前を持つべき人間として……意識してない?」
答えられなかった。
沈黙が、何よりも雄弁な肯定となる。
「……だよね。それが、呼ばない選択の限界」
彼女の周囲に、淡い光を放つ文字が浮かび始めた。
まだ未完成。だが昨日よりもずっと鮮明で、
彼女の存在を焼き付けようとしている。
「……一旦、離れよう」
俺は絞り出すように言った。
最後の抵抗だった。
だが、彼女は首を振る。
「逆効果よ。『一緒にいない』って選んだ瞬間に、
私たちの関係性が確定する。
それは、私をあなたの記憶に、もっと強く刻むことになる」
「……最初から、詰んでたのよ」小さく笑う。
「……じゃあ、どうすればいい!」声が荒れる。
「何をしても、お前を縛ることになるのか!」
彼女は困ったように、でもどこか慈しむように微笑んだ。
「多分ね……もう『呼ばない』は、選択肢として成立してない。
私たちが並んでしまった、その瞬間に」
霧の奥から、聞き慣れた声が響いた。
『――正しい理解だ』
白い猫が姿を現す。
瑠璃色の瞳が、愉しげに細められる。
『言葉を交わさずとも、
汝らは互いを「唯一の名」として扱い始めている。
名を隠す術は、絶対的な孤独の中でのみ成立する防壁なのだ』
猫は淡々と告げる。
『だが、汝らは並んだ。
温もりを分かち、互いを定義してしまった。
その時点で、名は内側から溢れ出すのを待つ器となった』
彼女が静かに息を吐く。
「……失敗だね。抵抗、虚しく」
「いや」俺は立ち上がった。震える足を、叩いて。
「確認できただけだ。逃げ道がないなら、
もう迷わない。……俺たちがここまで惹かれ合ったことが、
この世界のルールを越えたんだ」
猫は満足そうに尾を揺らす。
『ならば次は汝の番だ。呼ぶか、呼ばぬか。
その問いに終止符を打つ時が来た』
そう言い残し、猫は霧の中へ消えた。
「……ごめんね」彼女が小さく言う。
「私と一緒にいたせいで、あなたを袋小路に巻き込んだ」
「違うから」俺は即座に否定した。
「俺が勝手に並んだんだ」
彼女は、泣きそうで、それでも花が咲くような顔をした。
「……それ、今日一番ずるい。最低」
「知ってる」後悔はなかった。
呼ばない選択肢は確かに存在した。
けれど俺たちは、それを選べなくなるほど深く、
互いの人生に踏み込んでしまった。
名前を呼ぶことは、もはや罰でも義務でもない。
この歪んだ世界で辿り着いた、
たった一つの――真実への儀式なのだ。
▶最終章へ続く
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