第11話 名前を呼ばない夜――最後の猶予

三人が銀色の門の向こうへ消え、

世界から「賑やかさ」が完全に剥がれ落ちたあと。

ドリームランドの夜は、拍子抜けするほど穏やかだった。


空には、手を伸ばせば触れてしまいそうなほど低い位置に、

無数の星が瞬いている。


一つひとつの光は輪郭がはっきりしていて、

数えようと思えば数え切れてしまいそうなほど近い。


いつもなら肌を撫でるはずの「誰かの悪夢」の残滓も、

今夜は感じられなかった。


「……珍しいわね」


ガイドちゃんが、膝を抱えたまま空を見上げて呟く。


「こんなに静かな夜。嫌な夢の匂いが、全然しない」


「嵐の前触れ、ってやつか?」


俺が隣に腰を下ろすと、彼女は小さく「うん」とだけ答えた。

否定でも肯定でもない、曖昧な相槌。


俺たちは名もなき丘の上にいる。

吹き抜ける風は冷たいが、骨まで凍えるような不快さはない。


まるで世界そのものが、これから起こる「何か」のために、

静かに息を整えているかのようだった。


「ねえ」彼女が、唐突に切り出す。


「名前……のことなんだけど」


「……ああ」


「呼ばれない夜って、こんなに静かなんだって……

 思い出しちゃった」


少し間を置いて、続ける。


「ずっと昔。私がまだ、私だった頃の感覚」


その言葉が、胸に鋭く刺さった。

彼女が「ガイド」という役割に身を閉じ込めてから、

どれほどの時間が流れたのか。


俺は星の流れを目で追いながら、静かに口を開いた。


「……俺さ。お前の名前を、本当は今すぐにでも知りたい」


正直すぎる言葉に、彼女は一瞬きょとんとし、

それから小さく笑った。


「知ってた。全然隠せてないもの」鈴を転がすような笑い声。

「顔に『知りたい』って書いてあるわよ」


その笑顔は、星明かりの下でひどく儚く見えた。


「……でもね。今、呼ばれたら。多分、全部が終わる」


「帰れなくなるのか?」


「ううん」彼女は首を振る。

「そうじゃない。……選択肢が消えるの」


言葉を探すように、少しだけ息を整える。


「私が私を諦めて、あなたのエゴに従うしかなくなる。

 それは……この旅で積み上げてきたものを、

 一気に塗り潰すことになる気がするの」


沈黙が落ちる。巨大な流れ星が、

尾を引きながら闇の向こうへ消えていった。


「……あのね」彼女は足元の草を、指先でいじりながら言う。


「もし、全部が終わって……

 私がここに残る結末を選んだら。あなたは、後悔する?」


俺は即答しなかった。

この夜は、嘘や建前を許さない。


「……正直に言う」少しだけ間を置く。


「後悔はする。お前をあっちの世界に連れていけなかった自分を、

 一生恨むと思う」


彼女は驚いたように瞬きをした。


「でも」俺は続ける。


「それでも、俺はお前を選ぶ。お前がここに残るなら、

 俺も後悔と一緒にここに残る。……それが、俺の答えだ」


彼女は視線を伏せ、かすれた声で呟いた。


「……ずるい。

 そんな覚悟、優しすぎるじゃない」


「それしか、できないんだよ」


苦笑する俺を、彼女はじっと見つめていた。

やがて、意を決したように、小さな本音を零す。


「……私ね。名前に触れられるの、嫌いじゃない」


心臓が、強く跳ねた。


「怖いよ。思い出が戻ってくるのも、 固定されるのも」


それでも、彼女は続ける。


「でも……呼ばれると、

 『存在してる』って感じられるの。

 

 景色の一部じゃなくて、一人の人間として、

 誰かに見つけられたって思える。

 それが……少しだけ、嬉しい」


胸が締めつけられる。

その矛盾こそが、今の彼女そのものだった。


「……それでも、呼ばれないための努力はやめられないか?」


「もう、癖みたいなものだから」


彼女は俺を見て、星の光を宿した瞳で言う。


「だから……お願い。今夜だけは、私を呼ばないで」


その願いは、どんな命令よりも重かった。


「……分かった。今夜は呼ばない」


俺が頷くと、彼女は深く息を吐いた。


「……ありがとう。ほんと、身勝手なお客様ね」


しばらく、二人で黙って星を眺めた。

言葉は少ない。けれど、その沈黙は温かかった。


「やっぱり」彼女が、そっと問いかける。

「帰りたい……?」


「……帰りたい気持ちはある」正直に答える。


「家族も、友達も、あっちにある日常も恋しい。

 でも今は……ここにいたい。お前と星を見ていたい」


彼女は少し照れたように笑った。


「……私も。同じ」それだけで、十分だった。


夜はゆっくりと深まり、星の輪郭が滲み始める。

ドリームランドの理が、再び動き出す合図。


「……もうすぐよ」彼女の表情が、静かに引き締まる。


「条件が揃う。私が、自分の名前を隠しきれなくなる条件が」


「名前を、呼ばれる条件……」


「そう」彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。


「これが、最後の『何も起きない夜』。

 明日、私たちは本当の審判の場所へ向かう」


俺はその手を取り、立ち上がる。

胸の奥で、覚悟が静かに、冷たく固まっていった。


今夜、俺は彼女を呼ばない。


けれど――


明日。すべてが終わる場所で。

彼女が拒もうと、世界が引き裂こうと。


俺は、彼女の名前を世界で一番強く呼ぶ。

その覚悟だけは、もう出来ていた。



▶第12話へ続く

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