第02話 観光地巡りの始まり――始まり

2.1 ほぼ死なない絶景スポット


石畳の道は、いつの間にか緩やかな――

しかし確実に高度を稼ぐ坂へと姿を変えていた。

息を吐くたび、空気が薄くなるのが分かる。


周囲の建物は次第に姿を消し、代わりに道端には、

見たこともない植物が群生していた。


葉脈の奥から燐光を漏らすそれらは、

まるで腐りかけの星屑のように、毒々しい光を放っている。


「ねえ、これ本当に観光なの?」


短髪の女子――カオリが、

額の汗を乱暴に拭いながら吐き捨てた。


足取りは相変わらず力強いが、

その瞳には苛立ちがはっきりと浮かんでいる。


「ただの過酷なハイキングじゃないの?」


「観光ですよ!」


先頭を歩くガイドちゃんが、振り返りもせずに明るく答えた。

息一つ乱さず、踊るような足取りだ。


「この先には、ドリームランドでも五指に入る、

『映えスポット』が待っていますから!」


「その『映え』の定義が、

 私たちの常識と一致してることを切に願うわ……」


俺の袖を、ぎゅっと掴んできたのはユリナだった。

震える声。指先は驚くほど冷たい。

肩に触れたその感触だけで、心臓が無駄に跳ねる。


「だ、大丈夫だって。最悪、これは夢なんだし……

 痛覚設定とか、たぶんガバガバだろ」


無理に笑ってみせると、後ろを歩いていたマサトが、

眼鏡のブリッジを押し上げた。


「その楽観主義は危険だな。脳が『本物』だと認識すれば、

 ショック死の可能性も否定できない」


淡々とした口調で、さらっと怖いことを言う。


「……もっとも、

 この非ユークリッド幾何学的な街並みを見る限り、

 物理法則を議論するだけ無駄かもしれないがね」


その言葉を遮るように、視界が一気に開けた。


坂を登りきった先――そこに広がっていたのは、

世界の終わりを切り取ったような光景だった。


正確には、「空へと落ちていく」崖。


足元の地面は唐突に途切れ、

その先には無限に続く紫紺の虚空。


重力を無視して浮かぶ、無数の巨石の島々。

島と島の狭間を、雲よりも巨大な……

『何か』の影が、悠然と、そしておぞましく泳いでいた。


「……わあ……」


ユリナが、恐怖を忘れたように息を漏らす。

確かに、それは残酷なまでに美しい。


現実世界のどんな絶景も、

この色彩の暴力の前では色褪せてしまうだろう。


「でしょ!」


ガイドちゃんが、誇らしげに胸を張った。


「ドリームランド屈指の絶景ポイントです!

 ちなみに、ここを背景に自撮りすると――」


一拍。


「十中八九、魂の一部が写り込みまーす!」


「不吉なこと言うなよ……っていうか、おい」


俺は崖の縁を見て、背筋が冷えた。

柵が、ない。それどころか、

地面が崖に向かって、緩やかに傾斜している。


「……これ、落ちたらどうなるんだ?」


マサトの冷静な問いに、

ガイドちゃんは人差し指を頬に当てる。


「落ちます!」


「結果じゃない! 生存の有無だ!」


「大丈夫です、大丈夫です!」


大きく手を振って、彼女は笑った。


「ここは『ほぼ』死なないスポットですから!

 運が悪くなければ、五体満足で戻ってこれますよ!」


「その『ほぼ』の確率を教えなさいよ!」


カオリが詰め寄ろうとした、その瞬間――


ゴキリ、と。足元の石畳が、

生き物の関節が鳴るような音を立てた。


「え……?」


次の瞬間、地面が大きく傾いた。


「きゃっ!?」


ユリナがバランスを崩し、崖の縁へとつんのめる。


「ユリナ!」


反射的に手を伸ばし、彼女の手首を掴む。

力任せに引き寄せると、ユリナの体が俺の胸に飛び込んできた。


二人分の重みで踏ん張った、その瞬間――

ズン、と。


周囲の空気が、急速に重くなった。


まるで、この場所そのものが、「落ちるかどうか」を、

今まさに選別しようとしているかのように。





2.2 不安定な世界のゆがみ


視界の端で、空が――

いや、空間そのものが、飴細工のように歪んだ。


「……来ました。予定より、少し早いですね」


ガイドちゃんの声から、温度が消える。


浮遊する島々の影。その向こうから、

黒い油を塗り固めたような光沢を持つ巨大な影が、

急降下してきた。


怪鳥のようにも、無数の触手が絡み合った……

塊のようにも見えるそれは、形状を定めないまま、

こちらへ一直線に迫ってくる。


「ちょ、ちょっと! あれ何!? 歓迎会!?」


「いえ、『観光客を狙う系のやつ』です!」


「生態系が物騒すぎるだろ!」


マサトが叫び、半ば腰を抜かしながらも走り出す。


「皆様、全力で走ってください!」


ガイドちゃんも駆け出した。

笑顔のまま、だが動きに一切の無駄がない。


「あの子たち、感情の揺らぎが大好物なんです!」


俺たちは必死でその背中を追う。

背後から、空を切り裂くような咆哮が迫ってきた。


「離さないで……お願い!」


ユリナが俺の腕にしがみつく。

その重みと体温に戸惑う余裕はない――が、

横を走るカオリの視線が、一瞬だけ鋭く突き刺さった。


「……ちょっと、あんたたち」


「カオリ、今は喋るな! 息が切れる!」


「うるさい! こういう時にどさくさに紛れて、

 距離詰めるの、やめてくれる!?」


「今言うことかよ!?」


極限状態で噴き出す嫉妬。

だが、その強い感情こそが、最悪のスパイスだった。


空気が、さらに歪む。影の数が、明らかに増えた。


「あー、感情、荒れてますよー!

 美味しそうな匂いが、ぷんぷんします!」


ガイドちゃんの声と同時に、俺の足元の岩が砕け散った。


「うわっ!」


身体が宙に浮く。重力に引かれ、

崖下へと吸い込まれていく感覚。


――終わった。


そう思った瞬間、虚空を掴みかけた指先に、

硬い感触が絡みついた。


「……危ないって、言ってるでしょ」


ガイドちゃんだった。


白く細い腕。それなのに、

万力のような力で俺を崖の上へ引き戻す。


至近距離で、彼女の瞳が俺を捉えていた。

いつもの軽薄さはなく、ひどく――寂しそうな目。


「……悪い。助かった」


息を切らしながら言うと、

彼女は弾かれたように視線を逸らした。


「……お礼、言われるの苦手なんです」


声が低い。わずかに震えている。


「そういうの、いらないので」





2.3 ガイド少女の独白


――まただ。


誰かが死にかけて、

その運命の糸が私の指に触れるたび、

胸の奥が、不快なほど跳ねる。


助けてしまう。深入りしてしまう。


この世界では、

私は名前を持たない「現象」でいなければならないのに。


あの人は、私を「ガイド」としてじゃなく、

一人の存在として見てくる。


その体温が、視線が、怖い。


このままじゃ、私はまた誰かに「選ばれて」しまう。


選ばれるということは、

この夢の終わりの責任を負うということなのに。


古びた岩陰の神殿跡に滑り込むと、

空の影たちは獲物を見失ったらしく、

不満げな声を上げて彼方へと消えていった。


「……はぁ、はぁ……生きてるか、お前ら」


マサトが眼鏡を直しながら、地面にへたり込む。


「たぶん……死ぬかと思った……」


「心臓が、口から出るかと思ったわよ……」


ユリナはまだ俺の袖を掴んだまま。

カオリはそれを苦々しそうに見つめつつも、

どこか安堵した表情をしていた。


「はーい! 皆様、お疲れ様でした!」


ガイドちゃんが、何事もなかったかのように手を叩く。


「これにて最初の観光、無事終了です!」


「もう終わりかよ!?

 説明らしい説明も受けてないぞ!」


「はい! これ以上は命の保証が『ほぼ』、

 じゃなくて『ゼロ』になるので!」


その徹底した軽薄さに、少しだけ救われる。


ガイドちゃんは一瞬、心配そうに俺を見た。

だがすぐに、完璧な作り笑いへ戻る。


「ね? ほぼ死ななかったでしょ?」


「……まあ、結果的にはな」


頷きながらも、胸の奥の警報は鳴り止まない。


この世界で一番危ないのは、

空を飛ぶ怪物でも、底なしの崖でもない。


制御できない人の感情だ。そして――その感情を、

誰よりも恐れているこのガイド自身なのかもしれない。



▶第3話へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る